陰陽記伝
平安陰陽記伝


1章「安倍晴明」 平生
 
  翌日、寝床から晴明が出てきたのは、昼も過ぎた頃だった。
 晴明の起床時間がずれ込むことを察していたのか、兄弟子である保憲が尋ねてきたのは、晴明がかなり遅めの朝食を食べていたときだった。


「まったく、私がどれだけ心配したのかわかっているのか、晴明」
 対面に座った保憲が、重い溜息と共に告げる。
 昨夜のあの後、晴明が安倍邸に戻ったことを汐毘が報告にきた。
 その際に、大まかな事情は汐毘から聞いていたが、詳しい事は晴明の口から直接聞くに限る。
 そう思って兄弟子、自らがわざわざ聞きにきたというのに、晴明は話すのが面倒だと言う態度を隠そうともしていなかった。
 それでも、無理矢理に口を割らせてみれば、結局は晴明の懈怠(けたい)が起こしたことだということが分かった。
 女の怨霊とのやり取りを楽しんでいないで、さっさと祓ってしまえばそれで済む話だったというのに。
「おやおや、兄上はこの晴明が、怨霊ごときにやられると本気で思いになっていたのですか?」
「気配がないと告げられれば、誰でも最悪の事態を考えるのが当然だろう」
「では、今度から空間に取り込まれないように気をつけることにします」
「…………」
 そういう問題ではない。
 保憲は口を閉ざして肩を落とした。
 何を言っても無駄だ。言ったほうが余計に疲れるだけ。
 何はともあれ、晴明自身は無傷であり、事態は無事に収拾した。
 怨霊がいた屋敷も数日のうちに清められるはずだ。
「それにしても、晴明。お前には優秀な式神が四体もいるというのに、なぜ、彼らの手を借りない?」
 汐毘は散歩に出かけているため、室内には晴明と保憲しかいないが、御簾を隔てた向こう側には天清が控えている。姿は見えないが刹影もどこかに潜んでいるだろう。
 彼らにとっても、主のその考えには興味があるらしい。
 僅かながら、空気が揺れるのを肌で感じ取った。
 それに気付いたのか、それともいないのか。
 晴明はそっと、口元を扇で隠す。流しっぱなしの黒髪がさらりと落ちた。
「簡単な話ですよ、兄上」
 誰もが思わず、見惚れるほどの優雅な笑みを扇の内側に隠して晴明は呟く。
「おもしろいでしょう?」
「はっ……」
 思わず、間抜けな声が保憲の口から飛び出た。
 晴明は、くつくつ、と意地の悪い笑いを零しながら、
「そう思いませんか? 四神と呼ばれる彼らが、矮小な人間の動向に一々慌てふためいて。なかなか、滑稽な見物(みもの)ですよ」
 本気なのか、冗談なのか。判断がつかない物言いで陽気に言い放つ。
 保憲は頭痛を堪えるように、額に手を当てた。
 冗談であると信じたいところだが、なにせこの弟弟子のことだ。
 冗談みたいな本気である可能性だって、なくはないだろう。
「そんなことを言っていると、そのうち、愛想が尽きられるぞ」
「これくらいで、尽きるなら端から人などに従ってないでしょう」
 保憲の咎めにも、晴明は涼しい顔だ。
「……晴明。お前に従っている式神はただの物の怪ではないのだぞ。彼らは――」
「式に、『ただ』も、『そうでない』のもないでしょう。あれらが、どういうものであろうが、この安倍晴明の式神に違いはない。式である以上、主に従うのは当然でしょう」
 四方を司る神だろうが、そこら辺にいる物の怪だろうが、式となれば同じものだと言い切れるのは、古今東西探しても晴明だけだろう。
「父上が聞いたらなんていうか」
「兄上、告げ口はよしてくださいよ。師匠に小言は言われたくない」
「父上の小言を食らうようなことを言っている自覚はあるのか」
 さすがの晴明も、幼少時から目を掛けてもらっている師には弱い。


 八百万の神が、この国土にいるという。
 その多くは、人間の生活の営みのすぐ傍に息継ぎながら、人間と相容れることなく存在している。
 四神は、例外的に人に生活に入り込み、四方を治める神として崇められている存在だ。
 幾数多の術者がその存在を手に入れようとしながら、けして、その手の内に得ることはできなかった。
 人に近いところに潜み、長らく人の営みを見守ってきた四神が、多くの手を退けて下ったのは、まだ元服したばかりの晴明の下。
 なにかを課すこともなく、契約という名の言霊のみで式に下った四神たち。
 晴明の母親は天孤であったと聞いている。
 人ならざるものである血が、四神たちを動かしたのか。
 彼らは「人間」に下ったのではなく、「半天孤」に下ったのか。
 それは、彼らにしかわからないことだし、もしそうだとしても、式神となった今では最早、関係のないことだろう。



「まぁ、今回のことは、父上からの指示だからな。父上を通して上に報告することになる。父上はお前のように怠けてはいられないから、日を改め、直接報告に行くように」
「今、話したことで全てですから、兄上が師匠に報告なさればいいでしょう」
「……どうして、お前はそう怠けることばかりを考えるんだ」
「効率を良くしようとしているだけですよ」
 保憲は三度、息を吐いた。
 一度、父上に絞られたほうがいいのかもしれない。最近では父である忠行も仕事が忙しく、晴明と顔を合わせることも少ない。
 人を食ったような晴明も、師に怒られると多少は反省の色を見せなくもないし、ここらで一度、きっちりとさせるべきだろう。
「兄上。なにやら不穏なことを考えていませんか?」
「まさか。そんなことを思うとは、なにか疾しいことでもあるんじゃないか」
「それこそ、まさかですよ。この晴明は潔白です」
 見た目は穏やかに交わされる兄弟子と、弟弟子の会話。
 茶を啜りながら、互いの顔に笑みを貼り付けている。
 なんだかんだと、晴明を悪く言う保憲だが、結局は同じ穴の狢(むじな)。
「この兄弟子ゆえにこの弟弟子」と、一部で称されていることを知らぬは本人達だけだ。
「どうして、彼らがお前に愛想が尽きないのか、理解できんよ」
「なんなら、聞いてみますか?」
 保憲の零した言葉に、晴明は意地の悪い笑みを浮かべた。
 悪戯を思いついたように目を輝かせる。そうしてみると、歳相応の幼さを垣間見ることができた。
「天清」
「はい、お呼びでしょうか」
 音もなく御簾の内側へと入って来た天清が、深々と頭を下げる。
 それに合わせて、はらりと、衣の裾が舞った。
 呼んでから、間がなかったのは、いつ喚ばれてもいいように控えていたからだ。
 なにせ、少しでも遅れると、この主は酷く難癖をつけることを経験上、知り過ぎる程知っていたからだ。
「兄上が、どうしてお前たちが、愛想を尽かさないのか疑問に思っているらしい」
「えっ……」
「愛想を尽かされるようなことなど、した覚えはないのだが、お前はどう思う?」
 艶やかな笑みが口元を形作る。
 天清は、その笑みを視界に捉えて硬直した。
 冷えた汗が背中を伝う。表情を強張らせた天清はじっと主の問いかけの真意を探る。
 ここで、晴明が求めている答え以外を口にすれば、どんな目に合わされるかわかったものじゃないが、「やっていません」と言わせるためだけに喚んだとは思えない。
「どうした、天清」
 優しい声が喚ぶ。
 天清は答えるに答えられない。
 冷や汗を滲ませ、音にならない呻きを口の中で形作っている。
 答えるに答えられないでいる天清に、さすがに哀れみを感じた保憲は、助け舟を出そうと口を開きかけたが、
「刹影」
 図ったように晴明が新たな式神を喚ぶ。
 刹影は唐突に部屋の隅に姿を現すと、主人に向かって頭を下げた。
 きっちりと着こなした衣は、砕けた恰好をしている晴明以上に都人らしい。
 その正体を知らぬものならば、人間と見間違えても仕方ないだろう。
「話は聞いていたのだろう。お前はどう思う?」
 刹影は僅かに顔を上げ、天清、保憲、そして、主に目を向ける。
「晴明殿は、我が主」
 澄んだ濃い緑の瞳が、晴明を射抜く。
「いかなる命であろうとも遂行するのが、式に下ったものの役目です。それを感情などに置き換えて表現することなど愚の骨頂」
「だそうですが、兄上」
 さすが、年の功。淀みなく刹影は答えて見せた。
 どう思うも何も、主に対して見解を述べること事態が愚かなだと。
 天清は眼差しで賞賛を送り、保憲は口を閉ざした。
 式神として思いつく限りで、最高の忠誠を言葉にして見せたわけだ。
 その答えはどうやら、晴明の満足の行くものだったらしい。
 動作だけで下がるように告げると、刹影は溶けるように、その場から姿を消した。
 それに続いて、天清も下がろうとしたが、
「待て。お前の意見はまだ聞いていないが」
「えっ?」
 天清は引きかけた身体を固くした。
 四神の内の誰かが答えれば、満足というわけではなかったらしい。
「是非とも、日頃、お前がどう思っているのか聞きたいところなのだが」
「えっと、私も玄武殿と同じ意見で……」
「子供ではあるまいし、自分の言葉で言うのが当然だろう」
 ごもっとも、と頷く気にはなれなかった。
 さっきまでの責め苦がまだ終わっていなかったことに天清はようやく気付いたのだった。
「それで、どうなんだ?」
「――っ!」
 天清の声なき、悲鳴が安倍邸に響いたのは、その直後だった。





 母上が姿を消して、父上が亡くなって。
 かつて、親子三人、暖かな日常が宿っていた邸の中は灯火が消えたようで。
 人のいない空間が、どれほど侘しいものなのかを身を持って経験した。
 それと同時に、この身に人と相容れることのできない血が確かに生き継いでいることを知ったから。
 知ってしまったら、もう、人に戻れない気がしたから、だから――。


「晴明」
 耳元で囁くような声が聞こえて、双眸を開いた。
 横になるだけのつもりが、うたた寝してしまっていたらしい。
 夕色に染まる空が燃えている。
 浮かぶ雲が朱に染まり、それは凰扇の髪を思わせた。
「こんなところで寝ると風邪を引くことになるのぉ」
 しわがれた声と共に、白い猫が尾を振って身体をすりよせる。
 晴明は身を起こすと手を伸ばし、白い毛皮を抱き寄せた。
 日向ぼっこでもしていたのか。柔らかな毛から日向の匂いがした。
「聞いてもいいか?」
 寝起きの掠れた声で言えば、尖った耳が震えた。
「断ってから、尋ねるとは珍しいのぉ」
「お前たちは、なぜ、式に下った?」
 汐毘の言葉を無視して率直に尋ねた。
「なぜ、この安倍晴明の式に下った?」
 意外な問いだったのか。
 暫し、間があった。
「天孤の血を引いているからのぉ」
 のんびりとした口調で呟く。晴明の目が細められる。
「と、そういえば、納得するかのぉ?」
「……納得しても構わないが」
 痙攣するように小さな身体を震わせて、晴明の腕の中で汐毘は笑う。
 納得する気がないくせに、平気でそう嘯(うそぶ)く。かと言って、そうだといわれれば、それ以上、追求しようなどと思っていないのだろう。
 他者を言葉で縛ろうとするくせに、肝心なことにはけして触れてこようとしない。
 どこまでも自由で臆病な人間。だからこそ、放ってはおけないのだ。
「生憎、血にほだされるほど、わしらは甘くない。もちろん、生まれ持った素質は大きな要因の一つではあるが」
 たとえば、晴明の師の忠行は何十年にも及ぶ修行の後、見鬼の力を手に入れたが、晴明と保憲は生まれながらその才を持っていた。
 時間に限りがある人間にとって、この違いは大きい。
「それでも、血が全てではない。相性の問題もあるしのぉ。わしらは、晴明の求めの言葉に共感し、式に下ることを了承した。それ以上でも以下でもない。理由など所詮、後付けにしかならぬと思わんか?」
「…………」
 晴明は無言。
 何を考えているのか分からない間。この僅かな間に、様々なことを考えて推測し、結論を出しているのだろうか。
「心配せんでも、式に下ったときの誓いは破られることはない。安倍晴明が死するときまで、わしらは晴明と共にあろう」
 説き伏せるように、汐毘は言った。
 晴明は指先で、前髪をかきあげた。長く伸ばした髪。小まめに、天清が手入れしているため、綺麗に切り揃えられている。
 伏せられていた眼差しが前を向き、汐毘を捉えた。
「当たり前のことをいうな。お前たちは式神だ。この晴明がいらないというまで、いるのが義務だろう」
 まったくもって、素直ではない。
 式神に対して横暴に振舞おうと、陰陽師としての素質を備えていようと、晴明はまだ十八の若者だ。まだ、二十年足らずしか世に生きていないのだ。
 もっと感情を表に出してくれれば、こちらもやりやすいというのに。
 素直な晴明を想像してみて、汐毘は思わず身震いした。
 これほど、「素直」という言葉に違和を感じられるのも珍しいかもしれない。
「なにか言ったか?」
「いいや、なんも」
 訝む晴明に首を振って答える。
 ふと、見上げた空。
 茜色に染まる雲が流れていく。
 明日もまた、良い天気になるだろう。
 当たり前のように続く日々がこの先も続いているのだから。





「お前たちにとって僅かな時間だ」
「たった百年。僅かで些細な時間だ」
「その僅かな時間をどうか」
「この安倍晴明に――」

 その魂の叫びに似た言霊が、四神たちを突き動かしたのだと。


『了承した』

 あの瞬間から、確かに始まったのだ。


完 H20.5/11






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