後日、問題の屋敷は無事に清められ、事件は解決した。
欠けた陰陽生の席には新たな人物が所属することとなり、陰陽寮はいつもと変わらぬ慌しさが満ちていた。
保憲は長い廊下を弱冠、早歩きで進んでいた。
その顔には濃い疲労の色が浮かんでいる。
万年人手不足の陰陽寮。やるべきことに対して人員が少なすぎる。
春は様々な催し物もあり、陰陽寮としては手が抜けないときでもある。
まだ若いとはいえ、特筆した能力を発揮している保憲はあちらこちらから引っ張りだこである。
今日も、僅かな睡眠をとっただけで、朝から忙しく動いていたのだが、先ほど父親である忠行に呼ばれて、父のところへと参った。そして、
「晴明がまだ報告に来ていないのだが」
「……そうですか」
怨霊が起こした一件について、祓ったときのことを師に直接、報告に出向くようにいっておいたというのに。
晴明はまだ報告に来ていなかったようだ。
今日は出仕しているようなことを部下から聞いていたので、一言声を掛けて来るように伝えてきて欲しいと忠行は息子に言った。
そんなことは他の人に頼めばいいことなのだが、晴明が言われたところで大人しく足を向けるとは思えない。
つまりは、保憲が引きずってでも連れてこいということらしい。
そう裏を読み取って判断した保憲は、深い溜息を吐いた。
このくそ忙しいときに、なんて手の掛かる弟弟子だろうか。
そもそも、晴明は天文生に甘んじている身ではあるが、すでに陰陽師と認知されてもおかしくないだけの素質と能力を有している。
それなのに未だに天文生の身なのは、結局のところ、本人のやる気が皆無だからである。
晴明がもう少し精力的に行動してくれれば、保憲の仕事も楽になるだろうが、今のところ、仕事を増やしているようにしか思えない。
昔は可愛げがあって、一生懸命、与えられた仕事を果たそうとしていたのに、一体、いつからあんなに捻くれてしまったのか。
思わず、記憶を辿り、「あぁ」と、呟いた。
晴明の父親が亡くなった直後、四神を従えた頃ぐらいか。晴明が今のようになったのは。
父親の死と、四神を得たことのどちらがそうなった要因なのか、或いは両方ともそうなのか。
なににせよ、その頃の経験から晴明に向上心というものが失せたのは確かだ。
その頃、忠行や保憲の方も色々あって、晴明に意識を配ってやることができなかった。経済的な支援をしてやることはできたが、兄弟子として手を貸してやることができなかった。
それを今でも悔んでいたりする。
本人にやる気がない以上、無理強いはできないし、したところで従わないだろう。
だから、師も口うるさく言わずに、晴明の好きにさせているのだろうが。
それにしてもだ。晴明は師匠があまり物を言わないこと良いことに好き勝手しすぎていると思う。
もう少し、締め付けを厳しくしてやったほうが、晴明のためにもなるはずだ。
あとで、それについて父親に提言しておこうと保憲は固く誓った。
保憲が廊下を進むごとに、頭を下げて挨拶をする人。
それに目線だけで応えながら、保憲は廊下の角を抜け、天文生である晴明がいるはずの部屋へと向かう。
晴明がいるはずの部屋の前まできたときだ。
なぜか、廊下には人が群れをなして部屋の中を覗きこんでいた。
この忙しいときに、こんなところで立ち尽くしてなにをしているのか。
「どうした?」
「保憲殿っ!」
声をかければ、それに振り返った人群れが悲鳴じみた叫びで保憲に目を向けた。
保憲は訝んだ。
誰もが戦々恐々とした様だったからだ。
「なにか、あったのか?」
「それが……」
声を震わして呟く。まるで、言葉を発することが禁忌であるように、恐れを抱いた目が保憲を見て、それから室内に目を向ける。
直接、中を覗いたほうが早そうだと判断した保憲は、割れた人垣を掻き分けて顔を覗きこませた。そこには――。
「あの……晴明殿。できれば、最後まで書いていただきたいのですが」
「分かっています。あとでやりますので、そこに置いといてください」
「そうではなくってですね。ここに署名をしていただければ、終わりなんですよ」
「ですから、あとでやりますので」
一体、何事かと思った。
そこにいたのは艶やかな麗人。
きっちりと着込んだ衣がこれほど似合うものはいないだろう。
しかしだ。まるで何かの儀式でも行うかのように、その周り円を描くようにして無署名の書が積まれている。
「保憲殿!」
晴明と押し問答していた男が保憲の姿を目に止めて声を上げた。それはまるで、救いの神でも見つけたかのようで。
なにやら、面倒なことになっているのは間違いない。そもそも、晴明がらみで面倒でなかったことなどあっただろうか。
「一体、どうしたんですか?」
こめかみが引き攣るのを耐えながら事情を聞くと、どうやら、晴明が書に署名をしてくれないらしい。
いつもなら遅々として進まない仕事を珍しく順調に片付けていると思っていたら、最後の署名をしてくれないために、未署名の書が溜まってしまっているというわけである。
保憲は頭痛を堪えるように眉間を抑えた。
あの晴明が、文句を言わずに仕事をしているが、なぜか署名だけをしない。
つまり、どういうことかと言えば――。
ここは私に任せろと、一先ず、人払いをした後、黙々と筆を動かしている晴明に近付いていく。
「……署名をしないのは、晴明に言われているからでしょうか?」
躊躇いながらも、丁寧な口調で問えば、黒い双眸が振り向き保憲を見上げた。
どこから、どうみても見慣れた弟弟子にしかみえないが、
「…………手抜きをしろ、と言われましたので」
長い間の後、晴明の声で囁くように告げた。
ばれた場合、特に隠せとは言われていなかったらしい。
保憲は固く握った拳を震わせた。
目の前にいる晴明は、晴明の姿をとってはいるが、晴明ではない。
晴明の式神、四神の人柱、北を司る玄武。刹影である。
晴明の身代わりとして出仕したらしいが、以前、完璧に仕事しすぎて、保憲に刹影だと見破られたので、多少、手を抜くように命じられたらしい。
手の抜き方が、故意にしか見えないのは、手抜き加減が分かっていないからか。
「それで、本物の晴明は邸でしょうか?」
「はい。おそらく、二度寝の最中だと思われます」
「そうですか。私が見破ったのだから、手抜く必要はないでしょう。すいませんが、仕事をきちんと完遂してやってくださいませんか」
「…………わかりました」
晴明の顔で、声で頷く。
晴明の姿をした刹影は、山として積まれていた書に手を伸ばし、筆先で署名する。
保憲は身をひるがえした。大股で部屋を出て廊下を進む。
「牛車を用意しろ!」
手近にいたものに声高に言えば、慌てて牛飼童に言いつけに走る。
父上の命じたとおり、引きずってでも連れて来てやる。
保憲の目に不気味な光が宿り、傍を通った者達が不穏な気配に身を引いた。
晴明には確かに、四体の優秀な式神がいるが、術者としての腕前は保憲のほうが上だ。
特に最近の晴明は、修行も怠けがちなのでその差は開く一方だ。
「今日と言う今日は、きっちりととっちめてやらないといけないな」
口元が弧に歪んだ。
「晴明、どっかいくのかい?」
凰扇が巻き割りをしていると、その横を晴明が通り過ぎていく。
しかも、なぜか表門からではなく、塀を乗り越えるつもりらしい。
腕には汐毘を抱いているが、視線はどこか落ち着きない。
「嫌な予感がするので、ちょっと出てくるが。留守は任せた」
「……………」
慌てたように去っていく背に、なんとなく、事情を察した凰扇は溜息を一つ漏らした。
暫くの後、保憲が安倍邸に乗り込んできたときには、晴明の姿は影の形もなく。
師匠と兄弟子の二重の雷を晴明が食らうこととなったのは、また別の日の話である。
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