陰陽記伝
平安陰陽記伝


1章「安倍晴明」 掉尾
 
  はっ、と凰扇は顔を上げた。
 注意深く、辺りを窺う。
 目の前に広がる闇は、平都の病み。
 栄華と華やかさの裏返し。怨念と憎悪の根源。
 吹き溜まった平都という魔所にはおのずと、それに属するものが集まりやすい。物の怪、怨霊。ただそこにあるだけでは害のないモノも一度、闇に捕らわれれば、害する存在となりえる。
 細々とした星明りは、魔都を照らし出すには至らず。
 濃い闇。うねるようにして渦巻く闇が都を覆いつくす。
 その中に、一条の光が走ったのを凰扇は感じ取った。
 目に見える光ではない。強い、清浄なる気だ。
「今のは」
『――凰扇、天清』
 脳裏に直接、届いた言霊。
 汐毘が刹影の能力を使って飛ばしている言霊。
『晴明の気配をとらえた』
「・・・・・・っ! 本当かい?」
 途絶えていた晴明の気配。それが現れたということは、自力で脱出したということか。
 一先ず、晴明の無事に安堵するが、姿を確認するまでは安心できない。
 気配が感じ取れたからといって、五体満足であるという保証はない。
 五体が無事でも、精神がやられていることだってあるのだ。
 一刻も早く、その身に何も起きていないことを確認するため、四神たちは晴明の下へと走った。




 足元に気をつけながら、屋敷の外に出る。
 出迎えたのは、闇空を飾る小さな星々。
 うっそうと雑草が生える庭を掻き分ける。
 星の位置を見る限り、それほど時間は経っていないようだった。
 空間に取り込まれたのだ。下手をすれば、あれから数日、或いは数ヶ月、数年経っていたなんていうことも起きないとは言い切れない。時間の経過がそれほどなかったのは幸いなことか。
 晴明は小さく欠伸を漏らす。
 さすがに少し疲れた。牛車を喚んで、屋敷に戻って寝よう。
 晴明は門戸の方へと向かう。
 手入れのされていない庭は歩きにくいことこの上ない。
 明日、と言っても日付が変わってしまっているから今日か。
 兄上に報告ついでに、この邸の祓いを願い申しておこう。
 物の怪に取り付かれた怨霊の住処だった場所だ。別の悪意のある物の怪が今後住み着かないとは限らない。
 その度に、引きずり出されることになるのは勘弁願いたいものだ。
 ガサガサと草を踏みつけながら、息を吐く。
 大体、こういう仕事は陰陽師の役目だというのに。天文生である自分がなぜこんな目に合わなければならないのか。
 そもそもの事の発端が、役立たずの陰陽生がこの事件に巻き込まれたからで。全員が全員、役立たずだとは思わないが、実力を確かめてやるために呪ってやるのも悪くはない。それで再起不能になろうが、自分には関係ないことだ。
 眠気からか、そんな物騒なことを考えながら、外を目指す。
 そのときだ。
「晴明っ!」
「我が主っ!」
「晴明殿」
「晴明」
 唐突に重なった声。
 上げた視界に映ったのは、駆け寄ってくる四神の姿だった。
 ほぼ同時に、彼らは晴明の視界へと飛び込んできた。
 最初に傍らに辿り着いたのは凰扇だった。
「このっ、クソ晴明!」
 驚いたように目を瞬かせていた晴明に、凰扇が突進していく。
 晴明はそれをひょい、と躱し、反射的に手にしていた扇で凰扇の後頭部を力いっぱい叩いた。
 容赦ない一撃に、凰扇は前のめりになり、つけていた勢いが禍して、顔面から地面に倒れこむ。
 晴明はさっと口元を扇で隠した。
 地面と接吻することとなった凰扇だが、それくらいではめげない。
 倒れたときと同じ勢いで起き上がると、晴明に詰め寄った。
「なにしやがるんだい!」
「なに、とはこちらの台詞だろう。主に対して体当たりをくらわしてくる式神がどこにいる?」
「誰のせいだと思ってんだい!」
「朱の君、落ち着いてください」
 飛び掛らんばかりの凰扇を天清が制す。背後から凰扇を羽交い絞めにして、なんとか晴明から引き離した。
 凰扇は手足をばたつかせて、戒めを解こうとするが、天清が必死で押さえ込む。
「晴明」
 しわがれた声。
 振り向けば、都人の姿をした刹影と、その肩に乗る汐毘の姿があった。
 ひらり、と刹影の肩から汐毘が舞い降りる。晴明の足元まで来ると、虹色に輝く目で見上げた。
「一体、なにをしておった?」
 ほんの少し、口調が厳しい感じがするのは気のせいか。
 晴明は扇の内側で微笑む。
「話を聞いていなかったのか?」
 女のところに行ってくる、とは言わなかったものの、それを匂わせる表現で行き先は告げていた。
 半分は本当だ。ただ、女が生身でなかったというだけ。
「晴明」
「嘘は言っていない」
 咎めるような声にも素知らぬ顔。
 そもそも、閨(ねや・寝所)に行ったのは嘘ではない。嘘は言っていないが、重要なことは何も言わなかっただけ。
「賀茂の子大将から、話は聞いた」
 その言葉に、晴明の目が細められる。
 扇に隠された表情から読み取る事はできないが、余計なことを、と思っていることは間違いない。
「なぜ、わしらに話さなかった?」
「なぜ、話さなければならない?」
 晴明は、ふい、と視線を汐毘から外し、空に投げ出した。その目が捉えるのは星が輝く夜空。闇と光が共存する唯一の場所。
「主のすることに、一々、式神風情が口出しをするのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「てめぇ! 人が心配してやっていれば、その言い草っ!」
 天清の手を振り解いて、凰扇が晴明に掴みかかろうとするが、不意に向けられた晴明の眼がそれを押し留めた。
 闇空を映し出したような、何の感慨も浮かべられていない眼。だからといって、けして冷ややかな色を宿しているわけでもない。
 ゆっくりと視線を走らせ、己の式神たちを見据える。
「誰が心配しろ、と言った」
「・・・・・・・・・・・・」
「お前たちは自分の主の言葉を信用できないのか」
 日頃の行いが――と思わなくもないが、賢明にも口に出しはしない。
 信用をしていないわけではない。ただ、肝心なことを何も言ってくれないから。少ない情報は、不安を煽り、嫌な想像を掻き立てる。
「そもそも、隠さずに行き先と目的を話してくだされば――」
 それを聞いていたら、一人で行かせたか。
 なにをしようとしているかを知ったあとで、手を出さずにいられたか。
 口を出されることを、手を出されることを疎んだからこそ、晴明はなにも言わなかった。誤魔化しを含んだ言霊を吐いて、式神たちを遠ざけた。干渉されることを嫌って。
「気が向いたらな。次からは話してやろう」
 天清の言葉を遮って、面倒くさそうに晴明は告げる。
 咄嗟に咎めようとして、天清は結局、何も言わなかった。言えなかった。何を言ったところで、この傍若無人の主は式神の言葉に耳を傾けたりはしない。
 それを天清よりも早く察しているであろう汐毘は、黙って主を見上げるだけだった。
「ところでだ」
 晴明の視線が足元の汐毘から刹影、天清と凰扇に移る。
 その顔には、どこか楽しげな様子が窺えて。
「揃いも揃って、『四神』という大仰な名を与えられているわりには、留守番もまともにできないとは・・・・・・主として情けないばかりだ」
 わざとらしく、扇で顔を隠してみせる。
 四神たちは一斉に顔を見合わせた。晴明の言っていることが理解できなかったのだ。
「留守番」とはなんのことだと、首を傾げる。
 真っ先に気がついたのは刹影だった。
 ポン、と手を打つとしゃがみ込み、足元の汐毘に耳打ちする。
 汐毘は耳を震わせ、ぼそぼそと呟かれる声を聞き取る。それで、合点いったように汐毘は頭を上下に振った。
「確かにのぉ。言われたことは言われたが」
『留守は任せた』と、言って晴明は出て行った。ならば、安倍邸の留守を預からなければならないはずなのだが。
 晴明の気配が絶えたりしたせいで、すっかり忘れていた。
「まったく、我が邸に盗人でも入ったらどうするつもりか」
 安倍邸に忍び込もうなどと考える、根性のある盗人がいたらお目に掛かりたい。そいつはきっと、余程の怖いもの知らずか、安倍晴明を知らない人間だ。
 あの邸に無断で足を踏み入れたりしたら、無事に外に出ることは不可能だろう。なにせ、邸の中には無数の晴明の式神たちが蠢いているのだから。
 まさに、魔の巣窟。周辺の住人から恐れられる、化け物屋敷である。
 晴明は、やれやれと、大仰に頭を振ってみせた。
「大体、誰のせいだと思ってんだい! このクソ晴明、一発殴らせろっ!」
「朱の君っ!」
 何はともあれ、怒りが収まらないらしい凰扇が拳を振り上げる。それを天清が必死で止める。
 晴明が勝手な行動を起こさなければ、邸から出る必要もなかったし、こんな真夜中に平都を駆け回ることもなかった。
「そもそも、そう言うことは、あたいらにやらせるのが普通だろっ!」
 低俗な式神ならば、術者が自ら身体を張ったところで不思議ではないが、晴明が従えている四神は四方を司る神だ。
 晴明が直接、手を下す必要などない。ただ一言命じれば、全てが瞬く間に片付く。
 主に命じられ、それを果たすことこそが、式神の存在理由でもあるというのに。
「生憎、こんなことをさせるために、お前たちを式に下したわけではない」
 平都に巣食う、人間が生み出した哀れで身勝手な闇を祓わせるために、欲したわけではない。そんなことをさせるために、四神と呼ばれる彼らを従えようと思ったわけではない。
 一つは、己の未来を救うため。
 もう一つは――。
 その胸に宿る願い。それを口にすることは、先にも後にもないだろうが。
「ぼさっと立っていないで牛車でも呼んできたらどうだ。主がこんなにも疲れているというのに、気の利かないやつだ」
 疲れているのは嘘ではないのだろう。心なしか、語尾が弱い気がしなくもない。
「まったくのぉ」
 汐毘が尾を震わす。
 言うだけ無駄。こちらが熱くなったところで、この主は頓着しない。精々、こちらが慌てふためくのを上から眺めているだけだ。
 ならば、式神である自分たちは命じられた範囲で、式としての役割――命に従いつつ、主の身を守ること――を果たすだけだ。
 その辺りを悟りきっている汐毘と違って、まだまだ若い天清と凰扇は晴明の言動に振り回されてしまっている。そして、晴明も天清と凰扇の反応を楽しんでいる。
 相談相手とはなり得ても、汐毘は晴明の遊び相手になることはできない。忠実に晴明の指示を遂行するだけの刹影もまた、それになり得ない。
 晴明を楽しませることができるのは、天清と凰扇だけだ。
 その様を微笑ましく汐毘は見つめる。
「ほれ、さっさと行って来い」
「うっせぇ! このクソ晴明! あとで覚えてろよ」
「全く、毎回毎回、同じことを。語彙が足らんな」
「・・・・・・っ、うっせぇ!」
 なんだかんだと言い包められ、凰扇は罵倒を吐きながら、牛車を迎えに行く。その横では、天清がオロオロと凰扇と晴明を見つめている。
 ここ数年で、すっかり当たり前となった光景。
 これが当たり前になるまでの時間は長くはなかったが、人にとってけして短いものでもなかったはずだ。
 その短い時間で、晴明の全てを理解するのはまだ無理なのかもしれない。
「時間はまだあるしのぉ」
 その呟きを聞き咎めたのは、刹影だけだったが。微かに首を傾げたあと、汐毘の言葉の意味を理解したのだろう。無言で頷いた。
『時間をくれ』と言った。人の一生分の時間を、預けてくれと。
 消費された約束の時間は、僅か数年。この先、今までの何倍もの時間を共にすることとなるだろう。
 安倍晴明という存在がこの世から失せるまで、傍らにあり続けるのだから。
「喚んできたぞ! 早く来い!」
 門から顔を出した凰扇が声を張り上げる。
 晴明は小さく苦笑を漏らすと、
「では、帰るか」
 歩き出したその背に、天清と汐毘、刹影が続く。
 帰る場所は安倍邸。
 かつては、父と母、今は式神たちと暮らす場所。


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