天を彩る月明かりの下。寄り添う男女の影が地面に薄く跡を残す。
その姿を見る者はなし。ただ、月だけが時の狭間にその影を映し出す。
男は女を優しく抱きしめ、耳元に愛を誓う。
誰よりも愛し、君よ。
白珠の露のごとき、君よ。
星が天から落ちても共にあるべき、君よ。
女はうっとりとしてその言葉に聞き惚れる。
永久に男はここにあって、女もここにあると、そう約束されたのに。
永久の愛を誓い、共にあることを望んだというのに。
男は女の下を去る。
別の女の下に、女にしたように愛を囁きに行ってしまう。
吐かれた言霊は形を残さず。
最初から存在していなかったかのように掻き消された。
恨めしい、憎らしい。
呪いの言葉が口を汚し、心を闇に沈めていく。闇に病んで行く想いは穢れ、やがて呪となり人を惑わす。
恋しいという想いが穢れ、呪となるならば。
人を想うことが人を縛ることならば。
想いもまた、呪なのではないだろうか。
無自覚に人は、想いを重ね。
重ねた想いだけ人を呪う。
呪いとは即ち、想いの呪。
晴明は闇を見つめる。
醜く歪んだ女の想いを見つめる。否、人には醜く見えても晴明の目にはそうは見えていなかった。
それは狂おしいほど狂えて歪んだ愛情。
方向を違えた想いが呪と成り果てた結果。
「哀れだな」
本当にそう想っているのか分からない。平坦な声音で呟かれる。
少なくとも、言葉の上だけでは女を憐れんでいる様だった。
光を通さぬ闇の中、蠢く女の病みを晴明は見つめる。――病み患った想いは魂さえも穢してしまったのだろう。
だとしたら、人間が持つ想いとは、穢れを生む悪しき根源なのか。
だとしたら、人間とは最初から穢れを持って生まれてきているのか。
その答えを知るものはいない。
女に襲われた晴明は、霊珠を示すことによって難を逃れたが、どこかの空間に取り込まれてしまったらしい。
異空間といえば聞こえがいいが、普段、人が生きる世界が表の舞台だとするならば、ここは裏舞台。世界のほんの小さな空間の隙間だ。
所謂、神隠しの類は、人間がこういう空間に誤って、或いは故意に引き込まれることで起きると言われている。
晴明は、鋭利な眼差しで周囲を伺う。
その顔には、見知らぬ場所にいる不安や疑問は少しも感じ取れない。
ただ事務的に淡々と物事を見定めようとしている。
一通り、周囲に目を向けたあと、晴明は再び視線を女へと向けた。
闇の中で蹲る女の影――実体でないことは確かだが、晴明にとってその辺はどうでも良い。
実体だろうがそうでなかろうが、やるべきことは一つしかないのだから。
一歩、前に踏み出す。
「生憎だが、貴女を捨てた男は最早、この世の人ではあるまい。ましてや、貴女がその闇の内側に取り込んだ者達は、貴女とは何の関わりのない人物だったはず。貴女が捕らわれ続けられなければならない理由など欠片もありとしないというのに、いつまで、そうしているつもりなのか」
晴明の問いかけに女は答えない。そもそも、晴明の言霊が届いているのかさえ、定かではない。
闇は、しんとしてそこにあって、揺らめきもしない。
正気と瘴気の境。強毅と狂気の境。
もう一歩、前に踏み出せばその境を越えてしまう。
それは、平都の昼と夜に似ていた。
日の神が天を飾る時間。
月と星が闇を彩る時間。
どちらも、同じ都でありながら、その性質は全くと異なる。
晴明は薄く笑みをかたどった。
「もっとも、この安倍晴明にとって、貴女がどうなろうと気に留めることでもないが。いつまでも、そうしていたところで、貴女の病みが治ることは永久になかろう」
冷たく、突き放すように紡がれる言霊にも女は反応を返さない。
闇は穢れ。黒い穢れ。
それは晴明を取り巻き、取り込もうとする。が、表面を撫ぜるだけで、内側まで入って来られない。晴明がその身に結界を纏わせているからだ。
晴明は扇で口元を隠し、笑みを濃くする。
「選ぶ権利を差し上げよう。己から捕らわれの囲いを壊し、天に昇るか、それとも」
す、と目が細くなり、女を射抜く。
「それとも、この安倍晴明、直々に祓われたいか」
女は――応えない。
晴明は目を閉じ、呼気を細く吐き出した。
もとより、説得に応じると思っていたわけではない。その手で人を殺めた女は死の穢れ――黒不浄に侵されている。黒不浄を祓うのは、それは、それは面倒な事だ。
それこそ、真面目一貫な陰陽師とかがやるべき仕事だと、晴明は固く信じている。不真面目な天文生である自分がやるべきことではない。
しかしだ。祓わなければ、いつまで経ってもここから出ることはできないだろう。
そうなると、屋敷に残してきた式神たちが騒ぎを大きくしかねない。騒ぎが大きくなれば、兄上や師匠がしゃしゃり出てきて、さらに騒ぎが大きくなる。
後々、そのことで色々言われるのは晴明自身だ。もちろん、陰口程度なら無視すればいいことだが、師匠にくどくどと言われるのはさすがに御免被りたい。
師匠は師匠として尊敬はしているが、あの「くどくど」だけはどうにかならないものかと常日頃から真面目に考えていた。
とにかくとして、さっさとここを抜け出すに限る。
晴明は一度、目を閉じて精神統一をはかった後、ゆっくりと瞼を開いた。
衣の裾が風もないのに揺らめき動く。
懐から取り出したのは、毒々しいまでの赤を主張する霊珠。晴明が力を込めて握れば、一層、強い光を放つ。
垂れ下がった紐が衣を打つ。
赤い光が闇に差し込んだ。光は女のもとまで届く。
その瞬間、今まで無反応だった女が勢い良く顔を上げた。黒く長い髪が舞い、生き物のように四方へ散った。
その目に宿っていたのは、霊珠に負けないほどに禍々しい光を放つ赤い瞳。薄く開いた唇の間から歪んだ形の歯が覗く。鬼の形相が晴明に注がれる。
晴明は眉を跳ね上げた。
「まさか、なにかに取り憑かれて――」
「アァァァアアアッ!」
絶叫。
闇が膨れ上がる。暗い渦が巻き、晴明の衣の裾を舞い上げる。
晴明は呼気を短くし、突如として膨れ上がった瘴気に耐えた。
「・・・・・・ない、許さな、い、許さない、許さない!」
それしか、知る言葉がないとでも言うかのように、繰り返し、繰り返し吐かれる呪言。
それは魂を揺さぶり、堕とす言葉。
呪われた言霊。
普通の人間ならばその一声で精神に異常をきたすだろう。
迫り来る闇に対し、晴明は手にしていた霊珠をかざす。
赤い光が闇を切り裂く。闇は光を避けるようにうねる。
霊珠を指に挟みこみ、晴明は印を切った。指先から生まれでた赤い五芒星が闇を飲み込んでいく。
押し迫る闇と、それを裂く赤い星。
晴明は伸ばす腕を震わせた。思いのほか、相手の勢いが強い。
「・・・・・・まったく、面倒なことになった」
嘆くように呟きつつも、けして、力は緩めない。
女には、心を通わせた男がいた。だが、男は心変わりし、女から離れて行った。
そのこと自体はよくある話といえばそれまでだ。
人の心は変わる。
今日、想いを寄せたものを、明日には憎むようになるかもしれない。今日、その命を奪うまで恨むものに、明日は愛を謳うようになるかもしれない。
永久など、永遠など存在しない。全ては儚い、一時の夢でしかないのだ。
女が約束を破られたことを恨むのは勝手だが、恨んだ挙句、何かに取り憑かれて、無関係のものまで巻き込むのは止めて欲しい。
――そう、女は取り憑かれている。
何にまでは分からないが、でなければ、ただの恨みの念だけで霊珠の力を押すことなど出来やしない。
晴明が母から受け継いだ霊珠は、強大な霊力を宿らせている。晴明自身がそれを全て使いこなす事はできないが、一部を借り受けることで自分の力に変えている。
普通の霊魂であれば、その光を浴びるだけで、消滅してしまうだろうが、女はそれに抵抗するように力を強めて襲い掛かってきた。
人間の霊魂にできることではない。
憎悪を糧に取り憑く物の怪は、珍しくもないが、ここまで強力なものは滅多にない。
晴明は、自分がとんでもない貧乏くじを引かされたことに気付き、溜息を漏らした。
霊魂、それも死霊に取り憑くとは厄介を通り越して、現場放棄したくなる。
女は既に死んでいる。
女が触れてきたとき、実際の知覚を無視して送られてくる知覚に、晴明はすぐに気がついた。女が寄せる肌も、艶やかに触れてくる髪も、すべて幻なのだと。
だから、薄暗闇の中でもはっきりと女の顔が認識できたし、出会って間もないのに、女がどういう人間なのかをさも見てきたかのように知っていた。
恨み憎み。死した女の魂は怨霊と成り果て、その負の感情ゆえに物の怪を呼び寄せて取り憑かれた、と言ったところだろう。
怨霊と物の怪の調伏は少々、勝手が違う。
同時にやるのはかなり面倒だ。まずは、物の怪を祓い、その後、怨霊を調伏するといったところが順当か。
「面倒だな」
手間を掛ける事を誰よりも嫌う晴明はうんざりとしたように呟く。
まさか、初日で引っ掛かるなんて思っていなかったから、持ち合わせの符と霊珠しか持ってきていない。
符の効力が無効化されるのは既に体験済みだし、霊珠には祓うだけの力はない。
言霊でいたぶっていないで、さっさと調伏して置けばよかったと今更ながら思う。
「面倒だが致し方あるまい」
ぱちん、と音を立てて扇子が閉じられる。
懐に扇子を仕舞い込んだ後、赤い光を放つ霊珠を隠すように手の平に包み込んだ。
途端に濃くなる闇が晴明に襲い掛かる。
晴明は素早く刀印を組むと九字の印を結んだ。
「青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女」
一言、一言ごとに刀印の形が変わる。
さらには符を取り出し、四方に投げ散らす。符は宙を走り、女を囲むように四角形を作る。
その四角形の内側、女と晴明を取り囲む瘴気が浄化され、清浄なものへと変わっていく。
「ギィィィァァァアア!」
断末魔に似た響きが轟く。晴明は不快気に眉を寄せた。
女はのた打ち回るように身をくねらせ、その頭を左右に大きく振る。
黒い闇がうねり、女の内側から何かが飛び出した。途端に、女の影が崩れて形を失う。取り憑いていた物の怪が飛び出したのだ。
黒の大蛇。大きくうねりながら晴明に飛び掛る。
晴明は口内で短く祝詞を唱え、放つ。
それは強い言霊となって、物の怪を縛り、
「――――」
強い風が、晴明の髪を揺らし、衣の裾をはためかせた。
視界の中央で巨大な黒い大蛇が踊る。それも一瞬。次の瞬間にはその姿は霧のように失せる。
祓いの言霊が穢れと共にその物の怪をも消し去ったのだ。
晴明は結んだ印を解かずに冷めた目で闇を見据える。
闇が僅かに揺らいだのを晴明は捉えた。
瞬間、周囲の景色が変わった。思わず、「ほぉ」と息を漏らす。
取り囲んでいた闇は祓われ、最初に女に連れ込まれた部屋に変わっていた。
だが、足元の木の床は古びて穴が空いているし、壁には草の蔓が絡まっている。ぽっかりと穴があいた天井から星明りが見渡せる。
招かれた屋敷の中はすっかり様変わりして、かろうじて最初の部屋だと判別できるだけだ。
全てが幻。まさに、狐に化かされたというわけか。化かしたのは狐ではなく、人の女だったが。
「ど・・・・・・して」
弱々しく掠れた声がどこからともなく聞こえてきた。
視線を下にやれば、床に倒れこむように伏せる女がいた。女は泣いているのだろうか。小刻みに肩を震わせていた。
「どうして・・・・・・約束したのに。ずっと一緒だって、言ったのに」
漏れるは恨み言だが、声には力はない。
さきほどの勢いも、たおやかな様も見る影もない。女はただすすり泣くばかりだ。
「どうして、いってしまわれるの。どうして、私を置いていってしまうの。どうして」
「・・・・・・・・・・・・」
ここに連れ込まれた男たちも、家に帰るために女のもとから離れていこうとした。だから、女は殺したのだ。殺し死体を打ち捨てた。
傍にいてくれないならば、一層のこと――。
永遠に傍にいて欲しくって、永久を約束して欲しくって。
ただ、一緒にいたかっただけなのに。
「哀れだな」
今度は、それらしい響きが籠もっていた。
晴明は小さく頭(かぶり)を振った。
「捨てた男の事なんかさっさと忘れてしまえ」
「そんなこと」
「なんなら、この安倍晴明がお相手いたそうか?」
さらりと吐かれた言葉に、女は驚いたように顔を上げた。
そこで晴明は初めて、女の本当の顔を目の当たりにした。それほど美人というわけではないが、そこそこの器量よしだ。
最初、知覚したときの艶やかさは見当たらないが、こちらのほうが、人らしくって好ましい。
「だが、生憎、死霊を相手にする趣味はないのでな。転生して、肉体を得てからなら、いくらでも相手をしてやろう」
「・・・・・・・・・・・・」
「疑うか?」
晴明はやんわりと笑みを零し、床に伏せる女に手を伸ばした。
肩に触れるか触れないかの位置で、手を止める。
女を見つめる晴明の目に冗談は見当たらない。酔狂だが本気で言っているらしい。
「永久は約束しない。この身とて永久にあるものではないからな」
「なぜ?」
なぜ、そんなことを言うのかと女は問いかける。
さっさと霊魂であるこの身を祓ってしまえば済むというのに、なぜ、情けをかけるようなことをするのか。希望を持たすようなことを言うのか。
晴明は、僅かに乱れた髪をそっと直しながら、
「単なる気まぐれだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「まぁ、考えておくがいい」
女はただ目を丸くするばかりだが、ふいに、目元を和らげて、
「貴方、名前は?」
女は問う。
名はもっとも短き呪だ。容易く他者に教えるべきものではないが。
「安倍晴明」
「せいめい」
死した者に名を奪われたところで、問題ないと判断したのか、迷いなく答える。
女は、口の中で繰り返し、繰り返し、晴明の名を紡ぐ。
転生してしまえば忘れてしまうものだというのに。
「約束よ、晴明」
「この身が朽ちる前に貴女が転生したらの話だがな」
死した魂は転生し、新たな肉体を経て再び現世に戻ると言われているが、それがどれくらいの周期でそうなるのかは、誰も知らないし、知るはずがない。それを知るということは前世の記憶を持つ、ということなのだから。
晴明の知る限り、そういう記録も話も耳にしたことはない。
今、転生したところで晴明が生きている間に、女が再び現世に肉体を持って生まれてくる可能性はかなり低いだろう。そもそも、人間に生まれてくるという保証もない。賭けとしては成立しないほどの倍率。
だからこそ、気軽に約束したわけなのだが。
そんな晴明の思惑など、女に知る由もなく。
「せいめい」
か細い声が名を紡ぐ。女はふんわりと微笑んだ。
晴明は伸ばしていた指先で五芒星を描く。描かれた五芒星は微かに光を帯び、女の身体を包んだ。
柔らかく温かな光が満ちる。
そして、光が収まったあと、女の姿はどこにもなかった。
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