縁側から忍び寄る夜気が髪を撫で、長く伸ばされた黒絹がふわりと舞う。
褥(しとね)の上で寄り添う男女の影。取り巻く艶やかな空気が甘く匂う。
座る晴明の肩に女が頭を寄せる。
女は薄い衣を一枚纏っているだけで見るからに寒々しい格好だが、触れる肌はしっとりとした温もりを宿していた。
腕を引いて誘うように、ぴっとりと女は密着する。だが、晴明は女の存在など知らぬと言わんばかりに落ち着きなく視線をさ迷わせている。
照れて顔を背けているわけではない。晴明にそんな初心なところがあるなど、八百万(やおよろず)の神に賭けてありえないと、誰もが断言するだろう。
女について門の内側に踏み入れれば、あれよあれよと言う間に、この展開である。
幾人もの女性と関係を持ったことのある晴明でも、あまりの事の速さに驚くばかりだ。
手際の良さの嘘臭さに、晴明は内心でひっそりと笑みを零していた。
「どうかなさいました」
黙りこんでいる晴明に焦れたのか、女は艶やかな色を持つ声音で問う。
晴明はそこでようやく、女がいることに気付いたとばかりに視線を向けた。
「いや、貴女の美しさに暫し、呆然としていたのですよ」
手にしていた扇をサッと広げて口元を隠し、心にもないことを口走る。
だが、女は気を悪くするどころか、紅い唇の端を吊り上げて小さく笑みを零した。
薄暗闇の中、互いの顔もはっきりと見えない。それでも、この女が美しいと知覚出来ている。
今まで、目にしてきたどの女よりも、美しく、物分りが良い、賢い女だと。
なるほど、と晴明は思った。
思った瞬間に全てを悟って、途端につまらなくなる。
腕に回される、たおやかな肌の感触も、上手くは出来ているが、所詮その程度だ。
やんわりと、回される腕を晴明は振り解いた。すると、女は不思議そうに首を傾げて、外された腕を再び絡めようとする。
それを乱暴にならない程度に拒否すれば、女は困惑気に晴明の顔を覗きこんできた。
潤んだ双眸。華奢な四肢。薫る体臭は鼻腔をくすぐり、身体に熱を送り込む。
「どうかなさいまして?」
赤く熟れた唇が言葉を紡ぎ、上気した白い頬が闇夜の中でもはっきりと目に映る。
晴明はそれには答えず、黙って立ち上がった。
女は目を見開き、慌てて晴明の腕を強く掴む。
「夜はこれからです。一体、どちらへいらっしゃるの?」
不安げに揺れる瞳。ここにいて欲しいと全身で訴えているのが分かる。
晴明は微笑みだけでそれには応えない。
「女に恥をかかせるおつもりなのですか。・・・・・・酷い人」
視線を下に投げ出し、俯く。唇を硬く締め、細い肩を震わせる。
しかし、女がそう言った素振りを見せれば見せるほど、晴明は退屈だと言わんばかりに気を逸れさせていく。
それを見抜いたのかどうか。女はより一層、腕を強く握った。
晴明は掴む手にそっと自分の手を重ねた。
女は顔を上げ、濡れた瞳で晴明を見上げる。
「折角の誘いですが」
「どうして!」
悲鳴のように、女は叫びをあげた。
突然の甲高い声に、晴明は不快気に眉を顰める。
「また、あの女のところに行くつもりなのですか!」
ミシリ、と腕が音を立てたようだった。
女の力とは思えない強さで腕が締め付けられる。
晴明は振り払おうか迷った末、力任せに引き剥がすのは面倒だと判断し、痛みをないものとして扱うことにした。
多少の苦痛ならば耐えるだけの忍耐力は持っている。
「行かせない! あの女のところへなんか!」
「・・・・・・っ!」
頭がガクン、と揺さぶられた。硬い床に強か身体を打ちつけられて、一瞬、意識が飛び掛ける。
喉に強い圧迫感。薄らと瞼を開けば、馬乗りとなった女がその細腕で晴明の首を絞めていた。
「行かせない! どこにも!」
首の骨が軋む。気管を押さえつけられ息が苦しい。このままでは、窒息死は免れない。
両手を使って首から女の手を振り外そうとするが、びくともしない。
命の危機にさらされながらも、晴明は酷く冷静だった。
頭の片隅で、もう一人の自分が首を絞められている自分を観察しているようだった。
女の手が外れないと判断するや否や、懐に手を突っ込み、忍ばせていた符を取り出した。
そして、躊躇うことなく、女の頭部に打ち付けるが。
その前に、符が音もなく燃え、灰と化す。
思わず、晴明は目を瞬かせた。こんな場合でなかったら賛辞の一つくらいくれてやったかもしれない。
符を無効化するとは、余程、恨みが深かったらしい。
他にも符を忍ばせてはあるが、どれも似たり寄ったりだ。面倒だが背に腹は変えられない。そろそろ、意識が遠のきそうな気配もする。
晴明は再び、懐に手を伸ばす。取り出したのは符ではなく、霊珠。
霊珠はまるで燃えているかのように真っ赤に輝いていた。
晴明は淡く微笑むと、馬乗りになっている女にそれを近づけた。
ぞくり、と嫌なものが背筋を駆け抜けた。
安倍邸の一室で、思い思いに過ごしていた四神たちは、一斉に動きを止めた。
じっと、周りを窺うように身動きしない。
音は一切、耳に届くことなく。世界から切り離されているかのように錯覚する。
静止していたのは実際には数秒だが、とても長く感じられた。
「い、まのは?」
「・・・・・・ないのぉ」
身体を駆け抜けた感覚に、凰扇は気味悪げに肩を竦めた。汐毘が硬直した尾を再び動かせながら呟く。
「消えた」
耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな声で刹影が呟く。
幸いにも、人ならざるものの耳にその声は拾われた。
「消えたって?」
「晴明の気配が絶えたようだのぉ」
「・・・・・・はっ?」
「・・・・・・何の冗談なんだい?」
天清は目を丸くし、凰扇は呆れたように汐毘をみやる。
晴明の気配が絶える――つまり、晴明の身に何かが起こるなど、天変地異が起きる前触れでもなければありえない。
だが、汐毘にはいつものふざけた様子はない。猫顔のため良く分からないが、髭がピンと立ち、気配を探っているのが分かる。
汐毘や刹影と違って、凰扇と天清は気配を捉えることが苦手だ。
しかしだ。式神と主は不可侵の絆で結ばれている。なにか、余程のことがあれば、式神にそれが伝わるのだ。
今さっき感じたのがそれなのか。
「ちょっと、待ちやがれってんだい。一体、どういうことだい? だって晴明は――」
「・・・・・・上手く騙されたということじゃのぉ」
女のところに行くと言って出て行った晴明の身に何事かが起きている。つまり、女のところというのは、嘘だったということだ。
或いは、これが晴明の悪戯という可能性もないことはないが。
晴明が嘘をついてまで一人で出かけて行った理由に心当たりがあった。
「賀茂殿が昼間にいらっしゃいましたよね」
人払いならぬ、式神払いをしたため、四神たちは晴明の兄弟子が何の話をしにきたか知らない。
だが、十中八九、それが関係しているだろう。
「ワシと刹影は賀茂の子大将のところに話を聞いてくる。天清と凰扇は先に都を回り、晴明を探すのじゃ。運が良ければ見つけられるはずじゃ」
汐毘の言葉に、凰扇と天清は頷く。
刹影は黙って汐毘を自分の肩に乗せた。
近くの子鬼に留守を申し付けると、四神たちは主を探すために動き出した。
何かが戸を叩く音に気付いて、保憲はそっと身を起こした。
戸を硬く閉めた室内は暗く、灯火なしでは見通せない。
気のせいかと思ったが、確かに何かが戸を叩く音がする。保憲は記憶を頼りに、転ばぬように気をつけながら寝床を這い出した
まさか、盗人ではあるまいか。最近、家人が寝静まったところで、盗人が屋敷内に侵入する事件が相次いだ。
賀茂の邸と分かっていて入り込む輩はいないと思っていたが。
誰かを起こすべきか迷いながら、そっと戸に近付いていく。すると、
「夜分、遅くにすまなんだのぉ」
「・・・・・・っ?」
戸越に響いたその声に、僅かながら聞き覚えがあった。恐る恐る戸を開けて外を覗き込んでみると白い猫が一匹、どこからか迷い込んだのか座っていた。
その猫を保憲は良く知っていた。
「これは・・・・・・晴明のところの」
「こんな時間に尋ね来ることは失礼だと承知だが、緊急事態ゆえに勘弁願おう」
ぺこり、と頭を垂れて、汐毘は謝罪する。
保憲は出来るだけ汐毘の視線と合わせるよう、床に膝をついた。
「緊急事態? 晴明の遣いですか?」
「否。尋ねたい事が一つ。昼間、晴明に何を話なさった?」
「何とは?」
「晴明の気配が絶えた」
用件だけ述べる汐毘に訝っていたが、最後の一言で顔を強張らせた。
晴明の気配が絶えた。その意味が分からないはずもなく。
すぐさま、保憲は昼間の会話をそのまま汐毘に言って聞かせた。
汐毘は最後まで黙って話を聞いていた。
「すぐに、父上に伝えてきます」
「待たれ、賀茂の子大将」
事の重大さを悟って、今すぐにでも飛び出して行かんばかりの保憲を汐毘は諌めた。
闇夜でもひかる瞳を一層大きく輝かせると、
「まだ、そうだと決まったわけではあるまいよ。晴明の悪戯という可能性も捨てきれぬ」
「しかし」
「もし、日が出ても晴明が発見できなければ、賀茂の大将の力を借りるとしよう。だが、その前にワシらが必ずや晴明を探して見せる」
断言口調で申した汐毘に、保憲は暫し、考えるような素振りをしたが、
「分かりました。見つかったらすぐに知らせを。日が出るまでに知らせがない場合は、父上にご報告を」
「我が主の不肖。ワシが変わって謝罪しよう。面目ない」
「いや、それよりも。あんな弟弟子ですが、どうか見捨てるような事はしないでください。根はおそらく良い子のはずですから」
なんとも酷い言い草だが、一人と一匹は視線を交わし、頷きあう。
「それでは、失敬する」
言葉と同時に汐毘の姿が闇の中に消え失せた。
保憲は暫くの間、虚空を眺めていた後、戸を締め寝床へと戻る。
もちろん、再び寝入ることはなく、弟弟子の身を案じながら夜明けを待つことにした。
「まったく、あたいらを一体なんだって思ってんだい!」
凰扇は怒り任せに叫びながら、飛ぶように道を駆けていた。
保憲から伝えられた話は、刹影の能力を通して凰扇と天清にも伝えられた。
晴明が何をしに出かけたかを知った凰扇は、怒りに拳を震わせた。
四神は式神だ。式神とは主の身を守る役目を持つ。
それなのに。危険に赴くと分かっていて敢えて凰扇たちを連れて行かなかった晴明。
いかにもな嘘で付き添いを退けておいてこの様とは、一発くらい殴ってやらねば気がすまない。
それもこれも、晴明が無事ならばの話だ。
余程のことがない限り、晴明の身に危険が及ぶとは思っていない。だが、今現在、その余程のことが起こっているのだ。
先ほど屋敷で感じたものは主である晴明の危機を知らせるものだったのだと、確信している。
晴明が危機に陥っている。式神として、すぐに主を助けなければならないのに。
「なんで、喚ばねぇんだい」
喚べば、どんなに距離が離れていようとも、一瞬にして主の下へと行けるというのに。
与えられた名は術者と式神を結ぶ強力な呪だ。ただ一言、言葉にし、言霊にするだけで、その喚び声は式神に届く。
どうでも良いような用事を言いつけるときは、気軽に喚ぶくせに、どうしてこういう時に喚ばないのか。
それとも、喚ぶ価値もないとでも言うのか。
悔しさと情けなさに、凰扇は唇を強く噛み締めた。
晴明は汐毘を重宝している。四神の中でもっとも歳が上で、物知りで、晴明にとって善き相談相手で。
言葉少なながら、刹影とはただ一言だけで心を通わせている。凰扇からして見れば意味不明なことでも、刹影はその意図を汲み取って行動に移す。
晴明に仕えだした時は一緒だというのに、何がこの違いを生み出しているのか。
口を開けば、晴明と喧嘩ばかりで、その本心を凰扇は聞いた事がない。そもそも、用があるときしか晴明と顔を合わせることがないのだ。
同じ式神で四神なのに――。
凰扇は苛立ち気に大地を蹴った。
式神にとって主の役に立てないということは、存在意義を失うことに等しい。
同じく若年者に値する天清は、なんだかんだ言いながらも晴明の身の回りを整えるには必要不可欠だし、そもそも、人間の従者だったら三日とてもたないだろう。式神だからこそ、晴明の横暴にも耐えられるのだ。
それに比べて、自分は晴明の役に立てているのだろうか。
不安が急に込み上げてきて、思わず凰扇は足を止めた。
ひらりと舞った衣の裾が弧を描いた。
天清は焦っていた。
焦ったところでどうにもならないのは承知していたが、焦らずにはいられなかった。
汐毘からの話では、何か悪いモノが都の中にいて、晴明がそれと遭遇しているかもしれないということだった。
いかに晴明が優れた術者であろうとも、生身の人間だ。
傷つけられれば怪我を負うし、酷い傷ならば死に至る。
そう、あの晴明だって死ぬ事があるのだ。
天清は死を知らない。
四神である我が身が死することはないし、これまでに「主」を持ったことがないから、死というものが良く分からない。
死とは永久にいなくなることだと汐毘が言っていた。
二度と、話したり触れたりすることは出来ないのだと。
正直、晴明の天清に対する扱いは酷いと思う。物は投げつけるは、悪態は吐くは。汐毘と刹影に対する扱いの差に何度泣かされたことか。
だからと言って、晴明に死んで欲しいわけではない。
どんなに酷い主でも、主は主だ。存在を賭して守りたい人なのだ。
なのに――天清は歯噛みする。
焦っても無駄だと分かってはいるが、どうしようもない。
少なくとも晴明はまだ都の中にいる。ただ、気配が辿れない別の空間に入っただけなのだ。
人ならざるものは時として、自分専用の空間を作る。そこに入られれば、外から中の様子を窺うことはできない。
晴明の気配が絶えたのはそのせいだろう。
空間とは完全に閉ざされているものではない。微かながら開かれているものだ。それを見つけられれば。
天清は夜の都を走る。
夜明けまで、あと少し。
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