春の日暮れは穏やかに。太陽の名残を残しながら、星を招き入れる。
昼間の暖かさは遠のき、ひんやりとした風が吹き込んでは御簾を揺らす。
夕飯のあと、晴明はいつもどおり、ゆるりとした時間を過ごしていた。
膝に汐毘を抱き、部屋の隅には天清が控えている。姿は見えないが、出戻ってきた刹影もどこかに潜んでいるだろう。
晴明は手の内で霊珠を転がす。
ただでさえ、静けさを持つ邸内は夜になると一層、不気味なほどの静寂に包まれる。
庭は暗闇に包まれ、視界の届かぬ隅では異形のモノが蠢いているようにさえ錯覚する。もっとも、安倍晴明によって管理されて敷地内で、許可なきモノがうろついていることはありえないのだが。
ふ、と晴明が顔を上げた。何かを探るように目を細めてあたりを窺う。
握った霊珠が僅かながら熱を帯びたようだった。
「出かける」
汐毘を膝から下ろして一言。
滑らかな動作で立ち上がった晴明は霊珠を懐に戻し、代わりに扇を取り出した。
「凰扇」
御簾が揺らぎ、その言霊に喚ばれて凰扇が部屋の隅に姿を現す。晴明は凰扇を一瞥すると、
「牛車の用意を」
「はいよ・・・・・・って、こんな時間からどこにいくんだい?」
すでに、外は魔の時間。いつもならば、頼まれても絶対に出歩かない時間帯だ。
晴明の身支度を手伝っていた天清も、問い質すような視線を主に向けている。
晴明は淡く微笑み、
「こんな時間に出かけるところなど、一つしかないだろう」
含みを持たせて告げる。
天清と凰扇は顔を見合わせ、言葉の意味を理解した汐毘は低く笑いを零す。
「春だからのぉ」
「春って――」
それが指す意味を理解したのか、天清と凰扇はほぼ同時に黙り込んだ。
晴明は、さっさと身支度を整え、硬直している凰扇に視線を投げかけると、
「凰扇、牛車はどうした?」
「えっ・・・・・・あぁ」
あたふたと、凰扇は外へ出て行く。凰扇の反応が面白かったのか、汐毘は先ほどから笑いっぱなしである。
「朝餉は頂くから、いつも通りに用意はしておけ」
天清にそう命じ、晴明は部屋の外へと出た。
その背後に、いつの間に姿を現したのか、刹影が控える。影のようについて歩く刹影に、
「ついてくる必要はない」
「しかし、晴明殿」
「閨(ねや・寝所のこと)に行くのに、供連れとは無粋だろう」
晴明の常識は一般の常識とはずれている。仮にも貴族のうちに入る安倍家の当主とあろうものが供を連れずに出かけることのほうが異常だ。
だが、忠実なる僕(しもべ)はそれについては何も言わず、
「万が一、何かないとも言い切れません」
夜は魑魅魍魎が跋扈する都。それが平安京だ。昼間はなりを潜めていた物の怪たちが精力的に動き出す夜間。
晴明は鼻先で刹影の言葉を笑った。
「この安倍晴明が徘徊するしか能のない物の怪なんぞに、不測の事態になるとでも?」
「そうは思いませんが」
「不要な心配だ」
晴明はそう切り捨てる。刹影はまだ何事か言いたげだったか、最後には沈黙を守った。
天文生という地位に甘んじているとはいえ、晴明の実力はすでに一人前の陰陽師たちと同等かそれ以上だ。
晴明ほどの術者をどうこうできる物の怪はそうそういないだろう。
「留守は任せた」
門の外に出れば、牛車は晴明が出てくるのを待っていた。もっとも、車を引くのは本物の牛ではない。牛飼童(牛車の牛を操る人)も人間ではない。全て晴明の式神だ。
見送りに来た四神たちに、短くそう告げると、晴明の乗った牛車は音も立てずに動き出した。
晴明は後から追う気配がないことを確認すると、懐に手を差し伸べる。取り出した霊珠はひんやりと指先を冷やす。
牛車は晴明が何も言わなくても、目的を既に知っているかのように勝手に道を進む。
表沙汰にはなってはいないが、噂というのは水面下で広がっていくものだ。
今回の事件をどれほどの人間が知っているのかは不明だが、恐らくは都の大半の人物が知っていると思ったほうがいいだろう。
寧ろ、保憲に聞かされるまで噂すら耳にすることがなかった晴明がおかしいのだ。
「行方不明・・・・・・死体さえ出なければ神隠しで終わるものの」
どうせやるならば、死体までしっかりと処分して欲しいものだ。
そうすれば、こんな面倒な事をしなくてもすんだのに。
名前も顔も知らない陰陽生が間抜けなことをしてくれたせいで、厄介なことになったとしか良いようがない。
被害にあったのが陰陽寮に関係する人間でなければ、晴明には回ってこなかった話だ。普通の陰陽師では解決できない。そう判断されたからこそ、晴明が指名された。
師匠は、晴明の実力を高く評価しているが、他の者はそうではない。
普段の晴明の顔しか知らないものは、重宝されている晴明の存在を疑問視している。師匠の囲み者という噂まであるくらいだ。
もちろん、そんなことを面と向かって言うやつにはそれ相応の報いを与えてやったが、心の内に思うことはまでは咎めるわけにもいかない。
晴明は今の地位に十分満足している。真面目にやれば陰陽師に昇格する事も容易いことではあるだろうが、そうなれば持ち込まれる厄介ごとが増えるだけだ。
ほどほどに働いて、生活に不自由しないだけ稼ぐのが一番良い。それが晴明の持論だった。
そんなことをつらつらと考えていると、不意に晴明は目を細めた。
手にしていた霊珠を通してある紐で首から下げて、狩衣の中に仕舞いこむ。
「止まれ」
音を立てることもなく、牛車は歩みを止めた。晴明は牛車から降りる。
生温い風を含む夜気が肌を撫ぜた。
晴明は牛車にここで待っているように告げると、一人歩き出した。
カサカサ、と風に紛れて微かな音がする。星明りだけの空の下、闇の中から見えざる手が招いているような錯覚さえする。
言いようのない不気味さが辺りに漂っているが晴明の足取りは軽い。
晴明の眼には視えている。塀や茂みの間からこちらを窺う無数のモノの姿が。ほんの少し、晴明がそちらに足を向ければ、音も立てずに去るであろう異形の姿が。
いかなる物の怪だろうと、晴明の行く先を遮る事は不可能だ。そんなことをすれば、瞬く間に排除される。
逆らうものには容赦しない。晴明が晴明である所以だ。
「おや」
晴明は足を止めた。
視界に飛び込んできたのは小柴垣に囲まれた邸。特に珍しくもなんともないが、なんとなく目がそこにいく。
長い間、手入れをされていないのだろうか。無遠慮に生い茂った草。虫の音がなんとも悲しげだ。
荒れ屋かと思ったが、最低限の手入れはされているらしく、朽ちているような印象は受けない。
晴明はその邸へと誘われるように近付いていく。
「おやおや」
晴明は思わず、楽しげな声を漏らした。
覗きこんだ門戸の向こう。茂った木立の間から人影が覗いている。
月のない夜だというのに、その姿ははっきりと目に焼きついた。
若い女がいた。おそらくは、美しいと知覚されるであろう女だった。
女は晴明に向かって微笑んだ。どこか儚げで、それでいて艶やかな笑み。
女は誘うように晴明を振り返りながら、屋敷の中へと姿を消した。
晴明は暫く考えた後、
「麗しき女性の誘いを断るのは失礼だしな」
後を追って屋敷の中へと入っていった。
凰扇は主のいない邸の縁側に座り込み、足をぶらつかせながら庭を眺めていた。
四神の中で唯一女性型をとる凰扇は、実際には四神の中で一番男らしく威勢が良い。
幾度か、からかい半分に天清と性別を交換したらどうかと、晴明が言っていたくらいだ。
その晴明は、今宵はどこぞの姫君のところにでも足を伸ばしている。
中身は兎も角、見た目はすこぶる良い晴明は相手に事欠かない。それでいてまだ北の方を持たないのだから、姫君たちが熱を持つのも分からなくはない。
もっとも、大した収入があるわけではない安倍家の北の方に本気でなろうというものがいるかは分からないが。
それ以前に、晴明自身も北の方として迎えるつもりはないようだ。遊びが激しいといえばそこまでだが、同じところに何度も通わない。
一夜か、二夜限りの付き合い。
そのうち、祟られるぞ、と言っても聞く耳はなしだ。晴明を祟るような根性のあるやつがいるとは思えないが。
しかし、晴明だってもう十八。兄弟子である保憲が奥方を迎えたのもこれくらいの歳だから、いつ、そうなってもおかしくはない。
凰扇は眉を寄せて考え込む。
そうなったときに、自分らはどうなるのだろうか。別にこの邸に住むわけではなかろうから私生活について変わることはないだろうけど。
そもそも、もし、晴明が奥方を作らず、そのまま老いて行ったら、必然的に老後の世話をするのは式神である凰扇たちではないか。年老いた晴明を想像するのは酷く難しかったが、いつかは老いて死ぬ。
人間は精々、百年余りしか生きることしか出来ない生き物なのだから。
「凰扇」
声を掛けられて首だけで振り返れば、歩み寄ってくる天清の姿が見えた。
「中に入ったらどうですか」
「いつもなら、入るなっていうくせに」
「それは貴女が土足で上がるからでしょう」
天清と凰扇は行動を共にする事が多い。相性が良いというのか、気が合うというのか。正反対に見える二人だがわりと仲が良い。
凰扇が室内に入ると、珍しい事に刹影が姿を現していた。
呼ばれたときと、必要があるとき以外は姿を現さないというのに。その理由はすぐに明らかになった。
刹影の膝に汐毘が乗っていた。大方、乗る膝が欲しかったので汐毘が呼んだのだろう。
四神が揃いで顔を合わせるのは久しぶりの事だった。
それぞれが、各々に相応しい仕事を晴明によって与えられているから一堂に会すること自体、数えるほどしか覚えがない。
床に胡坐を掻いて腰を降ろしながら、凰扇は落ち着きなく室内を見渡す。
天清もその隣に腰をつく。
主不在の邸の一室で、無言で顔を付き合わせる四神。
正直、この面子で話すことなどあまりない。晴明がいれば、あーだこーだと好き勝手に話題を提供してくれるのだろうが、主がいない今、話すような話題が何一つ思いつかないのだ。
四神の中でも比較的年長者である刹影と汐毘は、主不在を良いことにのんびりとしていた。しかし、若輩者とも言える二人は何となく落ち着かない。
刹影は黙々と汐毘の背を撫で続け、汐毘は垂れた尾を振る。凰扇は視線をさ迷わせ、天清は困惑したように何度も目を瞬かせる。
静かな沈黙を破ったのは濁ったような低い笑い声だった。
声の発信源は汐毘だった。汐毘は痙攣するように身体を震わしている。
「叔父上殿?」
膝の上で震える白猫に、刹影は不思議そうに首を傾げる。
不審な目を向ける他の三人に汐毘はうっすらと開いた目を向けて、
「いやいや、ちょいとあの時のことを思い出してな」
「あの時、とは?」
沈黙が破られたことに、ホッとしながら、天清が問いかければ、汐毘はさらに低く笑って、
「我々が式に下ったときのだ」
それは数年前の、けして忘れることはできない出来事。人間にしては長いとはいえないが短いともいえない月日。人外にとっては瞬きの間より短い一時(いっとき)前。
「随分と、変わった人間だとは思っていたがのぉ」
四神。四方を司る神。青龍、朱雀、白虎、玄武。
もとは大陸にいた自分たちが、なぜ東の島国に流れてくることになったのか。記憶に遠く思い出すことは出来ない。
人間のように過去を振り返ることはせず、長い時を生きる自分たちにとって忘却とは、今を生きるために必要なものだった。
だから、なぜ生まれた大陸を離れ、島国に辿り着いたのか。その理由を思い出そうとしても記憶には残っていない。
分かっている事は、自分たちは四体で一つであると言う事だけだ。
四神たちは、長い時をこの島国のとある聖地で眠るように過ごしていた。
安倍晴明が四神たちを目覚めさせるその瞬間まで。
「変わったっていうか。まぁ、確かに普通ではありませんでしたけどね。あの時の我が主は」
汐毘に同意するように天清が呟く。
四神はその名を示すとおり、一応は天津神として分類されている。そもそも、どこまでが天津神で、どこまでが国津神、或いはその他なのか、分類が既に曖昧だ。
かつて、この島国の国土を支配していたと言われる国津神は天津神に破れ、大半が眷属として統合された。それを良しとしなかった少数は祟り怒れる神と成り果て、狂気の塊として暴走した。
天津神に刃向かった国津神の末路は哀れだ。
力を根こそぎ奪われ、地を追われ絶望の縁へと追い込まれ。挙句の果て、祟り神として天津神に力を授けられた人間――陰陽師によって永久の眠りにつかされる。
神としての威厳と矜持を跡形もなく砕かれて。名も存在も忘れ去られていく国津神たち。
四神はこの東の島で天津神となり、国津神のようなことにはならなかった。
眠りについている間、幾人もの人間が四神を使役しようとやってきた。
だが、誰一人としてそれを果たすものはいなかった。数年前に一人の男童が姿を現すまでは。
「むしろ、あたい的には騙されたと思うんだけど?」
騙されたというより、詐欺に近いと天清は頷く。
まだ幼い童にしか見えなかった。成長途中の未発達の四肢。
どこか虚ろな眼差しとその小さな体を取り巻く異形の匂い。
己の血を制御することが出来ず、暴走しかけていた晴明は助けを求めて四神たちの前にやってきた。
そして、請い願ったのだ。今まで訪れた誰とも違う願いを。
「『時間をくれ』とはとんだ殺し文句よのぉ」
しみじみと、汐毘はその時のことを思い出す。
四神を欲し、尋ねてくるものはたくさんいた。だが、その誰もが「力」を求め、「強さ」を欲した。
その中で、晴明はただ「時間」を求めた。人間が生を受けていられる僅か百年足らずの短い時間。それを自分にくれと。
供に時間を過ごして欲しいと請い願った。
その願いを了承したのは、物珍しさと単なる気まぐれだったのか。そのときの、自分たちの思考を四神たちは良く覚えていない。
だが、この幼い、人間のために百年足らずの時間を捧げようと思ったことは間違いない。
神に名を連ねる四神はその瞬間から、一人の人間のものとなったのだ。
しかしだ。
見た目とそのときの雰囲気に騙されたと、言えなくもない。
まるで、手の平を返すように、主となった晴明は傍若無人と成り果てた。
あのときに晴明の言動が全て演技ではないかと思われんばかりの豹変振りに、戸惑っていられたのも最初だけ。
いつの間にか、天清は家事一般を習得し、凰扇は庭仕事を覚えた。
覚えなければ、晴明が出す命令を果たす事ができなかったのだ。
あれから、早数年、すっかり四神たちは人間の生活に馴染んでいた。
「選んだのは、わしらだからのぉ」
一度、主従となれば全権は主のものとなるが、誰に従うかを決めるのは式神側だ。安倍晴明を主とすることを選んだのは他でもない自分たちなのだ。
「まぁ、今日は、晴明は出かけとるしのぉ。ゆるりと過ごすか」
たまの休日だと思えば良い。我が儘な主がいない間の束の間の休息。
尾が弧を描く。
それに反対するものはいなかった。
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