はらり、はらりと舞い散る梅の花。
季節は日和暖かな春。
きちんと手入れされた庭には新緑が宿り、梅の花から季節を携えた雑花まで、庭に華やかさと鮮やかさを提供している。
しかし、我先にと咲き誇る花々と比べ、邸の中は寂しいほど殺風景だ。
豊かでもなければ、特別貧しくもない。邸の中には余計なものはないが、必要なものは最低限揃っている。
その余計なものの中には人間も含まれているのだろうか。
静かだった。時折、聞こえてくる鳥の鳴き声以外の音はしない。
そもそも、この邸には生き継ぐ生命の気配がないのだ。
保憲はひっそりと息を漏らした。生き物の気配が遠いこの屋敷で、ただ一人暮らす弟弟子。自分以外の生き物はいない。いるのは忠実な式神たちだけ。
保憲だったら、こんな環境は耐えられない。
賀茂の邸は常時十数人の人間がいる。どんなに口を閉じていようとも、生き物が発する音や気配が絶える事はけしてない。
だが、ここはどうだろうか。まるで全ての生き物が死に絶えたかのように静まり返っている。
普通の邸ならば常に人の出入りが多少なりともあるというのに、この邸ではそんな当たり前の光景さえ見ることがかなわない。
そんなおかしな環境に弟弟子はもう数年いるのだ。
父親が死に、ただ一人で屋敷を守る事を選んだ晴明。その理由を何度問いても、適当にはぐらかすだけで、その本心を明かしてはくれない。
人と距離を取ることに何の意味があるのか。保憲には晴明の行動が少しも理解できなかった。
それが少し寂しい。が、無理に口を割らすことができないのは分かっている。
「それで……?」
扇で口元を隠しながら、晴明は話を促す。
はっ、と我に返り、保憲は晴明に視線を戻した。
物思いにふけるために尋ねてきたわけではない。居住まいを正し、口を開く。
「では、順を追って話そう」
話は数ヶ月前まで遡る。
とある祝いの席から自邸に戻る途中で一人の男が行方を晦ました。
最初は誰も男の失踪に気付かなかった。男はそれほど高い役職についていたわけではなかったし、通う女はいたが妻はいなかったからだ。
男の失踪は噂になることさえなく、そのうち、ひょっこり顔を出すだろうと誰もがそう疑いもなく思っていた。
だが、それから数日後、男は屍となって発見された。
干物のようにやせ細り変わり果てた姿は大路の隅で発見された。身に着けていた持ち物から辛うじて身元が判明したのだ。
死体の状況から、これは人の仕業ではあるまいと、すぐに陰陽寮に調査以来が舞い込んだ。
それが冬の始めの話。
「おや、その話は耳にしたことがありませんね」
「当り前だ。お前が物忌みだ、なんだって出仕してこなかった時期だからな」
実際には、寒さのあまり寝床に居ついていただけなのだが。ただでさえ、寒さ暑さを嫌う晴明が自邸に籠もるのは最早、毎年のことと化していた。
もっとも、まったく出ないというわけにもいかず、何度か無理やりに保憲が引っ張っていったこともある。
よって、そんな状態だった晴明が、その頃の陰陽寮内のことを知るはずはなかった。
話が逸れた事に気付き、保憲は一つ咳払いをした。
「ところが、いくら調べたところで何も出ず、それほど身分の高い人物ではなかったからな。早々に調査は打ち切られた」
ただでさえ、陰陽寮は年がら年中忙しいのだ。一つの事件にそれほど人件を割いて入られない。
ましてや、いてもいなくても同じ人間に関することなど、お上も強く気に留めたりはしないだろう。
「しかしだ。それから、暫くして、また同じ事がおきた」
今度の被害者はそれなりに身分の高い人物だった。
どこかで、圧力が掛かったのだろう。お上は至急、事件の究明を要求してきたが。
「解決どころか、手がかりさえ掴めぬまま、被害者は増え続け、今分かっているだけで五人が犠牲になっている」
五人も犠牲になっているというのに何も掴めていないとは陰陽寮の沽券に関わる事態だ。さらに、
「そのうちの一人は陰陽寮に属する陰陽生だ」
兄弟子の言葉に、晴明は事情を悟って扇の内側で息を吐いた。
まさに一大事だ。陰陽寮に属する人間が解決に導くどころか犠牲者になるなんて目も当てられない。
「……間抜けだな」
「そう言うな」
確かに間抜けな話だが、陰陽寮の存在意義に関わる話でもあるのだ。
「それで、我が師匠殿は、陰陽生までもを殺してしまう悪霊の退治を可愛い弟子にやらせようと言うわけですか?」
ここまで言われれば、晴明とて意図が理解できる。
陰陽寮の威信にかけて、どうしても解決しなければならない事件。その解決のため、賀茂忠行の二番弟子である晴明に白羽の矢が立ったのだ。
内密だと言うから、どれほどのものかと思えば、結局は身内の後始末を押し付けられただけ。
晴明は嫌そうな顔を隠そうともしなかった。
保憲は晴明の発言に首を傾げて、
「悪霊、とは限らないのではないか」
悪霊、怨霊。
どちらも、人間の念、および死後の魂が歪んだ時に生まれるものだ。
それらは悪意を持ち、人を襲い、清浄なるものを穢す。
物の怪よりも質が悪いとは師である忠行の言葉だったか。
晴明は首を竦めて、
「悪霊以外にいるものですか。そんな干物を作るようなやり方。物の怪なら骨までちゃんと片付ける。それに――」
呆れ果てていたような声が、不意に真面目な色を宿す。
「人を乾物に仕立て上げるような、汚い喰らい方をするのは、悪霊――怨霊しかいないでしょう。……人間とは死してなお、穢れた生き物といえますね」
その声に自嘲が混じっていた事に保憲は気付けたのか。
保憲は首を振って、
「怨霊でも物の怪でもどちらでも良い。兎に角、これ以上、被害が拡大しないようにしなければ」
「なんなら、兄上に譲りますが」
「生憎、私は他に仕事があるのでな」
晴明が事件解決に動くのはすでに決定事項らしい。
保憲は小さく笑みを零して、
「出仕しないのであれば、これくらい引き受けるのは当然だろう」
さぼったツケは思ったよりも大きかったようだった。
晴明の母親は、信田狐であると噂されている。
一部のものは軽い冗談として、一部のものは密かに囁かれる事実として認識している。
実際にどうであるかは、当人である晴明さえ良く分かっていない。なにせ、母親が姿を消したとき、晴明はまだ幼い童だったのだから。
ただ、母親の姿と白い狐が重なって見えたような記憶は、僅かながらある。それが周りから話を聞くうちに晴明自身が作り出した幻想なのか、それこそ歪みない事実なのかは分からない。
だから、母親は狐なのかと問われても晴明に答えることは出来ないし、その答えを知っているだろう人物は生死さえ定かではない。
事実として、晴明が得ているものは、父親が母親を確かに愛していたということ。でなければ、どうして母親がいるときも、いなくなったあとも通い所を作らなかったのか説明がつかない。
それともう一つ。晴明の手に確かな形として残ったもの。
親指大の水晶玉。
母親が幼き頃、晴明に託したもの。
それには強大な霊力が宿っていた。
――霊珠と呼ばれるものであることを知ったのは忠行に弟子入りしてからだ。
霊珠は、晴明にとって自分と母とを繋ぐ唯一の接点だった。
保憲が帰ったあと、晴明は脇息にもたれて物思いにふけっていた。
天清には保憲の見送りを頼み、汐毘は散歩からまだ戻ってこない。
凰扇は指示通り、薪を割るための木材を調達しに行ったに違いない。
安倍邸の敷地内にいるのは、細かな仕事を請け負う、弱い式神たちだけだ。それも、強い自我を持つほどでもない。
しん、と静まり返った邸内は、相変わらず生き物の気配が遠い。
晴明は手の中で霊珠を転がしては摘まむ事を繰り返していた。
最初に異変を感じたのはおそらく、父親が亡くなった直後だろう。
死の気配が満ちる邸内。病に床臥していた父は呆気なく冥界に旅立った。
その死に煽られたのかも知れない。
晴明は自分の中で何かが暴れ始めたのを感じ取った。
狐だという母親から受け継いだ異形の血が本性を見せ始めたのか。
日増しに強くなるそれ。
生きる血肉を爪で、歯で食い破りたいと言う欲求。
邸に働く者に危害を加える前に――晴明は全ての者に暇を与えた。
その頃、すでに忠行には弟子入りしていたが、このことは師匠にはもちろん、兄弟子にも話すことはできなかった。
幸いにも唯一の肉親の死に打ちひしがれているのだろうと、周りが距離を置いて接してくれたおかげで晴明の変化に気付くものはいなかった。
だが、それは少しずつ確実に晴明を蝕んでいく。
このまま、人としての道理を踏み外すのか。
血肉を貪る異形の化け物と成り果てるのか。
晴明はそれを良しとはしなかった。人間以外に成り果てるものかと、全力で抗う決意をしたのだ。
いくら手で霊珠を弄んでも、霊珠はけして晴明の手の熱を移さない。
ひんやりとした感触が指の間を蹂躙し、手の平に落ちていく。
幼い頃はそれが不思議でたまらなかったが、この中に宿る霊力がそうさせるのだと、成長とともに悟った。
「お前たちにとって僅かな時間だ」
晴明は請いた。光り輝く天上に向かって。
「たった百年。僅かで些細な時間だ」
自分が自分であるために。足元に流れる水面にひれ伏して。
「その僅かな時間をどうか」
揺ぎ無い信念を持って。自分を取り巻く光に捧げて。
「この安倍晴明に――」
母と父が繋いだこの命を生かしたいと。
――願い請いた。
『了承した』
イカヅチのように響いた声が、晴明を救った。
身の内に荒れ狂う人外の血を抑えるには、その力の受けどころを作ってやればいい。
晴明は四神を従える事で、人ならざる血を抑えることに成功したのだった。
あれから数年が経った。
人ならざる血は、あれ以降暴走することはなかったが、それでも不安は拭えない。できれば、何事もなく平穏に過ごしていたいのだが。
忠行の弟子である以上、そうも言って入られない。
断ることも不可能ではないが、ここらで一仕事しておかなければ、師匠の顔も立たないだろう。
「面倒だが、致し方あるまいか」
晴明は庭に視線を投げ出す。
舞い落ちる梅はすでに見頃を過ぎている。春は音もなく静かに過ぎ去ろうとしている。
季節は、時間は人間のことなどお構い無しに時を刻んでいく。
父は良く言っていた。
母はあの梅の花が好きだった。花が咲き誇っては零れる春を愛し、色とりどりに葉が染まる秋を愛したと。
死の間際も、そんな話をしていた気がする。
父の中では母は今も生き続けていて――もちろん、生死不明なので実際に生きているかもしれないが――父にとって母は唯一の人だったのだろう。
『晴明は、春秋からとったのだ』
安倍童子と呼ばれていた頃から、すでに元服したときの名を与えられていた。
はるあきと書いて晴明。霊珠とともに晴明に残されたもの。
晴明だけが持っている特別なもの。
父親の死後、晴明に残されたものは邸だけだったが、賀茂の親子の支援もあって生活も落ち着いている。
最初は荒れ狂う力の捌け口であったはずの四神たちは晴明の良い手駒となってくれているし、一石二鳥で得した気分である。
あとは適度に仕事をこなせば、平穏無事な人生だ。
「……さて、どうするか」
晴明は暫し、考え込むように俯いた。
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