陰陽記伝
平安陰陽記伝


1章「安倍晴明」 訪人
 
  

 安倍晴明は多くの式神を持つ。
 それは鬼であったり、物の怪であったり。様々な姿形をしたモノたちが晴明に従っている。
 その中でも、とりわけ、晴明が重宝している式神たちがいた。


 安倍邸宅の家事一般を取り仕切る天清(てんせい)。
 晴明の随人(護衛)であり、時に影武者を務める刹影(せつえい)。
 力仕事を得意とし、舎人(下級の官人)や雑色のように雑事一般を引き受ける凰扇(おうせん)。
 晴明の良き相談相手であり、白い猫の姿をとる汐毘(せきび)。
 そして、彼らは時に別の名でも語られる。
 青龍、玄武、朱雀、白虎。人の手の中に式に下った四神。
 天の四方の方角を司る神として。


 さらり、と指の間を零れる黒い髪。艶やかな黒。いかなる美姫でも、これほどまでに美しい髪を持つ者はいないだろう。
 長い髪は床の上まで流れ落ち、その様子はまるで崖を流れる滝のようだ。
 櫛がその髪を梳いていく。僅かな乱れさえも許さないと言わんばかりに、幾度となく櫛が髪を撫でていく。
 希望通りに、早めの食事を終えた晴明は、ゆったりと脇息にもたれて寛いでいた。
 その髪を梳くのは天清だ。晴明の背後に回り、傍らに櫛箱を置いて慣れた手つきで髪を梳いていく。
 晴明は片方の手で膝に乗せた白い猫――汐毘を撫でていた。
 汐毘は喉を鳴らして、主の愛撫に応える。
 晴明の歳で髪をこれほどまでに伸ばしていることは珍しい。
 晴明曰く、童子と女の性を取り入れ、中性的であることで霊力が増す。さらに髪は神に通じるもの。というのだが、真相は不明だ。
 天清に髪の手入れをさせ、片方の手で絹のような触り心地の毛皮を堪能しながら、もう一方の手の内で晴明は何かを弄んでいた。
 きらり、と光を反射する球体。
 親指大の水晶玉がその手に握られていた。水晶球は金属の枠にはめ込まれた上に紐が通され、首から下げられるようになっている。
 晴明は特に物に固執することはないが、この水晶玉だけは別で、良く指先で遊ばせていた。
 こういうときの晴明は何か物思いにふけているときだ。下手に声を掛ければ機嫌が悪くなるだけでなく、理不尽な難癖をつけられかねない。
 だから、天清は一言も発する事もなく、黙々と手を動かし続けていた。
 穏やかな時間。
 こうして、落ち着ける時間が天清は好きだった。だが――。
「せいめー、せいめー」
 喧しいほどの大声が響いたのはその時だ。
 天清はぎくり、と身を硬くし、汐毘は薄らと目を開けて尾を立てた。
 呼びながらこちらに向かってきているのか、段々とその声が大きくなってくる。
 晴明は小さな溜息を漏らす。水晶玉をそっと懐に入れると、代わりに人型に切った符を取り出す。
 そして、慈しむように指先で表面を撫ぜた。
「せいめー、起きてるんだろ!」
 乱暴に御簾がめくられ、声の主が頭を覗かせた。吹き込んだ風が晴明の髪を揺らす。
 その瞬間を計ったように、手から符が放たれた。
 晴明の手から離れた瞬間、その符は赤黒い小鬼へと姿を変える。
 質量を感じさせることなく、小鬼は宙を飛んだ。
 小鬼は狙い違わず、不届きな侵入者の顔にぶち当たり、思わぬ出迎えを受けた声の主は、呻き声に似た悲鳴を上げて御簾の後ろへと倒れこんだ。
 硬い物にぶつかる音が響き渡る。
 恐らくは、勢いを殺すことが出来ず、そのまま縁の外まで転がり落ちたのだろう。
 大きくはためいた御簾は、やがてまた元通りに静まり返る。
 天清は冷や汗を掻きながら、主の動向を窺い、汐毘は素知らぬふりを決め込んだ。
 晴明は何事もなかったかのように、再び汐毘の毛皮を撫で始める。
 再びの静寂。
 ふと、晴明は後ろを振り返り、
「手が止まっている」
「えっ……も、申し訳ございません」
 晴明の言葉に慌てて、櫛の動きを再開させる。
 小鬼をぶつけられた者のことはもちろん心配だが、進言するような愚かなことはしない。あれくらいで怪我をするほど柔ではないはずだ。だから大丈夫。
 余計なことを言えば、次に標的になるのは自分だ。晴明の容赦のなさは我が身を持って知っている。天清は心の中で見捨てた友に謝罪した。
「……っ、いきなり、なにしやがんだい!」
 ガタガタ、と物音が響き渡った。
 引き剥がさんばかりに御簾が揺れ、叫びと共に顔を覗かせたのは若い女性だった。
 最初に目に付いたのは、燃えんばかりの朱色の髪。鮮やかなその色は、目に強く焼きつく。丈の短い朱色の縫腋袍に、髪には扇を模った髪飾り。袴などは身に着けておらず、白く細い足がむき出しになっている。長く垂れた裳が足元に纏わりついては離れていく。
 女性が肌を見せることは下品だが、この邸では気にするものはいない。
 容姿は整っているが、言動は男勝りを通り越して乱暴だ。天清と性別を入れ換えたほうがしっくりくるだろう。
 晴明に従う式――凰扇は小鬼を当てられ赤くなった鼻を手で押さえながら晴明に詰め寄った。
 晴明は土足で入り込んできた凰扇を咎めるどころか、不思議そうな表情を浮かべた。
「なに、とは?」
「すっとぼけんじゃないよ! 今、小鬼を……」
「小鬼とは?」
「これのこと……」
 声を荒げ、凰扇は手で掴んでいたはずの小鬼を指し示したが、そこにあるのは人型をした一枚の紙切れだった。
 符を式神として小鬼に変じさせただけ。晴明の意思でいかようにも出来る。
 晴明はどこからか取り出した扇で口元を隠しながら、してやったりと言わんばかりにひっそりと笑った。
 みるみる内に凰扇の顔が真っ赤に染まり、硬く握り締めた拳が震えだす。
「このくそたれ晴明!」
 符を晴明の目の前に叩き付ける。ひらりと、舞った紙切れはその衝撃で無残にも引き千切れた。
「生憎だが、幼少時を除き、桶殿(ひどの・便所)以外で用を足した覚えはない」
 涼しい顔で晴明は言い切る。
「うっせぇ、だいたい、言いたいことがあるなら、モノを投げる前に口で言いな!」
「口で言って、分かれば苦労しないのだが」
 やれやれ、と首を振って嘆く晴明に、凰扇は唇を震わせた。
 再び、怒鳴り声が響くかと思われたそのとき、
「何か用があったのではないかの」
 汐毘が口を挟んだ。
 凰扇は晴明が休んでいるときに顔を見せにくることはない。わざわざ来たからには当然理由があるはずだ。
「あー、そうだ。客だ。客」
 凰扇は、忘れていたと手を打つ。
「晴明の兄弟子の……なんてったっけ?」
「保憲兄が?」
 晴明が訝むように眉を上げた。
 賀茂保憲は晴明の師である賀茂忠行の息子である。晴明より四つ年上で、兄弟子であると同時に良き話し相手でもある。
 現在、晴明に姿替えをした刹影が出仕している。刹影が扮した安倍晴明は、天文生として勉学に励みつつ仕事をこなしているだろう。
 四神の一柱。北の玄武こと刹影の姿替えを見破るのは困難極まりない。
 一緒に仕事をしている天文生はおろか、師である忠行でさえも余程条件が良くなければ見破ることは不可能だろう。
 もっとも、刹影がそんなヘマをするとは到底思えない。
 ならば、なぜ――。
 主不在ということになっている邸に、兄弟子である賀茂保憲が来ると言うのはおかしなことだ。
 晴明は暫し、考えに暮れていたが、結論が出るわけではない。
「待たせては悪い。通せ」
「了解」
 凰扇は頷くと、保憲を招くために御簾の向こうに出て行った。



 さすがに寝着のままでは不味いと、晴明は身支度を整える。
 兄弟子はきっちりと狩衣を纏い、凰扇に連れ立たれて姿を現した。
 四つしか離れていないと言うのに、もっと離れて見えるのは保憲が二十二歳という若さのわりに、あまりにも落ち着き払って見えるからか。
 それには保憲が賀茂家の跡継ぎであると言う事に関係しているのかもしれない。
 締まった顔立ち。柔和な眼差しは優しい。それでいて、物腰は堅苦しいほどにかたい。
 保憲はなぜかそっぽを向いたまま、入室してきた。晴明の姿を認めるとどこかホッとしたような顔を覗かせる。
 晴明はその理由を直ぐに察した。口元を扇で隠すと、対面に座った兄弟子に挨拶の前に一言。
「ご心配なさらなくても、凰扇はすぐに下がらせましょう」
「はぁ? なんであたいが……」
「女とは肌を晒さぬもの。それが常識」
 晴明の口から常識と言う言葉が出るとは――と思ったのは凰扇だけではないだろう。
 凰扇は、すらりと長い足を隠すことなく剥き出しにしている。慣れている晴明と違って、普通の都人は凰扇の格好を直視するのは無理だろう。
「兎に角、下がれ」
「……了解」
 どこか、釈然といかない様子ではあるが、凰扇は命令に従う。凰扇が姿を消すと、保憲はどこか安堵した表情を浮かべた。
 その様子に晴明は意地悪く笑みを零し、
「それにしても、兄上も意外と初心(うぶ)なところがおありのようで」
「生憎、お前と違って浮気性ではないのでな。北の以外の肌を見ようとは思わん」
「おや、惚気ですか?」
 保憲はすでに北の御方を迎えている。保憲は、妻を大事に思っているのか、今はまだ他に通うところは作っていない。
「お前もそろそろ、どうなんだ?」
「さぁ、どうでしょうね」
 話しを振られても晴明はのらりくらりと躱す。
 邸の中では式神を尻にひいているが、一歩外に出れば、麗しき貴人として優雅な立ち振る舞いを見せている晴明である。
 その姿に恋焦がれる姫君も多いだろうが、晴明自身にその気はないらしい。
 遊び程度ならば、そこそこしているようだが、通うほど頻繁に出入りしているところはない。
 公私共に付き合いがあり、実の弟のように晴明のことを思っている保憲は自由気ままな晴明を心配していた。
 外では社交的に振舞っているように見える晴明だが、安倍邸に仕えるものに人間はいない。この邸にいるのは全て晴明の式神。父親が亡くなったときに、それまで仕えていた者に全て暇をだしたのだ。
 意外と人嫌いの節がある晴明は、人との関わりを厭うところもある。
 それが出自によるものなのかは分からないが。
 くどく言ったところで、馬の耳に念仏。
 それに今日はその話をしに来たのではない。
「晴明。いくら式神が便利だからと言って、代わりの出仕は感心しない」
「おや。よく気付きましたね。刹影の姿替えは完璧なはずですが」
 なにか失敗でもやらかしたのか。天清や凰扇と違って、ばれるようなことを刹影がするとは思えないのだが。
「完璧すぎだ。文句を言わずに、黙々と仕事をしているなど。周りの者が始終空模様を気にしていた」
 無意識に声を潜めて保憲が言う。
 晴明は目を丸くした。仕事を任せられれば、文句の一つや二つ、言わずにはいられないのが晴明である。或いは、こっそりと抜け出して仕事をさぼることも多々ある。そんなことをするから、陰で色々言われたりするのだろうが、本人が気にしない以上、陰口も意味をなさない。
 また、晴明の行動が目に余ると咎めた者は、その夜に奇怪な出来事に会うのだと、まことしやかに噂されている。
 晴明だったら式神の一つくらい腹いせに放っていそうだが、真相は闇の中だ。
 その晴明が、今日は真面目に仕事をしている。明らかに異常事態だ。
 真面目な晴明を目にした者たちは、天が崩れるのではないかと空を見上げ、或いは体調が悪いのではないかと心配そうに様子を窺っていた。
 晴明の式神について多少なりとも知るものは、それが影武者であることを悟って、怒りを通り越して呆れてものが言えない様だ。
 その少数派である保憲は晴明本人が邸にいることが分かっていたので、こうして出向いてきたのだ。
「全く、お前というやつは……」
「式神とは我が手足」
 だから、問題はないと涼しい顔で言われては反論する気力もそがれる。
「失礼します」
 天清が一礼して室内に入ってきた。
「どうぞ」
 天清が差し出したのは麦湯だ。保憲は短く礼を言い、晴明は当然のように受け取る。
「それで、まさか小言を言いにいらっしゃったわけではありませぬよね」
「無論。本当は陰陽寮にて話そうと思っていたのだが」
 昨日、用を申すから、師匠のもとに来るように言われていた事を晴明は今更に思い出した。
「おや、わざわざ兄上を遣いに出すとは。それほどに重要なことで――」
「内密に処分すべき事だ」
 その言葉に、晴明はスッと目を細めた。保憲の目を覗き込み、まるでその真意を探ろうとするかのようだ。
「……天清」
 静まった部屋に声が響く。
「薪を割っとくように凰扇に告げて来い」
「えっ? あ、でもまだ薪はたくさん……」
「行け」
 有無を言わせぬ口調。
「……分かりました」
 晴明の突然の命令に天清はうろたえながら従う。天清の姿が消えると、晴明は膝の上の汐毘に目をやり、
「汐毘……」
「良い日和じゃ。日向ぼっこでもしてくるかのぉ」
 よっこいせ、と汐毘は晴明の膝から降りる。欠伸と共に身体を伸ばしてから御簾の向こうへと出て行った。
 天清と違って、こういうときは気が利くと、晴明は素直に感心する。
 保憲は眉を顰めて汐毘が出て行った御簾の向こうに視線を向けた。
「なにも人払い……式神払いをしなくとも。彼らはお前の式だろう」
「内密の話は知るものが少ない方が良い」
 だとしても、式である彼らが不利益なことをもたらすことはないだろうに。そうは思ったが、晴明なりの考えがあるのだろう。
「それで、内密に処分すべき事とは?」
 晴明の問いかけに、保憲は一拍の後、口を開いた。



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