釜戸の火がぱちりと弾け、赤い軌跡を描いた。
パタパタ、と足音を立てて厨の中を忙しく動き回る。
青い髪の一房が跳ね上がり、揺れる衣の袖が宙を薙いでは、はたり、と落ちる。一時たりとも動きを止めることなく、釜戸に近付いては鍋を覗き込み、炉に近付いては五徳に入れた水の加減を見る。
月がまだ天上にある頃から休むことなく、動き回り続けていたが、不意に足を止め、外を見上げた。東の空が徐々に白み始めている。夜明けは近い。
「そろそろ、起床の時間でしょうか」
本日の主人の予定を思い浮かべながら、厨から表へと姿を消した。
時は平安。
貴族の華やかさの裏側に、魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)し、怒れる神々が野草に宿る。
日が高い頃は、地上は人の天下と化し、夜の化身が空に昇る頃は、形なきものたちが蠢く巣窟と化す。桓武天皇が築きあげた二つの顔を持つ魔都。
その平安京の左京、土御門大路からは北、西洞院大路から東にある邸。言わずもがな、安倍晴明宅である。
後に稀代の陰陽師と謳われる安倍晴明だが、賀茂忠行によって才を認められ、晴明が弟子入りしたのが十三の頃。今はまだ十八を過ぎたばかり。
中務省陰陽寮に属する天文生ありながら、すでに陰陽師として相応しい素質と能力を備えていると一部では噂されていた。
長く伸びた春空を思わせる蒼い髪に同色の瞳。顔の脇には赤い角のようなものが覗く。髪の間から青色の龍の尾が見え隠れする。
一見すると麗しい女に見えなくもないが、その身体の特徴は人間のそれではなく、また、どんなに麗しく見えても、彼は男だ。
人間の青年の姿をとる天清は安倍晴明に従う式神の一。すなわち、人ならざるもの。
そして、安倍邸宅内では主の衣食住を管理する女房の代わりを務めていた。
「主、我が主。起床の時間です。起きて下さい」
天清は、そっと、戸を開け寝所へと入った。主人を毎朝起こすのは天清の役目である。部屋の中は薄暗い。日の光を入れようと御簾をあげる。差し込んだ淡い日の光の中、こんもりと山を作る寝床。
頭まですっぽりと中にしまい込み、黒々とした髪が縦横無尽に広がっている。まるで、蜘蛛の巣だ。寝相が悪いのは今に始まったことではない。
「我が主、起きないと寝坊なさりますよ」
寝床の傍らに膝をつき、再度、声をかけるが反応はない。小さく息をつくと、その山に手を伸ばした。
「主、今日は賀茂殿に用を遣っているとおっしゃっていたでしょう」
軽く揺さぶりながら起床を促し続けていると、もぞもぞと山が動いた。
どうやら、目を覚ましたらしいと天清は判断したが。
手が、寝床の中から這い出てくる。日にあまり当らないせいか、色が抜けたように白く細い指先。それが、天清の腕を掴んだ。ぎょっとしたのも束の間、強い力で引き寄せられ前のめりに倒れこむ。強か、顔を床に打ち、天清は小さな呻き声を上げた。
「ある……」
思わず吐きかけた文句は喉の奥で消えた。
切れ長で涼やかな双眸が、天清を覗き込んでいた。寝ぼけ眼に霞んだ眼差し。黒々と艶やかな髪が、さらりと流れ細やかな顔を縁取る。白々とした頬は寝起きのためか僅かに紅潮している。
安倍晴明が、天清を見ていた。
容姿だけなら、人ならざる美貌をもつ天清の方が整った容姿をしている。
だが、瞳には幼子のような悪戯めいた光が宿っているというのに、浮かぶ笑みは悟りきった老師のごとく。人好きする容貌でありながら、人を寄せ付けることを否とする気配を纏い、それでいながら目を放す事を許さない何かが晴明にあった。
「……天清」
柔らかな声が耳を打つ。滑らかな響きは心地良い響きを醸し出す。ふ、と麗人は笑みを零した。
その笑みに思わず、見惚れる。形のよい口元がさらに角度を持って吊り上げられる。
額に何かが叩き付けられたのはその瞬間だった。
「……っ!?」
衝撃と共に悲鳴ならぬ叫びを上げて天清は飛び離れた。ごとり、と転がる切燈台。それが額にぶつけられたのだと、天清がすぐに理解できたかどうか。
そして、それを投げつけた張本人と言えば、半身を起こすと大きな欠伸を漏らす。寝癖がついた長い黒髪を指先で掻き分け、眠たげに目を細めた。
「……いきなり何するんですか!?」
天清は額に手を当てて、弱冠、涙眼になりながら訴える。起床を促しに来ただけというのに、あまりにも酷い仕打ちとしか言いようがない。
「なにがだ」
「なにがって。我がある……わっ!?」
切燈台の次は枕。天清は飛んで来た枕を咄嗟に躱す。寝起きで機嫌が良かった試しはないが、今日はいつなく、攻撃的だ。すると、
「お前は頭が悪いのか?」
しごく、真面目な顔でそう言われ、天清は押し黙った。寝ぼけているのかと思ったが、晴明は真剣な表情だ。己の主に愚か者呼ばわりされるのは、式神としては黙っていられない。そもそも、切燈台と枕を投げたあとに今の発言とは、全く意味不明だ。
「あの……我が主?」
「まただな」
やれやれと言わんばかりに頭が振られるのを天清は首を傾げて見やるしかない。
「その頭は飾りか? それとも腐った水でも入っているのか? いい加減何度言ったら分かるんだ? 犬畜生だって一度言えば分かると言うのに……」
物凄く馬鹿にされていることは分かるのだが。その発言がどこから来るのか分からず、天清は唖然として晴明を窺っている。
晴明は、首を傾げている天清を鼻先で笑った。
「この安倍晴明は『我が主』などと言う名になった覚えはない!」
「……いえ、あの、確かにそうですが」
不機嫌を露わにする主人に天清はうろたえるばかりだ。
つまりだ。切燈台と枕を投げたのは天清が「主」と呼んだからか。
安倍晴明は己の式に「主」と呼ばれることを嫌う。「晴明」と呼ぶように強制するのだが、式神としての常か。どうしても「主」と呼びたくなるのだ。
「晴明……そこまでにしたれよ。東の王は人の名に慣れておらぬのだ。多めにみてやれ」
しわがれた声が鼓膜に届く。寝床が膨らみ、もそりと顔を出したのは青縞のある白い猫だった。小さく身体を震わせると、丸い目で天清を見上げた。虹色の虹彩が天清を映し出す。
猫は小さな口を精一杯開けて可愛らしい欠伸を漏らした。それから、さも当然とばかりな顔をして晴明の膝にあがる。
天清は拳を震わせた。
「虎の上殿! 何度言ったら分かるんですか! 主と同衾など式神としてあるまじき……」
「お前こそ、何度言ったら分かるんだ?」
冷やりと言葉が背筋を掠めた。
視線を向ければ、艶やかに笑む晴明の顔があって。だが、その笑顔を額面通り受け取るほど、天清も愚かではなかった。
しまったと思っても一度出た言葉は取り消せない。言われたばかりだと言うのに同じことを繰り返せば、愚か者扱いされても仕方ないだろう。
しどろもどろになって弁解を試みるが、爽やかな笑顔が容赦なく刺さる。
白い猫が小刻みに身体を震わせる。どうやら、笑っているらしかった。天清は恨みがましい視線を思わず向ける。
「……それで、晴明。出仕の支度をなさらないと」
なんとか話を逸らそうと試みる。
出仕までの時間が迫っている。なにかと支度には時間が掛かるものだ。
筆頭陰陽師として名高い賀茂忠行の弟子とは言え、天文生としての仕事があるのだ。ただでさえ、贔屓目に見られていることで色々と陰口を叩かれているというのに、遅刻などすれば、さらに何かと言われることは確実だ。
たとえ、当の本人である晴明が気にしなくても、天清は主の評判が落ちるのには見てみぬふりは出来ない。
だが、晴明は口の前に手を翳し、大きな欠伸を漏らした後、猫を傍らに抱きなおし再び寝床へと戻っていく。
「なぜ、寝るんですか!?」
支度をしなければならないことは分かっているでしょう。噛みつかんばかりの勢いで天清は詰め寄るが、
「……刹影(せつえい)」
天清の問いに答える代わりに、寝床の中で晴明が小さくその名を呼ぶ。
風が吹いた。御簾を揺らし、天清の髪を舞い上がらせる。
枕元に一人の男が膝をついて頭を垂れていた。つい、一瞬前には影も形もなかったというのに。
姿を現したのは、これまた麗しい美貌を持つ青年だった。夏の木の葉を思わせる濃い緑の髪。その上に乗せられた烏帽子と、作法通り、きちんと纏われた狩衣。一見すれば、品の高い都人以外には見えないが。
彼もまた、晴明に使える人ならざる存在――式神であった。
髪の色と同じ色の瞳が無言で用件を問いかける。晴明は口元を吊り上げた。
「任せた」
ただ一言。それ以外に余計な言葉を連ねることはない。
刹影と呼ばれた男は無言で頷いた。
「任せたじゃありません! 玄武殿も黙って頷かないで下さい!」
言葉少なの命令を遮るように、叫びが割り込んだ。
この場合の任せたとは、代わりに出仕しろと言う事に他ならない。式神が主のふりをして出仕など、どんな陰陽師もしたことがないだろうが、晴明は今までに幾度か、自分の代わりとして刹影に行かせていた。
声を荒げて咎める天清に、寝床から再度起き上がった晴明は穏やかな笑みで告げた。
「黙れ、半魚人」
「は……は、んぎょ?」
丸くなっていた猫が激しく咳き込んだ。思わず、むせたらしい。天清は目を丸くして、晴明を見やる。半魚人とは、天清を示したものだろうが。
晴明は表面上、にこやかな笑顔を浮かべている。
「お前たちの主は誰だ?」
晴明は言う。笑みながら言う。
「お前たちの主は、この安倍晴明に相違ないはずだ。ならば、主の命には従え。口出しも意見も許した覚えはない」
傲慢とも言える言葉が揺ぎ無い言霊となって天清を襲った。
天清は唇を固く閉ざした。
「主」と呼ばれることを厭うのに、命ずるときだけは「主」であることを強調する。命に従えと言われれば、式は従うほかない。
猫が何事か口を挟もうとしたが、結局、何も言わず目を閉じた。刹影は黙って成り行きを見守っているが、その表情が僅かに曇って見えるのは気のせいか。
沈黙が室内を支配した。居心地の悪い空気が占める。
「……差し出がましいことを。謝罪申し上げます」
静寂を破り、天清は深々と頭を垂らした。長い髪が床の上に広がる。床についた指先から冷たさがじわりと上がってくる。
頭を下げ服従を表明する天清に、晴明は満足そうに頷いた。それから、命令を待っていた刹影に目を向ける。
「行け」
「御意」
一言、是を返し、刹影がすっと姿を消す。
項垂れる天清はじっと主の次の言葉を待つ。黙れ、と言われた以上、天清からの発言は許されない。主が許すまで身動きする事も適わない。
「……天清」
呼ばれて、おずおずと顔をあげる。晴明は淡く微笑み、
「腹が減った。早めに朝食を出してくれ」
先ほどまでの傲慢さはどこへやら。狐につままれたような顔で、天清は呆然と主の顔を注視する。
何が楽しいのか、喜々として晴明は告げる。
「お前の作る食事は、どこの女房が作るものよりも格別に美味しいからな」
率直な賞賛。飾り気のない言葉は晴明の本心か。
天清は目を何度か瞬かせたあと、ようやくその意味を飲み込んだらしい。沈んでいた顔が灯火を得たように明るくなる。
「只今、ご用意します」
さっと身をひるがえし、慌しく寝所を後にする。
足音が遠のいて行くのを聞きながら、晴明はまだ温もりを残す寝床に体を横たえた。食事の用意が出来るまでの間、もう一眠りすることにしたらしい。
その横に、白い猫が寄り添う。
「相変わらず、扱いが上手いのぉ」
しわがれた声が猫の口から発せられる。晴明は細やかな指先で柔らかな猫の背中を撫でた。
「事実を言ったまでだ」
そっけない返答。
背骨に沿って、頭から尾へと流される指先に、くすぐったいのだろうか。猫は僅かに身じろいだ。
「晴明も意地が悪いのぉ。昨夜の星が、今日の外出は否と告げていたと一言言えば済むものを」
一日の終わりに星を視ることが晴明の習慣になっている。昨夜、視た星は門の外に出ることなかれと妙実に告げていた。ならば、物忌みと称しても良い筈なのだが。
「単に外に出るのが面倒だっただけだ。……天清が来たら起こしてくれ」
猫の背から手を放す。本当に一眠りすることにしたようだ。
「まったく、素直ではないのぉ」
その呟きが聞こえたかどうかは分からなかった。
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