陰陽記伝
平安陰陽記伝


「最上祈名」
 
 名をつけてやる。
 傲慢に言い放った彼に、従うことを約束したものたちは、引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。



 ぱちゃん、と庭の池で泳ぐ魚が跳ねた。
 ついこの間まで底が見えないほど濁っていた水は、今では水底の小石がはっきりと見えるまでに綺麗になっている。
 茫々に茂っていた草もむしり取られ、伸びっぱなしだった植木も剪定された。穴の開いていた壁も修復し、汚れが酷かった廊下も磨かれた。
 数ヶ月前に屋敷の主が亡くなり、その一人息子が家を継いだ。だが、息子は下郎たちに暇を出し、たった一人、屋敷で過ごすことを選んだ。
 手入れも何もされていない屋敷は瞬く間に様を変えて行き、季節が一変わりする頃には、無人屋敷さながらになっていた。
 それを三日と掛けずに元に戻した者たち。
「よっしゃー、終わりだ」
 叫び声と同時に、両手を大きく上げたのは若い女だった。
 炎を思わせる鮮やかな朱色の髪。頬についた泥汚れが日差しに乾いて、ぽろぽろと落ちる。
 その横では、夏葉色の髪をした男が無言で頷いている。男の腕の中では白い猫が尾を振るわせていた。
 荒れに荒れていた庭と屋敷を、なんとか見られる状態まで戻せた。
「こっちも片付きましたよ」
 裏の方から顔を覗かせたのは蒼い髪の男。長い髪の一房が煤で汚れているのは、今の今まで厨の掃除をしていたからだ。
 荒れ果てた邸内を片付けるのは骨が折れることだったが、彼らにとっては造作でもないこと。

 南の朱雀、東の青龍、北の玄武、西の白虎。

 彼らは四神と称され、四方を治める神。とある縁から、彼らは人の子の式に下ることとなった。



 時は平安。
 貴族の華やかさの裏側に、魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)し、怒れる神々が野草に宿る。
 日が高い頃は、地上は人の天下と化し、夜の化身が空に昇る頃は、形なきものたちが蠢く巣窟と化す。桓武天皇が築きあげた二つの顔を持つ魔都。
 その平安京の左京、土御門大路からは北、西洞院大路から東にある――安倍邸。



「終わったのか」
 御簾を押し上げて室内から出てきたのは、まだ十を半ば程数えたくらいの男童だった。
 長く伸ばした黒髪を無造作に流し、適当に纏った着物の裾が足元に絡まり引きずられている。
 細やかな顔つきに整った柳眉。数年経てば、誰もが羨むような美貌をもった青年となるのは間違いないだろう。
 男童は起きたばかりなのか、眠たげに目を細めて欠伸を一つ漏らした。
「四神と言うわりには、随分と時間が掛かったな」
 綺麗に片付けられた庭を見て、どこか呆れたように呟く。
 普通ならば、二日や三日で片付かないところを片付けたのだ。褒められることはあっても、文句を言われると思っていなかった式神たちは目を瞬かせた。
「御主殿。お言葉だが……」
 むくり、と顔を上げた白猫が、虹色の虹彩に主となった男童を映す。すると、
「生憎、御主殿という名前になった覚えはない。その頭が飾りでないなら、主の名くらい一度で覚えたらどうだ。それとも、その中身は空っぽか? ならば、記憶できなくても仕方ないが、それだったら頭部がある意味がない。単に重いだけのものならば、取ってしまったら――」
「晴明」
 可愛らしい外見から吐き出される嫌味めいた饒舌。
 それを遮るように、白猫が呼び直す。
 男童は鼻先で笑った。
「覚えているならば、最初からそう言えばいいものを」
 面食らったように四神たちが黙り込む。
 朱色の髪をした――南の朱雀と称される女が、拳を震わす。
 燃えるような目が怒りを込めて、先日、主人となったばかりの男童を睨みつける。
 蒼い髪をした――東の青龍である男は、困惑気味に幼い主を窺う。
 夏葉色の髪をした――北の玄武は無表情のまま黙り込み、腕の中の白猫に視線を落とす。
 白猫の姿をとる――北の白虎は小さく首を振った。
「晴明。人が同じ仕事をやれば、我らの数倍は掛かるのぉ」
「だから?」
「時間が掛かったというべきところではないと、わしは思うのだが」
 白虎の進言に、晴明は冷たく笑った。
「四神と呼ばれているくせに、人間の数倍程度の早さでしか仕事ができない、と言いたい訳か?」
 放たれた言葉は氷の刃のように、四神たちを襲う。
「てめぇ、黙ってれば言いたい放題言いやがってっ!」
「朱の君!」
 今にも飛び掛らんばかりの朱雀を、青龍が後ろから羽交い絞めにして止める。
 暴れる朱雀の肘鉄が青龍の脇腹を抉るが、それでも放す手を緩めなかったのは見事だろう。
「見た目のわりに、随分と凶暴なんだな」
「んっだと!」
「朱の君、落ち着いてください」
 押さえきれずに、青龍はずるずると引きずられる。
「くだらない言い争いに付き合うつもりはない。片づけが終わったなら、食事の用意をしろ」
 言う事だけ言うと、四神たちに背を向け、再び、御簾の向こうに姿を消す。
 朱雀は地団太を踏んだ。
「あの糞餓鬼! 放せ、東の! 一度、ぶん殴ってやる」
「落ち着いてください。あの方は我々の主なんですから」
「だから、なんだってんだ!」
 朱雀の怒りも分からなくはない。
 自分たちは請われて式に下ったはずなのに、主の態度はまるで自分たちを目の敵にしているようで。
 喚く朱雀を尻目に、白虎は主が消えて行った御簾の向こうを見透かそうとせんばかりに見つめている。
 それに気がついた玄武が首を傾げ、
「叔父上殿?」
「いや、なんでもあるまいよ」
 振れた尻尾の先が小さく円を描いた。



 安倍保名が病に倒れ、冥界へと旅立ったのは、ほんの少し前のことだ。
 珍しいことに、保名は最初の奥方以外に通うところを作らなかった。そのため、彼の子供は最初の奥方との一人息子――晴明だけだった。
 晴明の母は信太の狐との噂もある。
 あるとき、保名のところにやってきて、そのまま安倍邸に居つき、奥方となった。
 奥方の出自を知る者もなく、それでいて美姫と言わんばかりの美貌を持った人だったから、人ならざるモノと噂されても仕方あるまい。
 もちろん、それが真実かどうかは誰にもわからない。ただ、数年前に唐突に母は姿を消し、二度と現れることはなかった。
 その血を色濃く継いだ晴明もまた、母に似た面差しの麗しい童子として成長していった。
 似ていたのは姿形だけではないと、知ることとなったのは、母が姿を消して、何より保名が死んだ後だった。



「……まずい」
 出された食事を含んでの第一声がそれだった。
 晴明は眉を顰めて、手にしていた箸を乱暴においた。
 その音に、傍らに控えていた青龍が怯えたように肩を揺らした。
「四神のくせに、食事もまともに作れないのか?」
「あの……その……」
「もう良い、下げろ」
「はっ、はい」
 オタオタしながら、青龍は盆を持って退室する。
 その背を冷ややかな眼差しで見送りながら、晴明は前髪を掻き揚げた。
 そんな様子を部屋の隅から窺うのは白虎だ。玄武に抱かれたまま、色を変える双眸を晴明に注ぎ続ける。
 朱雀は外で待機している。晴明の顔も見たくないと、式神にあるまじきことを叫んで自ら外に出て行ったのだ。
 その気持ちは他の式神たちにも分かり過ぎる程分かったので、咎めたりはしなかった。
「なにか、言いたいことがありそうだな」
「あると言われれば、あるがのぉ」
「なら、言ったらどうだ?」
「遠慮しておくかのぉ」
 ぱたり、と振れる尾が床を叩く。
 重なる二つの瞳。
 沈黙が下りた。
 睨みあう主人と式神。
 玄武が不安そうな表情を浮かべて、膝の上の猫と主を交互に見やる。
「晴明」
 沈黙を破ったのは白虎だった。
 玄武の腕から抜け出すと、ゆっくりとした歩みで主に近付いていく。
 晴明は身じろぎもせずに、近付いてくる白虎に視線を向けている。
 白虎は、晴明の手が届くか届かないかの位置で足を止めた。
「わしらは長き時を眠りと共に過ごしてきた」
 何を言い出すのかと、晴明が片眉を上げる。そんな晴明の様子に気付いていない振りをしながら、白虎は話を続ける。
「わしらにとって、人の生活は遠きもの。まだ至らぬところがおありと思うが、徐々に覚えていくよう努力しよう」
「言いたいことは……」
「さらに言わせてもらうならば」
 白虎の瞳がきらりと光った。
「貴殿の中の異形を抑えることで、我々の存在が歪んだりすることはあるまい。無駄に気を遣う必要はあるまいのぉ」
「…………」
「わしらは、式神。主の心のまま、従う存在。ともに歩む約束をした以上、それを違うことはありえん」
 重なった瞳。睨むように見つめる晴明の黒瞳。
 その奥に宿る苛立ちに似た乾いた揺らぎが、僅かに和らぐのを白虎は見て捉えた。
「遠慮すると言ったわりには、随分と饒舌だな」
「性分でのぉ」
 晴明が手を伸ばす。白虎は身動きしない。
 色の薄い指先が白虎を捕えて抱き上げた。
 そのまま、膝の上に乗せると滑らかな毛皮の上に指先を滑らす。
 白虎は喉を鳴らし、その愛撫を受け入れた。
「名、がいるな」
 ぽつり、と漏らした呟き。
 白虎は低く笑い声を立てた。
「頂けるのかのぉ?」
「いらないなら、やらないが」
「いやいや、主から頂ける名は式神にとって最上の贈り物じゃ」
 毛皮の手触りを楽しみながら、晴明は口元に弓月を作る。
「ならば、最上の名を与えてやろう」
 どこか楽しげに告げた晴明に、白虎もまた笑い声で応えた。
 白虎を撫でる主と、主の膝の上にいる白虎。
 玄武は、その一人と一匹を部屋の隅から不思議そうに眺めていたが、足音が近付いてくるのに気がついて、そちらのほうに顔を向ける。
 控えめな声で「失礼します」と呟いて入って来たのは青龍。
 その手には、先ほどとは違う別の盆が握られていた。
「あの、我が主」
「晴明だ」
「……晴明」
 呼び方を訂正されて、益々、身を縮まらせながらも青龍は盆を晴明の前に置く。
 盆の上には食事が一式用意されていた。
 晴明は目線だけで問う。
「あの……新しく作りなおしましたので、良かったらもう一度食べていただきませんか?」
 晴明が微かに目を見張る。それに気がついたのは白虎と玄武だけ。
 余裕のない青龍は、突っ張られないようにと言葉を重ねる。
「私は、人の食事など今まで作ったことがありません。ですから、御口に合わないこともあると思いますが」
 蒼い瞳が必死の色を浮かべて晴明を映す。
「精一杯、努力させていただこうと思いますので、どうか、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げて平伏する青龍。
 叱られても、罵倒されても、少しでも主に気に入ってもらえて、傍にありたいと願う青龍。
 それを見て何を思ったのだろうか。
 晴明は無言で箸を手にする。
 それを見て青龍が表情を明るくさせる。
 箸先が一口大に切られた獲物を捕え、口元へと運んでいく。固唾を呑んで見守る視線。
 箸の先が晴明の口内に消えて、咀嚼される。
 そして、一言。
「まずい」




「名をつけてやる」
 四神たちを部屋に呼び集めた晴明は、傲慢に言い放った。
 式神たちは思わず、口元を引き攣らせた。
 正直、晴明と式神の関係は現在、良好と言い難い。どんな難癖をつけた名を与えられるか分かったものではない。
 戦々恐々とする青龍と朱雀を尻目に、玄武が意味ありげな眼差しを腕の中の白虎に送る。
 白虎は小さく欠伸をしてみせるだけで、何も言わない。
 晴明は青龍と朱雀の緊張した様子など、気にした素振りも見せない。
 自信満々な表情を浮かべながら、神聖な儀式に立ち会うかのように厳かな空気を纏って。


 それは、主から式神への最上の贈り物。


 晴明は言霊を紡いだ。


「東の青龍、天清(てんせい)」
 青龍の顔に注がれる視線。


「南の朱雀、凰扇(おうせん)」
 朱雀の顔に注がれる視線。


「北の玄武、刹影(せつえい)」
 玄武の顔に注がれる視線。


「西の白虎、汐毘(せきび)」
 白虎の顔に注がれる視線。


 室内に風が渦巻いたのを感じた。風は見えない鎖となり、一つに繋がっていく。
 与えられた名は四神たちを縛り、名と言う呪に変じる。
「この安倍晴明の音の一文字をくれてやった。ありがたく思え」
 青龍と朱雀は予想外のまともな名に、驚いたように目を丸くし、玄武は相変わらずの無表情のまま主を伺い、白虎は痙攣したように身を震わせながら笑った。
「良き名。確かに受け賜ったのぉ。感謝する」
 白虎――汐毘が言えば、玄武――刹影が黙って頭を垂れる。
 それに慌てて、青龍――天清、朱雀――凰扇も頭を下げた。
 その様子を晴明は満足そうに眺めていた。




「……晴明」
 半分以上残してある盆を下げながら、不意に思い立って、天清は晴明に声をかけた。
 すでに、何度、「まずい」と言われたかわからない。
 文句を言われたからといって止めないのは、この邸では他に食事を作るものがいないからだ。
 仕える者に暇を出し。四神たちが来るまでの間、どういう食生活をしていたのか。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
 室内にいるのは晴明と天清だけだ。
 凰扇は晴明に言われて、壊れかけている納屋の修理をしている。刹影は女房に姿を変えて市に買出しに出かけた。汐毘は安倍邸の敷地の見回りに出かけている。
 天清の言葉に、面倒くさげに晴明が視線を投げかける。
「どうして、『天清』なんですか?」
「……不満か?」
「いえっ! 滅相もございません。ただ、由来が気になりまして」
 取れるのではないかと言わんばかりの勢いで首を振る。
 その様子が面白かったのか、晴明は淡く微笑んだ。
 いつもの嫌味ったらしい笑みではなく、澄んだ綺麗な笑み。
 こんな笑い方もできるのかと、天清は思わず見惚れて。
「由来か。そうだな」
 白く細い指先が伸びて、天清の髪の一房を掴んだ。
 ギョッとして身を引きかけるが、
「天(そら)の色だろう」
「えっ?」
「清き天を写し取ったような色をしている。だから、天清だ」
「…………」
「不満か?」
「いえ、十分です」
 十分どころか、勿体無いくらいだと天清は頷く。まさか、こんな真面目な応えが帰ってくるとは思ってもみなかったから。
「……天清」
 己の口内で、与えられた名を呟いてみる。まるで、ずっと昔からその名で呼ばれていたような不思議な感覚が込み上げてくる。


 式神に与えられた、主からの最上の贈り物。
 それは確かに、彼らにも与えられたのだ。





  おまけ「最上想名」

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