幸せそうに笑う貴方が羨ましかった。その笑顔を作るのが自分ではないことが悲しかった。
貴方と彼が親子であり、夫婦であることは知っていた。そうなるであろうことは分かっていた。
それでも、私は貴方に恋をした。貴方がほんの少しでも私の思いに気付いてくれまいかと願っていた。
だけど、貴方は本当に彼のことが好きだった。育ての親として、それ以上として、けして強要された愛情ではなかった。
私は羨ましかった。貴方の笑顔になりたかった。それだけだった。
師は言った。哀れな師、愚かな師。持ち得たものを捨てれば、人並みに生活することはできただろうに。それでも、それを捨てられなかった師。
山奥に追いやられても、それでもそれを手放そうとしなかった人。
だからこそ、師は山の友を得て、己の心を満足させていた。
山の友は雄雄しく、気高く、私は近づく事ができなかったけれど、師にとっては親しき友だった。
私は師と秘密を繋ぐ優越感に浸っていた。村の人間の誰も知らない私だけの秘密。
私は満足していた。全てに、満足していた。唯一、満足にならなかったのは、この思いだけで。
ただこの想いが届けと願っていただけなのに。
最初に、私は貴方が愛した人を、貴方を愛した彼を殺した。次に私の師を殺した。さらに、師の山の友を殺した。そして――私を殺した。
貴方の笑顔が私に向けられれば良かったのに。
私は貴方のもとに訪れた。
辛うじて残っていた私が、貴方に懺悔をした。この手に掛けた彼のことを。私は貴方に全てを話した。包み隠さず放したのに。
貴方は笑わなかった。貴方は笑顔をくれなかった。
貴方は泣き、貴方は叫び、貴方は私を罵倒した。
こんなにも愛しているのに。こんなにも貴方だけを想っているのに。
だから、だから、だから、だから。
――貴方を殺した。
*
走る、走る、走る。
視界を覆う木の枝を払いのけ、足元に纏わりつく草を引き千切り、走る、走る、走る。
道なき道をひたすらに走る。先頭を颯爽と駆けるのは、刹影だ。足場が悪いのを物ともせず、前を行く人影をけして見失うことなく駆ける。
その後ろを少し遅れて追いかけるのは、凰扇と天清だ。
主人の無事を直接確認したかったのは山々だが、その主人から下った指示を疎かにはできない。ひたすら、山の中を駆ける。
刹影は、木の陰に見え隠れする人影との距離を少しずつ縮めていっていた。
腐り倒れた木を飛び越えたそのときだった。逃げていた人影が急に立ち止まり、身体を反転させた。
刹影を目掛けて金属の欠片が襲い掛かる。それを衣服の袖で払いのけ、詰めていた距離をあける。
「てめぇ!」
ヒナと天清が追いつく。
見つめるその視線の先には、男がいた。
一目で貧しい生活を送っているのだと分かる質素な服装。このあたりには、あの村しか集落がない。だとするのなら、この男は村の人間なのだろうか。
男は両手に金属の欠片を掴んでいた。金属――そんなものがどうしてこんな山奥に。
刹影が手にした笏を振った。その途端、大地が揺れ動いた。否、揺れ動いたように見えた。揺れたのは大地に描かれた影。
黒く細長いものが大地から幾つも伸びてくる。影の中から伸びてくる。幾つも幾十も。
空に上がったそれはある程度の高さまでくると、伸びるのを止めた。そして――。
刹影が笏をもう一度、振る。
長く伸びた黒いものは、途端に地面を離れ、槍のような形をとると一斉に男に襲い掛かった。
男は金属の欠片を投げるが、それさえも影は飲み込み、男に覆い被さった。一切の抵抗も反抗も許さず、抑え込んだ。
影は大きく脈動し、そして静まった。
「北の」
「玄武殿」
凰扇と天清は唖然とその様子を――見ているだけで終わってしまった。手を出すまでもなかった。
黒い小山が一つ。中で暴れているのか動いている気配はするが、そこから抜け出すことはできないのだろう。
四神、北の玄武――刹影にかかれば、人間を八つ裂きにしたモノでも、天狗を殺したモノでも、容易に押さえ込むことができる。この手際の良さは天清と凰扇も見習わなければならないだろう。
玄武はいつもと変わらぬ、無表情でそれを眺めていた。疲れは表情にはない。この程度のことはあまりにも易いこと。
「愚か者っ!」
叱咤の声が、空から降ってきた。思いも寄らない単語に、天清と凰扇はぎょっとする。
「追えと命じたが、手を出せといった覚えはない」
ひらり、と大地に舞い降りた巨体。白い毛皮が風に揺らめく。
降り立った巨体は、汐毘だった。いつもの猫の姿ではない。それは本性である白虎だった。
その背に掴まっていた晴明は、不機嫌も露わに口元を歪めた。
「全く、命令を正しく遂行できないとはそれでも四神か?」
扇を広げ、悠然と己の式神を見下して、呆れたように晴明は言った。
それに対して、刹影は黙って頭を下げる事で、謝罪の意を示す。
「って、なんで北のが怒られてるんだよっ!」
納得のいかない凰扇が声を荒げる。
確かに捕まえろとは言われていないが、刹影がしたことが間違っているとは思えない。
晴明は汐毘の背から降りずに、少し高い位置から己の式神を見る。
「単なる八つ当たりだ」
悪いとは一切思っていない素振りで、偉そうに晴明は告げた。
こんな山奥まで出向いて、こんな目にあっている。小まめに八つ当たりでもしなければ、気が収まらない。
そんな晴明の心の声が聞こえた気がして、天清はひっそりと溜息を漏らした。ともあれ、晴明の身に何か起こった様子はない。
「晴明、ご無事で何よりです」
「なんだ、起きてたのか。てっきりまだ寝ているかと思ったが」
艶やかな笑みで言われて、天清は黙る。
晴明のかけた術でまんまと眠りに落とされた。そのことを皮肉っていることは明らかだった。ここで文句を言おうならば、不甲斐無さを責め立てられるのは間違いない。黙るのが一番良い。
「あいつ……村人なんじゃねぇのか?」
黒い影をみつめて凰扇が言う。何かに憑かれているようだったが、間違いなく人間だ。
「村人だろうな。このあたりに他に集落はない」
晴明が囁くように呟く。
「お守り」
「はっ?」
「お守りが全ての始まりだ」
「……お守りって?」
わけが分からず、凰扇が目を瞬かせる。全く話が通じない。
「さっきの亀裂の中で、陰陽法師が死んでた」
突然、話を変える。天清と凰扇はその変わり様についていけない。そんな二人を無視して、晴明は話を続ける。
「おそらく、その者があの村人にお守りの作り方を教えたんだろう」
「なるほどのぉ」
汐毘が身体を震わせる。体格が大きいため晴明の身体が上下に揺さぶられる。晴明は平手で汐毘の背を叩いた。すまん、と言って汐毘は笑いを引っ込める。
「お守りに何らかの術が掛けられていたと。そうだのぉ、一昔前に流行った怪しげな惚れモノの術といったあたりかの?」
「おそらくな……その対象は、キエか」
若くして夫を亡くした未亡人。今のところ、晴明が殺したと疑われている女。
「術を掛けたがいいが失敗し、暴走してしまったといったところかのぉ。それを止めようとした陰陽法師は死に、異変に気がついた天狗も殺された」
素人が行う術の儀式は、ときに思わぬ事態を引き起こす。正しい手順を踏まれなかった術は、制御できず止めるすべもない。
安倍晴明はこう推測する。
この山に、都から逃げてきた陰陽法師が潜み住んでいた。いかに陰陽法師といえ、人の世と決別しては生きていけない。そこで陰陽法師は村人の一人と繋がりを持ち、生活物資を手に入れていた。
そして、気まぐれか或いは弟子にするつもりだったのかは分からないが、陰陽法師はその村人に術を教えた。些細な礼のつもりだったのかもしれない。取るに足らない術だったのかもしれない。
その村人には思いを寄せる人がいたのだろう。晴明はそれがキエであったのではないかと思った。だからこそ、最初に殺された正吉は物の怪に喰われなかった。
どんな方法でお守りに術をかけたのかは分からないが、その術は失敗した。
キエの夫である正吉。愛している女が愛している男。
だから、四肢を八つ裂きにして殺した。殺害した。惚れている女の夫。恋しい女を独占する男。無意識か意識的かは分からないが、羨み恨んだ可能性は否定できない。
恨みは穢れ。それを強く受けた正吉の血肉を喰らえば、物の怪たちも穢れてしまう。だから、彼らは正吉を喰わなかった。喰えなかった。
或いは、正吉を殺したのは術を掛けるのを失敗したお守りを回収するためだったのかもしれない。そもそも、それが目的で正吉に会いに行き、お守りの毒に当てられたのかもしれない。
術が失敗したことに、陰陽法師はすぐに気がついたはずだ。お守りを取り戻すように男に告げただろう。だが、陰陽法師は死んだ。殺された。
その男に――お守りの毒に侵された男に殺害された。
その次が天狗だ。山の中で起きた異変に山の神である天狗が気付かないはずはない。だが、その天狗さえも、お守りは殺した。
恋の呪いが掛けられたお守りだからこそ、天狗は殺された。愛という感情を持たぬ天狗はその感情が歪められた術に殺された。
そして、最後に、暴走した術は、本来ならばその心を射止めるはずだった女を襲った。
――それが、晴明が推測した今度の事件の一幕だった。そして、それはおおよそ、外れてはいなかった。
一通り、説明した後、晴明は不意に顔を上げた。
「あれはどうなっている」
黒い影は時々表面を波立たせるものの、それだけだ。男は完全に内部に閉じ込められている。
「始末しろとおっしゃるのならば」
そっと晴明の傍に寄った刹影が呟く。
晴明が命じればすぐにでも片をつけると。主人の手を煩わせることなく、始末すると、忠実なる式神は言う。
晴明は扇で口元を覆い隠した。
「二度、言わせたいのか?」
冷ややかな声音が空気を揺さぶる。
「誰が捕まえろと命じた」
細められた眼差しが刹影を射抜く。
「あれは、この安倍晴明の獲物だ。勝手なことは許さない」
その言葉を重く受け取るように刹影は深々と頭を下げる。
「お前たちは手を出すな」
視線を凰扇に、天清に、刹影に、向ける。
「始末は、この安倍晴明がつける」
艶やかに、苛烈に、厳かに、輝くばかりの光を宿した安倍晴明が言霊を放つ。
「しかし、晴明」
「あたいらは、あんたの式神だ」
式神は主人の命に従い、主人の命を守り、主人の手足として動く。
なのに――。
「手出しは許さない」
安倍晴明は、けして式神を手足として使わない。そうすることが禁忌であるかのように、そうすることが戒めであるかのように。
いつだってそう。他愛のない用は言いつけるくせに、一番必要とされるであろうときに、手を出させない。
「汐毘、お前は足になれ」
「やれやれ、仕方ないのぉ」
折れた足では思うように動けない。だったら、式神に任せてしまえばいいのに。それこそ、たった一言命じれば、刹影は瞬時にして始末をつけるだろうに。
始末をつけるのは、自分であると主張する。
「刹影。放せ」
「……承知」
己の式神の異論も反論も許さない。傍若無人な主人を持つ式神たちは、命じられるがまま、動くだけだ。
晴明の指示に従い、刹影は影を引かせる。溶ける様に、男を捉えていた影が消えていく。
「うぉぉぉぉぉぉおおおお!」
獣じみた叫びが木霊する。
自由になった男は、まるで翼を得たかのように、木の枝に飛び乗るとそのまま逃げていく。その動きは人間のものではない。
「追え」
「承知したのぉ」
白虎が大きく跳ねる。
晴明は振り落とされないように、大きな首に手を回し、毛皮を指先に絡める。
長い黒髪が風に流され、顔の横を掠める。全身泥だらけの酷い有様だ。足は熱を持ち、断続的な痛みが晴明を襲う。
それでも、晴明は不敵に笑ってみせる。
前方に逃げる男。晴明は男との距離を測る。
「前に回りこめ」
「容易く言うがのぉ」
「できないのか?」
問われて、できないと答えたら式神失格である。汐毘は喉の奥で低く笑った。
「少々揺れるがのぉ。?まっておれ」
言うが否や、一気に加速する。晴明は腕に力を込めてその加速に耐える。
景色が高速で背後に遠のいていく。時間にして数秒だったが、その間に汐毘は男を追い越し、正面へと回りこんだ。
予想外のことに、男の動きが鈍る。
晴明は身体を浮かせ、両手の自由を得る。
「青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女」
九字の印を結び、晴明は手印を完成させる。
「この安倍晴明に刃向かおうなど百年早い」
叫びと共に、男は地面に落下した。
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