陰陽記伝
平安陰陽記伝


2章「陰陽怪奇」 真神
   
 出来る限り、振動を与えないように気をつけながら、汐毘はその巨体を地面に降ろした。己の式神の、そんな気遣いに気付いているのかいないのか、晴明はゆっくりと、汐毘の上から地面へと移動する。
 その際に、さり気無く刹影が手を貸そうとしたが、晴明は無視した。
 痛む足に眉を潜めながらも、晴明はしっかりと大地を踏む。
 細められた眼差し。その先にあったのは、地面に仰向けに倒れる一人の男の姿だった。
 男は、辛うじて息があるようだった。あの高さから落下して、即死にならなかったのは、運が良いのか、悪いのか。僅かに上下する胸。口から垂れた濃い血がその顔を汚している。
「刹影」
 晴明はつい、と扇の先を男に示す。
「助けてやれ」
「了承」
 すぐさま、刹影は男の傍に屈みこみ、治療を始める。
 自分に襲い掛かった者を助けるように命じるとは、さすが安倍晴明だ。懐が広い――と思う者は残念ながらこの場にはいない。
 キエの殺害容疑が掛かっている以上、この男を殺してしまうのはいささか都合が悪い。もちろん、疑いを晴らす方法は他にいくらでもあるだろうが、犯人に生きていてもらった方が確かだ。
 男の傍らには、真っ二つに千切れたお守りが落ちていた。歪んだ想いが封じられていたお守り。それによって、三人の人間と、一体の天狗が死んだ。
 もし、お守りの力がもっと強いものであったならば、被害はさらに拡大していただろう。
「きゃんっ」
 鳴いたのは、あの子狼だった。危険だと思い、屋敷に置いてきたのだが、どうやらついて来ていたらしい。ここ数日で、子狼はすっかり天清と凰扇に懐いていた。
 子狼は小走りに駆けてくる。元気に駆けているところを見ると、怪我はすっかり良くなっているようだった。
 ぞわり、と背筋に悪寒が走ったのはそのときだった。
 晴明は足の痛みに耐えていて、汐毘はそっとその背を支えていた。刹影は主人の命令通り、男に治療を施していて、天清と凰扇は子狼に意識を奪われていた。
 だから、一拍、反応が遅れた。そして、その一拍が致命的だった。
 僅かに残ったお守りの歪んだ想いが、消え失せる前に最後の力を発揮した。その力は、この場で最も弱いものへと向けられる。
 男――ではない。最早、その身は使い物にならない。安倍晴明――ではない、彼の身が持つ血はお守りの力を寄せ付けない。
 この場に置ける最も弱きもの、それは――。
「こっち来んじゃねぇっ!」
 凰扇の叫びにも、子狼は足を止めなかった。その叫びの意味を理解していなかった。
 お守りは見えない手に動かされるように虚空に跳ね上がった。そして、子狼目指して一直線に飛ぶ。
 晴明は手印を組むが、明らかに間に合わない。
「きゃんっ!」
 小さな悲鳴が木々の間に轟いた。


 その結果を予想していたものは誰もいなかった。だが、予感していたものはいた。それは他ならぬ、四神たちの主人である晴明であり、晴明に従う四神たちであった。
 この地にその存在があることは理解していた。
 それであったとしても、まさか、ここで彼が姿を現すとまでは想像することはできていなかっただろう。
 彼は現れた。そこに姿を現した。己の幼い眷属を守るために、その姿を晒しだした。


 まさにお守りが子狼に襲い掛かったその瞬間、子狼が己にぶつかってきたお守りに驚いて悲鳴を上げた瞬間、お守りは一瞬にして消え失せてしまった。
 影も形も残らずに、砂に還るように姿を消した。


 木々の間から星達が顔を覗かせていた。重苦しく濁っていた風が、突風にでも吹かれたかのように涼やかなものへと変わる。
 一体、いつの間にそこに姿を現したのか。知覚できたものはいなかった。
 子狼は小さく跳ねて、嬉しそうに彼に身を寄せた。
 黒い毛皮が月明かりを反射して淡く輝く。太い足が地面を踏みしめ、大きな尾が左右に振れる。巨大な口から覗くのは白い牙。金に輝く月を宿した眼が、見据えるように前を向く。
 黒い狼だった。あまりにも巨大な狼だった。
 彼は、足元に懐いてくる子狼を鼻先で優しく突っつく。子狼はそれに応えるように小さく鳴いた。
 それから、彼はゆっくりと、晴明たちの方を向いた。
 晴明は咄嗟に、その眼差しから視線を逸らした。目を合わせることを恐れたわけではない。気の立っているらしいそれを刺激するような真似をすることは危険だと、無意識に判断した。
 四神たちは何もいうことができず、ただ唖然としている。否、正確に言うならば、どう行動を起こせば良いのか迷っているのだろう。
 敵か、味方か、その判断もつかず。かと言って、下手に動けば、それは主人の意に反することになるかもしれない。
 そんな己の式神の思いを汲み取ったのか、或いはこの緊張感が嫌になったのか――恐らくは後者だろう――晴明は、一歩前に踏み出した。
「名を語らんば、大口の真神殿」
 晴明は言った。
 彼――大口の真神と呼ばれた巨大な狼の視線が晴明に向けられる。
「その子狼は貴方様の眷属と見受けた」
 真っ直ぐ言霊を吐き出す。偽りの言葉、偽りの思いは、意味をなさないどころか、警戒心を抱かせる。
 だから、晴明は己が思う心を言霊にする。
「この一帯は、貴方様の土地であったのだとすれば、そうとは知らず、大地を穢してしまったことを心から詫びよう」
 目の前にいるのはただの狼ではない。そもそも、狼の姿を模していても、狼ではない。
 彼は――国土を守る国津神。
 かつて、天津神と国津神は守るべき国土を賭けて戦った。結果、国津神は破れ、恨み憎しみの塊となり、祟り神へと変貌した。
 そして、神としての威信を失った祟り神たちは、天津神が加護する人間にその憎しみの矛先を向けた。
 そんな祟り神たちから人を守るために、陰陽道は成された。
 まさに、国津神と陰陽師は敵対関係にあると言える。堕ちた神は、己より遥かに格下の人間によって永久の眠りにつかされていた。
 しかしだ。それはあくまでも祟れる神の場合。今、目の前にいるこの国津神からは、穢れの気配はしていない。多くの国津神が堕ち逝く中で、この大口の真神だけは、堕ちる気配すら発していない。
 汐毘が嗅ぎ取った国津神の気配とは、彼のことだったのだろう。
 彼はじっと晴明を窺う。鋭い眼差しは晴明の肉の内側までも見通しているかのようだ。晴明は、黙って彼が何か発するのを待った。
『……貴様』
 幾秒かのうち、彼は初めて口を開いた。刺すような厳しさを持つ気が、彼の身から起こり、晴明へと向けられる。
『貴様……安倍晴明か』
 まさか、自分の名が出てくるとは思わなかった晴明は目を瞬かせた。陰陽寮の天文生――すでに陰陽師に相応しき身であると噂はされているが、それが人ならざるものの耳にまで届いているとでもいうのか。
「おっしゃる通り、私は安倍晴明ですが」
 否定しても仕方ない。晴明は肯定する。
「人の噂が、貴方様の耳に届くとは到底、思えませんが。もしや、以前、どこかでお会いしたでしょうか?」
 やんわりと、晴明は告げる。
 恐れた素振りを見せないその姿を、彼は意外に思ったのか、それとも当然と思ったのか。
『信太の狐に所縁がある』
「…………」
『人間に姿を見られたら、殺すことにしているが、信太の方には貸しがある。それに――』
 彼の視線が足元の子狼に向けられたようだった。その身に纏う気配が、柔らかなものになったのを晴明は感じ取った。
『我が眷属の子が世話になったことは、礼を言う』
 用件は終わりだと、彼は背を向けた。子狼がその足元にじゃれる。
「……母は」
 去りかける背を追うように、晴明は呟いた。それは微かな声だったが、彼の耳には拾われたようだった。
 喉の奥で言葉が絡む。晴明は一度、大きく呼吸をした。
「母は、健在でしょうか?」
 晴明の母。信太の森の狐。幼き頃、晴明にその本性を見抜かれて、永遠の別れとなった母。晴明の記憶におぼろげにしか残っていないその姿。
 彼は大きく尾を振り上げた。
『信太の森を治めるもの。そう容易く失われるものではない』
 それだけ告げると、彼は木々の間に溶けるように姿を消す。その後を追いかける子狼は一度だけ振り返った。
「きゃんっ」
 小さく鳴き声をあげると、子狼もまた、姿を消した。
 強い風が吹く。風は彼の存在を掻き消し、その気配すら隠した。
 晴明は何も言わず、暫くの間、そこに立ち尽くしていた。


 今回の事件を調べる中で、国津神が山の中に潜んでいることを、事前に突き止めてはいた。
 刹影が追いかけていた狼の痕跡。それと共にあった巨大な足跡。穢れが感知できなかったことから、事件とは無関係だと考えていた。
 だから、こんな形で接触することになるとは、予想はしていなかったのだ。

 あれから、晴明は仮宿の屋敷へと戻り、足の怪我からの熱で寝込むはめになっている。
 もっとも、どちらかといえば、疲れからきているようなので、一日大人しくしていれば、問題ないだろう。
 男の方は、刹影の治療が早かったためか、奇跡的に一命は取り留めた。とはいえ、口をきけるような状態ではない。追々、都から陰陽寮の者がきて、取り調べることになっている。
 晴明に残された仕事といえば、お守りが穢してしまった大地を清めることだが、これもまた、刹影が片付けておいた。
 晴明が人払いし、眠ってしまったので、暇になった天清は凰扇のもとを訪ねていた。
 凰扇は厩で馬を宥めながら、青々とした空を見上げていた。
「あれが、本来の国津神なんですね」
 ぽつり、と天清は呟いた。
「大口の真神か……、大層な名称じゃねぇか」
 天清の呟きに、凰扇が応える。すると、天清は微かに口元を緩めて、
「朱の君、大口の真神というのは、狼を指し示す言葉なんですよ」
「へっ? あの国津神の名じゃねぇのか?」
 凰扇は目を瞬かせる。初めてあった国津神の名を見抜くなんて、さすが晴明とは思っていたが、そうではなかったらしい。
「名は隠しておくものですからね。さしずめ、あれは国津神の大神と言ったほうが正しいかもしれませんね」
「大神……ねぇ」
 ひっそりと、眷属と共に生きる国津神。綺麗なままで生きる国津神。誰にも捕らわれることなく、ただ己の信念に生きる孤高の神。
 それは、四神たちがけして持つことの出来ない形。
「何度か、国津神と対面したことがありましたが、どの方も祟り神と成り果てていましたから、堕ちていない神にあったのはこれが初めてです」
 同じ国津神が多く堕ち逝く中で、正気を保ち続けている彼は、今の世をどんな思いでみているのか。或いは、彼にとって世など些細なことでしかないのか。
「それにしても、晴明の母親と知りあいだとはな」
「世の中は狭いものですね」
 久しく聞いた母の所在を、晴明はどう感じたのか。会うことが許されない己の母の姿をどう描いたのか。
「なんともおかしな、一日だったよなぁ」
 凰扇の言葉に天清は頷くことで応えた。


 床に寝込んだ晴明は、無表情で天井を睨んでいた。
 室内には誰もいない。静かに眠りたいからと、忠実な式神たちを追い払った。
 もっとも、姿が見えないだけで、室内のどこかに刹影が控えているだろうが、晴明の気に障るようなことを言ったりしたりする心配はないため、いないものと判断していた。
「……母上か」
 その姿が、はっきりと記憶に残っているわけではない。母がいなくなった当時、晴明はまだ幼く、己が何であるかさえ、理解していなかった。
 母がいなくなり、父が亡くなり、安倍邸に残されたのは晴明ただ一人。
 肉の内側で血が疼く。この身に流れる獣の血が疼く。
 晴明は、ぎゅっと胸のあたりで拳を握る。
 その手に握られているのは、母が残した霊珠だ。唯一、母と己を繋ぐ物。
 ずっと握っていても体温を移すことのない、霊珠の冷ややかさはかつて触れた母の肌を思わせた。
「……明日には都に帰る」
 囁きが室内に広がる。
「凰扇と、天清に、牛車の用意をさせておけ」
 御意とも、承知とも、返って来なかったが、僅かに気配が動いたのを感じた。
 忠実な式神は命じられたとおり、言伝を伝えにいったのだろう。
 その気配が再度、室内に戻ってくる前に、晴明は眠りに落ちた。



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