陰陽記伝
平安陰陽記伝


2章「陰陽怪奇」 亀裂
   
 己の式神たちが予想よりも早く、その不在に気付いたとは露とも知らず。晴明は子鬼たちの担ぐ輿に乗って、山の中を進んでいた。
 当てもなく、というわけではない。当てはあった。もっとも、その当てに確信があるわけではない。それを確信とするべく、晴明はそこに向かっていた。
 途中から山道を外れ、草木が鬱蒼と茂る中を進む。
 やがて、辿り着いたのは二日前、晴明が迂闊にも足を滑らせ落下した亀裂だった。
 晴明は懐を探る。取り出したのは、冷ややかな温度を保つ霊珠だ。
 晴明はこの亀裂に落ち、背後から何者かに襲われて気を失った。そう、気を失わされただけだった。
 身体のどこを見ても、落下時に受けた損傷以外の怪我は見当たらなかった。亀裂の中で晴明を襲った主は、晴明の意識を奪うだけで、それ以上、なにもしてこなかった。
 それが、晴明には不可解だった。晴明を襲い、その命を自由にできる状態にありながら、なぜ相手は手を出してこなかったのか。襲っておいて、どうして何もしなかったのか。
 その答えがこの霊珠だ。
 襲った相手は晴明に危害を加えなかったのではない。加えられなかったのだ。なぜならば、その相手は霊珠の気を恐れた。肌身離さず霊珠を持ち歩いている晴明の身には、霊珠の気が移っている。だからこそ、襲った相手は晴明を八つ裂きにはできなかった。
 この霊珠は、生死も知らぬ母が晴明に残したもの。穢れたものが触れれば、その存在を霧に返すだけの力はある。
 そうすると、おのずと正吉の死体が物の怪に食われなかった理由の推測も立つ。物の怪は食わなかったのでなく、食えなかった。キエが渡したお守りが、正吉の血肉を物の怪に与える事を拒んだのではなかろうか。
 だとするのならば、話の筋が通る。
 ただ一つ、疑問が残るならば――。
「誰が、お守りを持ち去ったのか」
 晴明は目を細める。
 正吉の死体の傍にも、発見現場にもお守りは落ちていなかった。
 水に流されたかと思ったのだが。
 晴明は握っていた拳を開く。そこにあったのは、正吉とキエの小屋で見つけた紫の紐だった。
「お守りを持ち歩いているということか?」
 キエの血が紐に濁った色を与えている。

『お守りは、青い生地に紫の紐が留めてあるんです』
 生前のキエが晴明に話したお守りの特徴。余分な紐があの貧しい小屋に残っているとは思えないから、これは間違いなくお守りについていた紐だろう。そして、その紐が小屋に落ちていたということは――キエを殺したモノがお守りを所有しているということだ。
 だが、お守りの力によって正吉が物の怪に食われなかったのならば、どうして犯人はお守りを持って行ったのか。
 お守りに退魔の力が宿っていたと仮定して、そのお守りの力よりも相手の力が強かったから正吉は殺された。そこまではわかる。だが、そのお守りを犯人が持っていく理由が分からない。
 晴明は周囲を見渡した。亀裂の中は、すでに汐毘が調べているだろう。わざわざ降りて調べるのは面倒だ。それよりも――。
「ここはちょうど、正吉が殺された場所と村の間か」
 視線を遠くに投げ出す。
「天狗が殺されたのはこの方角……とすると」
 晴明は暫し考え込む。
 子鬼は黙って主人を窺う。長い沈黙のあと、晴明は握り締めていた拳を開いた。冷ややかな温度のままの霊珠が、日の光を反射して光る。
 晴明は、優しく霊珠の表面を撫ぜた。そして、唇に言霊を乗せる。
 瞬間、霊珠は淡い光を放ち始めた。



 子鬼たちの手を借りながら、晴明は薄暗い穴の中へ足を踏み入れた。
 霊珠に導かれ、木々の中を進んでいけば、晴明が落ちた亀裂から少し離れたところに同じ様な亀裂があった。
 晴明は慎重にその中に降りて行った。折れた足は酷く痛んだが、それを堪えて何とか下に降りきる。
 この間の雨で窪みに溜まった水が、晴明の足元を濡らした。
 暗い穴の中、霊珠が放つ淡い光が周囲を照らす。
「ほお」
 晴明は口元を歪めた。
 霊珠の光が照らす先、横穴が奥へと続いていた。晴明は子鬼を杖代わりにしながら、吸い込まれるように、その横穴へと進んで行った。
 横穴はかなり深いものだった。頼りになるのは霊珠の光だけ。濁った空気が鼻先を掠める。晴明は慎重に、一歩一歩奥へと歩んでいく。
 やがて、唐突に開けた場所に出た。
 晴明は眉を顰めた。ギッ、と子鬼が呻いた。
 異臭を避けるよう、晴明は袖口で口元を覆った。
「これは……」
 晴明は口の中で言霊を紡ぐ。次の瞬間、淡い光を放つ物体が宙に幾つも浮かんだ。
 その光の下に暴きだされたのは――。
「余計に面倒になったな」
 半ば白骨化した遺体が転がっていた。
 虫がたかり、鼠に齧られたためか、遺体には肉らしい肉は残っていない。
 晴明は暫く、その遺体を観察していたが、
「……なるほど」
 思わず、呟く。腐敗し、鼠に食われて露わになった骨。その一部が何かに切り取られたように削られていた。おそらく、この遺体の主も八つ裂きにされたのだ。それも、正吉や天狗より前に。
 晴明は穴の中を見渡す。大地の中にあるこの空間は自然に作られたものではないことは明らかだった。
 土壁にそって並べられた棚。そこにはぎっしりと書が収められていた。遺体の傍には筆が転がっている。隅のほうには木のお椀が置いてあった。穴の床には紙が散乱している。
「隠れ家というわけか」
 村で行方不明になっている者の話しは聞いていない。だとするならば、この遺体の主はここに隠れ住んでいたということだ。
 手にした霊珠は光を収めている。
 紐に僅かに残っていた気配。それこそ、はっきりと検知できない気配を霊珠に辿らせた。そして行き着いたのがここ。
 晴明は霊珠を懐に仕舞いこんだ。それから、遺体を避けながら棚の前まで来る。並べられていた書を手に取り中を開いた。
「陰陽法師か」
 つい、と遺体に目をやる。
 陰陽師は陰陽寮に属する。陰陽師として認められるには、陰陽寮に入り、腕を磨いて得業生となるのが一般的だ。晴明も本当ならば得業生として迎え入れられてもおかしくないはずない。だが、本人のやる気のなさゆえに、未だに天文生に甘んじている。
 一方で、陰陽寮で学ばず、独学で陰陽道を学ぶものもいる。それが陰陽法師と呼ばれるものたちだ。陰陽寮に属さずに、陰陽道を極めることは禁じられている。禁じを犯し、その力を得た者達は表に出ることなく、闇の中にその存在を委ねている。
 この遺体の主もそうだったのだろう。陰陽法師として行き場もなく、或いはどこかで陰陽術による罪を犯したのかもしれない。逃げ隠れこの亀裂の内部に住んでいた。そして、殺された。
 晴明は散乱している紙を拾うように、子鬼に命じた。子鬼は素早く動き、見当たる限り全ての紙を集め、晴明に差し出した。
 晴明はそれにザッと目を通し、その中の一枚をまじまじと見つめた。
 それから、穴の中をもう一度見渡す。
「なるほど」
 晴明は口元を歪めた。
 ギッ、と子鬼が呻いたのと、晴明がその気配に気がついたのはどちらが早かったのか。
 晴明のすぐ傍にいた子鬼の頭部が真二つに切断された。悲鳴を上げずに失せた子鬼は瞬く間に細切れの紙になる。
 もう一匹の子鬼が主人を守るべく、それに飛び掛るが、同じように切断され紙に戻される。
「随分と乱暴なやり方だな」
 呆れたように晴明は首を竦めた。それに答える声はなく。
 晴明の周囲を回っていた光が、その姿を闇から暴き出す。そこにいたのは――。
「邪の心で術を酷使してはいけないと、そこの陰陽法師は教えてくれなかったのか?」
 冷ややかに告げれば、僅かに空気が揺らぐ気配がした。
 晴明はサッと取り出した扇を広げた。その瞬間、何かが扇に当たり足元に転がる。目線を下げれば、そこにあったのは鋭く尖らせた金属の破片。音もなく飛んで来たそれが、子鬼たちの頭部を切断したものだろう。
「生憎、この安倍晴明は子鬼のようにやわではないのでだ」
 穏やかな口調で、刺すような眼差しで晴明は言った。懐から抜き取った符を口元に寄せる。
「この安倍晴明に、仕掛けてきたことを後悔させてやろう」
 麗しく、美しく、華やかに、安倍晴明は微笑んだ。



 四神たちは主人の気配を追っていた。汐毘は気配を辿るのが得意だ。すぐに晴明の気配を捉えるとそれに沿って動き始めた。
 凰扇は子狼を抱いていた。ここ数日ですっかり慣れたのか、暴れるような事はない。
 狼の子を屋敷に置いて行くわけにはいかなかった。屋敷の人間に見つかれば殺されてしまうかもしれない。狼は家畜を襲う動物だから、家畜が貴重な資源であるこの辺りでは害獣でしかない。助けた以上、この小さな命に対して責任がある。だから、子狼も連れて晴明を探していた。
「まったく、少しぐらい大人しくしてろっつーの」
「寧ろ、二日も大人しくしていたのが奇跡と考えるべきかもしれぬのぉ」
 余計な手間を掛けさせやがって、と凰扇が呟く一方で、汐毘は己の主人の計算高さに感心する。二日間、大人しくしていた。だから、三日目も大人しくしているだろう。そういう思い込みを誘ったのだ。そして、自分たちはまんまとそれに引っ掛かった。
 普段はやる気がないくせに、どうしてこういう時だけ積極的に動くのか。
 動くならば、どうして自分たちを連れて行こうとしないのか。
 不可解な主人の言動に振り回され、慌てふためく己の式神を、晴明はどう思っているのか。それを知るすべを、忠実なる式神たちは持たない。
 ただ、今は主人の安否を気遣い、先を急ぐだけだ。
 文句を言う凰扇に対して、いつもならば宥め役に回る天清は無言だった。真剣な眼差しで、先導する汐毘と刹影についていく。
 たとえ、それが主人に対する油断だったとしても、晴明を出て行かせてしまったのは天清の失態だ。己の迂闊さを悔まずにはいられないのだろう。これでもし晴明の身に何かあれば――。
「残酷よのぉ」
 あまりにも残酷だ。式神たちの思いを余所に、ただ己の信念だけを貫く。その結果、どうなろうともそれはそれと割り切ってしまうのだろう。
 誰よりも残酷で、誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも弱い。
 だからこそ、晴明は晴明なのだろう。
「叔父上」
 思考の海に捕らわれかけていた汐毘を、刹影が呼び戻す。
 その目は汐毘ではなく遠く、木々の向こうを見ている。
「……動いたかのぉ」
 刹影が感じ取った気配を、汐毘も感じた。それもただの気配ではない。晴明が術を使った気配だ。
「晴明を見つけた」
「本当ですか」
「どっちだ!」
 いきり立つ二人を導くように、刹影は汐毘を抱いたまま走り出す。
 その先に、晴明がいると確信して。

 深い森の中、ただひたすら走り続ける。
 そのときだった。
 轟音が前方の方から響き渡った。立ち上る土煙。
「晴明っ!」
 思わず、叫んだ直後、大地に開いた亀裂から人影が飛び出してきた。それは真っ直ぐ森の中に消えて行く。
 晴明の気配は穴の中からする。
「晴明っ! 大丈夫ですか!」
 慌てて亀裂の中を覗きこむが。
「愚か者っ! さっさと追わぬか!」
 響いた怒号に思わず、天清は腰が引ける。
 なんだかよく分からないが、晴明の機嫌が氷点下に悪い。
「東の王、鳳の姫。チビ助と共に今のやつを追え」
 ひらりと、刹影の腕から飛び降りた汐毘が鋭く指示する。一瞬、躊躇った凰扇と天清だが、刹影が人影を追って木々の中に消えたため、慌ててその後を追った。
 それを見届けてから、汐毘は亀裂の中へと降りていく。
 さっきの爆音は穴の上部を吹っ飛ばした音だったのだろう。土煙はその名残か。
 汐毘は匂いを辿りに、土煙の中から晴明を探す。
 晴明は穴の一部の窪みに身を潜めていた。そこに隠れることで、爆発の影響を免れようとしたのだろう。
 結わえられていた髪は乱れ、衣も肌も土で汚れてはいるが、怪我はしていないようだった。
「大丈夫かのぉ」
 足元に寄り小さく鳴けば、閉じられていた晴明の瞼が開かれた。
「これが大丈夫に見えるのか?」
 皮肉に歪められた唇。土に汚れた腕が伸びてきて、汐毘を捕らえる。
「追う」
「その足でかのぉ?」
 折れた足は、この騒ぎによってさらに酷くなっているのは間違いない。
 激痛が走っているのだろう。薄らと額に脂汗が浮かんでいる。自力でそこから動くこともできないのだろう。
 それでも、晴明は不敵な笑みを作ってみせる。
「それをなんとかするのがお前の役目だろう?」
 揺ぎ無い信頼を寄せて言うから。
 やれやら、と汐毘は首を左右に振った。
「仕方ないのぉ」
 呟いたのと、晴明の腕から汐毘が離れたのはどちらが早かったのか。
 空気が揺らいだ。
 まさに、瞬く間の出来事だった。
「背に乗られろよ、晴明」
 巨大な白い背中が波たった。滑らかな毛皮に縦に走る青縞。大きな口からは鋭く尖った牙が光る。
 主人の言葉に応えて、本性を露わにした汐毘――白虎が大きく唸り声を上げた。


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