陰陽記伝
平安陰陽記伝


2章「陰陽怪奇」 先行
   
 折れた骨は容易には元に戻らない。
 さすがの晴明も動くことができず、大人しく床についていた。正確にはつかされていたというべきなのかもしれない。
 命に別状はないといっても骨折は十分に重傷といえる。下手に動き回れば治るどころか悪化しかねない。
 日頃は、主人の意思を優先する汐毘さえ、今回は自分たちに任せろと強く言い聞かせた。晴明は不服そうにその言葉を聞いていたが、痛みを堪えてまで動き回ろうとは思わないらしい。仕方なしに、大人しく室にこもっていた。
 そういうわけで、動けない晴明を張り切って世話するものが弱冠一名。
 床につく晴明の傍を離れては寄り添う蒼い影。
「我が主、足は痛みませんか? 痛むようならすぐに申してくださいね。玄武殿が鎮痛薬を用意してくださっていますから。早く良くなるように栄養の良い食材を調達してきましたので、今夜は楽しみにしていてくださいね。ああ、と。そういえば、少し風が冷たいですね。寒くはないですか? なんなら、掛けるものを一枚取って……」
「…………」
 パタパタと、晴明の周りを忙しく纏わりつく天清。晴明は、むっすりと口を閉ざしその様を眺めていた。
 いつもならば、早々とうざったい存在――天清――を殴り倒しているところだが、今回はそうはいかない。折れている右足はもとより、腕にも酷い打ち身がある。軽く身動きするだけで走る痛みに、眉を顰めるほかない。
 刹影の薬のおかげで、大分マシになってはいるが……それも所詮、誤魔化しに過ぎないことを晴明は知っていた。
 だから、晴明は丸二日、大人しく床についていた。
 始めは、勝手に抜け出すのではと心配していた凰扇も、晴明が行動を起こす様子がないのを見て今朝から、出かけている。
 刹影と汐毘は、未だに興奮が冷めない村人たちを宥めに行っている。
 その間、晴明の世話を天清が引き受けていたのだが、主人を心配するあまり、どうにも落ち着かない状況になっている。
 晴明はひっそりと溜息を漏らした。
 優秀な式神たちは、晴明が何者かに襲われて負傷したと思っている。
 刹影と汐毘は、事の真相を薄々察しているかもしれないが、主人の性格を良く知っている以上、余計な口出しはしないだろう。
 だが、それを察していない天清と凰扇は、面倒くさいほど過保護に扱ってくる。
 屋敷の周辺には結界が張られ、晴明が今寝ている室にも高位の結界が施してある。
 負傷し、弱った晴明をまた襲いにくるかもしれないと、天清が厳重に守りを固めたのだ。
 しかしだ。晴明としては、その何者かが襲撃してくるとは思っていない。その機会はいくらでもあったというのに、山に潜む何かは晴明にとどめを刺そうとはしなかった。だから、天清の守りはまったくの無駄と言える。
 もっとも、それを説明すると己の失態が明るみになるので、仕方なく晴明は口を閉ざしていた。
「……二日か」
 あれから、二日経った。
 晴明が怪我を負ってから、キエの遺体が発見されてから、丸二日。
 事態は何も動いていない。嵐の前の静けさか、それとも通り過ぎてしまったのか、何も起きていない。
「様子を見ているのか。それとも穢れに殺されたか」
 相手の正体が掴めずにいたが、キエが殺されたことでそのおぼろげな形が見えてきた。
 もっとも、確信は何もない。形をはっきりとさせるためにも、動く必要があったが――。
 晴明は上半身を起こし、枕を手にする。近付いてくる足音を窺う。
「我が主ぃ、掛けるものを持ってきたですよぉぉぉ……ぐぅ!」
 室内に入ってきた天清に向かって、晴明は枕を投げた。
 枕は見事に天清の腹を捉える。痛む腕ではそれほど威力はなかったようだが、咄嗟のことに足元がふらつく。
「な、なにをなさいますかっ!」
「なに、とは」
 涼しい顔で晴明は返す。取り出した扇で口元を隠し、素っ気無い目を天清に向ける。
「……いえ、なんでもございません」
 反論するだけ無駄だと悟る。動けないことに対する八つ当たりを一々気にしていたら、とてもじゃないが身が持たない。そう、天清は思って。
「天清」
 穏やかな声が言霊を紡ぐ。何か、用事でも思いついたのか、それとも、八つ当たりをする気なのか。どちらにせよ、その言霊には応えなければならない。
 顔を上げて、「はい」と返事をしようとして――天清は己の肉体が傾くのを感じた。長身が固い床に倒れる。
 己の身になにが起きたのか、天清は理解できなかった。
「それでも四神か?」
 呆れたような晴明の声を最後に、天清の意識は途絶えた。



 晴明は立ち上がろうとして、右足の痛みに顔を顰めた。
「厄介な」
 呟きつつ、口の中で言霊を紡ぐ。手から紙を落とせば、それは瞬くうちに二匹の子鬼へと姿を変えた。
 子鬼たちはどこからか、輿(こし)を担いできた。帝や皇后しか乗れないはずのそれに、子鬼に支えながらさも当然のように乗り込む。
 輿の屋台に座った晴明は、ふっと思い出したように視線を下げた。
 そこにいたのは大の字になって倒れている天清だ。青い髪が散らばり、一見すると寝ているのか死んでいるのか分からない。
「こうも易々と、はまるとは……我が式神ながら情けない」
 天清に向かって投げた枕には、呪が掛けられていた。自らに呪の種が植え付けられたことに、天清は全く気が付かなかった。
 おかげで、天清を眠らせることができたが……一応、四神であることを考えると、こんな簡単な術にまんまとはまってしまうのはどうかと思う。
「本当に情けない」
 嘆きは独り言となって漏れる。
 天清が起きる様子はない。術はしっかりと働いている。誰かが起こすか、術の効果が切れるまでこのままだろう。
「行くか」
 声を掛ければ、輿を担いだ子鬼たちが小さく鳴いて返事をする。
 天清が張った結界を壊すと、晴明は誰に咎められる事もなく、屋敷をあとにした。


 子鬼の担ぐ輿に乗って、晴明はまずは村を目指した。もちろん、子鬼の姿を見られれば厄介なので、人除けと姿晦ましの術を掛けた。
 さらには、喧しい式神たちに見つからないように念入りに気配を消す。
 屋敷から出たことが知られれば、すぐに連れ戻しにくるのは間違いない。
 気を失った天清は当分、目覚めないだろうし、凰扇、汐毘と刹影が屋敷に戻ってくるのは、ここ数日、日が暮れてからだ。
 ならば、今日も日暮れまで戻ってこないだろう。
 村まで続く山道で、幾人かの村人とすれ違ったが、誰もそこにいる晴明の姿に気が付くことはない。
 村に、刹影と汐毘がいる可能性もあったが、幸いにも余所にいっているらしい。晴明の行く先を邪魔する存在はない。
 気付かれることなく、晴明は村の中に入った。


 キエの家に辿り着いた晴明は、子鬼の手を借りながら輿から降りる。足に痛みが走ったが、それをおくびにも出さず、子鬼を杖代わりに家の中に入った。
 家――といっても納屋のような粗末なもの。入り口に立てば家の中が全て見渡せる。
 子鬼が僅かに身を震わせた。それは、怖れのため。
 鼻につく血臭い。さび付いた味が喉の奥に引っ掛かった。
 目に焼きつく、濁った赤。晴明は目を細めた。
 爆発でもしたかのようだった。床といわず壁といわず、天井にまで血が飛び散っていた。
 どんな殺し方をすれば、ここまでの惨状を作りだせるのか。
 乾いて固まった血だまりが、床の上にいびつな円を描いている。村人が供えたのか、手折られた花が置かれていた。
 キエの死体はすでに埋葬されたのだろう。残ったのは惨殺のあとが残った家だけ。それも暫くすれば壊されてしまうもの。
 ここに、あの夫婦がいた証は残らない。
「死んだのか」
 キエは確かに死んだ。黒不浄がそれを伝える。ここで、キエは死んだ。殺された。
 晴明は瞠目する。夫に先立たれ、あとを追わされるように命を絶たれた哀れな女を想って。暫しの瞑想は、黄泉に旅立った若い女のため。
 目を開けた晴明はそっと家の中を見回す。
 注意深く探る眼差しは、見えないものを見つめる。
 おそらくは、汐毘たちがすでにここに来ているはずだ。その上で、何の報告もなかったということは、彼らが何も見つけられなかったということ。
 それを承知で晴明はここにきた。
 式神である彼らと、人である晴明では捉え方の視点が違う。ここで何者かが黒不浄を冒した以上、何らかの手がかりがあるはずだ。
 汐毘と刹影が見落としたものがどこかに。
「これは」
 晴明はそれに目を留めた。事件とはまるで関係ないように存在するそれ。だが、生前のキエに会っている晴明には、それがそこにあることに違和を感じた。
 晴明は白い指先でそれを摘まむ。
 血がこびり付いて黒く変色したそれ。かろうじて元の色が紫色であることがわかる――細い紐だった。
「何故に、これが……」
 ここにあってはいけないものだというのに。
 周囲を見渡すが、これが付属している物体は見当たらない。だとするのならば、それを犯人がここに持ち込み、再度、持ち去ったと考えて間違いないだろう。
「……なるほど、読めてきた」
 晴明はふっと笑みを零した。



 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 こんなことになるはずはなかった。こんなこと望んでいなかった。
 なのに、どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 ただ、あの笑顔が欲しかった。ただ、あの言葉が欲しかった。ただ、一緒になりたかっただけなのに。
『気をつけなさい』
 あれを教えてくれた人はそう何度も言った。
『気をつけなさい』
 けして、忘れてはいけないと。けして、邪の思いを宿してはいけないと。
『気をつけなさい』
 常に心にとどめておきなさいと。でないと、それは我が身を滅ぼすと、言われていたはずなのに。
 だが、自分はそれを忘れ、それを破り、その結果、その人もいなくなってしまった。
 もう、どうすれば良いのか分からない。徐々に侵されて行く思考。救いの手はどこにもない。
 ただ――というその願いは全てを壊してしまった。
『気をつけなさい』
 その言葉はすでにもう意味をなさないから。
 ただ黒く、黒く、穢れていく。
 そして、全てが真っ黒に塗りつぶされていく。



「っ、おい、おい、東のっ!」
 激しく肩を揺さぶられ、天清はぼんやりと目を開いた。
 飛び込んできたのは強烈な朱色。燃えるような鮮やかな色が視界を占める。
「……の君?」
「目、覚めたかっ! おいっ、晴明はどうした?」
「えっ……あっ……我が主ならそこに」
 焦ったような凰扇の声。
 なにをそんなに慌てているのか。上手く働かない頭を振って天清はゆっくりと身体を起こす。
「いねぇから聞いてんだろうが」
「はい? いないって」
 天清はゆっくりと周囲を見渡した。
 己がいるのは、屋敷の主人が晴明のために貸し与えた部屋だ。部屋の中央には床が敷かれ、天清はそこで寝ていたらしい。
「どうやら、まんまと出し抜かれたようだのぉ」
 しわがれた声が唖然とする天清の耳に届く。
 視線を上げれば、晴明の映し姿をした刹影と、その腕に抱かれた汐毘が部屋の中に入ってくるところだった。
「出し抜かれたって……」
「結界が一部分だけ壊されておる。全てではなく、一部分だけのぉ。こんな器用な真似をするのは晴明以外おるまい」
 ふわり、と風が舞う。刹影は晴明の映し姿から元の姿に戻る。風で逆立った毛を直すように、汐毘は身体を震わせた。
「東のっ! なんのためにてめぇがいたんだよっ!」
「そ、そんなことを言われましても」
 晴明に呼ばれたところまでは覚えている。そこから、ぷっつりと記憶が途切れているということは、晴明がなんらかの術で天清の意識を奪ったのだろう。
「己の式神相手に術をかけるとは……晴明らしいというかのぉ?」
 式神は術者にとって、手足であり、自分自身に等しい存在。それに対して、意図的に術を行使する陰陽師は過去に例がないだろう。
「それにしても、東の王。人が掛ける術は四神であるわし等に、それほど強く影響するものではない。油断しすぎだのぉ」
「そういわれましても……まさか、我が主がそんなことを」
 天清は口を閉ざした。そんなことをするはずがない――と断言したいのは山々だが、あの晴明だ。そんなことと思えることをするのは、日常茶飯事ともいえる。
「兎に角、すぐに探しましょう」
 晴明は、今、怪我をしている。山に潜んでいるものの正体はまだ掴めていないし、状況から見て、晴明が屋敷を出てから、然程時間は経っていないようだ。
 思ったほど情報が集まらなかったため、晴明の指示を仰ごうと早めに戻ってきたのが幸いした。
 夕方まで帰ってこないと踏んでいた晴明の読みは、大きく外れたこととなる。
「たっく、あいつ足折れてんだろう? 歩き回って大丈夫なのかよ」
「下手して悪化でもしたら……」
「まったく、世話の焼ける主人だのぉ」
 汐毘の呟きに、刹影が無言で頷いた。




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