陰陽記伝
平安陰陽記伝


2章「陰陽怪奇」 暗転
   
 晴明は山の斜面を登っていた。一応は、人の手によって道らしく草は刈ってあるが、やはり、道と呼べるものではない。
 供の式神の姿はない。村を出たところで、紙に戻した。
 殺された村の男、正吉。その妻のキエは晴明に「お守りを探してきて欲しい」と頼んだ。
 キエが正吉のために作ったお守り。
 正吉はいつもそれを懐に入れて持ち歩いていたという。
 だが、死体として発見された時、お守りはなくなっていた。
 正吉が山の中で落としたのか、誰かが持ち去ったのか。
 形見という形見らしいものがないならば、せめてお守りくらいは手元に持っていたいとキエは言った。
 お守りといっても、特別な価値があるわけではない。
 正吉が山で落としたのでなければ、八つ裂きにされたときに懐から転がり出たと考えて間違いない。
 おそらく、遺体が発見されている現場の周囲を探ればすぐに見つかるだろう。
 女性ならば、それが幼い娘だろうが老婆だろうが構わず優しく接する晴明である。
 未亡人になったばかりの哀れな人の頼みを聞かないはずはない。
 必ずや見つけてくると約束した。
 万が一、晴明が見つけることができなくても、その場合は優秀な式神たちに探させればいいだけのこと。
 至って気楽に晴明は考えていた。

 正吉の死体が発見されたのは、村から山道を登り、谷を下ったところだった。
 谷の間の水が流れる辺りには、薬となる植物が自生している。正吉はそれを取りに行って殺された。
 その日、キエの体調が悪かったこと、正吉が薬草を取りに行ったことは、村人ならば誰でも知っていたという。
 正吉は気が良く、嫌な仕事も自ら買って出るような人物だったらしい。
 恨みの線はまずないと考えて間違いないだろう。
 八つ裂きという時点で人の可能性は限りなく少なかったが、死体の状況を考えるとやはり不思議としか言いようがない。
 それに――。
「天狗の死体は喰らったのに、人の死体は喰わなかった」
 同じように八つ裂きにされた天狗。
 その死体を山に潜む物の怪たちは残さずに食べたというのに、正吉の死体には触れなかった。
 喰らわなかったのか。喰らえなかったのか。
 そこに、犯人に繋がる何かがあるのか。
 晴明は空を見上げた。山に掛かる黒い雲。
「一雨、来そうだな」
 早いところ、現場の周囲を探り、戻った方が良さそうだ。
 ほんの少し歩調を速める。
 暫くいったところで、山道は下りへと変わる。
 茂る木々の間を抜け、辿り着いたところには、細い小川が流れていた。
「この辺りか」
 生憎、それらしき形跡はどこにも残ってはいないが、晴明は黒不浄の気配を感じていた。
 ここで、確かに正吉は死んだのだ。
 周りをざっと見渡してみるが、お守りらしきものは見当たらない。周囲の草木を除けて探してみる。
「……ないな」
 確認できる範囲にはそれらしきものはない。
 視線は流れる水へと移る。
 お守りの大きさは手の平に収まる程度だと聞く。水に流された可能性も高い。
「仕方ない。あとで天清に探させるか」
 水は東の青龍である天清の領分だ。
 物探しは得意ではないが、けしかけて遊ぶのも悪くはない。
 雲行きが怪しい。雨が降り出す前に、戻った方がいいだろう。
 晴明は身を翻すと、来た道を戻り始めた。
 不意に、晴明は足を止めた。
 ゆっくりと振り返る。そこにあるのは、生い茂る木々。
 視界では何の以上も感じられないが。
 ――見られている。
 晴明はそう思った。誰かが、晴明を見ている。
 それはけして友好なものではない。
「さて、どうするか」
 素知らぬふりをするか。それとも、敢えて近付いてみるか。
 晴明は後者を選ぶことにした。山道を逸れて、茂る草の中に入っていく。
 この視線の主が、今回の事件と関わりがあるのかは不明だが、近付いてみるのも悪くはない。
 晴明は誘われるように、茂みの中を歩いていく。
 気配は感じられない。ただ、見られているという意識はある。
 どこに潜んでいるか分からない。もしかしたら、突然、襲い掛かってくる可能性もある。
 だが、晴明の表情には緊張の欠片さえもない。
 何が襲い掛かってこようとも、それを撃退するだけの自信は晴明にはあった。
 だが、その慢心が思わぬ事態を起こすことになるなど、晴明は露知らず。
 ゆっくりと急ぐわけでもない足取りで奥へと進んでいき――。
 ずるり、と足元が滑ったと思ったときには遅かった。
 視界を覆う草のせいで、地面に大きく開いた亀裂に気づけなかった。
「なっ!」
 足元を取られ、咄嗟に何かを掴むということすらできなかった。
 晴明の身体は亀裂の中に落ちて行った。




「あっ、雨ですね」
 ぽつり、と頬を打つ雫。
 いつの間にか、空は暗雲に覆われていた。
 狼の痕跡は山のあちらこちらに見られた。
 この山の中に、狼の群れがいることは間違いないだろう。
 問題なのは、あの足跡の主の正体だが、穢れを感知できなかった。黒不浄に触れれば、どんなモノでも穢れを受ける。
 それがないということは、今回の事件とは直接関係ないのかもしれない。
 だが、今回の事件に感化されて悪さを始める可能性も否定できない。
 やはり、早く犯人を特定し、それなりの処置を行う必要があるだろう。
 天上から降り注ぐ、雫の数は徐々に増えていく。
 天清は手の平に雨の雫を受け止める。
「本格的に降りそうですね」
 戻りましょうか、と尋ねれば、少しの間の後、刹影が頷き返す。
 雨が本格的になれば、視界は悪くなるし、動きも鈍くならざるを得ない。
 一度、戻って汐毘たちと情報交換をしたほうが良いだろう。
 
 天清と刹影は本降りになる前に、屋敷へと引き返した。




 晴明の式神たちが異変に気付いたのは、日が暮れてからだった。
 四神たちが屋敷に戻った時、当然の事ながら晴明の姿はなかった。
 それを誰一人として不思議に思わなかったのは、日頃の晴明に行いが禍していると言える。
 大方、雨が降り出したので、適当に誰かを誑かして雨宿りをしているのだろう。
 そう信じて誰も疑っていなかった。
 天清と凰扇は、昨日、保護した子狼を構いながら、主の帰還を待っていた。
 だが、日が暮れても晴明が戻る様子はなく。
 刹影が従者に姿変えをして村に確認しに行ったところ、昼に村に尋ねてきた以降は見かけていないという。
 そこで、ようやく、晴明の身に何かが起こったのではと思い立ったのだった。


「揃いも揃って迂闊としかいいようがないのぉ」
 もっと早くに気がつくべきだった。
 雨の音は強い。
 すぐに探しにいこうとした凰扇と天清を、汐毘は引き止めた。
 山は広い。無闇に探したところで見つかるとも限らない。匂いを追おうにも、この雨では無理だ。
 まずは落ち着いて、現在の状況を確認するべきだろう。
 室内には、四神と、昨日保護した子狼がいた。
 雨足が強いため、晴明が戻るまでの間だけと思い、部屋に連れて来ていたのだ。
 四神たちの焦りも子狼には関係のないようで、柱から結ばれた紐で繋がれた子狼は丸くなって眠っていた。
「少なくとも、命の大事には至ってないようだしのぉ」
「当たり前です。我が主に限ってそんな……」
 主人の命が危険に晒されるようになれば、式神たちにもそれが伝わる。
 見えない絆が、式神と術者の間にはある。
 凰扇は唇を噛み締め俯き、天清も動揺が隠せない。
 まさか、こんなに短い間に二度も同じ状況に陥るとは思っても見なかった。
 ついこの間のことだ。晴明が異空間に取り込まれ、所在不明になったのは。
 結局、晴明が自力で出てくることに成功し、大事に至ることはなかった。
 だが、あの一件は式神たちの胸に恐れを植えつけていた。晴明がいなくなるかもしれないという恐怖を。
 だからこそ、目を離さないように気をつけていたはずだった。
 村に行くだけだからと、安易に考えたのが悪かった。
 早く都に帰りたがっている晴明が、大人しく話を聞いてくるだけで済ませるはずはないことは、考えればわかることだったのに。
 無理にでもついて行かなかったことが悔まれて仕方ないが、後悔している場合ではない。
「村の者の話だと、どうやら山の中に入って行った様だがのぉ」
「まさかと思うけど……晴明に限って、んなとこはねぇよなぁ?」
 不安げな表情を浮かべる凰扇に、汐毘も答えられない。
 この山には、人と天狗を八つ裂きにする、物騒なものが潜んでいる。
 いかに晴明とはいえ、そんな輩に出くわして無傷でいられるかはわからない。
 苛立ちを隠さずに室内をウロウロと歩き回っていた凰扇は顔をあげて、
「村のあたりを中心に、探してくる!」
 叫んで部屋を出て行こうとする。
「待たれよ、鳳の姫」
「待てるかっ! じっとしてる場合じゃないだろうがっ!」
 凰扇の焦りの理由は分かっている。
 今が無事でも、いつまでもそうとは限らない。これから、晴明の身に何かが起こることは否定できないから。
「探して見つかる範囲にいるならば、晴明とて自力で戻ってくるだろう」
「だったら、尚の事……」
「晴明にその気があるならば、わしらを喚ぶはずじゃ」
 汐毘の声が雨音を遮って響く。
「万が一、意識を失っているとしたら、厄介ではあるが……この雨に足して、晴明の気配は希薄になってしまっているじゃろう。もとより、山は物の怪の気配に満ちておる。そんな中から希薄となった晴明の気配を探すのはちっと無理がある」
「だからって、じっとなんかしてらんねぇっ!」
「わしとて、じっとしているつもりはないのぉ」
 虹色に輝く瞳が、凰扇、天清、刹影を捉える。
「……叔父上、何か良策が?」
 刹影が膝に抱いた汐毘に目を落とす。汐毘はゆったりと尾を振る。
「わしら一体一体は、四神といえ、単なる式神に過ぎぬ」
 だがのぉ、と汐毘は続ける。
「わしらは、四体で一つの存在。四体いて初めて意味のある存在」
 一体だけでは存在する意味がない。一体でも欠けていたら不完全。
 四神とは四方を治める神。
「主人の一大事だからのぉ、こういうときこそ、力を合わせるべきではあるまいか?」
 四体で一体だからこそ、できることがあるはずだと。
 それに異論を唱えるものなどいるはずはなかった。
 柱に繋がれた紐の先。騒ぐ声に目を覚ました子狼は、不思議そうに四神たちを見つめていた。




 一方、話題の中心となっている四神の主人というと……。
 空から降り注ぐ雨を、忌々しげに睨みながら、晴明は舌打ちを漏らした。
 足元の不注意から、地面の亀裂の中に落ちた晴明は、全身泥だらけになっていた。
 履いていた草鞋はどこかにいってしまったし、日もすっかり暮れてしまっていた。
 亀裂の中に落ちたとき、受身を取り損ねて、したたか後頭部を強打した。
 そのせいで暫し、気を失う事となったのだが、幸いにも寝込みを襲われるようなことは免れた。
 ずぶぬれになった衣は重く、滴る雫が気持ち悪い。
 落ちたときに、足を痛めたらしく、身動きをするたびに痛みが身体を駆け抜ける。
「さて、どうするか」
 視線はもう感じられない。
 雨に紛れてはっきりと分かるわけではないが、危険性のありそうなモノの気配も近くにはない。
 亀裂は深く、痛めた足ではとてもじゃないが這い上がれないだろう。式神を作る札は雨に濡れて使い物にならなくなってしまっている。
 こうなったら、優秀な式神を喚ぶべきなのだろうが。
「この惨状ではな」
 晴明は息をついた。
 何者かに襲われたなら兎も角、不注意で亀裂に落ちて怪我をするなど間抜けとしか言いようがない。
 こんな阿呆な姿を、たとえ己の式神にでも見られたくはない。
 晴明の高い誇りが、式神を喚ぶことを躊躇わせていた。
 だからと言って、このままでいるわけにもいかないのも分かってはいる。
 降り注ぐ雨は勢いを増し、冷たい雫は晴明の肌から体温を奪う。
 じきに真の闇の時間になる。そうなれば、闇を糧とする物の怪たちの世界だ。
 もちろん、野山に潜む物の怪程度に臆することはないが、囲みこまれたりでもすれば、気味が悪くて仕方ないだろう。
 できることならば、自力で這い上がり、屋敷に戻りたい。
 晴明は、そろりと、土の壁に手を這わせる。
「……くっ」
 少し動かしただけで、痛みを訴える足。
 折れているのかもしれない。
 足の痛みだけが強調されているが、腕も擦り剥いて血が滲んでいるし、頭にもたんこぶができている。
 満身創痍。それも自爆による、だ。
 こんな恥ずかしい話、末代までの恥にしかならない。
 雨は止む様子もなく降り注いでいる。
 小さな割れ目から雨水が外に流れているので、亀裂内部が水に満たされることはないだろう。
 素直に、式神を喚べばいいことは分かっている。
 だが、そうなると当然、この情けない有様を見せることになるし、遠まわしに馬鹿にされることは間違いない。
 それが万が一にでも、兄弟子の耳に入れば――からかいのネタに使われることは想像に難くなかった。
 少しでも、濡れるのを避けようと、大地の突き出した影へと身を潜める。
 ぶるり、と背筋を震わせる。体温は確実に奪われている。
 凍死をするような季節ではないが、このままでは風邪を引いてしまうことは間違いないだろう。
「このまま、というわけにはいかないしな」
 体面を上手く取り繕ってからではなければ、四神を喚ぶこともままならない。
 どうしようかと、晴明はぼんやりとする頭で考える。
 瞼を閉ざす。
 もとより、視界はないに等しかったが、より濃い闇が映し出される。
 激しく大地を叩く雨粒の音。
 亀裂の間を落ち行く水の流れ。
 雫に打たれて音を奏でる木の葉。
 草陰に潜んでいる物の怪。
 あるモノは、雨に濡れることを嫌がり、木のうろに潜み、あるモノは天の恵みに歓喜したように踊っている。
 視界を閉じたからか、感覚が研ぎ澄まされていく。
 耳の横で己の心臓が歌っているかのように、心拍が間近で聞こえる。どくん、どくん、と血が体内を巡っているのが分かる。
 吐き出す呼気は湿り気を帯び、肺が収縮と膨張を繰り返す。

『いつまで、そうしているつもりだ?』

 問いかけてくるのは、もう一人の晴明。

『いつまでに、人間のつもりでいるのだ?』

 狐と人の間に生まれた身。人間であることに縋りつかなくても、狐の性に溺れてしまえと、それは言う。

『楽になれる』

 持て余す力を恐れることもない。人間を避ける必要もない。
 ただありのままで生きられると、声は囁く。

『楽になってしまえ』

「――だから、都から出たくないと言うのに」
 内なる声を遮るように、言葉を紡ぐ。
 瞼を開けば、もうその声は聞こえない。
 声はなにものでもない。晴明自身の本心でもある。
 人の身に縋りつく意味などない。血に流されてしまえば、もっと楽に生きられる。
 あのとき、父親が亡くなったとき、晴明の前に差し出されていた、選択肢の一つ。
 人間であるべきか、一層、獣に堕ちるか。
 晴明が選んだのは前者であり、そのために、四神を得た。
 それを後悔などしていないはずなのに。
 時折思う。もし、あのとき、四神を得られずに後者を選んでいたら。
 未だに胸に宿る恐れは、存在する事はなかっただろうに。
 それでも、人の生に縋りついたのは、晴明が人であることが、生死も分からぬ母の願いであり、父の望みだったからだ。
 平都は人間の闇を抱く地。だからこそ、晴明の安息地になりうる。
 逆に、こうした人の気配が遠い地は、身のうちの人ならざる血が喚きだす。
「陰陽師、か」
 呟きは雨音に消える。
 己の身のうちにあるものを制御する事さえできず、何が陰陽師だというのだろうか。
 師匠や兄弟子の期待は理解している。
 だけど、天文生である身の上で、こうして都を出されるのだから、陰陽師の職を与えられたならば、どこに行かされるか分かったものではない。
 だから、晴明は今の地位を甘んじる。
 出世には興味はないし、今の生活で十分に満足している。それの何がいけないのだろうか。
 怪我のせいだろうか。それとも、山の中に一人、という環境のせいだろうか。
 いつなく、否定的な思考になって、晴明は弱々しく首を振る。
 身体は冷えているのに、痛む足は火が付いたように熱い。
「このままでは、やはりまずいか」
 今頃、忠実な式神たちは、自分のことを探しているのか。
 騒ぎ立てているだろう、朱色と蒼色の頭を思い浮かべ、思わず笑みを漏らす。
 それと、平素を保ちながら、焼きもきしているであろう、白猫と緑頭の貴人。
 嫌味を言われることになるのは、覚悟しなければならない。
「大騒ぎして山を焼かれたら適わんからな」
 だから、仕方ないから喚んでやろう、と晴明は誰に聞かせるでもなく呟く。
 この場に汐毘がいたならば、「素直でないのぉ」と言うことは間違いなかった。
 晴明は、口の中で式神と己を繋ぐ言霊を紡ごうとして――。
 背中に突如、衝撃を受けた。何が起きたのか理解できなかった。
 足の痛みは吹っ飛んだ。その代わり、全身を強く土壁に打ち付けることになり――。

 気を失った都人。それを見下す影。
 手にするのは鎌。赤黒い染みがついた鎌。
 大きく鎌は振り上げられて――。




「気付いたかのぉ?」
 落ちて来た声。身じろいで目を開く。
 誘われるように首を横に向ければ、白い毛皮が視界を占めた。
 汐毘は虹色の瞳で、晴明の目を覗きこんでいだ。
「気分はどうかのぉ」
「…………最悪だ」
 発した声は掠れていた。
 身を起こそうとするのを制したのは、傍らに控えていた刹影だ。
 晴明は制する手を払い除けようとしたが、激しい頭痛が襲いかかり、身を横たえることとなる。
「右足は折れている。他の箇所も骨に異常はないが、青く腫れておる。頭も打っているようだしのぉ、暫く、じっとしておれ」
「…………何が起きた?」
 頭痛を堪えながら問い返せば、汐毘は尾を振り上げた。
「それは、わしの質問だのぉ」
「…………」
 晴明は記憶を探る。
 屋敷に戻る途中に感じた視線。それを追っているうちに、亀裂の中に堕ちた。
 足を痛めてどうしようもなく、雨も強くなってきたので、式神を喚ぼうとして――。
「ちっと、まずいことになってのぉ」
 黙りこんだ晴明をなんと思ったのか、汐毘が毛皮を摺り寄せながら言う。
「まずいこと?」
 ここは、仮宿として貸し与えられている部屋だろう。
 ここにいるということは、優秀な式神たちが気を失っていた晴明を見つけたということだ。
 不本意ではあるが、それが、まずいことに繋がるとは思えない。
 怪訝そうに見つめる晴明に、言いづらそうに汐毘は言葉を濁す。
 だが、いつまでも言わずにはいられないと判断し、他の者から耳に入るよりはと、汐毘は口を開いた。
「……晴明。今、おぬしには人殺しの容疑が掛けられている」
「……面白くない冗談だな」
 晴明は口元を歪めた。
「冗談だったら、いかほどに良いことか。状況を説明いたそう」

 殺さていた。キエという女が。
 八つ裂きで発見された正吉の妻で、昨日、晴明にお守りを探してくれるように頼んだ女が。
 今日の朝、滅多打ちの状態で発見された。
 血塗れの鎌が傍に落ちていたという。
 正視しかねるほどの酷い有様だった。血の海が小屋の中に広がっていた。顔は潰され、抉られた内臓は、ぶちまけられていた。
 小さな村が騒然となるには、十分すぎる事件だった。
 キエが最後に村人に目撃されたのは、晴明が尋ねる前。
 晴明が生前のキエに会った最後の人物であり、必然的に、最初に疑われる人物だった。

「馬鹿馬鹿しい。寝起きにそんな下らない話――」
「確かに、下らんがのぉ。村の者たちは、晴明が犯人であると思い込んでおる」
 キエを殺したのは晴明。よって、正吉を殺したのも晴明。
 そう村人たちは考えている。
 正吉が殺された日に、晴明は都にいたし、晴明がキエと別れた後、死体が発見されるまで一晩の時間がある。
 誰でもキエを殺すことができた。
 それなのに、晴明がつるし上げられた理由は、余所者であるということが大きいだろう。
 誰だって身近に、人殺しがいるとは思いたくはない。
「さて、どうするかのぉ」
 もちろん、屋敷の主人がそのような戯言を信じるはずもないが、村人に反乱でも起こされたら困るはず。なにより、これは晴明を遣いにやった、賀茂家の威信に響く事になるだろう。
「……厄介な」
「身から招いたことよのぉ」
「なんだ、お前は主人の潔白を信じていないのか?」
 非難するような眼差しに、晴明はこういうときだけ主人面を見せる。
 汐毘は低く笑いながら、
「そう言われてものぉ、見つけるまでの半日間。その間、何をしていたのか、知らないからの」
 単独で行動した罰だと安易に含ませれば、晴明は口を閉ざした。
 口では何て言おうとも、汐毘は晴明が手を掛けていないことは知っている。
 そんな愚かなことをする主人ではないと知っている。だからこそ、叩ける軽口だった。
「もう暫し、眠るといい。次に起きるときには少し面倒なことになっているかもしれぬがの」
「それをなんとかするのが式神の役目だろう?」
 視線を汐毘から、刹影に移す。
 その意味が分からぬほど、付き合いは浅くなく。
 やれやれ、と汐毘は小さな頭を左右に振った。
「要求が多いのぉ」
「お前たちならできるだろう?」
 絶対の信頼が込められた言霊を紡ぐから、式神たちは逆らえない。
 その要求に応えてやろうと思える。
「主人の命だからのぉ」
 刹影が音もなく立ち上がる。途端にその姿は、主人の映し身となり。
「大人しく床についていることじゃ」
 ひらり、と晴明の姿をした刹影の肩に、汐毘は飛び乗る。
 そして、部屋を出る。晴明を出せ、と外で喚く村人を宥めるために。
「厄介な」
 気配が遠ざかった後、晴明は再度呟いた。




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