陰陽記伝
平安陰陽記伝


2章「陰陽怪奇」 拾狼
   
 山奥まで来たというのに、収穫らしい収穫はなく、晴明はさっさと山を降りることに決めた。
 だが、周囲を見に出かけた汐毘が戻ってこない。晴明の苛立ちを察した刹影が、汐毘を呼びに木々の間に入っていく。
 晴明は背を木の幹に預けたまま、空を見上げた。青い空が、濃い葉の間から覗いているのが見える。
 吹く風は穏やかで心地良い。伸びっぱなしの草の陰で虫が鳴き、枝に止まった鳥が歌を奏でる。視えないところで蠢くのは、この地に住まう物の怪たちだ。晴明のことを遠巻きに窺ってはいるが、近付いてくる様子はない。
 都のような閉塞感とは無縁な場所。深い緑の大地。
 晴明は気を鎮めるように目を閉じる。
 肌を掠める風に、足元から伝わる大地の鼓動。この山は、生き物の気配で溢れている。
 思い浮かべるのは幼き頃、父と共に母を訪ねた地――信太の森。
 人なきものが生き継ぐ聖なる地。人が立ち入ることを許さない、いにしえの森。
 あの森の風を、匂いを、鼓動を、晴明は覚えている。
 あの森は、この血肉を与えた母の森。信太の狐の森。晴明の肉体の故郷。
 胸のうちに、じわりと熱が沸き起こる。
 遠く懐かしいあの地に、晴明が足を踏み入れることは二度とない。踏み入れることはあってはならない。
 晴明が生きる場所は、人の生きる地。そこを離れれば、晴明は晴明でなくなる。
 冷やりとした風が頬を撫でる。ざわり、ざわり、と木々が謳う。
 懐に仕舞いこんだ霊珠が熱を持つ。普段は冷たさしか伝えないそれが、焼けるほどの熱さを持って晴明の肌を焦がす。
 意識は遠く飛び、血が故郷を求めてざわめく。晴明は唇を噛み、それに耐える。けして、心流されてはいけないと自分自身を戒める。
 だが、意識とは裏腹に、理性の陰に潜んだ本能が叫ぶ。
 流されてしまえと。
 あるべきものに、あるべき形に戻ろうとするように、流れる血が意図を持って肌の下を蠢く。この身の内側にある何かが、安倍晴明を壊そうとする。
 喉の奥が引き攣り、晴明は微かに身を震わせた。
「晴明」
 鋭く投げかけられた声に、晴明は瞼を開いた。映るのは、刹影とその腕に抱かれた汐毘の姿。
「いかがされた?」
「……なにがだ」
 晴明は木の幹から背を浮かす。汐毘は、目を細めて主を見つめる。
 訝むような視線に気がついていないのか、晴明は元来た道を戻り始める。振り返らないその背を刹影が無言で追う。
 ひりり、と霊珠が触れていたところの肌が痛む。すでに熱は感じられないが、触れていたところが赤くなっているのは間違いない。
 無意識のうちに、痛みを訴える箇所を抑える。
 四神を従えることで、封じている血。時折、こうして、思い出したかのように疼く。それは、けして、人と交わるなと警告しているようで。
「だから、遠出は嫌だというのに」
 呟きは風に飲まれて消える。
 光と闇を抱く都。人を抱く地は、晴明が人であることを許す。だが、物の怪の気配が近い外は、この身に流れる血が呼び起こされる。
 己の中に流れるものを持て余していることに、晴明は焦りと苛立ちを感じずにはいられない。
「晴明」
 呼び止めるように掛けられる声を無視する。
 聡い汐毘と刹影は気がついているのかもしれない。だが、認めるようなことは絶対にできない。弱みを見せるなど、あってはならない。
「晴明」
「…………」
「晴明」
「…………」
「晴明」
「…………」
 繰り返し紡がれる名に、晴明は一つ息を漏らすと、足を止めて振り返った。
「汐毘。馬鹿の一つ覚えのつもりか?」
 不機嫌も露わに、冷ややかに言い放つ。
「報告も聞かずに、さっさと歩みだされれば、引き止める言葉も出よう」
 呆れ混じりに言われて、晴明の眉が跳ね上がる。
 てっきり、何も察知できていなかったのだと思っていたのだが、そうでなかったらしい。
 晴明は、己の式の方に向き直ると、
「あまりにも遅いから、なにも得られていないと思ったが」
 暗にもっと早く出来ないのかと、汐毘を責める。汐毘はしおらしく尾を垂らすと、
「それは、すまんなんだ」
 反論することなく謝罪の言葉を述べる汐毘に、晴明は舌打ちを漏らした。
 あっさりと躱されてしまうと、八つ当たりもできない。あとで、天清と凰扇にこの苛立ちをぶつけようと、晴明は固く誓った。
「で、何を見つけた?」
 問われれば、するりと刹影の腕から逃げ出した汐毘は、主人の足元に擦り寄る。晴明は汐毘を抱き上げる。
「とても強い気配」
「気配?」
 人のあまり踏み入れない山の中は、人ならざるモノが多く住まう。そういった気配がいくらでも残っていることは汐毘とて承知にはず。ならば。
「気配の主は、おそらく国津神だのぉ」
 天津神であるところの汐毘は、どこか含みを持たせて告げた。

 この国土には二種類の神がいる。天より降り立ち人に守護を与えた天津神。遥か、いにしえから大地を治め、国土を守護する国津神。
 相反する二種類の神はけして交わることはなく、やがて、それは神々の戦いへと変わって行く。
 まだ人が国を築く以前、天津神の力の前に国津神は敗れた。多くの国津神は信仰と居場所、力さえも奪われた。天津神と人を恨み憎み、神格は穢れ、残るは禍を招く身だけとなった。
 恨みは募り、祟り神と果てた国津神が跋扈する。平安のときにて、それは珍しいことではなかった。

「堕ちた神か」
 生き人さえ、祟れるモノに成り果てることができる昨今、祟れる神が跋扈しているのは不思議なことではない。
 それにしても、と思う。同じ祟るならば、なにもこんな人気のない山奥でなくても。都の方が祟る対象は山ほどいるし、わざわざ遠出をすることもなかったのに。
 不謹慎にもそう思いながら、晴明は息を一つついた。
「晴明。ことを起こしたのは、おそらくはその国津神であるまい」
「……その判断の由は?」
「穢れてなんだ」
 人を殺したのも、天狗を殺したのも、その祟り神だと考えていた晴明は、汐毘の言葉に目を細めた。
「穢れてない?」
「左様」
 沈黙が降りた。
 風がそよいでは、晴明の衣の裾を巻き上げる。
 忠実なる式神は、主人の次の言葉を待った。
 晴明は虚空を見つめたまま、微動だにしない。
 暫くの間の後、晴明はゆっくりと言葉を紡いだ。
「戻る。天清と凰扇も呼び戻して置け」
 短く命じると、晴明はさっさと背を向けて再び歩き出す。
「仰せのままにのぉ」
 汐毘は虹色の目で刹影を見上げた。刹影は黙って頷いた。
 この短い間に晴明が何を考え結論を出したのかは、概ね予想がついている。ならば、それに従うのが式神の正しい在り様だ。
 汐毘もまた主人の後を追って歩き出した。



「戻ってくるようにとのことですよ」
「あぁ? まだなんも掴んでないぞ」
 晴明とは別行動をしていた天清と凰扇は、屋敷に戻るように連絡を受けて、目を瞬かせた。
 昨夜の酒宴で二日酔いに陥った晴明の機嫌は、朝から取り繕う島もないほど悪かった。傍にいては八つ当たりの対象になるだけなので、こうして別行動をとっていたが、何も得ていない状態で戻れば、また何か言われるに違いない。
 なんとか、一つでも事件の手がかりを得たいところなのだが、広い山の中、それらしき痕跡を探すことは至難と言わざるを得ない。
「どうする?」
「……戻らないわけにはいかないでしょう?」
 遅れて戻ったりすれば、八つ当たりの理由が一つ増えるだけ。命令無視の場合はどんな目に合わされるか知れたものではない。
「虎の上殿が上手く機嫌をとっていて下さるといいのですが」
 人任せであるのは分かっているが、あの横暴たる主人は汐毘の言葉にはわりかし耳を傾ける。そんな上手い事になっているとは思わないが、少しでも機嫌が良くなっていることを祈らずにはいられない。
「取り敢えず、戻りましょう」
「二日酔いなら二日酔いで、大人しく寝てりゃ良いのにな」
 ぼやきながらも、戻らなければより恐ろしい目にあうことは分かっているので、凰扇も反対しなかった。
 道無き道を下りながら、都を出てからのことを考えてみた。
 そもそもの事の発端が人間の八つ裂き死体が発見された事。食い荒らされた形跡がなかったため、凰扇と天清は人の仕業ではないかと疑った。
 だが、昨夜、晴明が小鬼に聞いた話では、同じように四肢を裂かれた天狗の死体があったらしい。
 天狗は強力な神通力を持つ存在で、山神とも言われる。その四肢を裂くなど、余程力のある術者でもない限り不可能だろう。
 そもそも、誰が何の目的でそれを行っているのかが全く見えてこない。人間を狙っているならば、集落を襲えば良い。生気を求めているにしては、被害の数は少なすぎる。血肉を欲しているにしては、死体は裂かれているだけ。
 犯人の正体だけではなく、その意図さえ見えてこない。
「あっちで何か手がかりが得られていれば良いのですが」
 解決するまで都に帰ることはできない。邸には結界が張ってあるし、晴明の式神たちも残っているので暫く空けたところで問題はないだろうが。
 滞在中の屋敷の人たちは晴明を歓迎してくれている。だが、人嫌いの気がある晴明が、いつまでもチヤホヤされている環境に耐えられるとは思えない。
 体裁を気にする性分があるため、屋敷の人間の前で醜態をさらすようなことはしないだろうが、その分、こちらに当たりにくるのは目に見えている。事件を早く解決する事は、天清と凰扇の身の安全を保証することにもなるのだ。
「おいっ、東の」
 考えに没頭していた天清は、呼ばれるまで凰扇が立ち止まっていたことに気付かなかった。危うくぶつかりそうになるのを寸前で止まる。
「いきなり、立ち止まらないで……」
「なんか、聞こえねぇか?」
 天清の文句を遮って、凰扇は呟く。朱色の視線が、注意深く辺りを見渡す。
「こっちだ」
「ちょっと、朱の君?」
 茂る草木を押しのけて、凰扇は道無き道を逸れる。天清は慌ててその後を追った。
 人の手が入っていない大地は、草木が思うがままに背丈を伸ばしている。
 長い衣の裾が引っ掛かっては、天清は動きを止めずにはいられない。その間に、凰扇は行ってしまう。
「朱の君っ!」
 天清は凰扇の姿を見失わないように必死で追った。
 随分と移動したように思われたが、衣が引っかかって四苦八苦していたことを考えればそれほど元の道を逸れてはいないだろう。
「東の、手を貸してくれ」
 茂みの向こう、ようやく追いついた途端に、そう請われて天清は目を瞬かせた。
 目の前には大地の亀裂が出来ていた。地震の際にできたものらしく、大地にぽっかりと隙間ができている。草が茂っているため、気をつけなければ、足を取られてしまうかもしれない。
 凰扇は草をなぎ払い、地面に身を伏せて、その隙間に手を突っ込んでいた。
「なにをしているんですか?」
 一応は女性型をしているのだから、そのようなみっともない真似はやめたほうがいいのではと思わなくもない。呆れながら呟いたその耳に、僅かに届いたのは何かの鳴き声だった。
 鳴き声はどうやら、亀裂の中から響いているようで。
「……獣の子ですか?」
「そうみたいだ。暗くてわかんねぇけど、このままだと死んじまうし」
 なんとかして、出してあげたいのだが、結構な深さがあるのか腕を突っ込んでも届かない。
「わかりました。どいてください」
 仕方ない、と天清は首を振った。
 凰扇が身を引くと、天清は亀裂の中を覗きこんだ。光が届かないため、何がいるのかは分からないが、弱々しい鳴き声と気配はしている。
 ふわり、と天清の髪が舞った。空気が僅かに振動し、木々が風ではない別のモノによって揺らめく。
 青白い光が天清の指先から舞い散り、亀裂の中に注ぎ込まれた。
 ぴちゃり、と響いた水音はどこから聞こえたのか。
 次の瞬間、亀裂の間から、透明な球体が飛び出してきた。
 それは、天清の手の内に落ちると弾け飛ぶ。
 砂のように失せた球体の中から転げ出てきたのは茶色い毛に覆われた生き物だった。
「こりゃ、狐?」
「いや、狼でしょう」
 亀裂の中から助け出された獣は、小さな狼の子供だった。
 突然、日の光の下に連れ出され、戸惑ったように辺りを窺っていたが、そこはさすがに野生の生き物だった。
 自分が捕らえられたと判断したらしい狼の子は、捕らえている天清の指に噛み付いた。
「っ痛……。こら、私は助けてあげた恩人ですよ」
 うーうー、と唸って威嚇する狼の子に文句を言う。
 だが、狼の子に言葉は通じていないようだった。
「こいつ、怪我してんな」
 亀裂に落ちたときに、負傷してしまったのだろう。前足から血がにじみ出ている。
「……近くに親はいないようですね」
 助けられないと判断して見捨てたのか、それとも、ここに落ちたことを知らなかったのか。どちらにせよ、他の狼の姿は見当たらない。
「放っておいたら死んじまうよな?」
 凰扇が眉を顰める。
 牙が発達していないところをみると、まだ母親の乳を飲んでいるか、ようやく餌が食べられるようになってきた頃だろう。
 怪我をしている上、近くに仲間もおらず、狩りもできないとなると、このまま他の獣に食われるか、衰弱死するしかないだろう。
「なぁ、東の」
「駄目ですよ。我が主がなんていうか」
 凰扇の言いたいことは分かっている。助けた以上、このまま見殺しにするのは後味が悪い。しかしだ。
「隠しておけば分からないって」
「朱の君っ!」
 咎めるように強く言えば、じっと見つめてくる朱色の瞳と重なる。
 自分たちの主人が動物嫌いであるかどうかは知らない。物の怪や鬼などを傍におくことを考えれば、人間よりも好きかも知れないが、あくまでも推測でしかない。
 狼の子供なんて連れ込んだら、なんていわれることか。
「東の」
「駄目ったら、駄目です」
「なぁ」
「絶対に駄目です!」
 蒼い双眸と朱い双眸が重なる。
 天清の腕の中で、子狼は不思議そうに首を傾げた。



「見てきた辺りには、それらしき形跡は」
「そうか」
 屋敷へと舞い戻った天清と凰扇は、主人に報告を述べた。
 予想に反して、晴明に八つ当たりのようなことをされることなく、訝むやら安堵するやらで、心中は落ち着かなかった。
「そっちは、なんかあったのか?」
「天狗の死骸は生憎、物の怪に喰われたあとだったがのぉ。なかなか興味深い気配を見つけることができた」
 汐毘が、手短に国津神の気配があったことを告げれば、凰扇は手を打った。
「じゃあ、そいつが今回の」
「いや、それにしては穢れてはいなんだ。偶然、その辺りにいたというだけの可能性の方が高いのぉ」
 神が黒不浄に触れれば、穢れる。その穢れが感知できなかった以上、その神は死に関わっていないと思って間違いない。
 折角の手がかりが失せたように感じられて、凰扇は腕を組んで唸る。天清も難しい顔のまま考え込む。
 晴明もまた、口を閉ざしたまま、思考の海に意識を沈めているようだった。
「……獣」
 不意に汐毘が口を開いた。
 ぎくり、と凰扇と天清は身を強張らせた。それに気付いたのかどうか。
「獣の匂いがするがのぉ」
 晴明の膝から降りた汐毘は、天清と凰扇に近付き、鼻を寄せる。
「獣?」
 晴明の視線が天清と凰扇に注がれる。
「いや、あの……その……」
「山には色んな生き物がいますからね。移り香っていいますか……その」
 明らかに動揺の素振りを見せる天清と凰扇に、指示を仰ぐように汐毘が主人を振り返った。
 隠し事が下手な己の式神に、晴明は呆れたように息をつき、そして、
「つれて来い」
 晴明の命令は簡潔なものだった。逆らう事を許さない眼差しが、式神に注がれる。
「ただし、汚れを落としてからな」
 とぼけてその目から逃れられる術を天清と凰扇は持っていなかった。
 

 晴明の前に連れ出された狼の子は怯えた様子で身を縮こませていた。
 あまりにもあっさりとばれてしまった隠し事に、凰扇と天清は黙るしかない。下手に口を開けば、何を言われるか分かったものではないからだ。
 晴明は物珍しそうに狼の子供に視線を投げかける。
「どういうつもりだ?」
 視線は狼の子に注いでいるが問いは凰扇と天清に向けたものだ。
「怪我をしてるし、周り見ても親がいなかったから。このままだと死んじまうだろう? だから……」
「どうか、お許しを」
 凰扇が事情を説明し、天清は平伏する。
 晴明が今にも子狼になにかするのでは、という懸念の色がその表情から窺えた。
「なにも、晴明といえ、とって食おうというわけではなかろうのぉ」
 戦々恐々としている凰扇と天清を宥めるように汐毘が告げるが、
「狼は美味しいのか?」
「……晴明」
 本気かどうかわからない口ぶりで問われて、汐毘は尾を垂らした。凰扇と天清は、その言葉にびくり、と肩を揺らす。
 おそらく、冗談ではあるだろうが、折角、人が宥めているというのにどうして、こう火に油を注ごうとするのか。
 小さな狼の子供は身を震わし、恐怖に耐えている。近付く手があるのなら噛みつかんばかりだ。
 その前足に血が見られることに気付き、晴明は片眉を上げた。
「手当てはしてないのか?」
「その……それが、させようとしないもので」
 狼は元々、警戒心の強い生き物だ。子供といえ、野生の本能は備わっている。見知らぬ相手に傷口を触らせるわけはない。
 晴明は背後に控えていた刹影に目をやると、
「刹影」
 喚び声だけで、主人の意図を察した刹影は晴明に貝の器に乗せられた軟膏を手渡す。
 軟膏を受け取った晴明は、それを天清に投げ寄越した。
「怪我が治ったら、山に放せ」
 意外とも思える言葉に、手の内の軟膏と主人を交互に見やった天清はパッと表情を明るくさせた。
「……あ、ありがとうございます」
 晴明は鼻を鳴らすと、そのまま部屋の奥へと引っ込む。
 汐毘が後に続き、刹影が無言で姿を消した。



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