賀茂忠行の名は、都より離れた地にまで行き届いている。
その忠行の弟子ともなれば、歓迎されないはずはなく。
事件解決までの宿として提供されたのは、さる方の屋敷。上にも下にも置かない扱いを受けながら、暫しの借り宿としての部屋に案内された。
家の者に案内されて長い廊下を歩く晴明の背後に付き添うのは、従者に扮した刹影だ。
堅苦しいのを嫌う凰扇は牛舎のところで待機し、姿を消した天清が傍に控えている。汐毘は白猫のまま、屋敷周辺の見に出かけた。
用意された部屋に入り、屋敷の者を下がらせると、晴明は床に腰を降ろした。
被っていた烏帽子を放り投げ、結わいていた髪を解く。黒絹の煌きと滑らかさを持つ髪が舞い散る。
帯を緩め、だらしなく胸元を引き伸ばせば、ようやく、人心地がついたように晴明は息を吐いた。
脱ぎ散らかされた衣。姿を現した天清が黙って拾い集める。
人の目があるところでは、驚くほど身なりに気を遣う晴明だが、一度、内に入ってしまえば、だらしないとしかいえない。
寛いでいるといえば聞こえがいいが、もう少しきちんとして欲しいのが天清の本音だ。もっとも、それを進言するほど愚かではない。
余計なことを口に出せば、世にも恐ろしい目に合わされるのは間違いないからだ。
天上天下唯我独尊。
安倍晴明はそういう人間だ。
「刹影」
「はい」
「少し休む」
「はい」
天清はひっそりと息を漏らした。
第三者が聞いただけでは、ただ単に休むことを宣言したとしか思われないだろうが、わざわざ、晴明がそう言うときには別の意図がある。
誰かが来たら、晴明に姿を変えて刹影が対応しろ。要はそういうこと。
確かに、こうまで脱ぎ散らかしてはすぐに体裁を整えるのは無理だろうが。
何も言うまい。そう決意して、天清は衣を畳む。
「天清」
「なんでしょう?」
「床の用意をしろ」
「……もうお休みになられるんですか?」
日はすでに沈みかけとはいえ、就寝するのにはまだ早い。
それに、屋敷の主人が都からの客人を持て成す準備をしてくれている。
首を傾げる天清に、晴明は妖艶とも言える鮮やかな笑みを浮かべる。一瞬、それに見惚れるが、
「お前は主の話を聞かないのか? その耳は飾りか? 耳に見せかけて実は鼻だとでも言いたいわけか?」
「いえ、あの」
「少し休むと言ったばかりであろうが。誰が寝ると言った」
さっさと、用意しろと急かされて、畳んだ衣を置いて床を整える。
その間に晴明は刹影に近付くと、天清に気付かれぬように耳打ちをした。
刹影は晴明を見やり、それから黙って頷いた。
「用意できま」
「遅い」
まったく、もっと素早くできないのか。文句を言う晴明に、天清はただ恐縮するばかりだ。
遅くはない、と反論したいところなのだが、反論すれば数倍になって返ってくる。ここは黙っておいたほうが身のためだ。
晴明は、用意されたばかりの床に潜り込むと、刹影と天清に背を向ける。話しかけるな、と暗に示されて天清はひっそりと溜息を漏らした。
もともと、気の進まない遠出の上に、散々揺られてきたのだ。機嫌が良いとは思ってはいないが。
「朱の君のところにいって参ります」
小声で告げれば、刹影は黙って頷いた。
天清は見られぬように姿を隠すと部屋を出て行った。
その気配が遠ざかると、横になっていた晴明が上半身を起こす。その眼差しが捉えるのは刹影の姿だ。
「伝えたか?」
主の問いかけに、刹影は頭を上下させる。
「それで、なんと?」
「近辺にはそれらしき形跡はなし」
淡々と返される報告に、晴明は腕を組む。
「所以のありそうな場所は?」
「巡る限り見当たらず」
「モノの気配は?」
「同じく」
答える刹影に、晴明は小さく首を振った。
「そう簡単には無理か。もう良い。戻るように伝えろ」
「御意」
刹影が頷くのを見届けてから、晴明は再度、床に潜り込む。
晴明は一度だけ、刹影を見やると、
「用が出来るまで引っ込んでいろ」
刹影は音もなく、姿を消す。それを確認してから、晴明は目を閉ざした。
機嫌の悪い主の傍を離れた天清は、その足で牛舎に向かった。
凰扇は柵の上に座って、当てもなく視線をさ迷わせていた。浮いた足と、衣の裾が揺れる。
平都の内であるのなら、凰扇が付いていくことは稀だ。そもそも、付いて行ったところでやることはない。
身代わりを務める刹影や、身の回りの世話をする天清。話し相手である汐毘と違い、凰扇は主に安倍邸内の力仕事を伴う雑務を行っている。
今回のように牛車を使うとなれば、その先導を行うが、目的地に着いた今、その役目は終わった。
留守番をしていれば良かったのだろうが、それはそれで同じように時間を持て余すことは分かりきっている。
特にやることはなく、だからと言って、晴明の傍に付き添うのは性格的に無理なので、こうしてただボーとしているしかなかった。
そんなところに、天清が姿を現したのだから、途端に凰扇の目が輝いた。
「おうっ! 東の、どうした? 晴明に苛められたのか?」
「そんな嬉しそうにおっしゃらないでください」
とはいえ、半ば苛められたようなものであるのは事実だったので、特に否定はしなかった。
凰扇の隣に並ぶと、天清は足を止めた。
性質も性格も正反対の二人だが、妙に気が合うところがある。
四神の中でも若い二人だからかもしれない。
刹影のように、何も言わずとも主の意図を察し従うことも、汐毘のように、主に対して、時に意見し、時に諌めることもできない。
全てを悟りきったような態度をとる刹影と汐毘に比べると、どうしても自分たちが式神として不甲斐無く思えてくる。
そういった悩みを共有する二人だからこそ、こうして共にあって居心地の良さを感じるのかもしれない。
「それで、晴明はどうしたんだ?」
「我が主は、お疲れのようでしたのでお休みになられましたよ」
「はぁ?」
随分と、早いお休みだ。そう呟く凰扇に天清は苦笑を返すしかなかった。
「人間の八つ裂き死体か」
ただ四肢を切り取られただけの死体。内臓は食い荒らされておらず、身体の一部が持ち去られた形跡もないそうだ。
あるいは、人間の仕業とも限らないが。それを含め、調査せよ、と言うことなのだろう。
「東のはどう思う?」
「そうですね」
指先を唇に当てて、天清は思案する。
「人間の仕業ではない、と仮定して。人に恨みを抱いているモノの仕業と考えるのは少し無理があるように思えます。たまたま通りかかった人を狙うよりも、確実に人間がいる場所、村などを襲うほうが確実。機嫌が悪いときに出くわして殺されたと考える方が、しっくりきます」
「じゃあ、もし人間の仕業なら」
「それなら、理由は恨みである確率が高いでしょう」
山賊や金品狙いなら、四肢を切り裂くまではしないだろう。余程、相手が憎かったか、なにか意味があれば話は別だが。
「朱の君はどう考えます?」
「あたいはなぁ」
凰扇は頬を掻きながら、
「人間の仕業じゃないかって考えてる。物の怪なら、身体切りとって終わりだなんて、変なことをするわけない」
血肉を欲する衝動を物の怪は持っている。ましてや、八つ裂きにしたというならば、かなりの血が流れたはずだ。その血の匂いを前に、なにもしなかったというのは明らかにおかしい。
だから、人間の仕業なのではないかと凰扇は言う。
「しかし、それでしたら、我が主に話がいくとは思えませんが」
その可能性は、晴明の師だって真っ先に考えたはずだ。人間の仕業なら、晴明が出る幕ではないし、寧ろ、話がややこしくなる。
人間の仕業ではない確証があったからこそ、晴明に指示が下ったに違いない。しかし、天清も凰扇もそれに関する話は聞いていない。
凰扇は拗ねたように唇を尖らせた。
「また、あたいらだけ、除け者か」
晴明が師から説明を受けているのなら、汐毘ももちろん知っているだろう。そして、汐毘が知っているなら刹影も聞いているはずだ。
二人が知っていて自分たちが知らないという事実。
同じ式神なのに信用されていない気がする。
それぞれの役割だと思い込むには、少し無理があった。
『除け者』
凰扇の呟きは、天清の呟きでもあった。
夕餉は、豪華なものだった。
都からの客人を盛大にもてなし、空が星の支配下に置かれても宴は続いた。
晴明が部屋に戻ってきたのは、随分と遅い時間だった。
あれから、一眠りした晴明は、再び身支度を整え、宴に参加した。
眠ったおかげか機嫌が良く、楽しい宴のようだった。
千鳥足で戻ってきた晴明を出迎えた天清は、その身体から立ち上る香に思わず眉を顰めた。
強い香の香りと、混じる酒の匂い。
機嫌よく酔っているのは傍目からして分かるのだが。
「……我が主」
「んっ?」
いつもなら、主と呼ぶときつい一言を投げかけてくるのだが、酔っているせいか、咎めてくることはない。
それどころか。
色の薄い指先が伸びて、天清の髪を掴む。見上げてくる黒い瞳に天清は狼狽した。
酔いに潤んだ瞳、上気して色をなした頬。
中身は兎も角、外見だけは文句なしの美貌を持つから、質が悪い。
天清の方が、晴明よりも背が高いが、普段、晴明とは座って話すことが多いので、目線が下になることはない。それが、今は逆になっている。
艶やかな笑みがその顔を彩る。天清はその笑みに釘付けとなるが――。
「痛っ! 我が主、引っ張らないで下さいっ」
掴んだ髪を力任せに引く晴明に、天清は悲鳴を上げる。
振り解こうとする天写に、晴明は楽しげな表情を浮かべるばかりで、何をやりたいのか分からない。
所詮、酔っ払い。行動に意味を求めてはいけない。
そう判断した天清は、強引に手を引き離すと、背を押して床へと導く。
「もう、お休みください」
「断るっ!」
「断るじゃありません。酔っているんですから大人しく――」
「酔ってなどいない」
まだ、眠くないと駄々を捏ねる晴明に、天清は溜息をついた。
酔っていようがいまいが、暴君ぶりは健在だ。手が出ないだけ素面よりマシな気もするが、話が通じない分、厄介だ。
「虎の上殿、手を貸してください」
闇に向かって声を張り上げる。自分の手には負えない。
「にゃあ」
小さな鳴き声と共に、闇の中から姿を現した汐毘は、晴明の足元に纏わり付いた。
それに気付いた晴明はすかさず、汐毘を抱き上げ、頬に柔らかい毛皮を押し付けた。
「上機嫌だのぉ、晴明」
ゆるり、と尻尾を振って、しわがれた声で問う。
晴明は両手で汐毘を掴み、目線を合わせると、
「上機嫌で悪いか?」
「いや、主の機嫌が良いと、わしらも気分が良い」
「そうか、そうか」
汐毘の言葉に気を良くしたらしい晴明は、汐毘を抱えたまま、敷かれた床に座り込んだ。
膝の上に汐毘を乗せ、その毛触りを楽しむ。
「なにか、良きことがあったのかのぉ」
酒を飲んで酔っているにしても、あまりにいつもと態度が違いすぎる。
すると、晴明は微笑んで、
「面白い話を耳にした」
「面白い話? わしにも聞かせてくれるかのぉ」
汐毘は喉を鳴らす。
晴明の調子に乗りながら、さり気無く誘導する汐毘の手際に、天清は感嘆するばかりだ。
しかしだ。傍観してばかりもいられない。
今のうちにと、天清は晴明の背後に回ると、結わえられている髪を解く。
寝支度させておかなければ、酔いつぶれて寝てしまうかもしれない。そうなれば、明日、文句を言われることになるのは天清だ。
「この地にはな、昔から天狗が住んでいるらしい」
「天狗? 天狗とはあの天狗かのぉ」
「その天狗だ」
解かれた髪が波打って落ち、肩に触れて舞った。
「それで、天狗がどうしたのかのぉ」
天狗の存在はそれほど珍しくない。それが、面白い話であるとは思えないのだが。
すると、晴明は楽しげに口元を歪めて、
「死んでたそうだ」
「はっ?」
「はい?」
思わず、天清も手を止めて顔を上げた。
虹色の瞳が晴明を捉える。
その反応が予想通りだったのだろう。晴明は口元を扇で隠しつつ、声を上げて笑った。
「それも、四肢を裂かれていたらしい」
「……晴明」
唸るように汐毘が言えば、晴明は宥めるように毛皮に指先を滑らせた。
「誰から聞きなさった?」
天狗の死体が見つければ、もっと大騒ぎになっているはず。しかし、そんな話は耳に入っていない。だとするならば、それを見つけたのは人ではなく――。
「宴会の席に、小鬼が迷い込んできてな。どうやら、騒がしさに引かれてきたらしいが。追い払うのも野暮だと思って酌をさせたのだが」
鬼に酌をさせるのは、古今東西探しても、晴明だけだろう。
宴の席に鬼がいる。その矛盾がなんとも滑稽で、晴明を喜ばせるのには十分だった。
機嫌が良くなったついでに、その鬼にも一杯、恵んでやったらしい。
すると、晴明の気まぐれな優しさに感動したらしい小鬼がここだけの話、と声を潜めて――と言っても、他の人間にはその姿も声も目にすることはできなかっただろうが――天狗の話をしたのだ。
酒の席には、合わぬ話だっただろうが、それは晴明の気を引くに値する内容だった。
その結果、早めに切り上げてくるはずが、すっかり遅くなってしまったのだと、晴明はくすくすと、笑いながら言った。
道理で、と天清は息をついた。晴明が部屋に戻ってきた時、酒と香の匂いに混じって別のものも感じられた。同じ時を一緒にした小鬼の気配だったというわけか。
「天狗とはのぉ」
「明日、案内してくれるそうだ」
ちゃっかりと、道案内まで頼んでおくとは。酔っていても晴明は晴明。
人(正確には人ではないが)を使うことは忘れない。
呆れれば良いのか、感心すれば良いのか。
頭痛を堪えるように、天清は額を指で押さえた。
「……東の王」
掛けられた言葉に振り返ってみれば、
「寝てしまったがいいのかのぉ?」
ほんの一瞬、目を離した隙に晴明は夢の世界へと旅立っていた。
座ったまま器用に眠る晴明。幕のように垂れ下がった髪の間から汐毘が顔を覗かせる。
「我が主ぃ、まだ着替えが終わっておりません」
酒に酔った身の眠りは深い。天清の声はもう晴明には届かないようだった。
昨夜の機嫌の良さが嘘のように、朝から晴明の機嫌は地の底だった。
あのまま、眠ってしまったせいで朝の身支度に倍の時間が掛かってしまったからである。
理不尽なことに、天清が八つ当たりされることとなったが、これはもう恒例なので誰も何も言わなかった。
それ以上に、二日酔いという理由が晴明を不機嫌のどん底に陥れていた。
酔って眠ってしまった事からも分かるように、意外なことに晴明は酒に弱い。そこは同じく、酒に弱かった父親に似てしまったらしい。
だから、普段はなるべく飲み過ぎないように気をつけてはいるのだが。
刹影が煎じた酔い止めの薬を飲んで、症状は緩和されてはいるが、機嫌までは回復しなかったようだ。
機嫌の悪い晴明と行動を共にしたいとは誰も思わないだろう。八つ当たりされるのが分かりきっている。
その標的となる確率の高い天清と凰扇を哀れに思った汐毘は、二手に分かれることを提案した。天清と凰扇には、周辺の様子を、何か変わったものがないか調査してくるように告げた。
そして、晴明といえば、昨夜の小鬼に案内されて山道を歩いていた。傍に付き添うのは刹影だ。その腕の中には汐毘が抱かれている。
晴明の機嫌の悪さを承知しているのは、式神である四神たちだけだろう。
今朝、屋敷の主人や、家の者達には昨日と変わらぬ態度で、接していた。晴明が二日酔いで機嫌が悪いなど誰も気付かなかったに違いない。
体面だけなら、師や兄弟子さえも舌を巻く変貌ぶりを見せる晴明である。機嫌の悪さを悟らせないくらい、朝飯前なのだろうが。
乱暴に草を掻き分け、小鬼の後を追う。
黙々と進む背に、なんともいえない恐ろしさを感じずに入られない。
あの晴明が、文句も言わずに山道を歩き続けている。それだけで異常事態と言えた。
昼の支配者が天の中心に上がる頃、
『ツイタ、ツイタ』
先を歩いていた小鬼が金切り声を上げた。
茂みを掻き分けて、小鬼を追い抜いた晴明が見たものは。
「…………」
「まぁ、普通はこういうことになっておるよのぉ」
ぽっかりと木々の間にあった空間。刈り取られたかのようにその一画だけ草が生えていない。
茶色い地面がむき出しとなったその場所に、赤黒い染みが広がっている。だが、それの持ち主の姿はどこにも見当たらない。
小鬼の話ではここに四肢を切られた天狗が死んでいるはずだった。
「絶好の餌だしのぉ。見逃すことはあるまいよ」
汐毘の言葉に、晴明が肩を震わせた。
生きている間は、他の物の怪とは一線する存在である天狗も、死ねばただの肉塊。滅多ないご馳走を見逃すほど物の怪たちも愚かではないだろう。
そんなことを簡単に予想できるはずなのに。二日酔いで頭が回っていなかったらしい。
忌々しげに舌打ちを漏らす晴明に、刹影が黙って半歩下がった。
「周辺を探れ」
「承知」
絶対零度の声音が感情を込めずに告げる。
汐毘は即答えると、刹影の腕から抜け出した。地面に降り立つと、大地に残った赤黒い染みに近づき、匂いを嗅ぐ。それから、尾を振り茂みの中に姿を消した。
晴明は不機嫌の様を隠そうともしないまま、近くの木の幹に背を預けた。
刹影は懐から鶏肉の切れ端を取り出し、ここまで案内してくれた小鬼に差し出す。小鬼はそれを受け取ると小さく跳ねて、頭を下げるとその場から消えた。
それから、刹影は晴明に近付いていく。
晴明は右手で顔を覆って俯いていた。
「……晴明殿」
刹影はどこからか、瓢箪を取り出すと晴明に差し出した。
指の間から、晴明がそれを覗き見る。
「いらん」
「…………」
「必要ない」
目障りだと、瓢箪を払いのける。指先が瓢箪に当たり、刹影の手から弾け飛んだ。
地面に転がった瓢箪から、中の液体が零れ落ちる。
じん、と痛む手を軽く振り、晴明と瓢箪の間を刹影は視線をさ迷わせる。
晴明は目元を覆ったまま、黙り込んで何も言わない。
仕方なしに、刹影は屈みこんで瓢箪を拾う。中身が半分ほど漏れ出し、大地に染みを描いていた。
刹影は暫く考え込んだ後、周囲に目をやる。見渡す限りの中には使えそうなものはないと判断した刹影は、再度、晴明に向き直り、
「晴明殿」
「…………」
答えない晴明に、刹影は両手を晴明の目の前に差し出した。
「ここに」
顔を上げた晴明は不思議そうに顔をあげる。刹影は両手で作ったお椀をさらに晴明に近づける。
「吐いて」
二日酔いの薬が切れかけているせいで具合が悪くなっている。そのために吐き気を催しているのだろうと刹影は判断した。
だが、吐き気がするからといって素直に吐いたりしないことは分かっている。式神の前でも恥を見せることを嫌う人だから。
生憎、吐く時に口元を隠せるようなものは、見当たらない。ならば、この手に吐けば良いと、刹影は判断したのだが。
「……刹影」
顔から手を下ろし、物珍しいものを見つけたかのように、晴明はまじまじと己の式神を見つめる。
「この辺りで手が洗えるような場所はない。お前は、屋敷に戻るまで手を汚したままでいるつもりなのか?」
真面目な表情で問う主人に、刹影は返答に困ったように目を伏せた。
晴明は手を伸ばし、きっちりと結わえられた刹影の髪に触れる。
刹影は黙ってその手を受け入れる。暫く、刹影の頭を弄り回したあと、晴明は片手を差し出した。
それが何を意味するのかを悟って、刹影は瓢箪を取り出して手渡す。
今度は大人しく受け取ると、一気に中身を飲み干した。
これで多少、吐き気はマシになるだろうが、
「この味はなんとかならないのか」
まずい、と顔を歪めて呟けば、刹影は目を伏せて、
「善処します」
真剣な口調で答えた。
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