良い日和の午後だった。暖かな日差しと、涼やかな風。
そんな穏やかな陽気の下、山道を行く、一台の牛車。緑豊かな木々が天上の光を遮断し、地面に眩い幾何模様を描く。
牛車は、がたがたと上下に激しく揺れる。斜めに傾いた道。都の道と違い、整備されていない大地は牛車の車輪を弾いては浮かせる。
その度に、体のどこかしら、ぶつけることになって、晴明は思わず小さく呻いた。
「まったく、もう少し静かに走らせられないのか」
もう幾度目かも分からない文句が口から漏れる。が、それに応えるものはいない。下手に返答しようものならば、八つ当たりの標的にされることは間違いないからだ。
晴明の呟きだけが響く、牛車の内側。晴明の傍に控えていた天清はひっそりと息を漏らした。
都を出てから数時間。紡がれる文句の言葉を永遠と聞かされ続けることとなるとは、出発前は予想もしていなかった。これならば、牛車の外で付き添っていた方がマシだ。今から外に出るわけにもいかず、ただ黙ってこの時間をやり過ごすしかない。
晴明の膝の上に乗せられた白猫――汐毘は主の言葉などお構い無しに丸くなって眠っている。姿は見えないが、刹影もどこかに潜んでいるだろう。牛車の外では凰扇が牛を操っている。
なんとなく、貧乏くじを引かされた気がして天清は再度、息を吐いた。
安倍晴明は陰陽寮に所属する天文学生である。若くして陰陽師としての才能を有する彼は賀茂忠行に弟子入りし、その能力を着実に伸ばしていた。
また、無数の式神を有し、その中でも四神と呼ばれるもの――天清、凰扇、刹影、汐毘――を従え、その実力は、現職の陰陽師たちに引けをとらないとも噂されている。
その一方で、怠け性の気があるため、その扱いに師も度々悩まされている問題児でもあった。
陰陽寮に出仕することも嫌がり、安倍邸から出ることを好まないはずの晴明が、こんな山奥の山道を牛車で移動しているにはわけがあった。
そう、深いわけが。
◆◆◆◆◆
「喜べ、晴明。今日はお前に仕事を任せてやろう」
威厳のある声が室内に響き渡る。晴明は顔を上げ、目の前の師の顔をまじまじと見つめた。
きっちりと着こなされた狩衣。烏帽子が乗せられた頭は白が混じり、その下の顔には皺が刻まれている。老年ともいえる歳でありながら、目には力強さと言い様のしれない若々しさが感じられた。
晴明の師であり、晴明の兄弟子保憲の実父。賀茂忠行は、平伏していた晴明を穏やかな目で見つめていた。
「お言葉ですが、師匠」
晴明は淡く笑みを形作る。
「仕事を任せていただけないほうが、もっと喜びますが」
「それで、今回お前には京を出て――」
主張は無視される。晴明の言葉が聞こえなかったとばかりに、用件を話し始める師に晴明は眉を顰めた。
晴明がいるのは、賀茂邸の一室。師に呼び出された晴明が渋々、ここにやってきたのは先ほどのこと。挨拶もそこそこに切り出された話に、嫌な予感を覚えるのは当然のことで。
室内には、忠行と晴明しかいない。控えていたものに下がるように命じたのは忠行本人だ。つまり、これは師と弟子の身内だけの話ということだ。
そうした話の場合、ろくでもないことであることを晴明は経験上知っていた。
「師匠、ちょっと、用事を思い出しました。これにて失礼します」
「待て、晴明」
危険を感じて、逃げ出そうとした晴明を師の声が追う。
振り返れば、兄弟子に良く似た――正確には息子である保憲の方が似ているのだが――顔に笑みが浮かんでいる。忠行は無言で座るように威嚇する。
晴明は、仕方なしに元の位置へと座りなおす。
「お前が、動くことを嫌っているのは重々承知しているが……」
「だったら、仕事なんて寄越さないで下さい」
「……人の話は最後まで聞くものだ。陰陽寮で今、どんな流言(噂)が囁かれているか、存じているのか?」
「さぁて、愚鈍な者達の囁きなど、耳汚しにしかなりませんしね」
知らないと含ませて言えば、呆れたように忠行は息を吐く。
もとより、噂に興味を示さない質であるのは知っていたが。
「お前は、もっと外に耳を向けるべきだな」
「生憎ですが、意味のない言葉の羅列に時間をかけるほど、暇ではないので」
自邸でごろごろしているのが、暇でないとすると、なにが暇なのか。そうは思ったが、話が逸れてしまうので忠行はそれについては敢えて何も言わないことにした。
「一部で、お前の能力を疑うものがいる」
安倍晴明は、陰陽寮に属する天文生に相応しくない。賀茂家と交流があるがゆえに、属しているに過ぎない。
以前から、そういう噂がないこともなかったが、最近はよりそれが顕著になりつつある。
「そんな、戯言。相手にするだけ無駄でしょうに」
「そうはいかん。弟子の能力を疑われ、さらには賀茂にもいらぬ嫌疑をかけられては聞き逃すわけにはいくまい」
忠行の弟子でありながら、晴明がそれに見合った仕事をしていないのは事実だ。最初は小さな噂でも、大きくならないとは言い切らない。
「これはお前だけの問題ではない。賀茂の威信にも関わる。そこで、お前には、京の外で起きている怪事の解決に乗り出してもらう」
「怪事?」
「京より北の山にて、人の八つ裂き死体が発見された」
僅かながら、忠行の声が潜まる。晴明は目を瞬かせた。
「それは、獣の仕業では?」
「内臓は食い荒らされていなかったそうだ」
「…………」
獣ならば、内臓を喰らう。八つ裂き以外の外傷が見当たらないとするならば、それは――。
「単なる物の怪、とも言えませんね」
「あの辺りには、様々なモノが住んでいる。普段は人と上手く調和をとっているが、感化されて人を襲うようにならんとも限らん」
至急に、犯人を特定し、これ以上被害が広がらないようにせよ、ということだ。晴明は、首を左右に振り、
「それは、少々、この安倍晴明には重荷かと」
申し出る晴明に、忠行は笑む。
「お前は、私の弟子だ。出来ぬ事ではあるまい。大いに期待しているぞ」
最初から、晴明の主張など聞くつもりがなかったに違いない。そうでもしなければ、あーだこーだと言って晴明が逃げるのを忠行は知っていたからだ。最初から、晴明に是非を聞こうなど思っていない。
晴明は恨みがましげに、師に視線を送るが、
「良き報告、待っているぞ」
快活に告げられ、晴明は口を一文字に閉ざす。
自由奔放に生きている晴明とは言え、師から直接頼まれたもの。
師には、言い尽くせないほど世話になっている自覚はあるし、安倍のことは兎も角、賀茂に汚名が被るといわれては、拒否するわけにもいかない。
口では重荷とは言ったが、晴明には優秀な式がいるし、余程のことでもなければ、問題が起きるはずはなく。
晴明にそれを断れる謂れなどなく。
「……わかりました」
「では、気をつけて行ってこい」
「…………」
まんまと晴明を動かすことに成功した忠行は上機嫌だ。それに反して、晴明の機嫌は急降下する。
その不機嫌が行き着く先は――。
賀茂邸に行くように、強引に背中を押した天清に八つ当たりをしようと心の中で決意した。
それが一昨日の話。晴明は四神を引き連れて、怪事が起きた山へと向かうことになった。
|