毒薬と逃亡 「2」 本文へジャンプ


 背凭れに身体を預けて、空を見上げる。
 大きく開け放たれた窓から吹き込む風に煽られ、カーテンが大きく波を打った。白いレースをふんだんに使用したカーテンは、浜に打ち寄せる波のようにも見える。
 もっとも、実際に「波」というものを目にしたことがないため、想像のことに過ぎないし、建物の外に出たことさえ数えるほどしかない。
 椅子の肘掛に指を這わせれば、滑らかなフィルムと艶やかな手触り。細かな彫刻が施されているのが分かる。
 足元には毛長の絨毯が敷き詰められ、揃えられている調度品も一流のものばかりだ。
 心地良い風だった。優しい空だった。清清しいまでの気分だった。全てを過去形で話さなければならないことが、少しだけ寂しかった。
 水色の髪(ライトブルー)が風に流されるのを目端に捉える。
 ゆっくりと、背凭れから身体を離し、立ち上がった。ずっしりとした、重みが身体を襲う。倦怠感とでもいうのだろうか。
 服の重みではない。乾季を前に、気温が上昇したため、ひらりとした薄い生地で作られた衣服に着替えさせられている。だから、服にそれほど重さはない。
 ただ、体を支えられるほど筋力がついていないだけ。筋力がつかない身体にされているだけに過ぎない。立ち上がるという動作さえ、この肉体は満足に行うことができないのだ。
 それを恨むことはない。そうすることが、彼の望みなのだから。
「そろそろ、来る頃だと思っていたよ」
 揺らぐ足元を椅子にしがみ付くことで支えて、来訪者を迎え入れる。
 いつからそこにあったのか、鏡の中から見つめる目があった。
 水色の髪(ライトブルー)。水色の瞳(ライトブルー)。
 二つの同じ髪と、同じ瞳。
 鏡の向こうにあるのは、同じ顔、同じ姿。
 誰よりも愛しいもう一人の自分。
 手を伸ばして、鏡の表面に触れようとして。
「お別れだ」
 鏡の中の彼が言った。
 伸ばした手の行き付く場所を失って、下に落とす。
 唇を動かそうとしたけれど、その前に、鏡の中から鋭い刃物が突き出された。
「さようなら」
 彼は笑っていた。
 赤い血が、真っ赤な血が白い服を染めた。腹に目をやれば、深々と差し込まれた刃が血に濡れていた。
 身体を支えることができず、床に無様に倒れこんだ。口の中に鉄の味が広がる。
 痛みはなかった。痛みというものがどういうものか知らなかった。
 霞む目を凝らして見上げれば、彼は変わらず位置で見下していた。
 彼の手の平に目をやれば、鋭く切ったような痕があった。まだ完全に止血されていないらしいそれは、僅かに血を滲ませていた。
 それを確認して、私は――ボクは――オレは目を閉ざした。
「さようなら」
 鏡の内側から手を伸ばし、手にしたハサミで、髪の一房を切り取る。
「さようなら、――――」
 声はもう届かない。
 鏡が割れて、夢想が現実に、夢幻が現世に変わる。
 歪んだ歯車が軋んだ。



 基地の車庫には、衛生部隊専用の車両がある。それにオレは寝袋や食料、バイクを積んでいた。
「お疲れ様です。また採取ですか」
「あぁ、今度は少し遠出をしようと思って」
 顔馴染みの茶髪の番兵と話しながら、車両に乗せたバイクをベルトで固定した。
 帝国軍の人間は、誰もがレンガ色の軍服を身にまとっている。番兵も同様で、オレとの違いは、胸につけている隊証くらいだ。
 オレの調合する薬の素材は手に入りにくいものが多い。そのため、基地から離れた森や草原に赴く必要がある。
 車である程度の場所まで移動し、そこを拠点にしてバイクで周辺を捜索するのが、オレの採取のやり方だった。
「出発は明後日ですね。間違いのなければ、ここにサインを」
 許可書の内容を確認し、オレは書類にサインをする。
「それにしても、シラー中尉は仕事熱心ですね」
「まぁな。オレにはこれしかないからな」
 指先で、薬を掻き混ぜる仕草をすれば、番兵は小さく笑い返した。
「そういえば」
 不意に番兵は声を潜めた。
「先ほど、基地に蟲の車両が……」
「蟲の?」
 衛生部隊もウィルレーン帝国軍内では異質といわれているが、蟲隊はそれとはまた違った異質さを持つ隊だ。
 蟲――バグズケージ。軍内の不穏分子を始末するための部隊。
 軍属であれば、誰もが恐れ、出来る限り関わりたくないと願う存在だ。
 その部隊が、この基地に来ている。
「中尉も気をつけてくださいよ」
「別に気をつけるようなことはやってないでしょ」
「そうですか。ポイズン・シラーといえば、それなりに有名ですよ」
 毒薬師(ポイズン)はオレの代名詞のようなものだ。
 教育機関にいた頃から悪さはしていたが、配属後はさらに派手なことをやっている自覚はある。だが、薬の被験者はちゃんと選んでいるし、始末されるほど上に疎まれるようなことはやってない……たぶん。
「それにしても、本当に何が目的なんでしょうね」
 オレは不安そうな番兵の肩を叩いた。
「単に、物資を補給しに立ち寄っただけかもしれないからな」
 下手に恐れる必要はないだろう。番兵は少し安心したように笑った。
 サインした書類を返す。不備はないので、その場で受理された。
「あぁ、そうだ。ちょっと頼みごとがあるんだけど」
 オレは番兵に笑いかける。
「なんですか」
「大したことじゃないんだが。もうすぐ休憩だよな」
 腕時計に目を落とせば、昼飯の時間が近いことがわかる。
 休憩のときでいいんだけどさ、オレはそっと耳打ちする。
 その内容に、番兵は頷いた。
「わかりました。では、後で」
「ああ、よろしく」
 さて、混みだす前に先に飯を済ませておこう。オレは、食堂へと足を向けた。



 

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