毒薬と逃亡 「1」 本文へジャンプ


 しまった、と思った時はもう遅かった。指の間をすり抜けたガラスの筒が、真っ逆さまに落下していく。
 落ちていくものを床にぶち当たる前に掴む技術など、持ち合わせていない。
 ガラスが砕ける音と共に、鼻を刺す刺激臭。
 咄嗟に、窓に駆け寄ろうとするが、全身が石と化した様に、意志を無視する。四肢が痺れ崩れるように膝をつく。
 焦りとは裏腹に意識が遠のく。
 一瞬、脳裏に浮かんだ顔は――。





 薄暗い廊下を歩いていた。幅が狭く、大人二人がやっと並べる程度しかない。
 明かり取り用の窓が等間隔に並んでいるが、あまりにも小さいため、廊下全体を照らすに至っていない。照明はない。
 太陽が昇っている時間でさえ、そうなのだから、星の時間になれば闇しか宿らないだろう。
 もっとも、そんな時間に部屋を出ることなどありえないのだから、実際のところ、夜になるとどうなるのかは知らない。
 半歩前を歩く男を見上げる。白い――光の少ないここでははっきりそうだとは分からないが、部屋の中では白かった外套の裾が膝を掠める。
 相手の歩幅の方が広いため、置いていかれないように、自然と早足になっていた。
 置いていかれないように――そう願っていても、それが避けられない運命であることは理解していた。どんなに足掻いても、泣き叫んでも、置いていかれてしまうのだ。
 廊下の終わりは唐突だった。小さな窓から差し込む光に、浮かび上がる扉。
 見るからに頑丈で重たげな扉。
 外へと――終わりへと繋がる扉。
 そこまで来て、ようやく男が振り返った。
「お別れだ」
 いつもの挨拶のように、男は言った。
「お別れだ……もう二度と私がここに来ることはない」
 無表情の声に、僅かに歪んだ口元。
「…………っ」
 喉の奥に何かが詰まったように、言葉が出ない。言いたいことはあるのに、吐き出せない。
 苦しくって、悲しくって、辛くって、寂しくって、虚しくって。
 泣き叫んで、鳴き叫んで、啼き叫んで、無き叫んで、亡き叫んで。
 そうしてしまえたら、多少は楽になれるのかもしれないけど、許されることではない。
 俯けば、映るのは硬い床。ただ、そこにあるだけの床。
「すまない」
 音が揺らいだ。
 頭に乗っかる重みに、恐る恐る顔を上げれば、困ったように微笑む男の姿。大きな手の平で、小さな頭を撫でる。
 その行為に、思わず目を見開いた。
 男が、自分を子ども扱いするような動作を行うことなど、今までにないことだった。
「私は結局、お前に重荷を背負わせることしかできなかった」
 すまない、と男はもう一度謝罪する。
 細く頼りない、肩に手を乗せ、男の胸ほどしかない背丈に合わせるようにしゃがみ込んだ。
 平行に重ねられた眼差し。
「だが、忘れないでくれ。たとえ、私がいなくなっても、私が消えても、私が私でなくなっても」
 真剣な口調で、縋るように祈るように言葉を紡ぐ。
「私はお前を守ろう」
 今まで、そうしてきたように。全てを失っても、忘れても、それだけは覚えておこう。
「だから――」
 また、会おう。
 男は泣き出しそうな顔で笑った。
「約束だ」
 差し出された指。
 言いたいことはたくさんあった。伝えたいことはたくさんあった。
 結んだ口を解いたら、涙が零れそうで、何も言えなかった。
 大きな小指と、小さな小指を結ぶ。
「また会おう」
 次に会ったら、今、言えなかったことを伝えようと決めて、扉の向こうへと去る男を見送る。
 扉が閉ざされる直前、男は一度だけ振り返った。
「それまで、死ぬな」
 私たちの望みが果たされるまで、死ぬなと。
 そして、扉が閉ざされて――。








「……ラー、……シラー、おいっ! シラー」
「あ?」
 黒髪に鉄色の瞳。心配そうな表情を浮かべ、俺の顔を覗きこむ男。
 瞼を開いて最初に映ったのは、出来れば寝起きに見たくない相棒の顔だった。
 俺って朝から不幸。
 心底嘆きながら、身体を起こしかけたオレは、ここがオレの部屋ではないことに気がついた。さらには、身体に弱冠の違和がある。
 壁に並んだ棚に収められた薬品瓶。長い机の上には金属やガラスで出来た器具が並べられている。
「大丈夫か?」
 目を覚ました俺の脈を計ろうした男――ラスカの腕を振り払って、オレはゆっくりと体を起こした。
「薬品の調合に熱心になるのは良いが、もう少し気をつけろ」
 呆れたように告げたラスカに、オレはようやく今の状況を飲み込むことができた。
 ウィルレーン帝国軍衛生部隊第七小隊所属薬師。
 それが、このオレ、シラーだ。ちなみに、階級は中尉。
 俺の所属する衛生部隊は別称をバードゲージと言い、七つある小隊には、それぞれ鳥名が付けられている。
 第七小隊は鴉――クロウ隊と呼ばれ、各小隊は軍医一名と薬師一名の相棒(バディ)制度によって構成されている。
 オレはクロウ隊の薬師で、今、目の前にいるラスカ大尉は軍医で、オレの上官であり、公私を共にする相棒(バディ)である。
 オレが倒れていたのは、ウィルレーン帝国領内の南に位置する基地リエンドの調合室だ。薬を精製するための部屋で、ここに来てから、オレは調合実験を行うか、外に素材を探しに出かける日々を送っていた。
 今日も、いつものように薬の調合をしていたのだが――。
 床に飛び散ったガラス片が目に入る。風が頬を撫で、振り返れば開け放たれた窓の向こうに青空が見えた。
 頭痛を覚えて、オレは額に手を当てた。
「痛むか?」
 じんわり、とした痛みは、倒れて頭を打ったからではなく、薬の臭気によるものだろう。暫くすれば、消える。
「珍しいな」
 オレの具合を窺うラスカに、オレは口元を歪めた。
「ラスが調合室に来るなんてな」
 バディといえど、平時まで四六時中一緒にいるわけではない。最近では、基地での待機が多いため、顔を合わせない日もある。
「カークが基地入りしたからな。伝えておこうと思ってな」
 第五小隊――パロット隊の薬師カーク准尉は、オレより一つ上の先輩だ。もっともオレの方が、今は階級が上だけど。ちなみに、カークには双子の兄――フェイがいて彼はパロット隊の軍医だ。
「フェイは一緒じゃないわけ?」
 ラスカは黙って首を振った。
 オレのイメージだと双子はいつも一緒にいる感じなのだが、最近は上の意向もあって別行動が多いらしい。
「それよりも、俺が来なければ、お前はここで倒れたままだったんだぞ」
 厳しい口調が、くらくらする頭に木霊する。
 折角話を逸らしたのに、戻しやがって。
「十分に換気して作業をしろ」
「匂いがきついって苦情がきたんだよ」
 だから、窓を閉め切って作業をしていた。
 ラスカは黙って溜息をついた。無言でそういうことされると、弱冠ムカつくんですけど。
「……最近、やけに熱心だが、一体、何を作るつもりなんだ」
 机の上に並んだ薬品の瓶の種類から、調合できるものが思いつかないのだろう。
 オレの作る薬のレシピは一般的じゃないから、専門職でないラスカが分かるはずがないんだが。
「何を作るじゃねぇの。何ができるかなんだよ、ラスカちゃん」
「……苦情といえば、お前に変なもんを飲まされたと――」
「何のことかなぁ」
「…………」
「…………」
 オレとラスカは黙って睨みあう。オレは笑みを浮かべながら、ラスカは眉を潜めながら。
 静かな風が髪を撫ぜた。少し伸びた前髪が一瞬、オレの視界からラスカを隠した。
 いつもの昼下がりだ。
 この三年間、繰り返された日常だ。何も変わらない。ウィルレーンという箱庭の中の当たり前の日々。
 ラスカはオレに背を向けた。
「兎に角、気をつけて作業しろよ」
「ほーい」
 呆れたように部屋を出ていったラスカの姿が見えなくなったところで、オレは机の脚に背中を預けて息を吐いた。
 じくり、とした痛みを感じて右手に目を向ければ、手の平に包帯が巻かれていた。
 オレが自分でした覚えはない。良く見れば床には血痕を拭ったあとが残っている。
 おそらくは、倒れた拍子にガラス片で手を切ったのだろう。それをご丁寧に、ラスカが治療してくれたわけだ。
 舌打ちを漏らし、包帯を解く。
 ガラス片は残っているものの、臭気を発した薬品の痕跡はない。
「あの野郎」
 解いた包帯を放り投げ、オレは悪態を吐いた。
 引き攣る痛みと、滲む血。
 オレは目を閉じた。
 外で木の葉が擦れる。廊下に響く高い足音と囁き。
 調合室に来るのは薬師くらいしかいない。今、この基地にいるのは、基地在中の薬師と、オレ、そして、基地入りしたというカークだけだろう。
 在中の薬師は、オレがここを使っていることを知っているから、近付いてこないし、カークは――元々、それほど薬品調合に関して熱心ではないから、平時にまで仕事をしようとはしないだろう。
 必然的に、ここに来るのは、オレとオレに用があるやつだけってことだ。
 そして、唯一、用のあるラスカは今、去って行った。
 静かだった。全ての音が遠い。
 オレは瞼を開く。右手を目の前に手の平を掲げる。
 赤黒い傷が、ぎざぎざに走っている。そんなに深くはないから、すぐに治るだろう。
「――始まるんだ」
 嘆きは俺自身の鼓膜に吸い込まれる。
「なぁ、先生」
 長い様で、短い様で、長かった。それももう終わりだ。
 終わりであり、始まりであり、そして、やはり終わりなのだ。
 始まってしまえば、――終わるしかない。
 浮かんだ笑みを隠すように、オレは手で顔を覆った。




 

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