ウィルレーン帝国は大陸の三分の一を占める巨大国家だ。
西側が海、残り三方を山脈で囲まれた国。「まるで、箱庭のようだ」とは誰の言葉だったか。
遥か昔、人は産むもので繁殖するものだったという。
他の国ではどうかは分からないが、ウィルレーンでは人間は作るものである。
製造施設で量産し、基礎教育を受けさせる。十歳になると適性審査を行い、多くの子供は人手として、各町村に出荷される。
一部、適性が見出された子供は、各々の適性に合わせて専門機関に就学される。
オレの場合は後者で、薬師としての適性を見出され、薬師専科の教育機関へと入れられた。
それから、初等教育、専門教育、士官教育を終了させ、めでたくこのたび卒業となった。
ウィルレーンは軍事国家である。適性を見出され専門教育を受けた中でも優秀と判断された者は、士官として軍属になる。
オレは見事にその枠に入り、このたび、ウィルレーン帝国軍衛生部隊への入隊が決まった。あの悪名高きバードゲージに。
そして、それこそが全ての始まりであり、終焉へと続く最初の一歩だった。
*
年が明けて、四一八年マンデルの月の三日。
オレは帝都ハーニスの軍事施設にいた。
真新しいレンガ色の軍服を身に纏い、弱冠緊張しつつも辺りを窺う。
本日、午後一時より入隊式が行われる。
入隊式といってもそれほどお堅いものではない。
部隊への正式配属はすでに済んでいるし、どちらかというとお披露目に近いようなものだ。
教育機関時代は散々悪さをしてきたが、正式に軍属となった以上、そうはいかない。少なくともそれなりに出世して階級をあげてからでなければ、上官から酷い目に合わされる可能性もある。
自慢じゃないが、猫かぶりは得意だ。精々、暫くは大人しくしていようとオレは固く誓った。
背中に衝撃が加わったのはそのときだ。
吹っ飛ばされるほどではなかったが、オレは足元をよろめかせた。ずれた眼鏡を咄嗟に手で押さえる。
振り返れば、強面のおっさんがいた。すっかり禿げ上がった頭は、電灯の光を反射させている。いやはや、見事なつるっぱげだ。
「気をつけろっ!」
突然、怒鳴られて、オレは一瞬、目を瞬かせた。
上から見下すように向けられる視線。明らかにオレが新米だと分かっての行動だろう。
馬鹿にするように鼻を鳴らしたそいつは、オレに背を向けて歩き出した。
オレは拳を震わして、激情に耐える。猫を被ると誓った以上、早々に剥がれるわけにはいかない。
軍服についていた勲章の類から、お偉いさんの仲間らしい。新米を威圧して楽しんでいる変人だ。あんなのを飼っておくなんて上層部も使えないやつらだ。
もっとも、だからといって、早々に問題を起こすわけにはいかない。今は耐えるべきだ。
オレは自分自身にそう言い聞かせた。いつか、仕返しをすることを固く決意して。
オレは苛立ちを押し殺しながら、周囲を見回して――。
視線の先に見えたのは、テーブルだった。その上には飲み物が用意されている。
そういえば、さっきのおっさんもコップを手にしていたような気がする。
入隊式が始まるまでの口潤しのためだろう。
「飲み物か」
オレは愉快げに口元を歪めた。
仕返しの決意は、早くも実行に移せそうだ。
軍服の上から胸ポケットを叩けば、硬い感触。
「頼むぜ、マイハニー」
胸の内側に潜ませているそれに向かってオレは笑いかける。
オレは意気揚々と、そのテーブルに近付いて行った。
式が始まれば、ざわついていた空気は緊張を孕んだものに変わる。
一同に整列した列の中に紛れたオレは、正面を向いたふりをして周囲を観察する。
知らない顔が大多数だが、資料として事前に見知った顔もある。
おっさんどもの話を聞き流しながら、オレはそれらを暇潰しがてらに眺めていた。
教育機関でもそうだったが、こういう式ではなぜか、お偉いさん方の話が長い。立ったまま寝る訓練でもさせているつもりなのか。それでいて、どいつもこいつも自慢めいた同じ様なことしか言わない。
もう少し、時間を有意義に使えないものか。
長い話が終われば、新米仕官たちが、一人ひとり名前を呼ばれる。呼ばれた者は前に出て、改めて配属を宣言されるわけだ。
すでに正式な配属は終わっているのだから、わざわざこんなことをする必要はないと思うのはオレだけだろうか?
オレは腕に嵌めた時計に視線を落とす。
式が始まってから一時間ちょっと。あれが効き始めるのはそろそろだろう。
「衛生部隊、シラー伍長」
「はい」
呼ばれて、反射的に敬礼を返す。
他の連中と同じように、前へと出て行くが。
静寂が破られたのを感じた。式の参加者たちが声を潜めて囁いている。
その視線がオレに向けられていることは想像に難くない。
なにせ、あの衛生部隊(バードゲージ)の新入りなのだから。
「衛生って……バードゲージの?」
「あの悪名高き……」
「……新任か、可哀想に」
囁き声が間近で聞こえるようだった。オレはそれを一切無視する。
衛生部隊に配属という時点で、この状況は予測できていた。
列の前にはそれぞれの部隊長が立っている。オレは衛生部隊長の前までやってくると敬礼をした。
衛生部隊長はとても衛生部隊に属しているとは思えない、厳つい容貌をした男だった。
短く角刈りにした金髪に油断なく鍛え上げられた肉体。日に焼けた肌から普段、外で活動していることが窺えた。
これで、軍医だというのだから世の中、間違っている。突撃隊長だといわれた方がしっくりくるだろう。
ウィルレーン帝国軍衛生部隊長兼第一医療小隊長ファルケン少佐は、オレに敬礼し返した。
「自分は、シラー伍長であります。本日より、衛生部隊の指揮に下ります」
他の新米たちと同じように、オレは高らかに言葉を紡ぐ。
ファルケン少佐は新しく部下となったオレに、なんともいえない表情を浮かべた。
その表情の理由を訝む前に、
「シラー伍長。君には第七医療小隊に属してもらう」
「イエス、サー」
オレは再度敬礼した。
「早速、シラー伍長には、ラスカ少尉のバディとして組んでもらいたいのだが……」
少佐の言葉が途切れたのは、式の列から呻き声が聞こえたからだ。
それも一つや二つではない。複数の呻き声が式場内に波のように広がっていく。
顔を蒼白にして、覚束ない足取りで列から離れていく者達。
その全員がお偉い様連中であることをオレは確認した。
「……どうしたんだ?」
上官たちの奇行に、他の者達は唖然とするばかりだ。
「どーしたんでしょうねぇ?」
驚いているふりをしながら、オレは笑みを隠すので必死だった。
式場の隅で上官向けに提供されていた飲み物。ちょっとした挨拶がてらに、お偉い上官方の飲み物に仕込んであげたのだ。
オレ特性の下し薬――下剤。
後遺症も残らず、周囲にも被害が出ない、一番お手軽な薬だ。
ちなみに、オレが特別に調合したやつなので、一般的な下剤よりも強烈だ。
生憎、オレを見下したあの禿げはあれ以降、飲み物に手を出さなかったようで、他のやつらと同じように目を白黒させて同僚たちを見ている。
あの禿げには、別の手で仕返しをするとしよう。
それを考えると、どうにも楽しくって仕方なかった。
この騒ぎのせいで、否応なしに式は中断せざるを得なくなった。
|