陰陽記伝
明治陰陽記伝


「零」
 
 遥か古、天孫降臨以前よりも土地を治めし、国津神。
 天津神により支配を受け、時とともに行き場を失い、やがて怒り狂えるものに成り果て、人間の手によってその多くが眠りにつかされた。
 忘れ去られし、古の神。
 国津神の大神と呼ばれし彼もまた、忘れ去られゆく神の一柱だった。


「おおかみさん。みーつけた!」
 無邪気な子供の声が木々の間を駆け抜けた。
 うんざりしながら白い髪を舞わせて振り返れば、視界に映るのは幼い人の子の姿だった。
 まだ四、五歳ぐらいだろうか。
 おかっぱに整えられた黒髪。大きな瞳は真っ直ぐにこちらを映していて、淀みない眼差しは穢れを知らず、親愛の色を映し出している。
 小さな足を必死に動かして駆け寄ってくれば、満面の笑みを称えて、再会を声に出さずに喜んでいることが一目で分かった。ほつれの見える着物の裾が動きに合わせてはためいた。
『また、貴様か』
「きさまじゃないよ、葛葉だよ。……おおかみさん、覚えられないの?」
『……覚えられないわけあるか。人間の名前なんてどうでもいいだけだ』
 長い白髪を後ろで束ね、鋭い眼差しは金。精悍な顔に施された赤い隈取、締まった四肢。大地を駆けるためにあるその肉体に無駄はない。身動きするたびに、首元を飾る幾つもの牙を通した首飾りがカタカタと音を立てて揺れた。



 流浪する大神がこの一帯にやってきたのは、つい数日前のことだった。
 大神は狼を眷属とし、彼らを守護し続けることで狂える神となることもなく生きてきたが、大神の感覚でここ最近、眷属が人間の手によって狩られ急激に数を減らし始めた。
 地を追われし国津神である大神は、地を支配する天津神が守護する人間には手を出せない。悪意に身を堕とせば、祟れる神と成り果て大地を穢し、あらゆる存在を歪めるものになってしまう。
 目の前で眷属が殺されても、大神に出来ることは見続けることだけだった。
 人間を憎悪し嫌悪しても、守護が必要な眷属たちのためにも大神は狂える神になるわけにはいかなかったのだ。
 今の大神に出来ることは、より安全な地にへと眷族を導くことだけ。
 そして、辿り着いたこの地は大神の希望を果たすところだった。
 龍脈が接しているせいか、その地は妖怪、化け物などと称される物の怪が多く生息していた。物の怪はその地に迷い込む人間を喰らい、そのため、そこは人間にとっても避ける地となっていた。
 人間を遠ざけたい大神にとっては、理想の場所だった。
 ただ一つの事柄を除いては――。


 ほんの気まぐれだった。特別理由があったわけではない。ただ、見知った懐かしい匂いがしたから。興味半分、気まぐれ半分で手を差し伸べた。
 それがまさか、こんなことになるとは思いも寄らなかっただけだ。


 この地に辿り着いた日、周辺の地理を確認するために眷属の傍を離れた大神は、大樹の傍で蹲る小さな影を見つけた。
 普段なら気にもかけなかっただろうが、それが纏う匂いが強く心を引きつけたのだ。
 それは幼い人間の子供だった。裸足の足を両腕で抱え込み、俯いている。
 一目で分かった。この幼子には人ならざるものの血が流れていると。
 それだけだったら、そのまま無視して通り過ぎただろう。人外と契り、その血を受け継いでいる人間は多くもないが少なくもない。眷属たちを追う人間がそうであったこともある。
 だが、この血は特別だった。
 長きを生きる大神にとっても、けして短いとは言えぬ昔、僅かな時間を共有した白銀の天孤。天津神に仕える身でありながら、手負いだった大神を匿い、傷を癒すまで共にいてくれた。
 その天孤は人と契り、子を為していた。ちょっとした縁からその子とも一度だけ顔を合わせたこともあった。
 おそらく、この幼子はその子孫だろう。何十世代かに一人、先祖返りと呼ばれる現象を起こす人間がいる。祖となった人外の血を濃く継ぐことが。
 幼子はその先祖返りなのだろう。でなければ、これほど狐臭い匂いを纏っているはずはない。
 空は茜色に染まり、夕暮れが近い。夜は物の怪たちの天下だ。先祖返りといえど、幼い人の子では、この夜を無事に過ごせる保証はない。
 子供の血肉は物の怪にとってご馳走だ。ましてや、異端の血を引く身は極上に違いない。
 人間を助ける義務もなければ、義理もない。人間は眷属の敵だ。
 だが、その血の祖となった天孤には恩がある。
 ちょっとした気まぐれだった。
 大神は足音を立てずに、俯くその小さな背に近付いていった。
 大神の本性は巨大な黒い狼だ。眷属といるときはその姿でいることの方が多い。このときも、大神はその獣型でいた。
『古き眷族の血を引く人の子よ。こんなところで何をしている』
 俯いていた頭が上を向いた。
 驚きを称えた漆黒の双眸が揺れる。にわかに、その小さな身体が緊張したのが分かった。
 色白い頬を伝う雫の軌跡に大神は気付いた。
『泣いているのか?』
 人間は嫌いだが、幼い存在に対して憎悪を抱くものでもない。どんな生き物も幼いときには穢れなき無垢を抱く。それをないがしろに出来るはずがなかった。
 なんとなく哀れに思えて、そっと巨大な顔を近づけると涙の跡を消すようにその顔を舐め上げた。
 途端に黒い瞳を大きく見開いて幼子は全身を強張らせた。
 しまった、と大神は思った。別に危害を加えるつもりはなかったが、今の自分は巨大な狼であり、その口はこの幼子を飲み込めるほどだ。
 恐怖から泣き騒がれると面倒だ。例え、子供の戯言でも下手に噂が広がって、狩人たちがやってきたりすれば一大事である。
 幸いにも、幼い子供が山で行方不明になっても不思議ではない。山の奥地にでも連れて置いていけば良い。今宵の内に物の怪どもの餌となるだろう。
 瞬時にそこまで考えを飛躍させた大神は迷うことなく行動に移ろうとしたが――。
 べそを掻きながら、顔に手をやった幼子は、
「顔と服がよだれでグチョグチョになったぁ。母様に怒られちゃうよぉ」
 情けない声を上げ、着物の裾で必死に顔を拭う。
 今度は大神が硬直する番だった。幼子の言ったことの意味が一瞬理解できなかった。
 確かに、幼子の服と顔は大神が舐めたせいでよだれがついてしまっている。しかしだ。その身を丸呑みに出来るほどの大きな口が眼前に迫ったのに、この場合は他に言うことがあるのではないだろうか。
 ぐすぐす、と鼻を啜りながら幼子は一生懸命、よだれを拭き取ろうとしている。すぐ傍に、巨大な狼がいることなど、気にも留めていないようだ。
 予想とはかけ離れた幼子の反応に大神は破顔した。それだけでは収まらず、思わず地面に転がり込んで、大きな口を更に大きく開いて声を上げて笑った。
 馬鹿馬鹿しいたらありゃしない。なにを自分は考えていたのか。真剣にこの幼子の抹消を考えていた自分があまりにも滑稽に思えた。
 狐臭い、この人の子はどうやら思考も人離れしているようだった。
 笑いを無理やり、引っ込めると大神は体重を感じさせないで軽々と一回転した。
 黒い毛皮が白く染まり、獣の四肢が二本足に変じる。
 瞬く間にその姿は長身の人型へと変わった。長い白髪、金の双眸。身に纏うは裾が断ち切れた古びた布製の着物。
 獣型の名残は一切なく、その金眼だけが同じ光を放っている。
『これなら、よだれは垂れねぇだろうよ』
 そう告げながら、幼子の視線に合わせるようにしゃがみ込んだ。それでも、高い背ゆえに視線が同じ高さになることはない。
 幼子は拭う手を止めて目を瞬かせ、真剣な表情で大神を見つめる。
 なにやら考え込む素振りをした後、
「おじさんは物の怪さんなんだ!」
 パッと花が咲き開いたかのようだった。泣きべそを掻いていた顔に笑顔が灯った。
『物の怪……ってな。いや、確かに人間からみりゃー俺様も物の怪の仲間だろうが。よりによって物の怪扱いとは……』
 例え、地を追われ流浪の存在と成り果てても、神としての矜持まで捨てた覚えはない。物の怪ごときと同等扱いされるのは面白くない。
 もっとも、それをこの幼子に説いたところで理解できないだろう。
『それで、古き眷族の血を引く人の子よ。こんなところでなぜ泣いているんだ。住処に帰らなくてもいいのか?』
 この場にいなければならない事情でもあるのか。そういう意味で問いかけたのだが、突然、幼子は表情を一変させて歪ませると、大粒の涙を零し始めた。
 大神は慌てふためいた。口を一文字に結んで、ぼろぼろと涙を落とす様が、あまりにも哀れに見えて、なんとか泣き止まそうと大神は必死で幼子を宥めにかかった。
 断片的な話を繋げて事情を聞いて見ると、どうやら山に入って迷子になってしまったらしい。
 どっぷりと日は暮れて、人の目では周囲を見渡すことは適わない。
 例え、道を知ったところで幼子の足では無事に辿り着けるかさえ定かではないだろう。
『しゃーねーな。信太のねぇさんには昔、世話になったし、俺様が特別に家まで送っていってやるよ』
 乗り掛かった船とも言うのか。多少なりとも関わってしまった以上、こんなところで死なれたら後味が悪い。
 どうせ、今宵限りの付き合いだ。これも何かの縁だろう。
「ほんと!」
『本当、本当。ホレ、背中に乗れよ』
 幼子は恐れも躊躇いも見せることなく、その背に身体を預けた。
 背中に触れる温かさに、大神は一瞬、全身を震わした。
 思えば、誰かを背負うなど――それが人間以外でも――記憶にある限り一度たりともなかった。背中に温かみが宿ることなど、初めての経験だった。
 微かな震えだったので、幼子には気付かれていないと思うが、なんとなく恥ずかしく思えて大神は背負った幼子に言葉を掛けた。
『おめぇ、名は?』
 別に答えを求めていたわけではない。大神を「物の怪」と称したところから、この人の子は幼くとも見鬼の才を持った術者だ。安易に見知らぬ存在に名を教えるはずはなかった。が、
「葛葉。符宮葛葉」
 迷うことなく、即答が返って来た。
 思わず、呆れて首を回して背後に目をやると、
『…………あのなぁ。物の怪に名前を聞かれて、素直に答えるやつがいるか! 俺様が悪い物の怪だったら、おめぇを取り殺してるぞ』
 真の名はその存在を縛る呪である。それくらい、分からないわけではないだろう、と咎める口調になってしまったのも致し方ない。
 葛葉は不思議そうに目を瞬かせたあと、不意に満面の笑みを浮かべた。
 無邪気で無垢であまりにも小さく弱く儚い存在なのに、全てを悟ったような眼差しで、揺るぎない親愛を込めて、
「だって……おじさんは悪い物の怪さんじゃないでしょ」
 葛葉は断言した。

 眩いばかりの笑顔を向けて。

 その漆黒の瞳に大神だけを映して。

 作為も疑念もなく、ただ真っ直ぐな言葉を。


 大神は言葉を失った。
 その目に、その笑顔に、その言葉に囚われた。
 背中に感じる温かさと、どこまでも澄んだ闇色の視線と、目を覆いたくなるほどの眩しい笑顔と、そして、穢れなき言葉。
『……おじさんじゃなくって、お兄さんだ。全く、人間のガキはこれだから』
 引き剥がすように視線を背け、掠れる声を隠すようにぶっきらぼうに告げる。
 心内が波立ち、落ち着かない気分にさせる。
 初めての感覚に大神は戸惑いを隠せなかった。



 驚いたことに葛葉は、物の怪の巣窟とも呼べるこの山の中に住んでいた。
 人里から離れた山奥の小さな庵。その周辺には厳重な結界が施されている。
 葛葉に出来るとは思えないから、恐らくは両親が張った結界だろう。
 なぜ、わざわざ人里を避けてこんな辺ぴなところに住んでいるのか皆目検討がつかなかったが、それも関係のないことだと大神は判断する。
 所詮、一時の縁。もう二度と会うことはないだろう。
 離れていく背中の温かみをなんとなく名残惜しく感じたのは気のせいだと首を振り、大神はその場を後にした。
 もう二度と会うことはない――それが間違いであることを大神はすぐ翌日に思い知ることとなった。



「おおかみさん。どこ行くの?」
『どこだって俺様の勝手だろうがっ!』
「おおかみさん。そんなに声を張り上げて喉痛くないの?」
『貴様が黙れば怒鳴る必要はねぇ!』
「どうして黙らなくちゃいけないの?」
『貴様が喧しいからだ!』
「山かしい?」
『や・か・ま・し・い。うるせぇってことだ』
「おおかみさんの声の方が大きいよ」
『だぁぁああ! 向こうに行けっ!』
 微妙に噛み合わない会話に大神はもう何度目か切れた。
 二度と会うことはないと思った翌日に、葛葉は大神をわざわざ訪ねてやってきた。無数の物の怪を引き連れて――。
 物の怪たちに聞いたらしく、大神の素性も正しくは理解していないようだが言葉として知っていたし、気配を探って居場所まで突き止めていた。
 幼くともその身には昔、都を守護していた術者の血が流れている。
 低俗と言えど数え切れないほどの物の怪をその支配下に置いていることに、大神は眉を顰めずにはいられなかった。
 人間ごときが、物の怪を従える。
 我が物顔で大地を闊歩する人間が、人間より遥か以前に地に住んでいた物の怪たちを支配する。
 その行為が大神の中の記憶にない記憶を刺激する。
 天津神によって地を追われ支配を受けた国津神の血がざわめき立つ。
 言葉で言い表すのならば嫌悪とでも言うのだろうか。
 物の怪たちは大神を畏れて傍に寄って来ない。
 あの日、葛葉が道に迷ったのは、大神の気配を感じた物の怪たちが身を隠してしまったせいで、帰り道を案内してもらえなくなったかららしい。
 神である大神がほんの少し、その力の片鱗を示せば物の怪は呆気なくこの世界から消滅してしまうから。
 そのことだって物の怪から聞いているだろうに、葛葉は大神を畏れることも恐れることもなく、傍に寄って来る。
 大神は眷属を守護してはいるが、その生活に関わることはない。大抵は眷属の気配が感じられるところに、独りでいる。長い間、ずっとそうだったのだ。
 なのに――大神が木の上で束の間の昼寝を楽しんでいれば、喧しいほど声を張り上げ、駆け寄ってくる。
 最初の内は、驚きと新鮮さで大神も懐深く、適度にあしらっていたのだが、それが毎日となれば話は別だ。
 元々、独りを好む大神にとって、嫌いな人間が傍にいれば落ち着かない。
 だが、邪険に払っても葛葉はそれを受け流す。
 避けるように場所を移動しても、必ず大神の姿を見つけ出すのだ。
『いいか。俺様は人間が嫌いだ。だから、これ以上、纏わりつくなっ!』
「大丈夫だよ。私は人間が好きだし」
『誰が貴様の話なんかしてるか! 二度と俺様の前に現れるな』
「どーして?」
『俺様が貴様を嫌いだからだ』
「私は好きだよ」
『俺様は嫌いだ』
「じゃあ、好きになれば良いよ」
 にっこりと微笑まれ、大神は乱暴に髪をかき上げた。
 こうも話が通じないと、怒るだけ無駄というものだ。
 大神は眼光を鈍く光らせ、唸るような低い声で、
『いい加減にしろよ。俺様の言ってる事が分からないのか? 俺様の前から失せろ。でないと、その身を八つ裂きにして喰らうぞ』
 そう脅してから、大神は背を向けて歩き出した。背後の葛葉がみじろぐ気配がした。そっと視線を後ろに向ければ、走り去っていく後姿が見えた。
 遠ざかっていく背に一瞬、なんとも言えない感情が湧きあがったが、大神は首を振ってそれを無視した。



 それから、幾分後、
「おおかみさーん」
 呆れるほど間延びした叫びが大神の鼓膜を打った。
『はっ?』
 視線を走らせれば、こちらに駆けてくる幼子の姿が映った。ニコニコと笑顔を振りまきながら大きく手を振って見せる。
 頭痛がした。ついさっき追っ払ったのに、なぜもうケロリとしてやってくるのだろうか。
「おおかみさん。はい」
 そう言って葛葉が差し出したのは、大きな葉っぱの上に乗せられた木苺や木の実だった。
「お腹すいてるんでしょ」
 その言葉に大神は額を指で押さえた。
 喰らうぞ、という大神の言葉を大神が腹を減らしていると解釈したらしい。
 いったい、どういう思考回路をしているのか。
『こんなもんいらねぇよ』
 差し出されたそれを大神は振り払った。
「わっ!」
 短く上がった悲鳴。
 葛葉の手を離れたそれは重力に引かれ、地面に転がり落ちる。
「食べ物を粗末にしちゃ駄目だよ」
 振り払われたことを気にした様子もなく、葛葉はしゃがみ込んで落ちた木苺を拾い集める。
 苛立ち。その姿をみて、沸き起こっていた感情。
 何に怒りを感じたのか、自分のことなのに理解できない。
 ただ一つ分かることは、この幼子を早急に目の前から消し去らなければならないということ。
 空気が揺らいだ。大神は手を伸ばす。
 葛葉は地面に視線を向けていてその手には気付いていない。
 人間の子供の存在を消し去るなど大神には容易いことだ。
 その鋭い爪を宿す無骨な手が葛葉の首に触れかけた、その時だった。
『葛葉、イジメル駄目』
『なっ!』
 茂みから飛び出してきた無数の影が一斉に大神の身体に取り付いた。
 中型犬ほどの大きさの鱗と鎌を持ったイタチ、虹色に色を変えるトカゲ、毛むくじゃらの玉のような生き物、水色の一つ目の鬼……。
 見るからに異形の姿のそれらが大神の動きを邪魔するように手足に纏わりつく。
『貴様ら、なんのつもりだっ!』
 神である大神に物の怪がこんなことをしてくるなんて、今まで一度もなかった。払おうとするが、物の怪たちは必死で大神の身体にしがみ付く。
「うわぁ、それなんの遊び?」
 騒がしいことに気付いて顔を上げた葛葉は、その様子を見て目を輝かせた。
『葛葉、逃ゲル。逃ゲル』
「鬼ごっこなの? でも、それじゃあ、鬼ごっこにならないと思うよ」
『違ウ。大神危険!』
「おおかみきけんっていう遊びなの? わぁ、面白そうだね」
『違ウ。葛葉逃ゲル!』
 物の怪たちが必死で葛葉を遠ざけようとするが、全く分かっていない葛葉はどういう遊びなのか観察している。
『物の怪の分際で邪魔する気かっ!』
 一喝すると同時に大神の身体から眩いばかりの神気が噴出した。
 悲鳴を上げて物の怪たちは大神の身体から離れる。
 大神は大きく息を吐いた。
「うわぁ、すごいすごい」
 葛葉は拍手喝采で感嘆の声を漏らす。大神はさらに表情を険しくさせた。
 普通の人間ならば、神の気を浴びれば、その場で意識を手放してもおかしくはない。それほど、神気とは神聖で力が籠もったものなのだ。
 なのに、この幼子は平然としている。
 頭の中で警鐘が鳴り響く。この人の子は危険だ。
 幼いうちはまだ良い。だが、成長し心に邪を宿すようになれば、人外に害を与える存在になるだろう。
 今のうちに消し去らなければ危険だ。
 しゃがみ込んでパチパチと手を叩いている葛葉に向けて歩を進める。せめてもの情けだ。苦しまぬように逝かせてやろう。
『大神、駄目』
 大神がなにしようとしているか気付いたらしい物の怪たちが行く手を阻むように立ち塞がる。
 大神には物の怪たちがそうまでして、この人の子を守ろうとする理由が分からない。物の怪たちだって分かっているはずだ。人の身でありながら、人ならざる能力を受け継ぐ存在がどれほど危険なのかを。
 神や物の怪などと違い、人の心は弱く邪に溺れやすい。神や物の怪は変わらない。幾年月が経とうとも、その本質が変わることはない。だが、人は容易く心変わりし、短い時間の中で移り変わっていく。不完全で不安定な生き物。
 そんな存在にこの力はあまりにも危険だった。
『退け!』
『大神、駄目。葛葉駄目』
『邪魔をするなら、容赦はしねぇ』
 言うや否や、大神は足元に纏わりついていた一匹を足先で払った。
 大神にしてみれば、それほど力を込めたつもりはないが、小さなその身体は悲鳴を上げて吹っ飛んだ。
 他の物の怪たちが慌てて後退る。それでも、大神の進路を妨害することはやめない。
 なぜ、そこまでして物の怪たちが人間である子供を庇おうとするのか。
 だが、物の怪ごときが大神を止められるはずはなかった。邪魔者を全て払おうと大神は一歩踏み出したが……。

「やめて!」

 鋭い声が空を裂いた。
 大神はそれが目の前の幼子が発した声だとは思わなかった。
 凛とした響きを持つ言葉――言霊。
 目があった。
 向けられた漆黒の瞳が容赦なく大神を射抜いていた。
「例え、おおかみさんだとしても……私の友達を、いじめることは許さない」
 拙い口調で合わせた視線を逸らすことなく、大神の腰ほどもない幼い人間は告げた。
 そこに宿るのは驚くほど強い意志。
 迷子になって泣きべそを掻いていた姿を思わせるものは何もない。
「蹴ったことを謝って」
 大神に払われた物の怪は覚束ない足で葛葉の傍までやってきた。
 葛葉はその物の怪を抱き上げる。小さな物の怪はその腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「謝って」
『はっ! なんで俺様が物の怪なんかに――』
「悪いことをしたら謝らなきゃいけないんだよ」
『俺様がいつ、悪いことしたって言うんだ?』
「私の友達をいじめたでしょ」
 にらみ合う黒と金の双眸。
 神である大神と目を合わせていられるものはそういない。
 目は口ほどにものを言う、というようにその眼光は十分に周囲の存在を畏れさせるだけの力がある。
 誰も彼もが、それが大神の眷属であろうとも正面から大神の瞳を覗きこむことはしない――する存在などいないはずだった。
 そのはずなのに――まだ幼い、短い時間しか生きられない人間の中においても、僅かな時間しか生きていないこの子供は、目を逸らすことなく、屈するわけでもなく、強い意志を宿して大神と視線を重ねている。

 なぜ。どうして。

 畏れない。逃げない。怖がらない。怯えない。

 巨大な獣型の姿をしていても、明らかに異様な人間型の姿をしていても、驚いて喜ぶだけで、けして、拒絶しない。

 そんな人間がいるはずはない。
 そんな人間がいてはならない。

 神を畏れず、物の怪を友達と言い張る人間など存在してはならない。

『貴様……俺様が誰だか分かってるんだろうな』
 低く唸り声を上げるように告げる。葛葉は僅かに目を見開いたあと、
「おおかみさんっていう神様なんでしょ」
『貴様は神仏の一柱である俺様に反抗するのか?』
「神様だろうがなんだろうが、悪いことをしたら謝らないといけないんだよ」
『物の怪ごときが俺様の行く手を阻むのが悪い』
「でも、蹴るなんて酷いよ」
 ふっと、漆黒の双眸が揺らいだ。その視線が腕の中の物の怪に向けられる。
 先に目を逸らした方が負け、と良く言うが逸らされたと感じることはなかった。あまりにも自然に目を放した。
「……酷いよ」
 ぎゅっ、と物の怪を抱きしめる。先ほどまでの強い物言いではなかった。
 囁くような弱々しい呟きで大神を責める。
『うっせぇ!』
 たかだか物の怪ごときを蹴ったくらいで、神である自分がなぜ責められなければならないのか。
 苛立ちを込めて声を上げれば、再び黒い双眸が向けられる。
 それを避けるように大神は身を翻した。
『もう二度と俺様の前に姿を現すなっ!』
 そう吐き捨てる。
 胸にわだかまる苛立ち。何に対する怒りなのかさえ分からない。
 人間ごときに振り回される自分などあってはならない。ましてや、心揺れ動かされるなど。
 一息の間。大神は溶ける様に木々の合間に姿を消した。



「大丈夫?」
『大丈夫』
 葛葉は物の怪たちに問う。物の怪は一斉に返答する。
「蹴るなんて……おおかみさんは、いけない子だよね」
 仮にも神である大神を「子」と称するのは恐れ多いが、葛葉が気にする様子はない。
 神であろうがなんであろうが、大切な友達を傷つける行為は容認できるものではない。
「ちゃんと、謝らせないとね」
『葛葉、構ワナイ。大丈夫。良イ』
「良くないよ」
『駄目、葛葉駄目。大神、近付ク、駄目』
『葛葉、危ナイ。大神、本気』
『大神、人間嫌イ。刃向カウ、嫌イ。葛葉駄目』
 姿を消した大神を追わんばかりの葛葉を、物の怪たちは必死で止める。
 さっきは無事で済んだが次はどうなるか分からない。
 大神にとって人間は敵でしかないのだ。
 しかし、心配そうな眼差しを向ける物の怪たちに向かって葛葉は微笑むと、
「大丈夫だよ。大神さんは良い神様だから」
『……葛葉』
「迷子になった私をちゃんと家まで届けてくれたし」
 それが単なる気まぐれによるものだとしても、葛葉にとって大神に救われた事実は変わらない。
『大神、人間駄目。葛葉、人間。駄目』
 大神は人間が嫌いだ。葛葉が人間である以上、大神は葛葉を嫌う。
 葛葉は紅葉のような小さな手で物の怪たちの頭を撫でた。
「おおかみさんは、人間が嫌いかもしれないけど、私は人間が好きだから大丈夫だよ」
 胸を張って断言する葛葉に物の怪たちは首を傾げる。
 そんな物の怪たちに葛葉はふんわり、と笑みを零した。



 人間なんて嫌いだ。
 身勝手で、我が儘で、同族だろうが平気で殺し合う生き物。
 そんな生き物が神に抗う力を得ていいはずがない。
 あの幼子は、大神を畏れない。神気の影響を受けない。異端の血か、あるいはその魂の特性かは定かではないが――。
 殺してしまったほうが良い。
 消してしまったほうが良い。
 曖昧で不安定な存在が、時として災厄をもたらすことは周知の事実だ。
 そんなことは分かっているのに。
 殺せないはずはない。
 憎悪から殺めるのでなければ、その手は穢れない。
 死の不浄は神にとって避けるべきものではあるが、禁忌とされるものでもない。
 なのに――大神は殺さなかった。
 物の怪に邪魔をされたから殺せなかったわけではない。
 あの程度の制止など意味を為さない。
 殺せなかったのは――。
 あの目。漆黒の光を宿す瞳。
 畏れを抱かない眼差し。
 それに一瞬でも囚われてしまった自分が腹立たしい。
 同時にそこまでして、あの幼子を殺そうと思った自分に疑問をもつ。
 たかだが人間。その通りだ。
 例え、普通でない力を持っていようと、大神の敵にはなりえない。
 心に波が立つ。
 あの夜に見た笑顔が瞼裏にへばりついて離れない。初めて感じた他の存在の温もりを思い出すたびに訳もなく不安になる。
 眷属以外に心を許さず、その眷属とも普段は離れて見守るだけに徹していた大神は、ずっと長い間孤独だった。
 誰とも馴れ合うことなく独りでいた。
 他者を知らなければ感じない孤独というものがあることを、ずっと独りであった大神は知らなかった。
 理由の分からない初めての感情に、大神は苛立つしかなかった。



「おおかみさーん」
『…………』
 元気良く駆け寄ってくる姿を視界に入れながら、大神は再び目を閉じた。
 少し高めの木の上は風が通り、心地良い場所だ。
「おおかみさーん」
 空は高く晴れ渡り、木々の葉で遮られた日光が地面に濃い影を作り出している。
「おおかみさんってば」
 こんな日は昼寝をするのに限る。
「ねぇってば」
 風が頬を掠めて、白髪を舞い上がらせる。
「んっ……と」
 微かに空気が湿っぽい。雲は見当たらないが、山の天気は変わりやすいものだ。一雨降るかも知れない。
「んっしょ……と」
 西の方の崖は地面が緩くなっているので近付かないように、あとで狼たちに警告しておこう。
「わぁっと……んっ」
 ごそごそと蠢く気配に微かに瞼を開いて下に視線を向けてみると――。
 太い木の幹を必死でよじ登ろうとしている黒い頭が見えた。
 大神はひっそりと息をついた。
 昨日の対立はどこへやら、当たり前のようにこの子供は今日もやってきた。大神の言葉など完全に無視している。
 大神は舌打ちを漏らしながら再び目を閉じる。構うからいけないのだ。放っておけば良い。
 一晩経って、大神なりに色々と考え直してみた。人間ごときのためにこの手を汚すことはない。自ら手を下さなくても、そのうち、この幼子はその血ゆえに命を落とすだろう。
 昨日は冷静さを失っていただけなのだ。人間の行動なんかに神である自分が心乱されるはずはない。たかだかちっぽけな人間のために気を病む必要などないのだ。
 自分に言い聞かすように、心の中でそう呟く。
 ふっと、すぐ傍で息遣いが聞こえた。
 それに誘われるように再び目を開ける。飛び込んできたのは――。
「……とーちゃく」
 荒く息を吐きながら、ニッコリと満面の笑みが大神の顔を覗きこんでいた。
 小さな手で大きな幹を必死で掴んで、額には汗を浮かばせて、満開の花を思わせる笑みがすぐ間近にあった。
 無視しよう、と思っていたはずなのにその笑顔から視線を外せない。と、思ったのもその一瞬だけだった。
「えいっ」
 掛け声と共に葛葉は躊躇うことなく木狼に飛びついた。
『なっ……』
 木の枝に身体を預けて横になっていた大神に避ける余裕はなかった。
 ぐらりと傾いた身体。その上にしがみつく様に取り付いた子供。そのせいで、両手で体重を支えることが出来なかった。
 真っ逆さまに落下した。
 全身に走る鈍い衝撃とそれによる地鳴り。更にとどめを刺すように腹の上に葛葉が着地する。
 思わず、呻き声が漏れた。視界が歪み、目の中に星が瞬いた気がした。腹部が圧迫されているせいで呼吸が苦しい。
 それでも、神の身の上である肉体が損傷する事はない。
『貴様っ!』
 跳ね上がるように飛び起きれば、コロリ、と小さな身体は大神の上から転がり落ちる。
 大きな瞳が大神を映して、口元に鮮やかな笑みを形作った。
「仕返し、せーこー」
 地面に尻餅をついたまま、背後を振り返り、拳を天へと突き上げる。茂みが揺れ、無数の物の怪たちがこちらを窺うように顔を覗かせた。
『はっ?』
「おおかみさんが、悪いことしたから仕返ししたんだよ」
『し……仕返し?』
 大神は惚けたように目の前の人の子を見た。なにを言われたのか理解できなかった。
 一方、まんまと蹴られた物の怪のための仕返しを果たした葛葉は、ニコニコと嬉しそうに笑っている。
 その足元に恐る恐ると言ったふうに物の怪たちが寄って来た。もしも、大神が怒って葛葉に害を為そうものならば、身を挺して守ろうとその身を葛葉と大神の間に置く。
 しかし、大神は立ち上がったままの姿勢で葛葉を黙って見つめていた。
 葛葉は立ち上がり大神を見上げると、
「おっこって、大神さんは痛かったでしょ? 蹴られた子も痛かったんだよ。だから、もうしちゃ駄目だよ」
 小さな手が伸びてきて、大神の服についた汚れを払う。
 物の怪たちは、いつ大神が切れるかビクビクしながら様子を窺っている。だが、憮然とした表情をしているものの、予想に反して大神は黙ってその手を受け入れていた。
 自分に触れてくる、あまりにも小さな存在。
 大神が本気を出せば、その鼓動を止めさせることなどわけないと言うのに、大神を畏れない人間。
『……今まで会った人間の中で、貴様が一番変だ』
 敵意も警戒心も抱かず、親愛の情を示して見せる人間など。
 吐き出された呟きに葛葉は大きく目を見開くと、小首を傾げた。そして、
「……私と、父様と母様以外にも人間っているの?」
 心底、不思議そうに尋ねた。
 大神は絶句した。
 聞き間違いかと思ったが、嘘偽りを語らぬ眼差しが問いかけてくる。
『んなの、いるに決まってんだろうが! 都に行けば人間なんて腐るほどいやがるぞ』
「みやこ? みやこってなに?」
『……人間どものでっかい住処のことだ』
「へぇ、おおかみさんって物知りなんだね」
『……物知りっていうかなぁ』
 大神は白髪を掻き上げた。物知らずにも程がある。
『貴様、山から降りたことがないのか?』
「うん。父様は時々、外に行くけど、外は危ないからもっと大きくなるまで行っちゃいけないんだって」
 普通に考えれば、人間にとって危ないのはこの山のはずだ。真っ昼間から物の怪が闊歩するような地。それよりも、人間が群れる地の方が危険だというのか。
 しかし、大神には葛葉の父親がそう言った理由が分かる気がした。
 幼いながら、この子供には見鬼の才だけでなく、人ならざる血が強く影響している。人の中にいれば、それは異端として映るだろう。
 それが原因で迫害でも受ければ、この子供の精神が歪まないとも限らない。そういう意味では、山の外――人間のいる都や町、村は危険だ。
「人間ってどれくらいいるの? 私の両手の指の数よりも多い?」
『多いに決まってんだろ。数え切れねぇくらい、うじゃうじゃいやがる』
「じゃあ、みやこって、とっても大きいんだね」
『大きいつーか……いくつかあるんだ』
「一つじゃないの?」
 なんともおかしな話だ。人間のことなんてそれほど大神は知らない。なのに、この人間の子供は大神よりも人間のことを知らない。
 大神の知る範囲で人間の生活について話せば、葛葉は目を輝かせそれに聞き入る。
「おおかみさんって、何でも知ってるんだね。私のおうちも知ってたし」
『別に知ってたわけじゃねぇよ。貴様の気を辿っただけだ』
「辿るの? どうやって?」
『気配を追えば良いんだ。そんな難しいことじゃねぇよ』
 物の怪たちは、ポカンとして和気藹々と言葉を交わす一人と一神を見つめていた。さっきまでの緊張感はどこへやらである。
『……貴様、本当に変だな』
「私は変じゃないよ。葛葉だよ」
『名前じゃねぇって……』
 大神は大きく息を吐いた。
 目の前にいる子供は人間だ。どんなに狐臭い匂いを放っていようと、これは大神が敵視する人間そのものだ。
 そんなこと分かりきってはいるが……。
「ねぇねぇ、気の辿り方、教えてよ」
 大神の服の裾を掴み、漆黒の瞳が見上げてくる。
 知らず知らずの内に大神の口元が緩んだ。
『……全く、こんな人間がいるとはなぁ。いいぜ、教えてやる』
 その言葉に、葛葉は満面の笑みを向けた。



 誰が想像したであろうか。その後、大神が己の真名を葛葉に教えることになると。孤高を好む大神が、一人の人間と深く関わり合いを持っていくことになると。


 それは、まだ始まったばかりの物語。




H19.9.9




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