この島国の四季のうちで、もっとも暑い季節が過ぎた。
ほんの少し日が遠ざかり、これから夜が近付くようになる。
それでも、日が高く昇る頃合は、太陽の熱が地上を襲い、変わらぬ陽気を提供している。それもまた、日が沈むまでの話だが。
日が傾き始める夕刻は、山の向こうから冷えた風が吹いて、太陽の時間が過ぎたことを伝える。
昼の暑さが弱まれば、季節は実る時期へと移ろうだろう。そうなれば、家の裏に植えた麦が収穫できる。
この冬を凌ぐだけの蓄えは、なんとか欲しいところだ。なにせ、もうすぐ新しい家族が増えるのだから。
土御門(つちみかど)明信(あきのぶ)は、山の中の小さな庵に、妻と共に俗世を離れて暮らしていた。
土御門家は、かつて栄華を極めた陰陽師家だった。
だが、一八七〇年に陰陽道が廃止されたことから、一族の大半は世を儚み、自らの命を絶った。そして、生き残った者達も、その名を名乗ることが出来なくなった。そんな中で、明信は土御門家の最後の当主として人里を避けて山の中で暮らすことを選んだ。
もちろん、楽な生活は到底望めず、僅かな山の幸と、庵の裏の畑の作物で、その日の生活を凌ぐので精一杯だった。
肉薄の頬、骨ばった手。身に纏う着物は端の方が擦り切れて痛みが激しい。新しい着物を買いたいところだが、そうも、言ってはいられない。
先ほど述べたように、もうすぐ、新しい家族が増えるからだ。
明信にとっては、初めての子が生まれる。
生み月を迎えた妻を労わり、少しでも栄養のつくものをと朝早くから山を回った。幸いにも仕掛けておいた罠に猪が掛かり、数十日ぶりに肉を口へと運ぶことが出来た。余ったものは干し肉にし、冬に備えて保存しておく。冬場になれば、実り少なくなるのは毎年のことだからだ。
実りの季節の夜は長い。
明信は縁側に座り、水盤を覗き込んでいた。栄華を極めた頃の一族に比べて、遥かに劣るものではあるが、明信も多少ならば術を使える。
すでに妻は床につき、今宵はもうすることはない。手慰みもの代わりに、今宵は生まれくる我が子の未来を視ようと不意に思い立った。
正直、この時代にこの血に生まれ来ることが、幸せであるとは思えない。
明信自身、土御門当主という立場でありながら、人里では符宮と名乗っていた。
土御門という名は、最早、人前で名乗ることは許されないのだ。
生まれ来る子には当主を継がせるつもりはないし、土御門の名を継がせようとも思わない。しかし、遠い時代より継がれてきた知識と技術を失わせるわけにはいかない。
相反する思いを抱きながら、明信は水盤に手を翳(かざ)した。
水盤は鏡のように平らな面を覗かせている。暫く、じっと様子を窺っていたが、これと言った変化は起こらない。
明信は腕を組んで水面を睨んだ。
生まれる前の命を視ることは、容易いことではない。また、視ることは日によって、視やすかったり視にくかったりするものだ。今宵は後者なのかもしれない。
気の早い虫が茂みの中で鳴いている。
何の代わり映えもない水盤をいつまでも視ていても仕方ない。
そろそろ、寝床に就こうかと明信は膝を立てて立ち上がろうとした。
その時だ。
一筋の白い光の帯が水盤を横切った。
「……っ!」
明信は息を飲んだ。慌てて水盤を覗き込むが、水面が映すのは夜空に散りばめられた星々のみ。まだ太陽の気配を抱く風が、波立てて波紋が広がった。
見間違いではないはずだ。今、確かに光の筋が走った。その軌跡が残っていないかと、明信は水盤に鼻をつけるぐらいまで、顔を近づけた。
「きゃぁぁあ」
甲高い悲鳴。はっとして、水盤から顔を上げると、明信は立ち上がった。
今のは、奥の部屋で休んでいる妻の悲鳴だ。
明信は妻がいるであろう奥の部屋に飛び込んだ。
「どうしたっ!」
妻は怯えた顔で敷かれた布団に横になって、身を震わしていた。何かに抑え付けられているかのように必死でもがいている。明らかに尋常な様子ではない。
夜の帳に支配された室内は闇に包まれていて、小さな机の上に置かれた蝋燭だけでは見渡せない。
「雷光(らいこう)!」
短く祝詞を唱えて宙に向かって叫べば、青白い光が部屋の真ん中に浮かび上がる。
明信が従える式神――雷光だ。
その光が浮かび上がらせたのは――。
妻の身体に圧し掛かるように蠢く影。明信は顔色を変えた。
瞬時にそれが何かを悟った明信は、右手の人差し指と中指を立てて、手剣を作る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
横線と縦線を言葉と共に同時に描く。
赤い光が走り、それは影にぶつかった。
影は声なき声で悲鳴を上げると、溶けるようにその場から姿を消した。
明信は妻の傍らに膝をついた。肩を抱き寄せれば、震えているのが分かる。雷光が照らし出す光がその横顔を一層、青白く見せていた。
「大丈夫か?」
「……はい」
答える声は弱弱しい。
明信は部屋の周りに結界を張ると、妻を寝かしつけた。妻は不安げな表情を浮かべていたが、気に当てられていたのだろう。落ちるように眠りについた。
明信は妻が寝たのを確認すると、庵の周りにも厳重に結界を張った。
五芒星と幾何学模様が描かれた符が庵中の柱に貼られる。
先ほどのあの影は、物の怪だった。
妖怪、怪物、化け物、そう称されるもののほとんどの正体が物の怪だ。
この山は龍脈に接しているため、物の怪や精霊の類が集まりやすい。
生気を求め、そういうものが、この庵に来ることも珍しくはなかった。
だが、直接襲ってくるようなことは、今まで一度たりともなかった。
寝ている間に、枕元に忍び寄ってきたりするのが関の山で、明信が土御門の名を持つと知っている物の怪たちは、退魔されることを恐れて、不用意には近付いてこない。
結界が全て、問題なく発動していることを確かめながら、明信は不意に、先ほどのことを思い出した。
視線を縁側へと向ければ、そこには水盤の水が雷光の光を浴びて煌いているのが分かる。
水盤に走った光。あれが何を示すものなのか。得体の知れない不安が明信の心に影を落とした。
それからというものの、日が落ちれば、庵の周りに不穏な影が姿を現すようになった。明信の張った結界の効力が働いているため、中に入ってくることはないが、心静まるはずがない。
そのことを妻には話さなかった。
最初に襲った物の怪のことだけは、適当に誤魔化して伝えておいた。
もちろん、それで納得するような妻ではなかったが、それが己と子の身を案じるものと悟り、それ以上、なにも言わなかった。
「物の怪たちが狙っているのは腹の子か?」
明信が下した結論はそれだった。水盤の光の意味は分からなかったが、生み月になって姿を現した影。妻が狙われているのであったならば、もっと早くに事が起きてもおかしくはないはずだ。
では、なぜ、まだ生まれてもいない赤子が狙われているのか。
物の怪が子供を狙うことは多々ある。
大人の血肉よりも子供の血肉のほうが美味しいのかどうかは知らないが、物の怪の類が子供の血肉を好む傾向があるのも事実だ。
しかし、生まれる前の子供は、母親によって守られる。
赤不浄――血の穢れ、月の物――を持つ女の身体は穢れを抱く。その穢れが生まれる前の赤子を守っている。
物の怪は、黒不浄――死の穢れ――を厭わない代わりに、赤不浄を畏れる。
それは命の始まりを意味しているからだ。
そのはずなのだが……現実に生まれる前の子供が狙われた。
その理由が分からず、明信は眉間に深く皺を刻むばかりだ。
その日は新月だった。妻が産気づき、あらかじめ頼んで置いた産婆に来てもらった。
明信は湯を沸かしたり、桶に水を汲んできたりと慌しく働いた。
一通り準備が終わり、あとは生まれるのを待つばかりとなると、男に出番はない。
縁側に座り込み、星が輝く空を見上げる。
月がない夜空は星々の天下だ。普段、月に光を遮られている星たちは、ここぞとばかりに存在を主張している。
その光を見ていて、唐突に、明信はあのときの白い光のことを思い出した。
視線を横に向ける。
布に覆われた水盤が部屋の隅に置かれている。あれから一度も水盤を覗いていない。忙しかったのもあったし、なんとなく、覗き込むのをはばかれたのだ。
明信は水盤を出すと水を張った。揺れ動く水面は、時間とともに凪いでくる。
水盤を覗き込み、暫くじっとそれを見つめていたが変化はない。空を彩る満面の星が水盤の上で輝いているだけだ。
やはり、あの時見た光は気のせいだったのか。そう思い、明信は水盤を片付けようとしたが――。
星が落ちた。
水盤に映る星が、一斉に水盤の下のほうに流れ始めた。
明信は慌てて空を仰いだ。星は変わらず夜空を飾っている。
なのに、水盤上の星は落ちていく。
明信は唖然としてそれを見つめていた。一体、何が起きているのか、理解できなかった。
水盤に浮かんでいた星は一つ残らず、落ちていった。そして、水面に残ったのは暗い夜空。
「これは、一体」
吉凶を視るにしても、こんな意味の分からないものは、聞いたことも見たこともない。
明信は言葉もなく、光を落とした水盤を見つめていた。
「オワァァア、オワァァア」
庵中に響き渡った、泣き声。
明信はハッと我に返った。今はこのことを気にしている場合ではない。
泣き声に誘われるように、明信は奥の部屋へと足を踏み入れた。
そして、明信は再び、言葉を失うこととなった。
「名は葛葉だ」
生まれて七日目。お七夜に明信は自分の息子に名を与えた。
それを聞いた母親となった妻は小首を傾げた。
「葛太郎なら分かりますが、葛葉では女名ではありませんか?」
確かに、男で葛葉ではおかしいことだろう。
妻の腕の中で眠る、生まれて間もない赤子に目を移す。微かに生え揃った黒い髪。今は閉ざされている瞳も同じ漆黒だ。
どこからどう見ても普通の赤子だ。
だが――明信は、例え、落ちぶれて世に忘れ去られようとも、陰陽師の血がその身に流れている。
受け継がれてきた血が、己の子が普通の子とは違うことを教えた。
見た目は普通の赤子なのに、この子の身体には一族の祖となった天孤の血が濃く受け継がれている。
先祖返り。
稀に、このようなことが起こることは知っている。だが、こうも強く、人間である明信が分かるほどに強く、天孤の気配をこの赤子から感じるのだ。
「いや。女名、男名の問題ではない」
意味が分からず不思議そうな表情をする妻に微笑みかける。
先祖返りであろうがなんだろうが、この赤子が自分の愛しい息子であることに代わりはない。と同時に陰陽師としての恐怖が沸き起こった。
いつか、この子が人間でなくなってしまうのではないか。人ならざるものの血は、時として人を人以外のものに変えてしまう。それを明信は恐れた。
そして、同時に理解する。
物の怪が生まれる前のこの子を狙ったのは、世に生まれさせないためだ。
人でありながら人ならざる血は、思いも寄らぬことを引き起こしたりもする。それを物の怪は恐れたのだろう。
この子が物の怪にとって脅威になるかもしれないと。
「名は、最も短き呪という」
一族の祖となった天孤。かの物の怪は「葛の葉」という名を抱いていたと伝えられる。
その名を持ち入り、天孤は己の身を人として扱ったのだ。それゆえに、その名は、天狐の血を縛る呪となるのだ。
「この子の名は葛葉。符宮葛葉だ」
一つの願いと希望を込めて。
けして、物の怪に身を落とさぬように、人ならざるものと果てないように。
明信の切なる願いが込められた名であった。
明信はまだ知らない。
数年後、最初に視た白い光と同じ色を持つ、いにしえの神と、己の息子が出会うことなど。
星の落ちた日に生まれた赤子。
星の行く先は、吉と出たのか、災いを呼んだのか。
それは、おそらく誰も知ることはない。
H19.9.26
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