陰陽記伝
平成陰陽記伝


「2話序章」
 
 ドンッと言う鈍い音が響き渡った。振動が道場内を震わす。
 誰もが言葉を失い、床に倒れ付す巨漢(きょかん)を唖然と見つめていた。
「口ほどにもねぇな」
 そう呟いたのは、二十代前半頃の若い女だった。
 夕日を思わせるオレンジ色の髪に、燃える炎の瞳。短く袖を切った柔道着を着ていて、高い長身を更に補うかのように、高下駄(たかげた)を履いていた。
 整った顔立ちにすらりと伸びた細い手足。モデルか、女優か。
 服と場所がそれなりのものであったなら、そう思われていただろう。
 或いは、女がした所業をそうと認識しなければ、見目麗しい美女として熱い眼差しを注ぐことが出来たかもしれない。
 女は鼻を鳴らして、床を這いずる男を上から見下ろす。
「こんなのが、師範(しはん)だって? あたいに一撃も見舞わせられないようなやつが?」
 容姿に似合わない男勝りな口調が、なぜかぴったりに感じられる。
 呆れが混じったその言葉に反論できる者はいなかった。
 たったの一撃食らわすどころか、髪一本触れることも適わず、男は床に沈んだのだ。
 巨漢を倒すのに女が掛かった時間は、僅か一分にも満たなかった。
 女は息を乱すどころか、相手を倒したという余韻(よいん)に浸っている素振りさえなかった。
「他に掛かってくるやつはいねぇのか?」
 見回すように視線を左右に振れば、周りを囲むように立ち尽くしていた道場の門下生たちは、女の赤い瞳から逃れるように顔を背ける。
 彼らの目には一様に、恐怖が宿っていた。
 若い、それも大層、美人な女が、屈強な男を僅かな時間のうちに倒したのだ。恐れを抱くなと言う方が無理だった。
 床に伏している男はけして、弱くはないはずだった。でなければ、市内でも有数の武道場の師範代など務まらない。
 だが、現実に男は床に倒れ、起き上がる素振りさえない。否、起き上がろうと微かにもがいているのだが、倒された衝撃が強く、身体を動かすことが出来ないのだ。
 女は舌打ちを漏らす。
「どいつもこいつも、根性なしばっかだね。それでも、武道家のはしくれかい! 情けないったらありゃしない。あたいみたいな女にやられて悔しかぁないのかい」
 女は再び、目の前の床に伏せている男に視線を向け、
「所詮、見掛け倒しってことか」
 吐き捨てるようにして呟かれた屈辱的な言葉を、黙って受け入れるしか男に道はなかった。
 女は身を翻すと、それっきり振り返ることなく道場を出て行った。
 女が去った後も、誰一人として男に手を貸そうとする者はいなかった。哀れんだような眼差しを向けたまま、門下生たちは何も言わず、その場を去る。その視線には、僅かながら侮蔑が混じっていた。
 一人残された男は力の入らない拳を振るわせるしかなかった。
 生き恥だった。若い女に門下生たちの目の前で呆気なく倒されて、平然としていられる男がいるだろうか。
 自分の弱さを恥じるほど、男は出来た人間ではなかったから、必然的に自分に屈辱を与えた女を恨んだ。
 恨んでも、恨んでも、恨みきれないほどの憎悪が胸の内に沸き起こる。
 自分が弱いのではない。運が悪かっただけなのだ。でなければ、男の自分が女なんかに、ああも簡単に負けることがあるはずはない。
 そうだ。そうなんだ。俺は負けてない。俺は強いのだ。なのに、あの女のせいで俺の信用はガタ落ちだ。あの女さえいなければ。あの女のせいだ。
 支離滅裂な逆恨みも本人にとっては、辻妻があったことになる。
 だが、いくら恨んで憎んだところで、負けたという事実に変わりはなく、男はこうして、腹の中で憎悪を募らせることしか出来なかった。
 その事実が更に男の憎悪に拍車をかける。
「憎いアル?」
 一瞬、空耳かと思った。
 ゆるゆると視線をあげても、自分以外の姿はない。閑散とした道場内が見渡せるだけだ。誰かが消したのだろうか。明かりの途絶えた道場内は夕暮れ時と相俟(あいま)って、ひどく物悲しく見えた。
 男は再び、憎悪の中に思考を沈めようとしたが、
「憎いアルか?」
 はっと顔をあげた。今度は空耳ではなかった。
 いつの間に中に入って来たのだろうか。目の前に人が立っていた。
 光の反射で逆光となっているため、顔を見ることは適わないが、まだ子供と呼べる年頃であることは、その小柄な輪郭から分かった。
「憎いアルよね? 仕返ししたいアルね?」
「どこから、入って……」
 八つ当たりを込めて叫ぼうとした男は口を閉ざした。
 顔は影に覆われて良く見えないのに、濃い紫の闇を抱く瞳が真っ直ぐ向けられているのが分かった。まるで取り付かれたかのように、それから目を離すことができない。
「仕返ししたいアル?」
「……仕返し?」
「そう強くなるアル。誰よりも」
「……強く」
「なりたいアル?」
 思考は霧(きり)が掛かったようにあやふやになる。
 男は虚ろな眼差しで頷いた。
「なりたい……誰よりも」
「分かったアル」
 何かを取り出した。それは小さなガラス片のようだった。それを男に差し出す。きらりと夕暮れの光を反射し、輝きを放った。
「受け取るアル」
 男は躊躇うことなく手を伸ばし、それを取る。
 次の瞬間、触れた指先から溶け込むようにそれは男の中へ入って行った。
 男に変化が現れた。目が血走り、呼吸が荒くなる。視界がぼやけて歪んでいく。どっと汗が沸き、木面の床に滴り落ちる。がくがくと激しく揺さぶられているかのように全身が震えだした。
 男は身体の内側から感じる圧迫感に、咆哮(ほうこう)をあげた。
「強くなれるアル」
 その様子を見つめながら、それは無邪気な笑みを浮かべた。




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