「くぅっ……」
鈍い痛みに思わず呻き声が漏れた。
咄嗟に壁に手を着くものの、体を支えきれず、冷たい土の上に倒れこむ。
乾いた土に赤い液体が飛び散り、毒々しい模様を描いた。
三日三晩掛けて霊的に清められたはずの墨染めの衣は所々裂けて無残な様になっていた。
その裂け目から見える肌は鮮血に染まり、今も尚、流れ出る血は止まる気配が無い。すでに致死量に値するだけの血液を失っている。
いつ意識を手放すことになってもおかしくは無い。
そんな状態の彼を支えているのは、傷を与えたものへの強い思い。
油断したつもりはないし、手を抜いた覚えも無い。全身全霊を賭け、持ちうるあらゆる手段を講じ全力で相手をしたつもりだ。
その結果がこの有様だ。
もちろん、相手も無傷で済んでいるはずはない。自分と同等か、それ以上の傷を負わせた感触があった。
力を振り絞り、体を起こすと壁に背を預け息をついた。冷たい壁によって急速に熱が奪われる感覚にぼやけた頭が次第にはっきりしてくる。
そこは薄暗かった。そこは祠だった。
しかし、それほど古いものではない。ここ十数年の間に作られたような不自然さがあった。
祠といってもそれほど立派なものではない。
岩を積み上げただけの半分地下に埋まった洞窟のようだった。祠は長く奥へと続いていた。
その闇の向こうから明らかに人ではないものの息遣いが地鳴りのように響いていた。
ここに彼を追い込むまでに持っている式は全て使ってしまった。
ほとんどの式は消滅し、残った式も主以上に深い傷を負っている。もう、式を使うことも出来なかった。
そっと、腰に手をやった。鮮血に濡れた手にその確かな手応えを感じる。これを使いたくはなかった。
しかし、すでに話し合いで済む段階ではない。
それを腰帯から引き抜くと、よろめく体を引きずりながら祠の奥へと進んだ。
『なぜだ……なぜだ……なぜ、我等の思いを分かってくれぬ。お前なら分かってくれると信じていたのに。なぜなのだ、葛葉』
互いの姿もはっきりと見えぬ薄闇の中、対峙した存在はそう問うた。その叫びは弱々しく、葛葉と呼ばれた者の記憶にある声とは程遠かった。
『やはり、お前は人間か。人間は人間の味方。他たる者は受け入れられぬのか』
その言葉に弾かれた様に葛葉は顔を上げた。
「そんなことは無い。人間だろうがなんだろうが関係ない」
『ならなぜ、我に式を向けた!』
空気がビリッと揺れた。葛葉は目に見えない衝撃に全身を打たれ苦痛に眉を寄せた。
「……私が……君に式を差向けたのは……君が人を殺したからだ。それも、一人や二人ではなく何十何百という人を……その中には女性や幼い子供もいたのに――」
『それがどうしたと言うのだ? 人間共が殺した我らが眷属、大神に属する狼。彼らは人間達の身勝手によって殺された。それもただ殺すでは飽き足らず、皮を剥ぎ、牙を抜き取り、時には土に返ることすら許さず剥製とやらにしてしまった。それに比べ、我はただ殺しただけ……人間なんぞよりもよっぽど慈悲深い』
葛葉は言葉に詰まった。彼がどんなに仲間を大切にしていたか、どれほど心優しい存在であったのか、葛葉は誰よりも良く知っていた。
国津神――大神
遥か古の昔、葦原の中国にいた神。
天津神に敗れ、力の大半を失い、地を追われ眷族である狼を守護しながら生きてきた古き神。
その守護してきた存在が今、天津神の守護を受ける人間によって滅ぼされんとする。彼が怒り狂うのは当然のことだった。
だが、このままでは、彼は荒ぶる神となり、神として堕ちてしまう。そうなれば、最早災いを呼ぶ存在にしかならない。
彼を救いたかった。
しかし、ここへ彼を追い詰め消し去るように命じた連中はそれを許さなかった。
国津神は天津神の子孫に害を与える可能性がある。だから、殺せと。
多くの国津神はまだ都が西にあった頃に鎮められ、いつ目覚めぬとも知れぬ深い眠りに就かされた。
それをしたのは陰陽師と呼ばれる術者達だったという。
葛葉はその陰陽頭を務めた稀代の陰陽師の遠い子孫であった。
だが、都が東へと移り幾百年、陰陽道は廃れ、唯一、変わらぬ知識と技術を伝えてきた土御門家も次第に力を失っていった。
葛葉が生まれたときには外の国からやってきた科学という文化によって陰陽道は否定され、かつては天皇の覚えもめでたかった土御門家は
没落し、土御門を名乗ることさえ許されなかった。
『それは時代の流れだ』
最後の土御門の当主であった父はそう言って寂しそうに笑った。
両親が亡くなって、もう数年たつ。土御門の名を忘れ、たった一人の妹と静かに暮らしていた。なのに、あの連中はその平穏を揺るがした。
彼らは亡き両親しか知らない葛葉の能力を知っていた。大神との関係を知っていた。
(優しい大神――。遠くへ、人の手の届かぬ、どこか遠くへ。遠くへ逃げて……)
その願いを口にすることは出来ない。連中は今も安全なところでこちらの様子を伺っている。
少しでも彼らの意に沿わないような言動をすれば、妹は……奏は……。
『愚かなる人間……葛葉よ、人間はあまりにも愚かだ。知っているだろう? もうじき、大陸との戦が始まる。人間同士の殺し合いだ。どの道、死ぬ定めの生き物だ。多少、我が殺しても問題はあるまい』
葛葉は……選ばなければならなかった。大神か、奏か。
『葛葉よ。お前は我らと同じ遠き血を引く。人間ではなく我らにつけ』
それとも――。
「…………大神よ。 いかなる理由があろうとも、君がしたことはいけないことだ。……だから」
葛葉は手にしていた、それを大神に差し向けた。
それは刀のようだった。
しかし、その刃の部分を包む鞘はなく、握るための柄の変わりに血に染まった布が巻かれていた。
その切っ先は真っ直ぐ、大神に向けられている。それが葛葉が出した答えだった。
『そうか。……やはり、お前は人間なのだな』
大神が起き上がる気配がした。その瞬間、鉄錆の臭いが濃くなる。
『ならば、もう容赦はせん。我はお前を殺し、我が眷属を愚かなる人間から救う』
葛葉は無言でそれに応えた。
互いの表情も分からぬ暗闇の中、どちらも微動せず乱れた呼吸だけが、祠の中に響き渡っていた。
先に動いたのは大神だった。見えなくとも感じるその巨体の素早い動きは、とてもじゃないが手負いとは思えない。
鋭い爪が迫るのを感じ、葛葉は転がるように地面に倒れこんだ。
全身を突き抜ける鋭い痛みに唇を強く噛締めながら葛葉はすぐさま飛び起きる。互いに致命傷となる傷を負っている。勝負は一瞬で決まる。
ほほ同時に距離をつめた。
ブッシュッ
あかい、あかい血が飛び散った。
『グッワァァァアアアッ』
獣の咆哮が祠を反響した。
一瞬の出来事だった。その巨体を生かし、葛葉を押し倒した大神はその肩に鋭い牙を打ち込んだ。
骨が砕け、肉が抉れた。気を失おうにも出来ないほどの激痛が葛葉を襲った。だが、葛葉は大神が最も接近するそのときを待っていた。
手に握った鉄の刃を大神の背中から心臓に向けて躊躇う間も無く突き刺したのだ。
その切っ先は大神の肉体を貫き、その下の葛葉の心臓まで届いた。
『くっ……ずはっぁぁぁぁあ!』
大神は絶叫した。葛葉は激しく咳き込み、血を吐き、口元を歪めた。そして、何事か呟く。
一人と一体の心臓を貫いた刃が淡く輝きだす。
葛葉は鉄の柄から手を放し、そっと大神の頭を抱きこんだ。腕を動かすと激痛が走ったがそんなことはもうどうでも良かった。
「……いっしょに……ねむろ……」
刃の光が一段と強くなる。二つの影が光に飲み込まれてゆく。
『グワァァァァッ』
その叫びを最後に祠は静まり返った。
これで良かったのだと思う。これしか方法が無かったから。大神も妹も自分にとって掛替えの無いものだから。
心残りがあるとするのなら、たった一人の妹のこと。きっと、泣くだろう。
泣かれるのは苦手なのに。たった一人でこの世を生きなくてはならなくなってしまったけど、連中は奏を野に捨て去りはしないだろう。
自分がこうなった以上、土御門の技を継いでいるのは奏だけだから。
さぁ、眠ろう。いつ目覚めるとも知れぬ永久の眠りに――。
願わくは目覚めた先に大神の拠り所があるように。
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