「お恨み申し上げます。兄様」
柔らかな日差しが降り注いでいた。風は穏やかで優しく、時折吹く冷ややかな風が季節の変わり目を教えていた。
鳥のさえずりは、耳に心地よく、草むらや木上に潜む生き物たちが忙しく動き回っている気配がする。
息づくモノたちは、何もそういった存在に限らない。木陰では小鬼が群をなして走り回り、一つ目の大きな土蜘蛛が獲物を引っかけようと穴を掘り、木から木を飛び回るのは腕が十本ある猿に似た生き物だった。物の怪と呼ばれる異形たちが日の高い時間にも関わらず闊歩しており、何も知らぬ人が迂闊に迷い込めば、無事に帰ることは不可能に近い。ここは、物の怪が集う地、人を寄せ付けない場所だった。
亜麻色の長い髪が風に散った。緩やかな風が巻き込むように髪を撫で、萌葱色の着物の裾を揺らめかす。
細い肩は弱々しく、日の光を浴びることが少ないのか、色の抜けた肌は、どこか病めいた印象を与えた。
一方で、一点を見据える眼差しは、揺るぎない意志を示していた。何人足りとも、その前を立ち塞ぐことは許されない。言葉でなく、強い想いが全てを退ける。
それを知っているがためか、草木に潜む物の怪は、けして彼女に近づこうとはしない。近づけば、強烈な痛みを伴う仕返しを受けることになると、彼らは悟っていた。
彼女は立っていた。物の怪が闊歩し、人の寄せ付けない地にただ一人立っていた。その目の前にあるのは、鳥居。その奥にあるのは木の扉で閉じられた祠だった。ただの祠ではない。その全体の半分以上を土の中に潜ませた洞窟のような祠だった。
彼女はその前に立ち、視線を閉ざされた扉に注ぐ。
「兄様」
彼女は言った。
「私は、貴方をお恨み申し上げます」
感情のこもらない音が風に飲まれた。
「だから、どうか」
眼差しが一瞬揺らいだ。脳裏に浮かんだ優しい笑顔に罪悪感を覚えて、悲しい笑顔に空しさを覚えて、届かぬ声に懐かしさを感じた。
「どうか、永遠に目覚めないでください」
それは願い。それは希望。
それがけして叶わないことを、彼女は知っていた。
符宮奏と符宮葛葉は、似ていない兄妹だった。亜麻色の髪を持つ奏とは違い、葛葉は黒々とした髪をしていたし、身体が弱かった奏は家から出ることは少なく、一方の葛葉は毎日山を駆け回っていた。
幼くして両親を亡くした兄妹には、頼れる親類などおらず、五つしか違わぬ妹を養うため、葛葉がどれほど苦労していたのか、奏は知らない。
兄はけして、奏の前で弱音を吐くことはなかった。
今思えば、弱音を吐けなかっただけかもしれない。
いつでも、兄は奏の身体の心配ばかりしていた。身体の弱い奏のことを気遣ってばかりいた。
そんな兄は、奏が十三の年、眠りについた。永久にも近い眠りに、安らぎとはほど遠い眠りに。
死んだのならば、まだ良かったのかもしれない。手の届かぬところに逝ってしまったのならば、何も望むことはなかっただろう。
だが、兄は眠っただけだった。優しい神様と共に。
いつ目覚めるともしれぬ永い眠りに。
父親が、優しい神様を眠らすためだけに作ったという祠に符宮葛葉は眠る。
目と鼻の先に存在しながら、手の届く場所にいながら、奏は唯一の肉親の顔を見ることも声を聞くこともできなくなった。
兄がそこにいることを知りながら、奏にできることはなかった。
「兄様、ごめんなさい、ごめんなさい」
精神的な痛みは、奏の心を蝕んだ。たった一人の肉親を失った悲しみは幼い奏にとって受け入れられるものではなかった。毎日泣きながら眠った。あれほどまでに、兄の世話になっておきながら、何も返せない自分を呪って。
だが、奏はすぐに新たな真実を知ることになる。
兄がいなくなってから、奏の世界は変わった。
貧しかった生活は一変して裕福なものになった。
何より、一番、大きな変化を見せたのは、病弱だった身体だった。
それまで、思うようにままならなかった身体が、外を出歩くことができるまでになった。まとわりつくような倦怠感は失せ、今までの病弱さが嘘のように身体が軽くなった。
完全に病が治ったわけではなかったが、普通に生活することができるようになった。
なぜ急に、病弱だった身体が回復したのか。
生活が豊かになり、医者にかかることができるようになり、良い薬を得ることができたのは確かだった。だが、その回復速度は医者さえも目を見張るものだった。
奏は身体は弱かったが、それを補うあまりの知識を父親から受け継いでいた。己の身に起きた変化の理由を――奏は悟ってしまった。
それは知ることがなければ、知らないままの方がよかった真実だったのかもしれない。
葛葉は人間だった。だが、人間でありながら、その内側には人ならざるモノの血が濃く継がれていた。
両親も、兄も、あの優しい神でさえ、予期していなかったのだろう。
奏の身体が弱かったのは、奏が病弱に生まれてしまったのは兄、葛葉のせいだった。
兄の内側に宿るその血が、まだ母親の胎内にいた奏に影響を及ぼし、長い間ずっと奏の身体を蝕み続けた。
兄のせいではなかった。しかし、兄のせいであった。
葛葉は、己の身に流れる血を拒絶しなかった。抑えようとしていなかった。抑圧されていないその血の力は微弱だったが、幼すぎた奏には毒だった。
葛葉がいたから、葛葉が傍にあり続けたから、奏の身体は自由とはほど遠かった。兄は奏にとって、我が身を縛る鎖であった。
兄がいなくなっても、その後遺症は奏の中に残った。それは、生涯、奏を縛り続けることとなる。
奏は立っていた、優しい神が、兄が眠る祠の前に。
その眼差しは強く、遠い未来を馳せる。
千里眼と呼ばれた眼は、目に見えぬ場所を、先に起こる出来事を、奏に教えてくれた。
だが、それは制御できるものではなかった。視たいものを視せてくれるものではないと、優しい神でさえ、そう思っていた。
それさえも誤りであった。
千里眼が映すのは、奏が心の底から望むことの、確定された未来。全ての先を見通すことはできないが、生きているものはいずれ死ぬように、けして変わらぬ、すでに確定された結末は存在する。
奏の千里眼が映すのは、そういった確定された、確実に起こるべき未来だった。
そして、奏は未来を知ってしまったのだ。
「どうか、永遠にそのままで」
それが叶わぬことを知っていた。
兄が眠って間もなくの頃は、その目覚めを切望していたというのに、起こるべき未来を知ってしまった今、けして目覚めぬことを望む。
どんなに願っても、望んでも、千里眼が映した未来は変わらない。変われない。
それはもう、確定されてしまっているから。
「兄様、私は貴方が憎らしいです」
桜色の唇が震えた。ゆっくりと瞼を降ろせば、まばゆい笑顔だけが浮かんでくる。
「兄様。私は貴方が大嫌いです」
言葉は言霊。それは膿んだ傷のように奏に痛みを与える。
それは――罰だ。
「だから、どうか眠ったままで」
安らぎとはほど遠い眠りの中で、来るべき未来の絶望が、貴方の心を、存在を壊してしまわないように。
「・・・・・・兄様」
何も返せない。こうして、言霊で自らを罰することしか、できないのだ。
風が吹いた。優しい風だった。
『大丈夫だよ』
優しい声が耳鳴りのように、響く。
『私は奏のお兄ちゃんだからね』
無邪気な笑顔は、優しい眼差しは、奏にとって救いだった。だからこそ――。
「今度は、私が兄様を――」
果てない眠りを、本当の安らぎを――。
瞼を開けば、祠は何ら変わらぬ姿で存在していた。
「轟騎、閃騎」
呼びかけは言霊となって渦巻いた。
唐突に、その背後に人影が生まれる。陰は大地に膝をつき、深々と頭を垂らす。
回復したのは身体だけではなかった。術を使うことはできないと言われていたのに、今ではこうして式神を従えるまでになっている。
「契約を覚えていますか」
「是」
間入れず、返る。
「我ら、御前の血の中で最も強き者につき、その者が主として相応しきと判断された場合に、その者に忠義を尽くす」
「それに、もう一つ、条件を加えます」
背後の式神に、奏は命じた。
「その条件において、符宮葛葉は例外とします。たとえ、何があろうとも、けして符宮葛葉には従ってはなりません」
主人の命に、二重奏が返される。
奏は己の式神に話しかける。
「そのときが来たら、貴方たちには新たな主人を得ることになるでしょう」
「御前っ!」
悲しみに満ちた声が響いた。新たな主人を迎えるということは、今の主人を失うことに他ならない。主人を失うことは、従うモノにとっては、我が身を切り裂かれるほどの悲しみだ。そんなことは言わないで欲しいと、言葉にしない叫びに、奏は微笑むことで応えた。
「そのときが来たら、貴方たちは、全力で新たな主人を守りなさい」
「・・・・・・御前」
「私の、子供たちをよろしくお願いします」
そのときが来る頃、自分はこの世界にいないことを、奏は知っていた。未来を視ることはできても、干渉することはできない。そのとき、どうにかすることができるのは、未来の子供たちと、そのために残す式神たちだけだ。
「母様」
幼い声が響いた。とたんに、背後に控えていた式神たちが姿を消す。
奏は一拍のあと、ゆっくりと振り返った。
「母様、ここにいらっしゃったんですか?」
黒いおかっぱの髪をした男の子が走り寄ってくる。
「ここに来てはいけないと言ったでしょう?」
「大丈夫ですよ。母様が作ってくださった、お守りがありますから」
駆け寄ってきた我が子の頭を奏は優しく撫でた。無邪気な笑みは記憶の人と重なる。
時間は流れる。けして、止まらない。止まることは許されない。だからこそ。
行きましょう、と手を引く我が子に従いながら、奏は未来を想う。
「兄様。どうか、大神様を救って差し上げてください」
それができるのは、貴方しかいないのだから。
符宮を改め、「みなぎ」を名乗るようになった奏が、その後、祠を訪ねることはなかったという。
彼女が視た未来は、百年余りの後に現実となった。
だが、その先に起こることさえ、彼女が視通していたかは、もはや誰にもわからないことだった。
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