陰陽記伝
平成陰陽記伝


「言祝ぎ」
 
 どうか、どうか、信じてください。
 結果が悲劇しか生み出さなくても。
 憎悪に心汚れて堕ちて逝っても。
 ただ一瞬、その想いを宿したその一瞬。
 それだけは、嘘偽りの無い真実であったことを。
 どうか、どうか、信じてください。
 許して欲しいなんて言わないから。
 穢れた口で許しを請うことなんて出来ないから。
 それでも、どうか、信じてください。
 あの瞬間だけは、確かにそこにあったことを――。




【言祝ぎ】
 言葉による祝福。
 ことぶき。ことほがい。祝詞。
          (参照 広辞苑)







 乱暴に靴を脱ぎ捨てて、玄関から中へとあがる。
 あらぬ方向へと飛ばされた靴。普段なら、きちんと揃えるのだが、今はそんなことを気にする余裕はなかった。
 じんわりと足裏に伝わる床の冷たさを味わいながら、玄関に入って来た勢いのまま、樟(しょう)は廊下を足早に進む。
 背負うランドセルがガチャガチャと大きな音を立てた。
 長い廊下は中庭に面していて、大きな池のある庭が一望できる造りになっている。その池の向こうに見えるのは一族の当主が代々使う私室だ。
 それを横目で見ながら、一度たりとも足を止めずに屋敷の奥へと進んでいく。
 走ってきたせいだろう。息は切れ、頬は興奮に淡く染まっていた。
 今日の昼には着くと言っていたから、もう来ているはずだ。本当は学校を休んででも待っていたかったのだが、周りの大人たちがそれを許さなかったのだ。
 胸は期待に踊り、進む足はさらに早くなる。
「樟坊ちゃま」
「……比良野さん」
 足音を聞きつけたのだろうか、廊下沿いの部屋の障子が開き、初老の男性が顔を出した。
「陸奥の間にいらっしゃいますよ」
 穏やかな笑みを浮かべ、男性は視線を廊下の先へと向ける。
「ありがとう」
 短く礼を言いながら、その傍を走り抜ける。
 初老の男性は樟が生まれる前から、この家に仕えている。樟がなぜ、こんなにも慌しくしているのかも十分に存じているのだろう。
 陸奥の間の前まで来ると、樟は足を止めた。直ぐに入室するようなことはせずに、何度も深呼吸を繰り返して呼吸を整える。
 本当はこんなことをしていないで、早く中に入りたかったのだが、さすがに息を乱したままでは失礼だろう。樟は幼いながらも礼儀正しくあるようにしつけられていた。
 呼吸が落ち着いたところで、廊下と部屋を仕切っている障子に手を伸ばす。
「失礼します」
 障子を開けると、三十過ぎぐらいに見える男性と女性が隣り合って座っていた。
 樟の姿を認めると二人は笑みを浮かべて、
「樟くん。久しぶりだね」
「はい。お久しぶりです、叔父さん、叔母さん」
 ぺこりと頭を下げる。
 それから、背負っていたランドセルを部屋の隅に置くと、男性の傍へと寄って行った。
「暫く見ない間に大きくなったな」
 樟の父親の弟に当る叔父さんは仕事柄、夫婦で一年の殆どを海外で過ごしている。そのため、正月くらいにしか顔を会わす機会がない。
 その叔父さんが、桜舞うこの季節に帰国したのには事情があった。
「ほら、樟くん、こっちへ」
 促されるまま、樟は女性の方へと歩み寄る。
 女性は腕に何かを抱いていた。
 柔らかな布の塊。その中に包まれるようにあったのは――。
「わぁっ」
 樟は思わず、小さな声を上げた。
 女性の腕に抱かれていたのは生後間もない赤子だった。
 綿菓子のようなふわりとした薄い髪。ふっくらとした柔らかな白い肌に淡く染まった紅い頬。小さな手が産着から覗いている。
 生まれたばかりの従弟が退院してくることを樟は誰よりも楽しみにしていた。
 退院の日が決まった時から指折り数えて、その日が来るのをずっと楽しみに待わびていたのだ。
 今日一日、学校の授業も耳に全く入らず、放課後になるのがいつもより長く感じられた。
 樟は輝かせた目を投げかけて、
「男の子ですか? 女の子ですか?」
「この子は男の子だよ」
 樟は再び赤子に目を戻す。
「名前は、道馬だ」
「……どうま」
「道の馬と書いて道馬だ」
 叔母がそっと樟に赤子に触れるよう促す。
 樟はおずおずと手を伸ばす。小さな指先に触れれば、温かな体温が伝わってくる。
 小さな手が開かれその間に指を入れると、強い力で握りこまれた。
「……道馬」
 力強く掴んでくる小さな手。
 樟の手を放すまいと強く、強く、握り締めてくる小さな指。
 薄く開かれた瞳が樟を捉え、微笑むかのように、小さな唇が震えた。


 このとき、樟はこの小さな存在を心から愛しいと思った。


 水椥家はかつての名を土御門家と言い、現代に生きる陰陽師の一族だ。
 まだ、都が西にあった頃に封じられた、神や物の怪の封印を管理するのが水椥家の役目である。
 血は薄れたものの、一族の中には見鬼の才を持ったり、術を使うことが出来たりするものが僅かながら存在した。
 樟の父親は四代目水椥家当主であり、先代の又従弟に当る。
 水椥家では代々、一族の中でもっとも優れた能力を持つ者が当主となる掟だ。よって、当主の直系が次の当主になれるとは限らない。
 しかし、見鬼の才を生まれ持った樟は幼いながらも、次期当主候補として名をあげられていた。
 樟には従姉妹が四人いる。道馬の姉に当る四姉妹――朝子、真昼、夕子、夜子だ。
 朝子と真昼は生憎、見鬼の才を持たなかったが、双子姉妹である夕子と夜子は強い見鬼の才と巫女としての素質を持って生まれた。
 まだ四つという幼さでありながら、双子姉妹はすでに巫女としての能力を開花させている。
 そんな中、生まれたのが道馬だった。
 叔父は見鬼の才を有していなかった。それでも幼少時から水椥家がなんたるものかは学んでいる。
 だとしても、幼い我が子と引き離されるのは忍びなかった。
 見鬼の才を持って生まれた一族の子供は水椥家の本家で育てられることが定められている。
 海外に生活の拠点を移している叔父夫婦にとって、一緒に生活できない事は何よりつらい。
 仕事を辞めて、日本で暮らそうと思ったことが幾度もあったが、やっとのことで水椥家から離れて着いた今の職場を失いたくない気持ちもあった。
 それに、見鬼の才を持たない叔父は水椥家にとって役立たずのレッテルを貼られている。本人を前にして口にするような者はいなかったが、どうしても現当主である兄と比べられてしまいざるおえない。
 母親の腕の中で眠る赤子を、樟は目を輝かせて見つめている。
 叔父はそれを眺めながら、赤子が見鬼の才を持っていないことを密かに祈っていた。




 叔父の祈りが通じたのか、道馬が見鬼の才を発揮する事はなかった。
 生まれた赤子はすくすくと育ち、気付けば三つを数えるようになっていた。
 その頃には、叔父夫婦は再び海外で暮らすようになり、少々危険な地域に赴くことになったため、道馬は水椥家に預けられていた。
 樟は幼い従弟を縁側で遊ばせていた。
 水椥家に預けられた道馬を、樟は大変可愛がり、時間さえあれば構ってやっていた。
「にぃに、おはなししてぇ」
「話って。あの話? 道馬はあの話が好きだなぁ」
 樟は微笑みながら、当然のように膝にあがってきた道馬の頭を撫でる。
 いかに、道馬が小さな子供とは言え、樟もまだ中学生だ。膝に乗られると重くて痛いが、それを顔に出すようなことはしない。
 一人っ子である樟にとって道馬は弟のような存在だった。道馬も樟に懐き、べったりとくっついて片時も離れない。樟はそんな道馬が可愛くって仕方ないのだろう。邪険にする事は一度もなかった。
「むかーし、むかし。とっても悪い神様がいました。神様は人間に害を加え、たくさんの人が恐れ嘆き、悲しみました」
 強請られるがまま、樟は口を開いた。
 その話は、水椥家に伝わる伝承。
 道馬は、じっと樟の話に耳を傾けている。
 この話をするときだけ、いつも落ち着きのない道馬は大人しくなった。
「神様はとても強かったので、誰も逆らうことが出来ませんでした。そんなとき、一人の術者が人々を守るために立ち上がりました」
 水椥家が生まれて百年余り。その頃から受け継がれてきた古い話。
「術者はただ一人で悪い神様に立ち向かって行ったのです。しかし、神様はとても強いので倒す事ができません。そこで、術者は自分の身体を使って神様を封じることにしました」
 単なる童話として語られる話も、水椥家でおいては特別な意味を持つ話になる。
 なぜなら、この話は――。
「術者は神様と共に長い眠りにつきました。けして目覚めることはないであろう長い眠りに。その後、術者と神様が封印されている塚を眠りの塚と呼ぶようになりましたとさ」
 水椥家初代当主、水椥奏の実兄。符宮葛葉の物語なのだから。
 土御門家は一度、滅びかけた。科学という名の技術によって陰陽道が否定され、土御門家はその名を名乗れなくなるほどまで追い込まれた。
 そんな時代に土御門家最後の当主の息子、「符宮葛葉」は生まれたとされる。
 嫡男でありながら当主を名乗ることもなく、それでいて父親から陰陽道の全てを受け継ぎ、若くしてその才能を花開かせた偉大なる術者。
 時代が時代ならば陰陽師として名をあげることが出来たに違いなかった。
 その「葛葉」が生きた時代、今から百年余り前に国津神の大神と呼ばれる荒御霊が祟り神と成り果て、村里を襲い始めた。
 そこで、彼はたった一人でその神に戦いを挑んだのだ。
 結末は伝承に伝わる通りである。
 我が身を賭して封印をかした術者は今も、水椥家の裏山の祠で眠りについているとされている。
 そして、彼の活躍が非公式に認められ、今の水椥家が生まれた。
 符宮葛葉、通称「眠りの塚の君」の話は、一族の子供ならば寝物語代わりに聞かされるものだった。
 はらりと、頬に触れる亜麻色の柔らかな髪。
 両親も姉たちも黒い髪であるというのに、道馬の髪と目は色素が薄い。
 水椥家の、土御門家の祖となった人物は異形の血を引くと言い伝えられている。そのため、ごくたまに先祖返りという現象を起こすものがいるのだ。
 当初、色素の薄い道馬もそれではないかと言われていたが、それらしき能力を見せないことから、見かけだけと判断されていた。
 樟はこの頃には次期当主としての教育を受け始めていたが、他の一族のように見鬼の才のない従弟を差別したりせず、心底可愛がっていた。
 道馬の直ぐ上の双子の姉たちは巫女修行と称して山奥の神社に行っている。
 人の出入りはけして少なくはないが、屋敷は広いので人の気配は遠い。
 話を聞き終えて満足した道馬は、中庭に出て石を拾っては積み上げるという不毛な動作をし始めた。樟はそれを眺めながら、手にする本に時折視線をやる。
 今日は当主である父親は外に出ているので、小言を言われる恐れもない。父親は樟が道馬を構うのを良く思っていないようだった。
 それでも、樟は幼い従弟と遊ぶのを止めようとせず、かと言って学校の成績が落ちたりすれば、道馬のせいにされるだろうと薄々察していたので、その辺は抜かりなくやっていた。
 中学生でありながら、次期当主候補として幼い頃から教育されてきた樟は、同世代の子供よりもずっと大人びた考えを持っていたのだ。


「にぃにっ!」
 ふ、と本の世界に半ば引きずりこまれていた樟は、道馬の悲鳴じみた叫びに、ハッとして顔をあげた。
 道馬は怯えたような表情を浮かべて、樟に向かって駆けてきた。
「どうしたの?」
「にゃんちゃん」
「……ネコ?」
「おかおが、みっつある、にゃんちゃん」
「……どこ?」
 道馬は樟に縋りつきながら、小さな指で庭の隅のほうを指す。
 樟は道馬の頭を安心させるように撫でてから、ゆっくりと指し示された方に向かって歩き出した。
 道馬は樟の背後に隠れるようにしてついてくる。そして、
「これは――」
 それを目にした途端、樟の顔が強張った。すぐさまポケットから一枚の紙を取り出す。紙の表面には字がびっしりと描かれていた。
 樟はそれに向かって躊躇うことはなく、その紙を投げつけた。

『ギィィィィァァアアア』

 つんざくるような絶叫。立上る白煙。
 道馬がびくりと身体を震わし、樟の服を強く掴む。
 樟は固い表情で、目を背けずにそれを見つめていた。
 やがて、絶叫は止み、何もなかったかのような静寂が庭を支配する。
「今のは!」
 叫びを聞きつけて屋敷にいた人たちが集まってきた。樟は未だ、緊張の取れない顔で振り返ると、
「至急、当主と皆さんを集めてください」
 それを口にするので精一杯だった。



 まだ都が西にあった頃。数多くの神や物の怪が陰陽師たちの手によって封じられたが、全てのモノがいなくなったわけではない。
 今もなお、物の怪は存在する。知覚できる、見鬼の才を持つ人間が少なくなっただけであって物の怪が消えたわけではないのだ。
 水椥家の敷地内は強い結界で守られている。何のためなのかは分からないが、水椥家が出来た当初に施された結界だ。
 その結界内に物の怪が侵入したのだ。庭の隅で樟が見たのは、黒い頭が三つあるネコのような物の怪だった。
 結界の侵入時に力を使い果たしたのだろうか。弱っていたため、持っていた符で退治することはできたが、もし、もっと強い物の怪であったならどうなっていたか分からない。
 結界のどこかに穴が開いている可能性があると、樟は訴えた。
 それと、もう一つ。道馬が見鬼の才を継いでいるらしいと言うことも。
 一族の子供は物心がつく前に、意図的に物の怪と引き合わされてその反応を確認される。見鬼の才を持つ子供ならば、何らかの反応を返すが、持たない子供はただ泣き叫ぶだけだ。
 道馬の場合は後者だったので、一族は見鬼の才がないと判断していたのだが。
 あの物の怪を見つけたのは道馬だ。物の怪の特徴もしっかりと口にしていた事から視えていたのは間違いない。
 樟は、道馬が見鬼の才を持っているということを知って、我がことのように喜んだ。
 弟のように思っている道馬が自分と同じである事が嬉しくって仕方なかったのだ。





 その一件が引き金となったかのように、道馬は見る見るうちに、術者としての才覚を見せ始める。
 それに従って、水椥家内では道馬を次期当主に推す声も出始めた。
 その頃からだ。樟は道馬との間に微妙な距離をとるようになった。兄弟のように接していたのがどこか他人行儀なものへと変わりだした。
 幼い道馬は術者として、一歩一歩確実に成長していく。だが、樟はすでに術者として成長の限界を感じていた。
 幼い従弟に追いつかれるかもしれない。いつしか、そういった焦りが樟の胸の内側に巣食うようになって行った。


「……樟」
 あるとき、現当主である父親が樟を呼び止めた。厳格な父親と樟は昔から距離を置きがちだった。樟が生まれる前に当主となった父親は、樟が見鬼の才を持っていると知った時から、なんとか次の当主にしてやりたいと、常に甘やかすことなく接してきた。
 それに比べ、同じく当主候補として名をあげてきている道馬は姉たちに愛され、叔父夫婦は年に数度しか帰国してこないものの、帰ってくれば必ずと言って良いほど、道馬に付きっ切りである。
 早くに母親を亡くし、父親に直接的な愛情を注がれる事なく育った樟は、道馬を酷く羨む気持ちがあることを自覚していた。
 訝みながらも、樟は招かれるがまま、当主専用の私室となっている離れへとやってきた。
「……道馬を次期当主として指名することにした」
「……っ、ちょっと、待ってください!」
 前振りなしに切り出した父親に、樟は驚愕に目を見開いて思わず声を上げた。
「いきなり、どうして!」
 あまりにも突然のことに、理解が追いつかない。いくら、道馬が才覚を見せ始めているからと言っても、道馬はまだ幼い。実際、そのことを理由に樟を推す声が一族内でもまだ高いのだ。
 父親は哀れむような、悔むような表情を浮かべていた。
「道馬は、先祖返り。百年に一度の天才だ」
「…………」
「一族の掟ではもっとも能力の高いものが当主となる。今はまだ、道馬の術者としての能力は低いが、いずれは一族においてもっとも優秀な術者となるだろう」
 樟は言葉を失うしかなかった。
 道馬が先祖返りであったのは知っていた。ここ数年で急激にその能力を伸ばしているのも。
 しかし、それがなんだというのか。
 樟はこれまで、それこそ物心がつく前から、次期当主としての教育を受けてきたのだ。なのに、今更、当主になれないと言われて、一体どうすればいいのか。
「お前にはすまないことをしたが、これからは、水椥樟として自由に生きると良い」
 これまでの人生で築き上げてきたことを、その一言で全て片付けられた。
 樟はその時初めて、父親を、水椥家を、道馬を恨んだ。



 十を数えるその歳に、道馬が式神を従える事に成功した。今の水椥家に式神を従えることができる術者はいない。
 その翌年、道馬は水椥家の最年少の当主となった。



「……樟くん」
 五代目当主就任祝いということで、水椥家中が浮かれる中、樟は人を避けて縁側に腰を掛けていた。
 まだ道馬が幼い頃、ここで遊ばせていた事が、もうずっと昔のことのように思える。
 そんな樟の背に声を掛けてきたのは、叔父だった。息子の当主就任を聞きつけ、海外から急ぎ帰国したのだ。
 道馬がめきめきと術者の素質を見せ始めている話は、姉巫女たちを通じて聞いていただろうが、当主への就任については寝耳に水。
 叔父は未だ、幼い息子が当主になるなど、信じられないようだった。
「私には一体、なにがなんだかよく分からないのだが」
 困惑した表情で、叔父は樟の隣に座り込んだ。
 樟は叔父のほうに目をやることはなく、庭に視線を投げ出したままだ。
「……兄さんは、樟くんを次の当主にと望んでいたのだろ?」
「…………」
「樟くんだって、そう言われて育ったはずだ。なのに、私の息子がそうなるとは、やはり納得がいく話では――」
「それが、掟です」
 叔父に最後まで言わせずに、きっぱりと樟は言った。視線は前に向けたままで。
「水椥家の掟です。より強い血を後世に残すためには、より強いものが当主となるべきと。私は道馬のように式神を従える事はできません。私は道馬よりも遥かに弱い存在です。順番なんて関係ありません。より優れているか、否か。それだけのことです」
 淡々と抑揚のない声音。叔父の視線が横顔に刺さる。
 掟は絶対だ。時代とともに薄れていく一族の力を維持するためにも、必要なものだ。そこに一個人の意思が入り込んではならない。そうなれば、水椥家そのものが崩壊する。
 幼い頃から当主教育を受けてきたからこそ、樟は道馬が当主になることに異議を唱える事ができなかった。
 全ては水椥家のために。
 そこに個人はないのだから。
「私は私なりに水椥家の柱の一つになろうと思います。ですから、叔父さんが気にすることは何もありません」
「……そうか」
 そっと、叔父は樟の肩に手を触れた。樟はゆっくりと叔父のほうを振り返る。
 若い頃のように艶は失ったものの、黒々とした頭髪。道馬と叔父は相似点が少ないと、この顔を見るたびに思う。
「樟くん。あの子を頼むよ。当主と言えど、あの子はまだ子供だ。勝手なことだと思うけど、あの子を、道馬を支えてやってくれ」
 懇願にも似た頼みに、樟は淡く微笑んだ。
「もちろんです」






 当主になったとはいえ、中学生の道馬が当主の仕事を処理するのは少々荷が重い。
 そこで、道馬が成人するまでの間は、樟が当主代理として仕事を請け負うこととなった。
 当主候補として名をあげ、かつ幼少時からそのための教育を受けていた樟は、特に戸惑うことなく当主の仕事をこなして行った。

「それでは、ちょっと行ってきますね」
「いってらっしゃいませ」
 その日、樟はとある祠へと一人で足を向けていた。
 その祠のある辺りで最近、不可解なことが続いているという話が報告されたのだ。とは言っても、誰もいないのに声が聞こえるなどの些細な事柄ばかりで実害は今のところはゼロ。
 当主の仕事は書類処理が大半で長くやっていると、どうしても気が重くなる。気分転換のつもりで樟はその祠を視に出かけたのだ。
 おそらくは、悪戯好きの物の怪が祠の周辺の気で力を増幅させて人間をからかっているのだろう――実際、そう言ったことは珍しくない――と、樟は判断した。
 ならば、その物の怪を祓うか、追っ払えば事は片付く。
 そう、思っていた。なのに――。


 声がする。声が聞こえる。

『憎いアルか?』
 黒い蛇が自分の内側を侵食していくのを樟は感じていた。
 ずっと、胸の内側に、道馬が当主候補となった時から。
 父親に次の当主は道馬だと言われた時から。
 叔父に道馬を任せると言われた時から。
 ずっと、胸の内側に巣食っていた憎悪。
『憎いアルよね』
 憎い。そう、憎い。
 歳の離れた幼い従弟。親姉妹から愛され、先祖返りという武器を持った優秀な従弟。
 可愛くって、愛しくって――。
 樟の人生の半分以上を占める従弟が。
 世界で一番、愛しくって、愛しくって、憎い。
 身の内側を焦がす憎悪を糧に、それは大きくなっていく。
『取引するアル』
 それは魅惑の言葉。甘い囁き。
 簡単なことだった。
 内側から込み上げてくるそれに、突き動かされるように、樟は叫んだ。
「自由にしてやる! だから――」



 ダカラ、チカラヲ、ドウマヨリモ、ツヨイ、チカラヲ、チカラヲ、ヨコセ


 たとえ、人ならざるモノに成り果ててでも。
 手に入れたいと思うほどまでに、膨れ上がっていたそれ。
 目を閉じれば、思い出すのは道馬と初めて会った日。
 小さな手が自分の指を掴むのを、今でもはっきりと覚えている。
 温かな熱が指先を伝わり、胸を熱くさせたのは幻じゃない。
 心から小さな赤子を愛しいと思ったのは嘘じゃないから。
 それだけは偽りなんてなかったから。


『了解したアル』

 無機質に木霊する声。
 それを最後に、樟の意識は途絶えた。



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