これを裏切りと言わずして、何を裏切りと言うのか。
「嫌なら良いから」
青年が言った。まだ年若い、20にもなっていないと思われる若者だった。
短い黒髪に同色の瞳、纏うは墨染めの衣。天上に輝く月が、青年の姿を照らす。
「嫌なら、それでも良い。無理に協力してって言わないから」
どこか幼さが残った口調で、真摯に告げる。青年がいるのは、ひっそりとした山の中だった。
人里から少し離れたところにある森の中。太陽が山の向こう側に消えてから、大分、時間が経っている。
青年は、月明かりに照らされた木々の合間を見渡す。
その視線の先には、闇夜に蠢く奇妙な生き物たち。
妖怪、化け物などと称される、異形の生き物……通称、物の怪である。
数え切れないほどの物の怪たちが、異様なほど静まり返って、青年の言葉に耳を傾けている。
「これは、私の我が儘だ」
青年は言う。
「彼を祟り神にしたくないという……彼の手を汚させたくないという、私の我が儘だ。彼の優しい心を人間の血なんかで汚したくない。人間なんかのために彼が失われるのは嫌なんだ」
青年は唇を噛み締める。その顔に浮かぶのは深い苦悩。
「私は、弱いから……一人じゃ戦えない。だけど、君たちに参戦を強要したくはない。彼と対峙すれば…君たちも無傷では済まないから。だから、嫌なら良い。友達を無理やり、死地に連れ込むような真似は私にはできない。だけど、私は弱い。君たちの協力なしではどうしようもない。……矛盾してるよね」
自嘲気味に青年は笑みを浮かべた。
その肩に白い手が置かれる。視線を横に向ければ、そこには赤い着物を纏った女性。
だが、人間ではない証に頭部から、黒い虫の足のようなものが生えている。これもまた、異形の生物の仲間だ。
物言わずとも、彼女が自分を気遣っている事が良く分かる。青年は、その心遣いに感謝しながら、再び視線を前に戻す。
「嫌なら良い。強要はしない。君たちは、私の式であると同時に掛替えのない友だから。無理意地はしない。私は、符宮葛葉は、彼に対し、裏切りを働く」
言葉にしてみれば、それはとても痛くて、辛い。裏切り……そう、裏切るのだ。最愛の友を――。
自分の我が儘で、自分のために……彼を裏切る。
「それでも、もし、私と共に戦ってくれるのなら……」
賭けるのは自分の命じゃない。自分を慕ってくれている物の怪たちの命。
青年――葛葉は漆黒の瞳で、物の怪たちを見回す。
「その命をどうか、私に下さい」
その言葉を最後に、葛葉は俯く。残酷なことを求めているのは分かっている。
彼は強い。そこら辺にいる物の怪が適うような存在ではない。物の怪たちを盾に、葛葉が彼に一撃を見舞う。それしか、彼を止める方法はないから。
静寂が周囲を支配した。物の怪たちは、身動きすらせず、葛葉を見つめている。どれほど時間が経っただろうか。
『大神ノタメ、葛葉ノタメ』
一匹の物の怪が言った。
『大神救ウ、大神良イ神』
『葛葉願イ、我ラノ願イ』
『葛葉望ミ、我ラノ望ミ』
『戦ウ、葛葉ト戦ウ』
口々に物の怪たちは喚く。それは、合唱となって葛葉の耳を打った。
葛葉はそっと顔を上げた。物の怪たちは葛葉のために決意した。
『我ラ命・・・葛葉ノ為ニ』
葛葉は、その言葉を噛み締めるように、ゆっくりと目を閉じた。
「ありがとう……みんな」
呟きと共に、一筋の雫が頬を伝った。
時は明治27年 日清戦争の開戦間際。
山奥の小さな集落に、符宮葛葉は5つ下の妹と暮らしていた。葛葉の家系は陰陽師の流れを汲む。
そのため、村の人間から異端とし、忌避されていた。
それでも、葛葉は山に潜む物の怪を友とし、貧しい生活ではあったが、充実した日々を送っていた。
葛葉には最愛とも呼べる友がいた。数多くいる物の怪の友達とは別に、彼は特別だった。
なぜならば、彼は神だったから――。
国津神の大神、遥か古の昔に生まれ、天津神との戦いに敗れ、力を失い、地を追われた流浪の神。
眷属である狼たちを守護しながら、長い年月を生きてきた。
葛葉が幼い頃に出会ってから、彼は葛葉に様々なことを教えた。
葛葉にとって、彼は師であり父であり兄であり、掛替えのない友だった。
大神もまた、葛葉を友として扱い、一人と一神は、存在を超えた友情で結ばれていたはずだった。
何が間違っていたというわけではないだろう。事の起こりは、些細でそして、あまりにも残酷だった。
大神が守護していた狼の群れの子が、人間により狩られた。それも遊び半分に――。
これまでもそういうことがなかったわけではなかった。その度、大神は必死で自分を制していた。
だけど、守るべき眷族が滅びの道を辿る中で幼い命が散らされたとき、大神はその心を人間への憎悪に染めた。
そして、狩りを行った人間の住む小さな農村を皆殺しにしたのだ。葛葉はそれを直ぐに知る事がなかった。
ことの顛末を知ったのは、皇家の遣いと名乗る者達に幼い妹を人質に取られ、大神を打ち倒すように命じられたとき。
葛葉に選択権はなかった。
葛葉は一人で山を歩いていた。いつもなら傍に纏わり付いているはずの物の怪の姿は無い。
日が沈み、月と星が照らす中を葛葉は歩く。通りなれた獣道は目を閉じても進む事ができる。
唐突に視界が開けた。そこには見事な大木が天へと枝を伸ばしていた。
この木の下で葛葉は彼に出会った。
葛葉は足音を消すことなく大木に近付いていく。
大木の下まで来ると、葛葉は上を見上げた。薄闇の中、木の上に何かがいるのが分かった。
それは葛葉の訪れを知っているはずなのに、顔さえ上げず、太い枝の上で蹲っている。
「もくろー」
葛葉は呼んだ。友の名を――。神の名はそれだけで尊い。だから、葛葉は彼を……大神を『木狼』と呼ぶ。
「もくろー」
もう一度呼ぶと、木の上で身じろぐ気配がした。
『……葛葉』
その声が震えているように聞こえたのは葛葉の気のせいか。葛葉は、表面上は微笑みを浮かべた。
「もくろー、降りてきてよ」
平常心を保ちつつ、葛葉は言う。それに答えるように、空から人影が降りてきた。
降り立った人影は2メートルを優に超える長身の持ち主だった。
白髪に、闇夜でも光る金の瞳。そして、顔に縁取られた赤い隈取。
『木狼』と呼ばれた大神は葛葉を黙って見つめる。精悍な顔に今は濃い影が降りていた。
微かな鉄錆の匂いが鼻に付いた。木狼の手足と服が赤く染まっている事に葛葉は気付いていた。
木狼の……ではない。人間を殺した時の返り血だ。葛葉はそれを黙って見つめる。
『葛葉……俺様は……人間を許せねぇ』
掠れた声が木狼の口から漏れた。
『まだ……幼かったんだ。生まれて半年で……やっと、狩りを覚え始めたばかりだったのに……それを人間は……』
金の瞳に憎悪が燃え上がるのを葛葉は見た。
優しい大神……なのに、その心が憎悪で穢れていく。それが葛葉には堪らなく悲しい。
葛葉は木狼に近付いた。
そして、木狼の身体を前から抱きしめる。木狼に付いた返り血が付くのも気にしない。
葛葉が泣くと木狼は頭を撫でて宥めるように抱きしめて背中を撫でてくれる。
それをやりたかったのだが、生憎、葛葉の背では木狼の頭まで手が届かない。だから、回した手で木狼の背中を撫でた。
温かな体温が、服越しに伝わってくる。
顔を寄せた胸からは、規則正しい命の鼓動が聞こえる。木狼は間違いなく今、生きてここにいる。
『殺してやる……一人残らず、人間は皆殺しだ』
呪詛の言葉。大神から発せられる呪詛の言葉が……葛葉には悲しい。
綺麗な大神、穢れなき大神が人間のせいで穢れていく。
本当は誰よりも優しいのに――。木狼に呪詛の言葉を吐き出させたのは人間だ。
木狼は怨嗟の言葉を紡ぐ。
『人間なんか大嫌いだ。人間なんか滅んでしまえば良い!』
強い強い負の感情。それは木狼の心を蝕んでいく。葛葉は噛み締めていた唇を開いた。
「…………私が……私がその人間だよ」
弾かれたように、木狼が顔を上げた。金の瞳が葛葉を映す。葛葉は自嘲の笑みを浮かべる。
「私は人間だよ」
『違う! 葛葉は違う』
「違わない。私は人間だよ。もくろーが大嫌いな人間」
木狼は何かを言いかけて、結局、何も言わなかった。
葛葉の肩口に頭を埋める。葛葉は黙ってその背を撫でる。
『……違う。葛葉は違うんだ』
「もくろー」
『葛葉は俺様から何も奪わない。だから……違う』
全幅の信頼が込められた一言。木狼の本心から漏れた言葉。葛葉は口を強く結ぶ。
今の葛葉にはあまりにも痛い言葉。人間を憎悪しても、葛葉だけは違うと言ってくれているのに。こんなにも信用してくれてるのに。
「もくろー……やめよう? 人間なんか殺しても、もくろーの心が穢れるだけだよ」
『俺様がどうなろうと構わない! 俺様は眷属の敵を討つ! 人間を皆殺しにしてやる!!』
憎悪に燃え上がる目。葛葉は木狼の神気が穢れていくのを感じた。
このままでは、遠からず、木狼は祟り神となるだろう。
心優しい木狼が禍ツ神になる。そんなのは嫌だった。だから、葛葉は……。
「もくろー」
『俺様は、人間を許さない』
「もくろー……ごめんね」
囁くようにポツリと呟いた。
木狼が怪訝そうな顔をするのが、葛葉には見なくても分かった。
『葛葉?』
「ごめんなさい」
葛葉は回した右手を木狼の広い背に添える。そして、
「“走刃”」
瞬間、手の内に日本刀が姿を現す。葛葉の式で日本刀の物の怪だ。
それが吸い込まれるように木狼の脇腹を貫いた。
鮮血が舞う。
葛葉は木狼の身体を力強く押した。そして、飛び離れる。
咄嗟に、受身を取り無様に倒れこむことを阻止した木狼は、濡れる脇腹を手で押さえながら視線をあげる。
その瞳に浮かぶのは困惑と驚愕。何が起きたのか理解が追いついていないのだろう。
葛葉は容赦なく次の手を打つ。
「みんな、お願い」
その喚び声に応えるように、無数の物の怪が唐突に姿を現す。
物の怪たちは息を付く間も無く、一斉に木狼に襲い掛かった。
葛葉は走刃の切っ先を構え、再び木狼に切り掛かる。
悲哀に満ちた金眼と視線が交差したのは一瞬、葛葉は口元を歪める。
なんて、自分勝手。なんて、傲慢なんだろう。
最悪な最低な形で自分は彼を裏切った。そう、これは裏切りだ。
『……っ葛葉!?』
ねぇ、もくろー……これを裏切りと言わずして、何を裏切りと言うんだろうね
それは、今から百年余り前の神と人の子の決別の物語である。
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