陰陽記伝
平安陰陽記伝


「熱夢冷華」 ゼツムレイカ
 
「降ってきやがったか」
 ぽつり、ぽつり、と地上に落ちてきた雫。灰色の厚い雲が天を覆い、吹きつける風が木の枝を鳴らす。
 凰扇は一瞬、足を止めて空を睨むが、そうしたところで意味はないと思い直し、再び先を急ぐ。
 若い娘だった。燃えるような朱色の髪に、同色の瞳。纏うのは丈の短い朱色の縫腋袍。髪には扇を模った髪飾りをつけ、袴などは身に着けておらず、白く細い足がむき出しになっている。長く垂れた裳は、今日は強引に結んで留めている。
 その髪の色が示すとおり、彼女は人ではない。「凰扇」と名を与えられた彼女は四神と呼ばれる天の四方を治める神の一体、朱雀である。
 凰扇がいるのは緑生い茂る山の中だった。大きく広がった葉が行く先を隠し、厚い腐葉土が歩くたびに跳ね上がっては足元を汚す。普段、あまり人が足を踏み入れない山道を凰扇はただ一人歩いていた。
 握り締めた筆書きの地図が濡れないように懐に仕舞いこむ。
「急がないと」
 もたもたしていられない。こうしている間にもどんどん状況は悪くなっているかもしれない。
 凰扇は拳を強く握り締めた。
 悪路を早足で抜けていく。雨は次第に勢いを増し、凰扇の着物は水分を吸って重たくなっていく。
 凰扇は、緩やかとは言えない傾斜を登っていく。
 整備されていない山道、それに加えての雨。さらには濡れて鈍くなった四肢。いくつかの悪条件が重なって反応が遅れたのは必然とも言えた。
「うわっ!」
 足元の緩んだ地面が突如、崩れた。咄嗟に近くの木に縋り付こうとしたがそれよりも先に身体が斜面を落ちていく。
 僅か、数秒の間に凰扇の姿は茂る木々の中に消えて行った。


 話はこの日の朝へと戻る。
 陰と陽が隣り合わせに存在し、昼と夜が明確に隔てられていた時代。
日の昇る時間は人の天下となり、闇が落ちる時間は魑魅魍魎が跋扈する――平安京。
 平安とは名ばかりの都を裏から治め、鎮めるのが陰陽寮に属する陰陽師たちだ。安倍晴明は、その陰陽寮に属する天文生である。

「我が主、朝ですよ」
 日がもう時期、顔を覗かせるという頃、いつものように天清は主人の起床を促しに寝所へとやってきた。
 御簾を開け、白みかけた空の光を入れる。朝の清清しい空気が室内に満ちる。
 春の空を写し取ったような蒼い髪。人ならざる、としか表現できない美貌。身に纏う衣がふわふわと裾を舞わせる。
 四神の青龍――天清は安倍晴明に従う式神の一体である。
「我が主、起きて下さい」
 少し距離をとりながら、控えめに声を掛ける。
 なにせ、この主は寝起きの機嫌が常に悪い。下手に手の届くところにいると何をされるか分かったものではない。
「我が主、朝です。遅刻してしまいますよ」
 しつこく声を掛けるが、山をつくった床が動く気配はない。
 天清は溜息をついた。
 普通に起こして素直に起きるとは思ってはいないが。起きるまで声を掛け続けるわけにもいかない。八つ当たりされることを覚悟で、天清は身動きしない床に手を伸ばした。
「苦労しているようだのぉ」
 しわがれた声が鼓膜を打った。
 振り返れば、青縞のある白猫が室内に入ってくるところだった。
「毎朝のことですけど。……今朝はどちらに?」
 白猫は床へと近付く。
「晴明の気まぐれに付き合わされてのぉ。昨日から出ておった」
 白猫――四神の白虎である汐毘は、小さく身体を震わせると、床に潜り込む。
 晴明の気まぐれは珍しくないこと。それに一々付き合う必要もないと思うのだが。それについては、天清に口出しの権利は与えられていない。黙って頷くに留まる。
「戻ってきたなら、ちょうど良いですから、我が主を起こしていただけますか?」
 自分が起こすよりも、汐毘が起こした方がまだ機嫌が悪くならないことを経験上良く知っていた。
 ところが、それに対する返答はなかった。
 入って来たところから再び顔を覗かせた汐毘は天井を仰いだ。
「のぉ……少し不味いのぉ」
 なにがです、と天清が問う前に。それに応えるように、部屋の隅に唐突に人影が現れた。
 夏の葉を思わす緑の髪。きっちりと着込んだ狩衣。玄武こと刹影は黙って主人に近付くと、口を閉ざしたまま、おもむろに床の中に手を突っ込んだ。
「玄武殿っ!」
 思わず、天清は咎めの声を上げるが。
「不味いのぉ」
 汐毘がもう一度言った。
「熱があるようだのぉ」
「はい?」
 まさに青天の霹靂だった。


 安倍晴明に対する評判は二分される。
 その美しき顔と、魅惑の笑み。優雅な物腰と知性を感じさせる喋り。他者には穏やかに接し、陰陽師たる素質と貴族としての社交性を持った、まさに貴人と呼ぶに相応しい者。
 一方で、こうも噂される。不快を感じさせた相手を呪う。自分勝手な振る舞いばかりし、師の手にすら負えることはない。狐の血を引き、人を誑かせる。人の皮を被った魔性たる者。
 晴明に近い者達は、こう言うだろう。どちらも正しく、どちらも過ちであると。
 晴明はけして華やかな貴人ではない。
 晴明はけして恐ろしき魔性ではない。
 ならば、何かと問われれば、きっと彼らは同じ答えを返すのだろう。
「安倍晴明は安倍晴明」だと。


「随分と高いようだの」
 汐毘は低い声で呟く。
 御簾を降ろした薄暗い寝所。床で横になっているのは、四神たちの主人である安倍晴明だった。
 都人が噂する華麗な貴人も、恐ろしき呪い人もそこにはいない。床に横たわっているのは、熱にうなされる十八歳の青年だった。
 普段よりも、遥かに体温が高くなっている。
「晴明、いつから具合が悪かったのぉ?」
 これだけ高い熱。予兆がなかったはずはない。動けなくなるまで、どうして何も言わなかったのか。
 その声が聞こえたのかどうか、晴明は薄らと瞼を開いた。
 白い肌が熱で淡く染まっている。熱で潤んだ瞳が己の式神を見つめる。人ならざる四神たちのような美しさはないが、生を抱くその身は、目を離しがたい魅力を持って、見るものを捉える。
「……刹影」
 乾いた唇から、掠れた声が発せられる。刹影は主人の枕元に寄る。
「行け」
 どこに、とは言わなかった。だが、それで伝わった。
「了承」
 刹影は主人の命に応えると、その場から姿を消した。
 晴明が刹影に「行け」と命じて行かせる場所は一箇所しかない。
 天文生である晴明は、陰陽寮に出仕しなければならない――のだが、怠け癖のある晴明は度々、刹影を身代わりとして行かせている。
 だから、晴明が命じる、「行け」は代わりに出仕しろという意味に他ならない。
「こんなときくらい、休むといえば良いでしょうに」
 思わず、天清は呆れ声を出す。普段は何かと理由をつけて休もうとするくせに、本当に具合が悪いときはそうしない。それが天清には理解できない。
 少しでも熱が下がればと、水に浸した布を額に当てる。
 刹影が作った解熱薬を飲んでから、それなりに時間は経っているが、効き目が出ている様子がない。
「……流行病とかではないですよね?」
 思わず、不安になるのも無理はない。昨年の冬に流行った病では都でも、多数の死者が出た。いくら晴明とは言え、人間である以上、病に罹れば一溜まりもないだろう。
「暫く、様子を見るしかないのぉ」
 熱に苦しむ主人に何もしてやれない。刹影は薬を作ることはできるが、具合が悪くなった理由が分かるわけではない。かといって、外から治療のできる者を呼んでくることはできない。弱った姿を他人に見られることを嫌うのは目に見えている。
 何もできない歯がゆさを、式神たちは感じることしかできなかった。



「はぁ? 晴明が熱?」
 凰扇が事の次第を知ったのは、刹影が屋敷を出てから暫くしてのことだった。四神の中で、凰扇は唯一の女性型をとり、普段は屋敷の外で過ごしている。そのため、晴明の異変を知るのは最後となった。
「玄武殿の解熱薬の効果もないようで」
「…………」
 険しい表情を隠さずに、凰扇は主人の眠る寝所へと足を踏み入れた。
 晴明の傍らに付き添うのは汐毘だ。凰扇の姿を認めて、小さく鳴いた。
「兄弟子……呼んできたほうが良いんじゃないか?」
 いくら四神とは言え、人間の病に関する知識はそれほど多くはない。人間の病は人間に任せるのが一番良い。
 晴明の兄弟子である、賀茂保憲は晴明より四つしか離れていないのに、すでに天上人にも覚えがある優れた陰陽師である。病についても、それなりの知識はあるはずだ。
「あたい、ちっと行ってくる」
 この時間ならば、まだ屋敷にいるかもしれない。凰扇は踵を返し、部屋を出ようとしたが、
「余計なことをするな」
 弱々しいながら、鋭い叱咤が響いた。振り返れば、僅かに身を起こした晴明が凰扇を見つめていた。水を浸した布が床の上に落ちる。
「晴明、寝ていなくては駄目ですよ」
 天清が慌てて横にさせようとするが、それを晴明は払いのけ、
「外には知らせるな」
「だけど」
「命令だ」
 熱に冒されながらも、有無を言わさない口調で言霊を吐く。
 誰にも知らせるな。安倍晴明は息災であると外に思わせろ。
 どんなに身体が弱っていても、その眼は揺ぎ無い強さを宿したままだ。
 晴明はゆっくりと床へと身を戻す。伏せられた眼差し。
 固く閉ざされた口が次に言葉を紡ぐことはない。頬は紅いのに、顔は全体的に青白い。
 凰扇は、あっさりと眠りに落ちた晴明の横顔を黙って見つめる。汐毘は嘆息した。
「主の命令は絶対かのぉ。……熱が下がれば問題ないのだが」
 高熱は体力を奪う。この状態が長く続けば、晴明の命に関わる。
 だが、解熱薬の効果は見られないし、湿った布で頭を冷やすのにも限界がある。どうしたことか、と汐毘は尾を振り上げる。
 晴明が熱を出すなんて、まさに鬼の霍乱。四神たちが晴明の式に下ってから、体調を崩すことがなかったとはいわない。だが、薬が効かないということは初めてだ。
 人の生より長く生きながら、人との接触を極力避けてきたせいで、人間の身体に関する知識は余りにも乏しい。
「なにか、冷たいものがあれば良いんですけど」
 清流にいけば冷たい水が手に入るが、安倍邸に持ってくるまでに温くなってしまうだろう。
 式神たちの力では、人間の身体の一部だけを冷やすような細やかなことはできない。やはり、ここは保憲に来てもらうのが最善だが、言霊で命じられた以上、それはできない。
 八方塞の状況で、四神たちは呻くしかない。
「冷やす……雪とか降ればいいのに」
 凰扇がぽつり、と呟いた。生憎、雪が降るような季節ではない。それを望むのは不可能だろう。
 汐毘が顔を上げ、凰扇を見た。
「なるほどのぉ」
 それは思いつかなかったと、汐毘は髭を震わす。
「雪はないが、それに代わるものならば……」
「あるんですか?」
 天清が身を乗り出す。汐毘は尾を振った。
「氷だのぉ」





 夏の季節が近付く頃ともなれば、山奥に入ったところで雪に出くわすこともない。だが、意図的に冬の名残を留められているところもある。
 都より暫し離れた山奥の一角に、冬の間凍らせた水を保存しているところがある。もちろん、易々と分けてもらえるはずはないが、こっそり頂いて来る分には問題はない。要は、ばれなければ良い。
 そう考えるあたり、四神たちも随分と主人に毒されている気がしないでもないが、今は緊急事態ということにしておこう。
 問題は誰が氷を取りに行くか、ということだ。晴明に従う下位の式神では、それを成し遂げるのは不可能だ。刹影は影武者として出仕している。
 この役目として相応しいのは、風を繰る汐毘なのだが――。
「わしはここを離れるわけにはいかんしのぉ」
 晴明の意識がない以上、安倍邸の守りを担うのが汐毘の役割だ。晴明が倒れたことで、屋敷を覆う結界も弱っている。それを補い、さらには下位の式神たちの動揺を抑える。天清でも結界は張れるが、晴明の結界を補う形で張り直すのは至難の技だ。
「なら、私が行きましょう」
 天清は勢い良く立ち上がる。
「東の王、それは構わんが」
 虹色の瞳が瞬く。
「おぬしがいなくなると、身の回りの世話をやるものがいなくなるのぉ」
 安倍邸の家事一般、及び晴明の世話をするのは天清の仕事だ。さすがに、猫の手では汗を拭ってあげることすらできない。
「あたいが行く」
 凰扇は口元を歪めて、
「あたいがここにいても何もできないしな。この場合はあたいが適任だろう?」
「……朱の君」
「そうだのぉ、では、鳳の姫に行ってもらうとするかのぉ」
 天清は何か言いたげに口を開きかけたが、それを遮るように凰扇が天清の肩を叩いた。
「晴明のこと頼んだぜ」
 汐毘に氷がある場所までの地図を描いてもらうと、凰扇は屋敷を出て山を目指した。



 そして、話は初めに戻る。

「……っつ」
 呻き声を喉の奥で殺しながら、傍の木を支えに立ち上がる。濡れた髪が視界を覆う。軽く頭を振り、ざっと己の状態を確かめる。
 振り返れば、急な斜面が目に映る。普通の人間ならば、この上から落ちれば即お陀仏だろう。幸いにも、凰扇は人間ではないし、無意識に受身をとったので、掠り傷一つない。
 もっとも髪は乱れ、服は泥だらけになっている。凰扇は忌々しげに舌打ちを漏らした。
「えっと、あそこから落っこちたんだから」
 現在地を見失うわけには行かない。凰扇は懐から地図を取り出した。
 だが――
「ああ!」
 激しい雨と、斜面から落ちた影響で、地図は破れ、墨が滲んでしまっていた。黒い靄となった地図は読み取るにはあまりにも困難だ。
「くそっ」
 周囲を見回してみるが、降り注ぐ雨のせいで視界は悪い。茂る雑草が足元を絡め取る。
 元の道に戻れれば、うろ覚えではあるが行き先は分かっている。だが、斜面の上に戻るには時間が掛かりすぎる。こうしている間にも、晴明の熱は上がっているかもしれない。
 凰扇は拳を強く握った。
「悩んでいる場合じゃない」
 こんなところで、立ち往生している場合ではないのだ。
 凰扇は意を決して雨の中を歩き始めた。







 桶に汲まれた水。その中に布を躍らせる。水分を絞り、その冷ややかさが残されているうちに、熱くなった額へと乗せた。
 床に横たえた身は、冷ややかな布を乗せても反応を返すことはない。
 高熱が身を蝕み、意識を奪っている。
 それを横で見守る天清の顔は曇ったままだ。
「熱、下がりませんね」
 下がるどころか、時間が経つにつれて上がっている。
 浮かび上がる汗を拭っても、それに対して身じろぎ一つしない。
「このまま、熱が下がらなければ」
 天清は喉の奥を震わせた。
 人間は弱い。四神である天清たちに比べるとあまりにも儚く、容易く息絶えてしまう生き物だ。体温が僅か数度上がるだけで、身体は弱まり、死を呼び寄せる。
 なんて脆い存在。
「東の王。晴明ならきっと大丈夫だのぉ」
 唇を噛み締め俯く天清を励ますように、汐毘は言った。
「わしらの主がこの程度で死に瀕するほど弱くはなかろう」
「そう、ですけど」
「ならば、信じよう」
 汐毘は色を変える瞳を伏せた。
「わしらにできるのは、それくらいだのぉ」
 天清は、汐毘に視線を落とした。汐毘は座って主人を見つめている。
「情けないですね」
 ぽつり、と天清は零した。
「四神と呼ばれる存在なのに、ただ見守ることしかできないなんて」
 四方を治める神。人間を超越した存在のはずなのに、熱に苦しむ主人を救うことすらできない。人間を超越した力を持つはずなのに、その身から熱を取り除いてあげることすらできない。
 汐毘は応えなかった。ただ、誘われるように外に視線を移して、
「降ってきたのぉ」
 空から落ちてきた雫が、庭石を静かに濡らした。





 身が焼けるように熱い。全身に熱が纏い、内側から身を焦がす。
 そう、これはまさにあのときと同じ――。

『おいで、おいで』
 呼ばれて振り返れば、塀から顔を覗かせる物の怪がいた。細長い手を差し出し、手招きをする。
『おいで、おいで』
 その薄気味悪さに、全身が強張るのを感じた。
『おいで、おいで、安倍童子』
 手招きと共に、呼ばれる。だが、それに従うことはない。安倍童子は「名」ではないから。真の名は、それを名乗るだけの力を身につけるまで隠されている。
『おいで、と言っているのが分からないのかっ!』
 口が裂けた。細かな鋭い牙と、赤々とした舌が覗いた。
 咄嗟に、懐に手を差し入れる。そこにはお守りとして父上が授けてくれた呪符が入っている。
『ケッケケケケケケ』
 だが、それを手にする前に、物の怪が飛びかかってきた。
 真っ赤な口と、銀に輝く牙。ぎらぎらと光る眼。逃げる、という選択肢を考えている余裕はなかった。
 次の瞬間には、意識を失っていた。

 冷ややかなものが額に触れる。薄らと目を開けてもすぐには、はっきりと物を見ることが適わなかった。
「大丈夫かえ?」
 鼓膜を打つ。優しい声。額に触れるのが手であることに気がついた瞬間、安堵が胸に広がった。
「まだお眠り。あの物の怪は妾が始末しておいた」
 妾の子に手を出すなんて、あまりにも愚かしい。
 続いた言葉には、憎悪も嘲りも宿っていなかった。それは、幼い息子に襲い掛かった物の怪はもう存在していない故なのか、それとも、端からそんな感情を持ち合わせていないのか。
 ぼんやりする浮かされた頭ではそこまで理解できなかった。
「少し、熱が出ておるが、物の怪の気にやられただけ。すぐに良くなる」
 冷たい手が頬に触れ、首筋をなぞる。
「そなたはまだ幼い。……或いは、幼いままのほうが、幸せかも知れぬ」
 ゆるゆると撫でる手が気持ち良い。その気持ちよさに流されて、意識が遠のいていく。
「妾がいつまでも、そなたを守ってあげられれば良いが」
 嘆くように、囁くように、鼓膜を流れる音。
「安倍童子……春秋、はるあき。二つの季節を抱く妾の子、晴明」
 人間の安倍保名と、信太の狐との間に生まれた子。
「けして、弱みを見せてはならぬ。弱みを見せた瞬間、そなたは黄泉を潜ることになる。妾の血を引くその身、狙う物の怪は万といよう」
 薄れゆく意識に言葉が、言霊が、強く刻まれていく。
「妾は、そなたの傍にあろう」
 熱を持たない手が、額に触れる。
「たとえ、永久に別れがこようとも」




 目を開いた時、最初に飛び込んできたのは、燈台の炎に照らされた天井だった。晴明は、何度か瞬きを繰り返した。
「わ、我がある……ぐっ」
 晴明が目を覚ましたのに気がついた天清が身を乗り出したが、その顔面に枕がぶち当てられる。
「何度、言ったらわかる。この安倍晴明は、『我が主』などと言う名になった覚えはない」
 身を起こし、いつも通りに告げるその顔に熱の余韻はない。
「どうやら、熱は下がったようだのぉ」
 汐毘は晴明の膝の上にあがり、その顔を見上げた。晴明の生命力が、熱に打ち勝ったのだろう。疲れた表情をしているが、病の気は感じられない。
「……本当に何よりです」
 鼻頭を擦りながら、天清も頷く。
 一時はどうなることかと思ったが、枕を投げ返すだけの元気があれば、もう大丈夫だろう。
 外はもう暗闇に包まれている。熱にうなされ一日中寝ていたのだろう。時間を無駄にした、と晴明は呟いた。
「気持ち悪い」
 衣の裾を摘まんで晴明は眉を潜める。寝汗がべたつき、背中がぞわぞわする。
「ただいま、着替えの準備を致しますね」
 文句を言われる前に慌しく天清は寝所を出る。
 晴明は膝に乗った汐毘の背を撫でた。
「なにか、変わったことは」
「特にはないのぉ。結界も問題はないし、式神たちも普段通りにしておる」
 晴明が熱を出して寝込んだ事実など、どこにもないと暗に含ませる。
「なら、良い」
 晴明はまだ僅かに熱が残る手の平をきつく握り締めた。
 
「朱の君っ!」

 天清の悲鳴に近い叫びが轟いたのは、そのときだった。
 汐毘が、ぴんと耳を立たせる。
「どうやら、鳳の姫が帰ったようだのぉ」
 その気配を読み取って汐毘が言えば、晴明は首を傾げた。
「主人を放って遊び歩いていたのか」
 意地が悪い一言に、汐毘は低く笑った。



 凰扇は、ぐったりと縁側に身を寄せた。朱色の髪は泥にまみれ、衣も酷く汚れている。正確には汚れていないところなどないといった有様だ。
 あまりの酷さに、天清が悲鳴じみた叫びをあげてしまったのも無理はなかった。
「……悪いっ」
 凰扇は表情を歪めた。差し出したのは、藁の包みだった。その中には小さな氷の欠片が収められていた。
「元は氷塊だったんだけど」
 迷いながらもなんとか目的地に辿り着き、氷を手に入れたものの、そこから都に戻る道が分からずさらに迷い、温かな雨によって氷は徐々に溶け、残ったのは僅かな欠片のみ。
「晴明は?」
 凰扇は今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。氷を持ち帰るはずだったのに、これっぽっちしか持ち帰れず、しかも半日以上掛かってしまった。その間に、晴明の容態が悪化していたら。
 それだけが恐ろしくって、それだけを危惧して、休みも取らずに山奥から駆け戻って来た。
「晴明なら――」
「騒々しい帰りだな」
 天清の言葉を遮って、奥から姿を現したのは晴明だった。湿って気持ち悪いのか、半ば脱ぎかけの衣を引きずりながら、悠然と歩み寄ってくる。
 少し前まで熱に冒されていたとは、とてもじゃないが思えない。
「晴明っ!」
 凰扇の表情が明るくなる。それから、力が抜けたようにその場にうつ伏した。
「話は汐毘から聞いたが、なんたる様だ」
 藁に包まれた氷を見やって言う。
「四神のくせに、この程度のことすらまともにできないのか?」
「朱の君は貴方のために――」
「だが、無駄足だったろう?」
 冷ややかな晴明の言葉に、凰扇は黙って口を閉ざす。晴明は無事だったが、結局、当初の目的を為すことができなかった。
 今の凰扇には、反論するだけの元気は残っていなかった。
 晴明は藁の中から、一番大きな塊を手にする。氷を握ったところから、急激に体温が奪われていく。
 この感覚を晴明は覚えている。物の怪に襲われ、その気に当てられて熱を出した身を冷やしてくれた優しい手。まるで、氷のようだと、鈍った頭の隅で思った。
 晴明は手にした氷をおもむろに口の中に放った。舌がひりつくような冷たさと、心地良さが広がる。
 濡れた手を衣で拭い、口の中の氷を全て溶かしてから、晴明は凰扇に一歩歩み寄った。
「凰扇」
 びくり、と肩を震わせ、凰扇が晴明を見上げる。
 そんな己の式神に、晴明は、
「氷なんて冬場以外に口に出来るものではないからな」
 冬は寒いから、氷なんて口にしようとは思わないが、そう嘯いて穏やかに微笑んだ。
「お前の努力に免じて、これは安倍晴明が頂いてやろう」
 藁に包まれた僅かな氷を示して、宣言するように告げる。
 凰扇は呆気に取られたように目を見開いた。
 晴明は藁を拾い、天清から強引に着替えを奪うと、
「泥を落とすのを手伝ってやれ。汚いままが好きならば別に構わんが」
 天清に命じ、付け足すように凰扇に囁いて、晴明は寝所へと姿を隠す。
「素直にありがとう、と言えば良いのにのぉ」
 その後を追いながら汐毘は小さく笑いを零した。




 凰扇は寝所へと消えた主人の背中を見つめていたが、指にあたる冷たい感触に視線を降ろした。そこにあったのは、藁包みから零れ落ちた氷の一欠けら。
 指先で摘まみ、先ほど晴明がしたように口の中に転がす。
「つめてぇ」
 小さな欠片は、口の中の熱にあっという間に消されてしまうのに、その冷たさは鋭く舌に残る。
「晴明みたいだな」
 冷ややかで、だけど、どこか心地いい。
「さあ、朱の君、湯浴みしましょう」
「ああ」

 それは、晴明が熱を出した、ある日の話だった。



H20.12.10






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