陰陽記伝
平安陰陽記伝


「白猫異端」 ハクビョウイタン
 
 大きく横に振れた尾が、ぴたり、と止まる。それは尾の持ち主の緊張を現しているようだった。




 汐毘は、四神の一体、北の白虎である。普段は白い猫の姿を取っているが、可愛らしいのは外見だけ。口調も声音も年寄りじみており、四神の中でも一番年が上らしい。らしいと言うのは、汐毘が人型を取ったところを誰も見たことがないからだ。
 口調も声音も、意識すればいかようにもなる。だから、汐毘が本当に年寄りなのかは分からない。分からないが、気にするようなことでもないので、誰もそれに関して触れることはなかった。
 だが、ひどく気まぐれな主人は時折、突拍子な言動をすることがある。それが、まさに今だった。
 いつものように、晴明は汐毘を膝に乗せ、指先で毛皮の感触を楽しんでいた。汐毘は喉を鳴らしてその愛撫に応える。
 昨日、仕事で祓いに出た晴明は、物忌みだと言い張って強引に休みを取ってきた。そのため、晴明は朝から機嫌が良かった。同じ言い訳で、数日、出仕を避けようと考えているのは明らかだった。
 唯一、晴明の弱みとも言える師と兄弟子は共に都を離れている。
 晴明を引っ張ってでも出仕させようとするものなど、他にはいないだろう。
 邪魔をするものも、小言を言うものもおらず、晴明は自由気ままに降って出た休みを満喫していた。
 だからこそ、そんなことを言い出したのかもしれない。
「思ったのだが、汐毘」
 毛皮の上を滑る指先。幾度となく繰り返される愛撫。主人の声掛けに、汐毘は小さく鳴くことで答える。
「お前の人型を見たことがないな」
「なにを、藪から棒に」
 虹色の瞳が晴明を見上げる。晴明は汐毘の頭を優しく撫でる。
「声音から推測するに、男型。それもご老体と感じられるが、実は女型で若輩とも考えられる。猫の姿からでは、はっきりとしたことは分からぬからな」
「まぁ、のぉ」
「そこでものは相談だが」
 晴明の双眸が細められる。
「人型になってはくれまいか」
 汐毘の大きく横に振れた尾が、ぴたり、と止まった。
 言葉はお願いだが、それは強制を意味する。主人の言葉は絶対。それが従うものの常だ。
「嫌か?」
 首を傾げた拍子に流れ落ちる黒髪。艶やかなそれは、毎日、四神の一体である青龍が整えているおかげで乱れは一切ない。
 細やかな輪郭に、通った鼻筋。狐の血が半分流れていると言うその容姿は思わず目を引く美しさを持っている。
 美貌という点で言うならば、青龍である天清の方が美しいと言えるだろう。だが、晴明のそれはただ美しいだけではない。それは周囲の目を引きつけて放さない美しさだ。
 狐は人を魅了し、虜にする。晴明にもその血が確かに混じっている。
 その顔を人々は注視し、その揺ぎ無い双眸と態度が人の目に眩しく映る。
 光のような人間だと汐毘は思っている。
 そして、そんな人間が己の主人であることが誇りでもある。
「のぉ、晴明」
 答える代わりに、汐毘は言葉を紡ぐ。
「それは命令かのぉ?」
 真に強制を意味するのならば、拒否権はない。だが、それが言葉のままのお願いならば、汐毘に「否」と告げる権利はある。
「ものは相談と言っただろう」
「ならば、拒絶しても構わんかのぉ」
 晴明の眉が上がるのが見えた。汐毘が否と言うとは意外だったのだろう。
 晴明のことを諌めるようなことがあっても、汐毘はいつだって晴明に否を唱えない。主人の御心に沿うように行動する。
 それなのに、人型が見たいと強請った晴明を汐毘は退けた。
「拒絶するだけの理由はあるのだろうな?」
「さて? 否と答えるのに理由が必要だとは知らんかったのぉ」
 とぼける汐毘に晴明の双眸が絡みつく。その目の奥に、不満な色が宿るのを見た。らしくない汐毘を訝む様子さえある。
「そうか」
 それ以上、食い下がることなく、晴明は呆気なく引き下がった。
 汐毘はそっと苦笑を漏らした。平静を保っているように見えて、今、晴明の中では様々なものが渦巻いているだろう。けして、本心を明かそうとしない強情な主人は、己の不満さえも押し殺す。
 だが、気分を害したことは間違いないようだった。
 晴明は汐毘を膝から降ろすと、外を見て来いと命じる。汐毘は逆らうことなくその指示に従った。





 最初に、それに気がついたのは刹影だったようだ。
 夕食のとき、汐毘は晴明の膝ではなく刹影の膝に丸くなり、晴明も汐毘を喚んだりはしなかった。
 その場に居合わせた天清は、単なる気まぐれだろうと、本来いるべき場所にいるはずの汐毘がいないことを気に留めている様子はなかった。

 

「叔父上」
 晴明が床に入り、寝に入ったあとも、汐毘は晴明の床に潜り込むことなく、中庭を眺めるところで月を見ていた。
 刹影は四神の玄武で、普段は晴明の影として姿を隠して控えている。だからこそ、晴明と汐毘の間に流れる微妙な空気に気がつくことができたのだろう。
「……どうやら、機嫌を損ねてしまったようだのぉ」
 問われる前に囁くように呟く。刹影は汐毘を抱き上げ懐に寄せた。
 喧嘩というわけではない。天清や凰扇(四神の一体、朱雀)と違い、汐毘が主人と言い争う事はない。ただ、汐毘の「否」を不快に思った晴明が汐毘を遠ざけただけ。
 汐毘が晴明の頼みごとを拒絶したから、晴明も汐毘に拒絶し返している。分かりやすいほど分かりやすい仕返し。
 天清と凰扇ならば、その場で派手な言い争いをして終わる話だが、汐毘と晴明はそういう関係ではない。
「さて、どうするかのぉ」
 一晩明けて、気が収まっていれば良いが。
「見せてあげればよろしいのに」
 囁くように、刹影が言う。
 人型を見せてあげれば、晴明の気はすぐに収まるだろう。それで万事解決のはずだ。
 汐毘は小さく頭を振った。
 刹影は、腕の中の汐毘の背を撫でながら、
「叔父上、何が問題なのですか?」
「問題というわけではないが、わしの意地と言ったところか」
 意味がわからないと、目を瞬く刹影に汐毘はひっそりと笑みを零した。

 


 鈍い鈍い、と言われ続けている天清と凰扇でも、さすがに気がついたようだった。
 朝から、晴明と汐毘は言葉を交わすどころか、目も合わせない。同じ部屋にいながら、互いを意識から外している。
 朝食後、晴明は散歩に出ると言って、刹影を伴って屋敷を出て行った。(物忌み中だから外出は控えねばならないのだが、晴明の頭にはそんな考えはないらしい)
 汐毘は縁側で丸くなって日向ぼっこをしている。
「おい、西の猫っ!」
 そこに声を掛けたのは凰扇だった。四神の中で唯一、女性型を取る凰扇は、足を剥き出しにした衣を身に纏っている。女性は肌を見せないのが常識なのだが、四神である彼女には関係のないことのようだった。
「晴明と喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩だったら、良いがのぉ」
 丸まっていた身体を、ぐっと伸ばしながら、汐毘は凰扇を見上げた。凰扇は汐毘の隣に腰を掛ける。
「喧嘩じゃないなら、なんだって、晴明はあんたを避けてんだ?」
「強いて言うなら、意地の張り合いかのぉ」
「はぁ?」
 なんだそれ、と凰扇は目を丸くする。
 真っ直ぐ、晴明にぶつかっていける凰扇には理解できないだろう。正面から主人に向き合える凰扇と天清が、汐毘には羨ましい。
 晴明が自分から、ちょっかいを仕掛けるのはいつだって凰扇と天清にだけだ。
 正面から、晴明とぶつかったことのないからこそ、汐毘は現状に困惑していた。どうしたら、己の意地を守りつつ、晴明の機嫌を戻すことができるか。
「良く分からないが、早いとこ仲直りしてくれよ。見てるこっちが、はらはらしちまう」
 ぎくしゃくした空気は伝染する。晴明と汐毘の仲が悪くなれば、他の式神たちも落ち着かない。
「適当に謝っちまえばいいさ」
 汐毘の背を軽く叩いて、凰扇は快活に笑った。
「そうは言ってものぉ」
「晴明だって、本気で怒っているわけじゃないだろう?」
 そもそも、不機嫌で八つ当たりされることはあっても、本気で怒られた記憶は凰扇にはない。
「怒られるような理由はないがのぉ」
「あぁ、もうっ! ぐじぐじ言ってねぇで、さっさと謝っちまえ!」
 謝るも何も、汐毘が悪いことをしたわけではないのだが。それを言ったところで無駄であると悟った汐毘は口を閉ざした。
 だが、凰扇の言うことも一理ある。要は、晴明の機嫌を直す、きっかけがあれば良いのだ。
「鳳の姫に悟らされるとはのぉ」
「……なにか言ったか?」
「いやいや」
 汐毘は、さて、と身体を起こす。時が流れるのを待っても仕方ない。
 凰扇に短く言葉を掛けた後、尾を振りながら室内へと、戻って行った。







 夕食の最中も、後も、汐毘の姿は見当たらなかった。それに天清は疑問を抱きつつも、主人が何も言わないので素知らぬふりをすることを決め込んだ。
 人気のない安倍邸を月が静かに照らし落とす。
 床についていた晴明は、何者かが枕元に立っていることに気がつき、そっと頭を起こした。
 不穏者が邸内に無断で入り込めば結界が働くはずだし、室内に入り込めば、姿を消して晴明を守護している刹影が反応しないはずはない。それに、この気配は良く見知ったものだった。
 暗い室内。御簾が降ろされているため、月明かりも遠い。人の目である晴明には暗闇を見通すことは出来ない。それでも、気配でそこに誰がいるのかは分かった。
「汐毘か?」
「いかにも」
 晴明は肘を立て、寝床に寝そべったまま、視線を上げる。
 ぼんやりと、暗闇の中に浮かび上がる影。光のない中では、その姿をはっきりと捉えることはできず、辛うじて輪郭がわかるばかり。
 そこにいたのは、いつもの白猫ではない。大きさは分からないが、人の姿をした者だった。
「否、ではなかったのか?」
 予想外のことだったろうに、晴明の声に動揺は感じられなかった。ただ、不思議そうに首を傾げる。
 汐毘は手を伸ばす。晴明の寝乱れた黒髪を指先で直す。
 晴明は視線を逸らさず、汐毘を見上げている。僅かでもその姿を見通そうとするかのように、強い眼差しが注がれる。
 汐毘は苦笑した。
「のぉ、晴明」
「なんだ」
「謝罪した方がいいかの?」
 僅かながら、間があった。
「謝るようなことをしたのか?」
「していない、と思ってはいるが」
「なら、必要はないだろう」
 素っ気無く返されるが、汐毘は安堵したように息を吐いた。
「お前が人型だと落ち着かん」
 それに気がついたのかどうか、晴明が言う。
「いつもの姿が一番良い」
 だから、戻れと言葉なき言葉で命じる。汐毘は淡く微笑んだ。
「承知致した」
 次の瞬間には、枕元に立っていた人影は失せた。
 代わりに何かが寝床の中に忍び込んでくる。晴明は仰向けに寝転びながら、それを胸元に抱き寄せた。
 滑らかな毛皮の感触。温かな温もりが手から伝わってくる。
 手の平を滑らせて、一日あまりぶりのその触り心地を楽しむ。
「お前はこれが一番だ」
 鮮やかな笑みが晴明の顔を飾る。
 白猫は嬉しそうに、「にゃあ」と応えた。





「ときに、汐毘よ」
 不意に、晴明が言った。
 明日には師匠たちが帰ってくるため、連休は今日で終わりだ。吹き込む穏やかな風を楽しみながら、晴明は庭の景色を眺めていた。
 汐毘はゆっくりと尾を振りながら、背中を上下する晴明の愛撫の手を受け入れていた。
「凰扇は本当に女だと思うか?」
「……晴明」
 大きく横に振れた尾が、ぴたり、と止まった
 呆れたように、汐毘は顔を上げる。
「実は男型という可能性も捨てきれまい」
 真面目な顔をして告げるが、どこまで本気かは分からない。汐毘は嘆息した。
 好奇心、と呼べば聞こえは良いが、要は退屈しているだけのこと。



 暫くの後、安倍邸内で凰扇の怒号が響き渡った。


H20.12.2 「そらとぶくりねずみ」一周年記念に捧げる






←平安陰陽記伝TOP
←陰陽記伝TOP
←PLUMERIA_TOP