毒薬と逃亡 「6」 本文へジャンプ


「言っている場合かよ」
 苛立ちを押さえ込んで、オレは作戦の実行を促す。
 生きていたら合流する場所を決めて、オレはハンドルをラスカから受け取った。
 ラスカはカツラを被り、その上からヘルメットを装着した。バイクを固定していたベルトを外す。
「……シラー」
 バイクのエンジン音が低く響き渡る。掻き消されないように、ラスカは声を張り上げた。
「死ぬなよ!」
「…………」
 返す言葉が遅れた。その間に、バイクが車から飛び出した。
 離れていくバイク。それに跨るラスカの表情はヘルメットに遮られて窺うことはできなかった。
「さて」
 オレもぐずぐずしていられない。
 森がちらほら視界に入るようになってきたが、この辺りはまだ荒野だ。障害物らしい障害物はない。
 オレは、ロープでハンドルを固定し、ブロックでアクセルを押さえると、荷台に移った。
 積んであった木箱の蓋を開ける。そこには、オレが採取に出ている間に使う荷物が入っているはずだったが。
「う……うう」
 苦しげな呻きが漏れ出した。苦しげな、ていうか実際に苦しいのだろうけど。
「ラスに聞かれなくって良かったぜ」
 オレは安堵の息をついた。
 もう少し強力な麻酔薬を使えば途中で、意識を取り戻すことはなかったのだけど、今度から気をつけないといけない。
 箱の中にあったのは、人だった。オレと同じウィルレーン帝国軍の服を纏っている。
 手足は縄できつく縛られ、瞼の上下、上唇と下唇が糸で縫い付けられ、滲んだ血がその顔を汚していた。
 自分の身に何が起こっているのか理解できていないのだろう。鼓膜が破られているため、周囲の状況も分からず、ただ恐怖で身体を強張らせ、強制的に閉ざされた瞳からぬめった涙を零す。
 僅かに空いた唇から、細い息が音を奏でた。
「おも……」
 揺れる二台の上で、人間一人を運ぶのは一苦労だ。オレは息を切らしながら、なんとか座席にその男を座らせた。
「……うーん、微妙だな」
 その男の髪は弱冠明るめの茶色をしている。これではすぐにばれてしまう。オレは別の箱から、黒塗りの缶を取り出した。
 中に入っているのは、タールだ。それを男の頭に垂らし、髪に満遍なく塗りつける。
「こんなもんか」
 真っ黒に染まった頭。弱冠、顔も黒くなっているが、遠めならわからないだろう。
「お前に恨みはないんだけどな」
 オレはいつものように、男の肩を叩いた。男が大きく身体を震わせた。
「運が悪かったと思って諦めろ」
 聞こえていないのはわかっている。それでもオレはあえて口にした。そうすることが、オレの義務だからだ。
 何も分からず、理不尽な目にあっている男に同情するつもりはない。
 所詮、この国の人間は皆、歯車だ。これがこの男の役目だったに過ぎない。
 オレは運転席の後ろに回ると座席の裏板に手を掛けた。本来ならしっかりと留められているはずの板は容易く外れる。
 そこにはちょうど、人間一人が潜める程度の空間があった。
 オレは身を屈めて、座席の中に入ると板を内側から締める。
 車体が揺れるたび、肩を打ち付けるが我慢するしかない。息を潜め、オレは、その時が来るのを待った。
「くっ」
 衝撃は唐突に訪れた。
 爆音と共に、車体が大きく跳ね上がる。体が左右に揺さぶられ、あちらこちらを強か打ちつける。
 オレは歯を食いしばり、声を出さないように耐える。
 タイヤを爆破されたのか、やがて車体は滑るようにして止まった。
 頭がくらくらする。気持ち悪い。
 吐き気と、痛みに喉の奥が引き攣る。
 オレは両手で自分の口を押さえ込んだ。今は、ただ気配を消すことに集中しなければ。でなければ、全てが水の泡になる。
 エンジンの音が木霊する。やがて、それは間近で響く。
 微かだが話し声が聞こえてきた。
 何を言っているのかわからないが、怒鳴り声らしいものが鼓膜に届いた。
 捕まえたと思ったら、まんまと偽物を掴まされたのだ。怒らないわけがない。
 オレは狭い空間で音を立てないように注意しながら懐を探った。
 この状況で見つかれば、一巻の終わりだ。申し開きをする間もなく、抹殺されるだろう。
 まさか、座席の後ろに隠れているとは思わないだろうから、時間が掛かってもいい。慎重に、確実に事を成せばいい。
 取り出したのは、手榴弾――ではなく、オレが特別に調合した煙玉だ。
 この煙を吸うと暫くの間、体の自由が利かなくなり、五感の全てが封じられ、意識だけがはっきりと残る。
 そう、意識だけがある。
 目を塞がれ、耳を閉ざされ、手足を封じられた哀れな生贄と同じ――いや、痛みがない分、精神に恐怖を植えつける。
 実験動物で試した結果は、なかなかのもんだったが、人間にはまだ使っていない。
 簡易マスクを取り出し、口元を覆う。
 チャンスは一度きり。失敗したら、ジエンド。
 乾いた唇が切れたのか、痛みが走った。
 手を伸ばし、座席の裏板を外す。
「……おい、これ」
 隙間から、数人の人影が見えた。外す時に、僅かに音が立った。それにめざとく気がついたやつがいたのだ。
 悠長にはしていられない。オレは隙間から煙玉を放り投げた。身体を丸め、マスクの上から手を押さえ込み、息を止める。
 マスクをしているとは言え、完全防護用でない以上、念には念を入れとく。
 呼吸を止め、目を固く閉じる。
 腕時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえた。
 息が苦しくなってきた頃、オレはようやく手を離した。外を窺うが、音がない。
「よっ……」
 足を使って板を外し、傷む身体を投げ出すように外へと出た。降り注ぐ日差しがやけに眩しく感じられた。
 マスクを投げ捨て、大きく息を吸う。
 新鮮な空気はやはり良い。煙は風が流してくれたようだった。
 肩を大きく回せば、鈍痛がじわりと広がっていく。肩だけではない、あちらこちらが傷む。全身が痣だらけになっていることだろう。
 覚悟はしていたが、実際になってみるとやはり辛い。こういう中途半端なのが一番堪えるんだよな。暫く、抜けそうにないだるい痛みに自然と溜息が漏れた。
 強張った身体を慣らしてから、オレはようやく視線を下に向けた。
「パーフェクトだな」
 満足げに頷く。
 地面に倒れていたのは、オレと同じウィルレーン帝国軍服を纏った人間。その胸にバグズケージの隊証がつけられているのを確認する。
 息はしているようだが、ぴくりとも動かない。首に手を当てて脈を取ると、正常に鼓動を打っていた。
 試しに靴底で転がっているやつを蹴りつけてみたが反応はない。死体のようだが、呼吸も脈も体温も正常。
 全て計算どおり。ハニーはオレの指示通り素晴らしい効果を示してくれたわけだ。
「無駄な鎖は断ち切って置かなきゃな」
 銃口を無防備に転がるやつらに向ける。追っ手の数は少ない方が良いに決まっている。
 引き金に指を掛ける。
 銃は便利だと思う。手を汚さずに簡単に人の命を奪える。どんなに非力なやつでも、強靭な相手を撃ち滅ぼすことができる。
 指先を引けば――。

「壊すことは何故、こうも簡単なのだろうな」

 あぁ、最悪だ。
 オレは溜息をつく。
 目の前には屍のごとくの人間。指には引き金。始末をつけるには、なんの不自由もない。
 ゆっくりと銃を戻す。
「どうせ、もう使い物にならねぇだろうしな」
 薬の効果で、こいつらの精神はずたずたに引き裂かれた。
 この先、いつ弾を補充できるかわからないのだから、無駄弾を使う必要はない。そう納得させる。
 オレは踵を返す。ここにはもう用はない。
 倒れている追っ手の数は予想よりも少なかった。ラスカについていった方が多かったのだろう。
 まぁ、ラスカのことは、心配要らない。あいつなら何とか自分でするだろう。
 紐を解いて、乱れた髪を整える。
 スィーベルは緑の国。この辺りもその影響で、森が増え始めている。
 荷台から必要最低限のものだけ、装備するとオレは木々の中に入っていた。姿を隠すにもってこいだ。
 取り出した地図で現在地を確かめる。スィーベルの国境はもう直ぐだ。
 オレは軍服の襟を摘まんだ。軍服では目立つ。早いところ、集落を見つけて衣服を調達しなければならない。
 先へ進めば進むほど森は深くなり、地面は高くなってくる。
 スィーベルとの間の国境は今までにも何度か越えている。半日もあれば、山の反対側に抜けられるはずだ。
 背後に注意を向けるが、バグズケージのやつらが追ってくる気配はない。
「思ったより、楽勝ってか」
 鼻歌でも歌いたい気分だった。
 少なくとも、今のところは何の問題もない。
 しかし、そんなご機嫌もすぐ崩されることになる。
 最初に覚えたのは、息苦しさだった。呼吸に違和感。胸焼けを起こしたかのように、圧迫を感じた。
 足元がよろめき、咄嗟に傍の木の幹に手をかける。
「っくそ」
 悪態は思った以上に弱かった。舌打ちが漏れる。
 オレは懐を探る。よりによってこんなときに――。
 指先がハニーに触れたのと、足の力が抜けて地面に膝がついたのはほぼ同時だった。
 まずいと思った。思うだけで、何もできなかった。
 地面の硬い感触が頬に触れる。手を動かしてハニーを探るが、急激な眠気が意志を奪う。
 こんな場所で、気絶するわけにはいかない。重いとは裏腹に、重くなっていく思考。

 駄目だ。まだ駄目だ。こんなところで。駄目だ。起きないと。起きて逃げないと。駄目だ。身体を。先に行かないと。追いつかれる。駄目だ。寝るな。起きろ。こんなところで。駄目だ。先に。追っ手が。寝ては駄目だ。捕まって。寝たら。これじゃあ。目を覚ませ。身体を。どうしようも――。

 そこに、
「あら、あら、あら、あらぁ?」
 声が聞こえた。その主を探そうと、張り付く瞼を除けようとするが、無駄な足掻きに終わる。
「これってもしかしてェ、もしかしてじゃなァイ?」
 目を覚まさないと、じゃないと――。
 
 意識も、意志も、思考も、思惑も、希望も、――全て眠りの縁に誘われ。

 オレは暗闇の奥へと沈んだ。


【毒薬と逃亡 完】




 

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