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三師人 −サンシジン− 本文へジャンプ
三師人


生まれは『盾』を分かつとのこと

 ブクリエーム王国には、建国にまつわる伝説がある。
 かつて、小さな部族が幾つも集まっていたこの地は、度々戦の火の手が上がっていた。
多くの人が死に、一つの部族が滅んでは、新たな部族が生まれる。そんなことを長いこと繰り返していた。
 それを憂いたのが、創造神の娘コーデリハイムだった。
 彼女はこの地に生えるセイムの花から生まれた女神だった。愛する大地が血で穢れることを誰よりも悲しんでいた彼女は、ある部族の長であるアンセルムという青年に力を与え、この地の部族を一つに纏めるように促した。
 アンセルムはコーデリハイムの期待に応え、部族を纏めて、ブクリエーム王国を興した。そして、彼はこの国の最初の王となった。
 アンセルムはコーデリハイムに、セイムの花が咲き続ける限り、この国に血を流させたりしないことを子孫共々誓ったという。
 一方、建国の裏では、若き王、アンセルムと美しき女神コーデリハイムは恋に落ち、二人は永久の愛を誓い合っていた。
 だが、神と人の愛は許されるものではない。創造神は怒り狂い、ブクリエーム王国を滅しようとした。
 愛しき人を守るため、愛する大地を守るため、コーデリハイムは自らの身を盾に変え、その身で父神の怒りを受け止めた結果、三つに砕け散った。深く悲しんだアンセルムに創造神は言った。
「我が娘が愛したお前を許すことはできないが、我が娘が愛した国は私も愛そう」
 創造神は三つの盾に砕け散った我が娘を示すと、
「お前が我が娘に誓ったように、私も誓おう。この国に盾がある限り、誰であれ、この国の大地を荒らすことはできない。三つの盾が、この国をありとあらゆるものから守るだろう」
 その言葉と同時に、三つの盾の裏に、名前が刻まれた。
「それは盾の名だ。この国を守る盾だ」
 盾に刻まれた三人の人物の名。アンセルムはその三人を王国の中から探し出し、彼らをこの国の「盾」として城に迎え入れた。
 一人は、この国でもっとも腕の良い剣士。
 一人は、この国でもっとも強大な魔術師。
 一人は、この国でもっとも優秀な魔銃士。
 彼らは、剣師、魔師、銃師と呼ばれ、この国を守る盾となった。
 盾は「三師人」と称され、彼らの一人が欠けたとき、あるいは、彼らの力が弱まったとき、盾は新たな盾の名を刻む。
 強国に囲まれながら、ブクリエーム王国は「盾」に守られているゆえに、その国土を侵されることは一度たりともなかった。


狭い路地裏が網の目のように広がっていた。
 薄汚い通りには、ゴミが散乱し、それらに混じって幾人もの浮浪者らしきものたちが横たわっている。
 鼻を掠めるのは、思わず身を引きたくなるような腐臭。それは死の存在を招き寄せ――あるいは、すでにそちら側に渡っているものもいるのかもしれない。
 一方で、どこか異様ともいえるざわめきが、そこにあった。異臭を放ち、石壁に背を預け眠る人の横で、やせ細った老婆が怪しげな瓶を売る。うつろな目をした男性が、地面に古びた布を広げ、半ば腐りかけた果物を並べている。まだ幼い子供たちが、服と呼ぶには躊躇いのある布を纏って、たった今生きるのに必要なものをかすめ取るために、周囲を窺っている。
 生者であるために、あがく人々の姿が――貧困街アムカにはあった。
 アムカは王都から、僅かに西に行ったところに位置する商業都市リッサの一角に存在する。リッカは、別名奴隷都市と呼ばれていた。その呼び名の通り、奴隷(グラスト)を売り買いすることは勿論、グラストの生産さえも行っている都市である。
 アムカは、そのリッカの一部であり、商人たちから逃げ出したグラストたちが隠れ住む場所でもあった。
 そんなアムカの入り組んだ路地裏を一人の男が歩いていた。
 全身を古汚いマントで覆い、頭もフードで隠してしまっている。微かに淡い金色の髪を覗き見ることはできるが、その相貌も表情も影になって窺い知れない。
慣れた道なのか、男は迷路のようなその路地を迷う素振りを見せずに進む。もしくは端から行く先など決めていないのかもしれない。
 淡々とした歩調で先行く男に、路上で瓶を売っていた老婆が、不審な眼差しを向ける。
 しかし、男が老婆に一切の興味を示さずに、さらに路地の奥へと進むにあたって、老婆は男のことなど頭の中から消し去ったようだった。
 売り物に逃げられた奴隷商人にしては探す素振りを見せることなく、街を管理する役人にしては周囲に興味を示すこともなく、かといってこの街の住人であるとも思えない男は、ただその路地を歩くということを目的としているかのように、歩を進めていた。
 行く先を遮るように横たわる死体なのか、あるいはまだ生きているのかわからない人の形をした肉塊をまるでないものとでもいうかのように易々と越え、足下に散らばる腐乱したゴミを底の厚いブーツで踏み潰し、淀んだ生ぬるい風がマントの裾を持ち上げようとして、男は風を払うように両の手で襟元にマントを引き上げた。
 どれほど、路地をさまよい歩いていたのか。不意に男の行く手に影が降りた。
「うぉぉい、そこの旦那よぉ」
 しゃがれた、聞き取り辛い声が、路地に響いた。マントの男は、声に誘われたように僅かに頭をあげたようだった。
「ちょっと、かねぇ、恵んでくれねぇかぁ?」
 目の前には、がたいの良い男が三人立っていた。どの男も薄汚れた衣服を纏ってはいたが、明らかに地べたを這いずっているこの街の住人たちとは違う。
「こんなとこぉで、死にたくはぁないだろうぉ?」
 手にした大振りのナイフをちらつかせ、にやり、と男は笑った。
 こっそりと様子をうかがっていた街の住人たちが、ナイフをみて、そっと姿を消す。
 秩序が失われた場所には、秩序を破ったものたちが、自然と集う。逃げ出した奴隷を捜して、または偶然にも迷い込んだ者を追い剥ぐものたちがいてもおかしくはない。
「どぉしたぁ? 怖くて小便ちびっちまったかぁ?」
 げらげらと、仲間たちと笑いあう追い剥ぎたちに、マントの男は止めていた足を動かした。
 それは、逃げるためでも、立ち向かうためでもなかった。マントの男は、追い剥ぎたちが見えていないかのように、その脇を通り抜けた。
 狭い路地である。
 先を通せんぼするように立ち塞いでいた三人の追い剥ぎの、誰とも体をぶつけることなく、マントの男は、その間を縫うように素早く抜けた。
 目に見えていたが、追い剥ぎたちにはまるで一瞬、マントの男が消えたような錯覚を受けたに違いない。
「待ちやがれ!」
 呆然としていたのは一瞬、我に返った追い剥ぎの男は、後ろを振り返ると声を荒げた。
 マントの男はそれを完全に無視した。今までと変わらぬ歩調で、歩き続ける。
「待ちやがれと、言ってんだろうがぁ!」
 背中を見せるマントの男に駆け寄ると、手にしたナイフを振りかざす。
 マントの男が、小さくため息を漏らした。
 そして――。
 今まさに、ナイフの鋭い切っ先をマントの男に振り落とそうとしていた追い剥ぎの男の体が横に凪いだ。
 背後で様子を伺っていた追い剥ぎの男も――その当人でさえ、何が起こったのか理解できていなかったに違いない。
 屈強な追い剥ぎの体は、路地の高い石壁に勢い良くぶち当たり、その手からナイフが弾け飛んだ。強か頭を打ちつけたのか、追い剥ぎの男は地面に倒れ込み、体を痙攣させたあと、ぴくりとも動かなくなった。
「てめぇ!」
 仲間がやられたことで、他の二人もナイフを取り出す。
 マントの男は再度、ため息を吐いた。
「ぶっころしてやる!」
 ――固い音が響きわたった。弾かれた二つのナイフが高々と飛び、固い石壁に突き刺さった。
 ナイフを構えていた男たちは、叫びをあげる間もなく、乾いた地面に接吻を施すことになった。
「まったく」
 短い吐息がこぼれた。
 マントの男は、左手に握りしめた剣を鞘に戻す。
「ここは、相変わらず、物騒ですね」
 その物騒な相手をいとも簡単に伸して見せたマントの男――カラムはフード越しに地面に横たわる追い剥ぎたちを眺めた。
「殺しはしません。貴方がたもこの国の人間ですからね」
 聞こえていないのは、承知で呟くと、カラムは何事もなかったかのように、再び歩きだした。

 国を守るための盾――三師人。その一人、剣師のカラム・ファンは、その身分には似合わない薄汚いマントで身を隠しながら、その身分で立ち入るのを憚られるアムカの街を歩いていた。
 任務で訪れているわけではない。時折、こうして、この街へとカラムはやってくる。暇を見つけると気まぐれにアムカの路地をさまよいにやってくるのが、いつしか当たり前になっていた。特別な意味があるわけではない――否、全く意味がないというわけでもないのかもしれない。
 なぜならば、リッカは、カラムの故郷なのだから。
「ここは変わりませんね」
 左右を壁に挟まれた通りを歩きながら、カラムは呟いた。
 逃げ出した奴隷たちが築いた貧困街アムカ。だが、同じリッカの街にありながら、アムカから少し離れたところには奴隷商人たちが暮らす豪邸がある。
 王国の中で、もっとも身分の差を目に見えて確認できる街。
「皮肉なものですね」
 マントの裾からそっと右の手を除かせる。今は何も印されていない右の手の甲。かつて、ここには「商品」である証が刻まれていた。
 カラムは、ぎゅっと右の手で拳を作った。
「このクソ餓鬼!!」
 怒声が反響した。続くはうめき声と悲鳴。カラムは顔を上げた。躊躇ったのは、僅かな一瞬。カラムは悲鳴の聞こえた方へと足を向けた。
「よくも」
「離せぇ、離せよっ」
 か細い悲鳴と、大人の怒鳴り声。いくつかの角を曲がった先にいたのは、無骨な鎧を纏った――リッカの街の治安部隊の兵と、恐らくはアムカの街の住人、まだ幼い少年だった。
 二人の兵が、幼い少年の頭を押さえつけている。
 カラムは角からその様子をうかがっていた。兵の一人が皮財布を手にしているところをみると、どうやらあの少年は兵士相手にスリを働いたらしい。
 兵士に対してよくそんなことができたとは思うが、入りくんだ路地に逃げ込んでしまえば、大丈夫だと思ったのかもしれない。事実、地の利がなければ、アムカではたやすく迷子になってしまう。
 少年が捕まってしまったのは、運が悪かったのか、兵が少年の思っていたよりも路地のことを知っていたためか。
 カラムは、元来た道を引き返そうとした。
 あの少年を助ける謂われはない。スリを犯したものを捕まえるのは兵にとっての道理であるし、少年も捕まればどうなるかわかった上で手を汚していたはずだ。
「離せぇ!」
 少年の叫び声が背中にかかる。叫び声が途切れ途切れになったのは、兵士が少年を殴りつけたためか。
「世の中、そんなに甘くない」
 カラムは、右の拳に力を込めた。
 叫んでも、泣いても、喚いても、少年を助ける手はない。
 ふと、誘われるように視線を下に向けた。
 どこまでも続いているように錯覚する石壁の隅。灰色ばかりの路地に鮮やかな緑が飾られていた。まだ開きかけの蕾が初々しいまでの色を覗かせている。
 セイムの花――この王国を建国する由縁となった女神の花。その女神が砕け散り、生まれたのが王国を守る盾――三師人。
路地の奥から吹いた風が、蕾を僅かに綻ばせた。
 肌が粟立つ。背中に刻み込まれた盾の証が熱を持ったような気がした。
「兄ちゃんを離せぇ!」
 まだ幼い声が鼓膜を打った。カラムはのろのろと顔を上げた。誘われるように、再度、角の向こうを覗く。
 兵士に散々痛めつけられたのだろう。壁に頭を押しつけられ、ぐったりとする少年をなんとか助けようとして、兵士の足にとりつく幼い男の子。
 スリの少年の弟か。擦り切れたボロボロの衣服を纏い、お世辞にも綺麗とはいえない汚れた顔に涙を浮かべ、必死で兄を助けようとしている。
「なんだ、この餓鬼」
 兵士の一人が、弟の腹を蹴飛ばした。弟は小さくうめき声を上げて壁に背中を打ちつける。
「弟に何をする!」
「盗人の弟も、盗人だろう?」
 兵士が口元に笑みを作った。
 鞘から剣が抜かれ、銀色に磨かれたそれが、地面にうずくまる弟に向けられた。
「や、やめろ」
「おまえらみたいな、グラストにはこれがお似合いだ」
 弟を助けようと兄はもがくが、もう一人の兵に押さえつけられ、身動きができない。
「やめっ」
 兄の制止は、兵には届かなかった。
「そこまでにしておいたら、どうですか」
 今にも弟を切り裂こうとしていた刃が止まった。第三者の思わぬ声に、兵士は手を止め、振り返った。
 路地の角から姿を現したカラムは、穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「街を守る治安兵が、むやみやたらに血を流させてはならないと思いますが」
「貴様っ、誰だ」
 兵士は弟に向けていた刃をカラムに向けなおす。兄の方を拘束していた兵も、鋭い眼差しをカラムに向けた。
 カラムはフードの奥で首を竦める。そうしてから、その動作が某公爵貴族の嫡男にして、同じく三師人の一人の仕草に似ていることを思い出して、若干の嫌悪感を覚えた。
「罪人には正規の手順に乗っ取って、取り調べを受けさせ、しかる後に罰を与えるべきですよ」
 そういう決まりがあるはずです。カラムはそう続けた。
「取り調べだって?」
 カラムの言葉を兵士は鼻先で笑った。
「こいつらは、グラストだぞ? 生まれながらの罪人だ。そんなやつらに取り調べなんて時間の無駄でしかない」
 それよりも――。
 兵士は剣を構え直す。
「貴様、こいつらの仲間か?」
「いいえ。通りすがりの一般市民ですよ」
 胡乱な眼差しが向けられる。
「怪しいな。フードを取り、マントを脱げ」
「それはできません」
 フードとマントで隠しているからこそ、外を歩き回れるのだ。そうでなければ、リッカの街にやってくることすらできない。
「なんだと。貴様、我々に楯突くのか」
 今にも切りかからんばかりの視線を向ける兵士に、カラムはどうするべきか思案する。
 ここに己がいることは、ばれるわけにはいかない。ばれれば、色々厄介なことになる。だからこそ、みて見ぬ振りをしようとしたのだが――女神の気まぐれにはほとほと困らせられる。
 黙り込んだカラムに痺れを切らして、歩み寄る兵。カラムは隙をついて逃亡しようと腹に決めるが。
「こ、この餓鬼っ!」
 兵士たちの注意がカラムに向いた隙をついて、拘束されていた少年が兵士の腹を蹴り、逃亡を計った。地面にうずくまっている弟の腕をつかむと、一目散に走りだす。
 だが、その前に、鞘から抜かれた刃が少年の背中へと落とされる。
「わっ!」
 短い悲鳴と、金属同士がぶつかり合う音が響きわたった。
 剣越しに、カラムは兵を睨みあげる。はらりと、フードが風に飲まれて外れた。
 一拍の間に、少年と兵士の間に割り込んだカラムは、引き抜いた己の刃で、兵士の刃を受け止めていた。
 カラムに押されて、地面に倒れ込んだ兄弟は唖然として自分たちを守った背中を見つめる。
「すぐに切り捨てようとするのは、剣を持つものとして失格ですよ」
「貴様っ」
「君たちも、これに懲りてスリなど止めることです」
 ちらり、と視線を背後に向けた。少年たちは呆然としていて、カラムの言葉が聞こえているかどうかはわからない。
 カラムは刃を押し返した。
 目の前の相手がただ者ではないことを悟ったのだろう。もう一人の兵も剣を構える。
「騒ぎにしたくはないんですけどね」
 どうするべきか、考えを巡らせていたときだった。
「それは、もしや」
 フードが外れて、僅かに露わとなったマントの下に来ている衣服。その色に、兵士は気がついたようだった。
「さ、んしじんの」
「なんだって?」
 呻くようなその言葉に、もう一人の兵が目を見開く。
 こうなっては隠すのはもはや無意味である。カラムはマントの前を崩し、隠していた服の一部を表に見せた。
 マントの下には、白い外套。白生地に金と銀で彩られた木の葉と翼を閉じた鳥が描かれている。
 さっと兵士の顔が青ざめるのがわかった。
「も、申し訳ございません」
「ご無礼をお許しください」
 膝をつき、剣を地面に落とし、頭を垂らす。
 傅く兵に、カラムは苦虫を噛み潰したような表情になった。
 三師人が三師人であることがわかるように、常に身につけることを義務づけられている白地に金銀の刺繍がされた衣。王国中に知れ渡っているそれを身につけ歩けば、どこにいても注目の的になる。だからこそ、外出時はマントとフードで隠しているのだが。
「まさか、三師人のお方がこんなところにいらっしゃるとは」
 先ほどとは全く違う態度で、接してくる兵士になんともいえない気分になってカラムはため息を吐いた。
「良い気分だろう!」
 背中に荒い声が投げ込まれた。カラムは、ゆっくりと背後に首を回した。
 弟を庇うように支える少年がカラムを睨んでいた。
「正義の味方気取りで、さぞ良い気分だろう!」
 睨み殺さんばかりの眼差しにカラムが映る。怒り、憎しみ、行き場のない悲しみが瞳に宿っていた。
「三師人のお方によくもそんな口を」
 立ち上がり、少年に掴みかかろうとする兵をカラムは片手を掲げて制した。
「偉そうに、しやがって。誰が助けてくれなんて言った? なにが三師人だ。何が盾だ。おれたちのことなんて、助けてくれないくせに、なにが女神だ」
 この街に生まれて、グラストとして人間扱いされることない。それが、この少年たちのおかれている現状だ。
「そうですね。確かに余計なことをしましたね」
 刃を鞘の中に納め、カラムはそっと視線を少年たちから、石壁に阻まれ、見えない角の向こうに向けた。
「でも、女神は貴方たちをみていましたよ」
 その呟きは、カラムの口の中に消える。
 カラムは視線を兵士たちに向けた。
「今日は、私に免じてこの少年たちを解放してあげてください」
「はっ」
 兵士たちは敬礼を返す。
 背後に視線を向ければ、少年はまだ少年を睨んでいる。
 カラムはそれに気づかないふりをした。
 どんな言葉をかけたところで、少年の心に届くことはない。かつての、カラムがそうであったように。



「カラム・ファン。貴方は三師人なのです」
 王城の一室。宰相に呼び出されたカラムは、永遠と同じ話を聞かされ続けていた。
「三師人であるものが、リッカの、それもアムカに出入りするなど、立場を考えてほしいものです」
 三師人の意義、立場、あるべき姿を長々と語られ、さすがのカラムもうんざりしてくる。
 あの兵たちへの口止めは何の意味もなかったらしい。
 カラムがアムカに出入りしていたことは、次の日には宰相の耳に届いていた。
「口の悪いものたちの噂はご存じでしょう?」
 宰相の問いかけにカラムは沈黙で応える。
 出自のことで、貴族たちから色々言われているのは今に始まったことではない。
 かつて、カラムはリッカの街にいた。アムカにではない。アムカにいる人間たちも人間らしい生活とはほど遠い暮らしをしているが、それでもまだ自由はある。
 カラムはリッカの街で奴隷の子供として生産され、獣と殺し合う闘技場の駒として飼われていたグラストだった。
 身体の自由だけでなく、思考の自由も奪われていたあの頃のことは思い出したくもない。
 だが、カラムがグラスト出身であることは、ずっとついて回る事実だ。
 たとえ、三師人と呼ばれ、敬われる立場になったとしても、それは変えることができない。
「金輪際、アムカには出入りなさらないことです。良いですか、カラム・ファン。今回のことで、また余計な噂が広がっています」
 グラストが、この国の盾――三師人に選ばれた。それだけで、上級階級に不満が生まれているというのに、グラストの子供を庇ったとなれば、更なる不満が生まれるだろう。
 宰相の言葉を、カラムは心の内であざ笑った。
「良いですか? 貴方は三師人。この国の盾なのです。それに見合った行動をしてください」
 幾度となく、繰り返された言葉に、カラムは黙って頭を垂らした。

「宰相に呼び出されたんだってな」
 城から出て、自宅へと向かう途中で、ディオンに会った。正確には、ディオンが待ち伏せしていたといった方が正しい。日に焼けた褐色の肌に黒い短髪。精悍な顔には人好きな表情を浮かべていた。
 カラムと同じく三師人の一人にして、公爵家の嫡男であるディオン・グレン・アーデンのもとには、様々な情報が舞い込んでくる。
 宰相に呼び出された理由など、承知済みだろう。
「もう散々説教を受けてきました。それとも、貴方まで私を説教ですか?」
 長時間、宰相の拘束を受けて、精神的疲労は頂点に達している。思わず、とげとげしい言い方をしてしまったのも、仕方のないことだ。
 ディオンは首を竦めて見せた。
 なんとなく、腹が立って、カラムはさっさと歩き出す。その横をディオンは当然のようについてくる。
「アムカに行ったんだってな」
「だったら、何ですか?」
「次はいつ行くんだ?」
 思いも寄らない言葉に、思わず、足を止めてディオンを見た。ディオンは口元を歪めていた。
「リッカには一度行ってみたいと思ってたんだけどな。昔行ってみたいと言ったら反対されてさ」
 貴族の中の貴族、公爵家アーデン家の跡継ぎが、奴隷の街に足を踏み入れるなど、絶対に許されることではない。
 それを言われた召使いは、さぞかし、肝を潰したことだろう。
「だったら、こっそり行けばよろしいでしょう?」
「そんなことしたら、翌日には俺の死体が見つかることになる」
 真面目な表情でディオンは言う。
 ディオンは銃師。魔力を奪い、それを己の力に変える能力を持っている。だが、その才ゆえに、体力だとか運動神経だとか、本来、自分の身を守るために必要な力は皆無と言ってもよい。それは、本人が一番自覚していること。
 だからさ、とディオンはカラムの顔を覗き込んだ。
「次に行くときは、俺も――」
「嫌ですよ」
 最後まで言わせず、拒否する。侮蔑を込めて、見やればディオンは不満そうな表情を浮かべている。
「貴方の子守なんて冗談じゃない」
「誰の子守だって?」
「耳が遠くなったんですか?」
 嘲笑してやれば、ディオンはさらに言い返してくる。
 ぎゃあぎゃあ、と喚くディオンと並びながら、城の門を抜けた。
「うるさいなぁ」
 頭上から降ってきた声に、二人揃って顔を上げれば、ふわふわと宙を漂う人の姿。
 三師人の最後の一人、ライオネルは白いローブをはためかせ、つばの大きな帽子で顔を隠しながら、ゆっくりと地面に降り立った。
「ディオン、おなかすいたー」
「それを、わざわざ言いに来たのかよ」
 ディオンが脱力したように息を吐き、ライオネルの帽子を掴みあげる。ライオネルは帽子を取られまいと、必死で頭を押さえ込んでいる。
「ごはんー」
「分かった、分かった」
 あれこれと、献立を考えながら、ディオンはカラムを振り返った。
「肉と魚、どっちが良い?」
「……魚で」
「じゃあ、今日は魚だな」
 昼食のため、ライオネルの家へと、ディオンは歩き出す。ディオンが告げるメニューをライオネルが、あーだこーだと文句をつける。
 いつもと変わらない光景だ。
 カラムはそっと右の手の甲を見た。
 そこに刻まれていた証は、影も形もない。だが――。
 前に視線を向ける。遠ざかっていくディオンとライオネルの背中。
「お守りは――ごめんです」
 呟きは風に消える。
「カラム! ディオンがご飯作っている間、ゲームしようよ」
「お前、少しは手伝おうという気はないのかよ」
 遠くて近い声を聞きながら、カラムもまた歩きだした。



後悔、後先立たずとは良く言ったものだ。
 カラムは顔を隠すフードの内側で舌打ちを漏らした。
 何も起こらないことを期待していたわけではないが、かといってこういう事態を想定していたわけでもない。
 向けた視線の先には、灰色の石壁が永遠と続き、腐臭が鼻先を掠める。
 生ぬるい風に流れてくる音を拾うが、得体の知れないざわめきばかりで、望むような声は聞こえてこなかった。
「だから、嫌だと言ったんですよ」
 文句は誰の耳に届くこともない。
 それでも、ぼやかずにはいられなかった。

 カラムが再び、リッカの街を訪れたのは、宰相に長々と説教をされてから、十日ほど経った後のことだった。宰相の小言ごときに行動の制限がされることを好まなかったし、今更、良くない噂が増えても気にすることではない。
 例のごとく、古びたマントとフードで身を隠し、忍んで街の中へと立ち入った。だが、前回と違うことがあった。
 それは――。
「思ったよりも、賑わいがあるんだな」
 カラムと同じように、古びたマントとフードを纏い、いつもより少し落ちつきなく周囲を見渡すのは、ディオンだった。
 三師人の一人にして、生粋の貴族であるディオンは初めて立ち入った街の景色を楽しげに眺めていた。
 王族とも縁が近い公爵家の跡取りが、その身につけるにはあまりにもお粗末なマントとフードを付け、奴隷都市に足を踏み入れている。
 本来ならば、絶対に許されることではない。宰相の耳にでも入ろうならば、説教だけではすまされないだろう。それこそ、家を巻き込んでの大事になることは目に見えている。
 ばれれば、面倒ごとになるのは、わかっていたのに、カラムが同行を許してしまったのは――許さざる結果になってしまったのは、致しかたないことだった。
 なにせ、カラムが同行を許さなければ、物見遊山で一人でもリッカに行きかねない。体力はないくせに、無駄に行動意欲だけはある。
「王都と違い、ここは物騒です。くれぐれもはぐれないようにしてくださいね」
 カラムの忠告に、ディオンは曖昧な返答をする。
 聞いているのか、聞いていないのか。
 子供のようにはしゃぐことはないが、それなりに珍しいものがあるらしい。視線を左右にさまよわせては、関心深げに頷いている。
 その立場と、体質ゆえに、ディオンが王都を出ることはあまりない。三師人として、女王陛下のわがままに付き合って、王都を出ることはあるが、その場合の移動はライオネルの魔術に頼っている。
 主だった目的もなしに、ふらりと街に立ち入ることなど、今までなかったのだろう。
「これでは、本当に子守ですよ」
 げんなりとして、呟いた。
「このっ!」
 野太い怒鳴り声と、空を裂くような鋭い音が聞こえた。
 誘われるように視線を向ければ、たっぷりと腹の出た中年の男性が、地面に身を投げた少年に鞭をくれているところだった。
 少年の手足は枷で拘束されており――奴隷なのだろう。だとするのならば、男性は奴隷商と言ったところか。
 この街では、珍しくない光景に、誰も感心を示さない。
 カラムもまた、見て見ぬ振りをして通り過ぎようとしたが、
「子供相手に何をしているんだ」
 聞きなれた声が、男性の怒鳴り声と、鞭の音を遮った。
 カラムは頭痛を感じて呻いた。
 振り返れば、予想違わず、ディオンが奴隷商に詰め寄っていた。
「なんだ、おまえ」
 思わぬ、乱入者に奴隷商は怪訝な表情を浮かべる。
 ディオンはそれに応えず、地面に倒れ伏す少年の傍らに膝をついた。
「大丈夫か?」
 マントの内側から取り出したチーフで、泥に汚れた少年の顔を拭う。少年は、唖然としてディオンを見上げていた。
「おい、おまえ! 勝手に商品に触るんじゃねぇ!」
 奴隷商が声を荒げる。しかし、ディオンはそれを無視した。優しい口調で、少年に話しかける。
 何事かと、周囲に人の輪が出来始める。
 目立つことは避けなければならないというのに――。
「こんのっ!」
 応えないディオンに苛立ちを込めて、奴隷商が鞭を振るう。うねる鞭は、的確にディオンを捉えたが。
「なっ」
 ぷちん、と小気味良い音を立て、鞭が半ばから切断された。切れた先はあらぬ方へと飛んでいく。
 それを見送ったカラムは、鞘から抜いた剣を納めた。
「な、な」
「連れがご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
 奴隷商が騒ぎ立てる前に、カラムは言葉を紡ぐ。
「これは、ほんのお詫びです」
 素早く奴隷商に近づくと、そのソーセージのような太い指の間に金貨を握らせた。
「行きますよ、ディオン」
 これ以上、騒ぎが大きくなる前に立ち去るのが吉だ。
 だが、ディオンは膝を起こそうとはしない。
「奴隷(グラスト)に、情けなど無用ですよ」
 カラムは、ディオンに耳打ちをした。
 奴隷は人間ではない。物だ。
 ディオンが、この少年を庇ったことで、少年は主人である奴隷商の不評を買っただろう。それにより、少年がこの後、どんな目に遭うことになるのか――ディオンに分かるはずがない。
 所詮、ディオンは貴族なのだから。
「分かった」
 ぼそり、とディオンが言った。
 緩慢な動作で立ち上がると、手にした金貨を見定めしている奴隷商の男に視線を向けた。
 ディオンはマントの内側を探ると、
「ほら」
 奴隷商に、それを投げ寄越した。
「相場がいくらかは知らないが、それで十分だろう?」
 ディオンが投げたのは、紅いルビーのはめ込まれた銀の指輪だった。
 奴隷商は、カラムは、唖然とした。
 ディオンは眉を顰めた。
「なんだ? 足りないのか?」
「い、いえ。十分でございます」
 手にした指輪を眺め、奴隷商が慌てて首を振る。そこはさすがに商売人だった。その指輪が、奴隷一人分にしては、多すぎるほどの価値があるものと知る。
 カラムは空を仰いだ。
 ディオンは地面に倒れる少年を引き起こすと、
「これで自由だ」
 少年の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。少年は言葉を失くして、ディオンを見上げている。
「カラム、鎖を切ってやって――」
「行きますよ」
 いつの間にかできた人だかり。
 カラムは踵を返し、人だかりを割る。
 ディオンが慌ててその後を追い、自分が買われたらしいと理解した奴隷の少年が慌ててついていった。


「貴方と言う人は、自分がいったい、何をしたかわかっているんですか!」
 人の目を逃れて、入り込んだ路地裏で、カラムは足を止め、思わず声を上げた。
「なに、て?」
「あれほど、目立たないように、と言ったでしょう」
「見て見ぬ振りはできないだろう」
 さも当然というように言うディオンに、カラムは拳を震わせた。
「これだから、貴族の坊ちゃんは」
「貴族だろうが、なんだろうが、目の前で子供が鞭で打たれているというのに、知らん顔なんてできるわけないだろう」
「ここは、奴隷の街ですよ」
 そんなことは、日常茶飯事なんですよ。それとも、全ての奴隷を買い上げるつもりなんですか?
 告げた言葉に、ディオンは一瞬口を閉ざし、
「全部は無理でも、せめて、今、目の前にいるやつくらいなんとかしてあげたいじゃんか」
「――偽善ですね」
 カラムは重く息を吐き出した。胸の奥、しこりのように固まった苛立ち。
「金で何でも解決できると思っている」
「俺にはそれしかないからな」
 刺すようなカラムの言葉に、ディオンは自虐的に笑った。
 カラムは、ディオンを睨み、ディオンは口元に笑みを称える。
 どれくらいそうして沈黙が下りていたのか。
 カラムは、諦めたように視線を外し、首を左右に振った。
「全く、随分とお優しくなったものですね。昔は、グラストなんかとは、口も利きたくないとおっしゃっていたのに」
「――古い話を持ち出すなぁ。仕方ないだろう。グラストとは口を利くなって、言われてたんだから」
 首を竦めるディオンに、カラムは表情を崩した。
 それから、ディオンの背後に立ち尽くす少年に目をやると、
「手を出しなさい」
 言われるがまま、少年は鎖のつけられた両の手を差し出した。
 カラムは剣で、手の鎖を断ち切ると返す刃で足を固定していた枷も切り外す。
「それで」
 カラムはディオンを見た。
「この少年はどうするつもりですか?」
「あー、考えてなかったなぁ」
 ディオンはどうしようかと頭を掻く。
 カラムは呆れて物が言えなかった。
 本当に勢いだけで、少年を買ったらしい。
 ディオンの実家の屋敷では――まずグラストなど使わない。だからと言って、ライオネルの家になど置けない。
 かといって、少年に自由を与えたところで、のたれ死ぬのは目に見えている。
 少年は怯えた目で、カラムとディオンを見上げている。
 きつく握った小さな手の右の甲には、大きな円に重なるようにバツ印。その中央には、「01265」と記されている。
 カラムはそっと己の右の手に視線を落とした。かつて、ここにも、少年と同じようにソレが刻まれていた。
 不意に、カラムは顔を上げた。
 少年の扱いについて頭を悩ませているディオンに、さりげなく顔を寄せて、
「囲まれてます」
「あっ?」
「誰かさんが、高価な指輪を見せびらかすものだから、野良犬どもが集ってきたんですよ」
 姿は見えないが、入り組んだ路地の陰に、把握できているだけで、六人分の気配を捉えている。
 幾ら集おうと、剣師であるカラムの敵ではないが、ディオンと少年を庇いながらは少々厳しい。
 ディオンがせめて自分の身を守れる程度の力があれば良いのだが、それを期待するのは無駄だ。
「私が左の角に潜んでいるやつをなんとかするので、その横を抜けて、大通りの方へ出てください。大通りは治安部隊の目があります。そこまで行けば、襲われることはないはずです」
「了解」
 ディオンも心得たもので、カラムの指示に異を唱えることはない。
「街の入り口に銅像がありましたよね。その前で落ち合いましょう」
 ディオンは少年の腕を掴んだ。状況が飲み込めていない少年は目を瞬かせる。
 ディオンがカラムを見た。カラムは頷く。
 カラムが動いた。
 左の角に向かって走り出す。驚いたのは、襲いかかる時期を見定めていた襲撃者たちだった。
 抜きはなった刃で、カラムは躊躇いなく切りつけた。
 その脇を、ディオンが少年の手を引いて走り抜ける。
 後を追おうとする者たちの前にカラムは立ちふさがった。
「お相手願いましょうか」
 カラムは、穏やかに笑う。
 この街に来てから、ディオンのせいでイライラさせられてばかりだ。ここらで、鬱憤を晴らすのも悪くはない。
 一斉に切りかかってきた襲撃者に、カラムは剣を構えなおした。


 どのくらい走ったのか、といえるほど走る前に、ディオンの体力は限界に来ていた。
 手を繋いで一緒に走っていた少年の方は、軽く息を切らしている程度だが、ディオンは息も絶え絶えで、足もふらつき始めている。
「大通り、どっちだよ」
 元来た道を戻ったつもりだったが、どこかで角を曲がり間違えたらしい。
 入り組んだ路地で、ディオンは迷子になっていた。
「なぁ、道わかるか?」
 少年に問いかけるが、小さく首を振るばかりである。
「どーすっかなぁ」
 右を見ても、左を見ても、似たような道が続くばかりである。
 とにかく、進むしかあるまいと、乱れた息を強制的に押さえ込み、歩きだしたが、
「鬼ごっこはそこまでだ」
 行く手を遮るように、男が一人。さらには背後にも一人。
「金目のもの、出してもらおうか」
 ナイフをちらつかせる男等。カラムが引きつけた襲撃者は全員ではなかったらしい。逃げたディオンたちを追ってきたものもいたというわけか。
 ディオンは少し考え込む。
 宝石のついた指輪は、まだ何点か持っている。それらは、身を飾るためのものではない。
 魔銃師の力の核として使用するために持ち歩いているものに過ぎない。
 失ったところで、惜しむほどのものでないが、果たして、目の前の男たちはそれだけで満足するだろうか。
 服を引っ張られる感覚に、目線を落とせば、少年が体を震わせている。
「今、走ってきた道はわかるか?」
 少年だけに聞こえるように、ディオンは言う。少年がディオンを見上げる。ディオンは口元に弧を描いた。
「走って、カラムのところに戻るんだ。あいつのことだから、最初のやつらなんか、もうぶちのめしているはずだ」
 ディオンは少年の背中に手をやる。一緒に逃げられれば一番良いのだろうが、ディオンの体力はもう限界だ。逃げ切る自信はない。
「後ろを振り向くな、走れ」
「なにをごちゃごちゃ言ってやが」
 立ちふさがる男に最後まで言わせず、ディオンは体当たりを仕掛ける。
「行けっ!」
 声に押されて、少年は戸惑いながらも走り出す。
「てめぇ」
 屈強な拳が、ディオンの腹部を強か打った。喉の奥からうめき声があがるのをディオンは感じた。



 足下に転がる襲撃者たちを眺めて、カラムは息を細く吐き出した。
「八つ当たりにもなりませんね」
 思ったよりも手応えのなかった相手に、一抹の物足りなさを感じる。
 剣についた血を拭い、鞘に納める。殺してはいない。だが、二度とナイフを握ることはできないだろう。
 ゆっくりとしてはいられない。幾つかの気配がディオンたちを追っていったのはわかっていた。無事に大通りまで出られていれば、何事もないはずだが、入り組んだ路地で迷えば、抜け出すのは難しい。
 カラムは狭い路地の頭上、切り取られた空を見上げた。
「……見てはいるとは思いますが、事と次第によっては騒ぎが大きくなりかねないですね」
 これ以上、面倒事は増やさないでくれと思いながら、カラムはディオンが走っていったと思わしき方向へと動き出す。
 幾つかの角を曲がったところで、人の気配を感じ、足を止めた。忙しい足音が近づいてくる。まだ襲撃者が残っていたのかと思ったが、足音は軽い。
 角で身を顰め、近づいてくる音に耳をこらす。
 と、角を曲がって飛び出してきたのは。
「貴方は」
 息を切らして姿を見せたのは、ディオンが買った奴隷の少年だった。
 元来た道を戻ったつもりが迷ってしまい、ひたすらに走り回っていたのだろう。透明な汗が細い輪郭を辿って大地に落ちた。
「ディオンはどうしたんです?」
 嫌な予感がした。少年は小さく頭を振ると、
「こわいひとが」
 発せられた言葉の意味自体は理解できなかったが、言いたいことはわかった。
「自分の身も守れないくせに」
 どうして、他者を庇おうとするのか。
 これでもし、ディオンに何かあれば――それこそ、面倒などと言っていられない事態になってしまう。
「場所はわかりますか?」
 カラムの問いかけに、少年は首を振る。
「手間のかかる人です」
 文句の言葉とは裏腹に焦燥が生まれる。
「だから、子守は嫌だといったんですよ」
 細い路地をカラムは走り出す。その後ろを少年がついてくる。全速力で走っては、少年を置いてきぼりにしてしまう。
「仕方ないですね」
 ため息とともに、カラムは足を止めた。突然、カラムが足を止めたため、少年はカラムの背中にぶつかりかける。
「じっとしていてくださいね」
 言葉をかけたのと、カラムが少年をかつぎ上げたのは、どちらが早かったのか。少年に抵抗する時間はなかった。
 少年を肩にかつぎ上げたカラムは狭い路地を走り出した。


 風が異様な気配を運んできた。
 それに気が付いた瞬間に、地鳴りが辺り一面に響きわたった。カラムは足を止めて周囲を伺う。
 何事かと路地に潜み住む人々が顔をのぞかせた。
「――間に合いませんでしたか」
 一番、避けたかった事態が現実になったことを悟って、カラムは苦々しげに吐き捨てた。
 再び、足を動かし、走り出す。目指すは、地鳴りの発生源だ。


 そこに辿りついたとき、最初に目に飛び込んできたのは、宙づりにされた二人の男だった。
 白目をむき、口から泡を吐き、気を失っているらしく動かない。
 規則正しく組み込まれた石壁から金色の蔓が生え、それが、男たちの手足を拘束していた。
 がらがらと、石壁の一部が崩れ、壁の向こう側が露わになっている。
 カラムは少年をおろすと、周囲を見渡し、それからこの事態を引き起こした人物へと目を向けた。
「ライオネル。貴方にしては、控えめにやりましたね」
 ふわりふわりと、壁に切り取られた空の中、身を浮かばせていたのは、ライオネルだった。
 白いローブに施された金と銀の刺繍糸で紡がれた蝶と翼の広げた鳥の刺繍が、日の光に当てられ、きらきらと輝いている。
 帽子のつばを僅かにあげ、この国では珍しい赤褐色の瞳を向けた。
「僕だって、いつだって暴走しているわけじゃないんだよ」
 そう嘯くライオネルから、視線を外して、地面に転がっている人物に目を向ける。
 ディオンは、ぐったりと体を大地に投げ出していた。強か殴られたのか、頬には青黒い痣ができていた。
「無様ですね」
「うっせぇ」
 返事があるとは思っていなかったカラムは、眉を上げた。
 散々、痛めつけられたにしては、身につけていたマントが乱れていないところをみると、さほど、時間を置かずにライオネルが割り入ってきたのだろう。
 ライオネルは、ディオンとカラムの動向を常に魔術で監視している。
 人前に出ることを嫌うため、ライオネルがディオンとカラムに同行することは稀だが、仲間外れにされるのはおもしろくない。だから、ライオネルは二人を常に監視している。ディオンもカラムも、それは承知済みだ。
「ねぇ、この人たち」
 ライオネルは宙に体を浮かべながら、帽子で表情を隠して言う。
「始末する?」
 僅かに覗いた口元に笑みが見えた。
 ディオンはのろのろと体を起こした。頭がふらつくのか、石壁に背中を預け、虚空にいるライオネルを見上げる。
「殺す価値もないだろう」
「そう? ゴミは消しといた方がいいよ」
 いなくなっても誰も困らないでしょう。
 無邪気にはほど遠い言葉が、吐き出される。
 ライオネルがその気になれば、宙づりになっている男たちの四肢は呆気なく裂かれるだろう。
「ゴミはゴミでも」
 カラムは意識のない男たちを一瞥し、
「一応は、この国の人間ですから」
「ふーん。……でもさ」
 ライオネルがぶらぶらと足で虚空を掻く。それに合わせて、宙吊りにされている男たちも揺れ動く。
「害たる者を処分するのも、盾の役割だと思うよ」
 生かしておけば、また別の人間を傷つけるだろう。そうして、傷つけられるのは、この国の人間だ。
「そういう仕事は、治安兵に任せればいいんですよ」
 それこそ、私たちの仕事ではないと告げれば、ライオネルはつまらなそうに声を出し、腕を振りあげた。途端に金の蔓が消え、男たちは地面に叩きつけられる。死んでいない証拠に僅かにうめき声が聞こえ漏れた。
「それで」
 急に、ライオネルの声が低くなった。
「それはどうするつもりなの?」
「それ?」
 ライオネルの『それ』が何を示すか分からず、ディオンとカラムは顔を見合わせたが。
「あぁ、こいつのことか」
 ディオンは。どうして良いか分からずに、立ち尽くしている奴隷の少年に視線を向けた。
 奴隷の少年は、目の前の事態が信じがたいことのように、口をぽかんと開けて、一方で僅かな怯えを瞳に宿して、カラムの後ろに隠れるように立っていた。
「僕、嫌だからね」
「貴方の家に置こうなどとは、さすがに考えませんよ」
 そんなことをしようとすれば、ライオネルは止める間もなく、奴隷の少年を八つ裂きにするだろう。
「……とりあえず、王都には連れて帰りましょう」
 カラムの言葉に、ライオネルはどこか不満そうな表情を浮かべた。
 ディオンは壁に手をついて身体を支えながら、ようやくといったように立ち上がった。
 顔の痣はしばらく残るだろう。
「折角の色男が台無しですね」
「うるせー」
 返した声に力がない。怪我以上に体力を消耗しているらしい。これ以上、ここにいても、危険が増すだけだ。
「魔力制御はできますか」
 ディオンが半ば虚ろな目を向ける。
 だが、そんな状態でも、ディオンは三師人だった。
「でき、ないわけ、ないだろう」
 誇張でもなんでもない。気を失う寸前でも、その能力が衰えることはない。そうでなければ、三師人に選ばれることはない。
「王都まで、飛ばしてください」
 カラムの言葉に、ライオネルが帽子の奥で、ニッと笑った。
 ライオネルの暴走しがちな能力も、ディオンが制御すれば、完璧な魔術となる。魔術を使えば、王都まで一瞬だ。
 全く、忙しい一日だったと嘆いて、カラムはどうして良いかわからずに立ち尽くす奴隷の少年に向かって微笑んだ。
「貴方にとっては、幸運な一日になったかもしれませんがね」




【生まれは『盾』を分かつとのこと】

2014.03.02