三師人 |
柔らかな日差しの下、荒れ果てた山道を二人の男が歩いていた。
雲ひとつない空が眼前に広がり、穏やかな風が傍らを抜ける。つい先日まで続いていた、凍えるような季節は収まり、最近では野外にいても暖かさを感じるようになってきた。
木々は豊かな葉をつけ、謳うように葉を鳴らす。
遠くに見える山脈を越えたところでは、収まるところの知らぬ戦が続いていると聞くが、今はまだ対岸の火事に等しい。遠い戦よりも、間近の平和を楽しむのが人という生き物だ。
もっとも、彼らはハイキングを楽しんでいるわけではなかった。
「大丈夫ですか?」
足を止め、振り返るともう幾度目かわからない問いを口にする。
「だ、いじょう、ぶだって、言ってるだろ、うが」
数歩後ろを歩いていたもう一人の男が、息も絶え絶えに足をふらつかせながら答える。
「そうですか」
大丈夫ではないのは傍目から見ても明らかだったが、それには触れず、止めていた足を再度動かす。
こんな人気のない山道を、おおよそ山道を歩くには似つかわしい荷物も持たず進む。
「……予定が狂った」
後ろを這い蹲るように歩く男に聞こえないように呟く。
肩越しに様子を窺うが、後を追うだけで精一杯なのだろう。酸素を求め、口を仰ぎ、視線もはっきりと定まっていない。
「これでは、日が暮れてしまう」
太陽が沈む前に調査だけでも終わらせたかったのだが、この分では無理だろう。
野宿するか、時間を見計らって山を下るか。野宿はリスクが大きい。やはり、日が暮れる前に山を下るべきだろう。
最悪の場合、後ろの男を背負って下山しなければならない。本人がいくら嫌がろうとも、守らなければならないこちらの負担を考えれば、四の五の言わせるつもりはない。
「まったく、なんだって、私がこんなことを」
思わず、溜息を吐かずにはいられなかった。
青空の下に大きな輪を描くように立ち並ぶ壁と、その石壁の中に建てられた数え切れないほどの建物から白い煙が立ち上り、人々のざわめきが響いている。それらを見下ろす高台には厳かな様を見せ付ける城があった。
ここは、ブクリエーム王国の王都アッシュである。
地図に描かれる大陸の端に、まるで小さな染みのように描かれる小国。周囲の大国の脅威に怯えながら、幾度もの戦を乗り越えてきた小さな王国は今日も平和だった。
穏やかな昼下がり。鳥のさえずりが響く人気のない城壁の外の草原に、一人の男が横たわっていた。
年は二十前半くらいか。短く刈った黒髪。日に焼けた浅黒い肌を覆うのは白一色の服。金銀の刺繍で描かれた蔓草と羽が、上質な白地の布の上に踊っている。庶民では到底手に出来ないような代物である。男はそれを惜しげもなく地面に落としていた。
その白く裾の長い上着の前を開け放ち、露わになった男の肌――左脇から胸――にはインクを躍らせたような模様が描かれている。
暖かな日差しと心地良い風のもと、眠りに誘われないものなどいないだろう。男も例外ではなく、組んだ腕を枕代わりにし、夢の中へと落ちていた。
男の傍らには、一匹の猫が寄り添っていた。白と黒の斑模様の猫は、小さく尾を揺らしながら、男と同じように深く瞼を落としている。
一瞬、風が止んだ。踏む草の音も感じさせず、穏やかに吹く風を乱すこともなく、流暢な足取りで男に近付く影。
猫の耳が跳ね上がり、眠りを脅かす闖入者に視線を向けた。警戒を示すように唸り声をあげ、鋭い牙を見せつけ威嚇する。
だが、小さな獣の存在には目もくれず、歩み寄る人物は、手にしていた鞘から剣を抜き放った。鋭く磨かれたそれは、触れるものを躊躇いなく両断するだろう。
猫は危険を察したのだろうか。低く押し殺したような声を上げながら、一目散に茂みの中へと姿を消した。
一方、気配を殺し近付いてきたそれは、手にした剣を大きく振り上げる。その狙いは、眠る男の首。だが、男がその気配に気付く様子はない。
傍らの猫が去ったことに気がつくことなく、閉ざされた瞼は固く、組まれた腕は揺ぎ無く、柔らかな日差しが胸を膨らます。
穏やかな空気の中、鈍色に輝く金属が日の光を反射する。
風が止まったその瞬間、刃の切っ先が空を切った。
一切の容赦もなく、振り下ろされたそれは、男の首へと落ちていく。そして――。
「…………」
健やかな寝息は続く。
鋭い切っ先は、男の首を裂く寸前で止められていた。薄皮一枚さえ傷つけず、ギリギリで止められた刃。剣を握った人物は溜息を漏らした。
「いつまで寝ているんですか!」
「ぐふっ!」
剣を退く代わりに、持ち上げた足を眠る男の腹部へと落した。容赦ない力で腹を踏まれた男は一瞬にして覚醒し、腹を押さえて悶絶する。
「な、なにしやがるっ!」
「なにしやがるじゃないでしょう。貴方、バカですか? いえ、バカなのは前からわかっていましたが、バカな上、危機管理能力もないんですか?」
言いながら剣を鞘に戻したのは、眠っていた男と同じ白い服を纏った青年だった。
白い生地に金と銀で彩られた木の葉と翼を閉じた鳥が刻まれていた。染み一つない白い外套の裾が風に揺れ動く。
首元までしっかりと覆い隠し、頭のてっ辺から足の先まで、一切の隙がない。淡い金色の長い髪を後頭部で一本に結んでおり、彼の優雅な動作と共に弧を描いて跳ねた。
彼は冷ややかな眼差しで、ついさっきまで昼寝をしていた男を眺める。
寝ていた男は腹部を襲う鈍痛に涙眼になっていた。
「ディオン、貴方がバカなのは重々承知していましたが、まさか城壁の外で本気で寝入るほどバカだとは思ってもみませんでした」
「おまえな」
「ホントの事でしょう? 私が剣を突きつけても平気で寝ているじゃないですか」
「んなぶっそうなもんを人に突きつけたのか? アホか、刺さったらどうするつもりだったんだっ!」
「あぁ、一層本当に斬ってしまえばよかった」
今さっきまで気持ちよく午睡を楽しんでいた男――ディオン・グレン・アーデンは踏みつけた男を睨んだ。
「身を守るすべも持たないくせに、城壁の外にほいほい出るなんて。自殺行為であることにいい加減気がついたらどうですか?」
「俺を殺そうとするやつなんか、おまえ以外にいるわけねぇから大丈夫なんだよ」
「失礼なこといいますね。私がいつ、貴方を殺そうと?」
とぼけて首を竦める青年に、ディオンは口を閉ざす。体力でも口でも勝てた試しは一度たりともない。何か言い返せば、数倍になって返ってくるのは目に見えている。
口負かせたことに、満足げな笑みを浮かべて――カラム・ファンは、当然のようにディオンの隣に腰を下ろした。
「そういえば、もう会議は始まっているよなぁ」
痛む腹部を擦りながら、ディオンはようやく猫がいなくなっていることに気がついたのだろう。視線をさ迷わせる。
「えぇ。開始は昼刻でしたから、もう始まっています」
「おまえ、俺を呼びにきたんじゃないのか?」
茂み影からこちらを窺う小さな獣を見つけて、ディオンは手招きをした。僅かな躊躇いの間の後、猫が走り寄ってきた。警戒の声を上げながら、カラムの視線を避けるようにディオンに擦り付く。
「どうして、私が貴方なんかを? 人のいない場所を探していたら、たまたまここに行きついただけです」
「じゃあ、おまえもさぼりか」
「失礼なことをいいますね。さぼりではなく、あの会議が有意義なものであるとは思えないだけです。無駄な議論で耳を汚すくらいなら、日向ぼっこでもしていたほうがマシですからね」
そりゃあ、違いない、とディオンが賛同を返した。
その有意義でない会議こそが、この国の重大事項を決める場でもあるのだが、彼らにとっては下らない駆け引きの舞台でしかない。
膝に登ってきた猫の背を撫でつつ、心地の良い日差しに身を任せる。
遠くから聞こえる街の喧騒と、高い鳥の声、葉が擦れる音だけが響く、静かな空間。
再び、眠りの縁にディオンは招かれようとしていたが、
「ダメだよ、お二人さん。会議に出ないとさ」
降り注いだ声に、ディオンは閉じかけた瞼を開き、カラムは無意識に剣の柄に手に添えた。姿を探してさ迷った視線は、頭上へと向けられる。
ふわり、と広がった白いローブの裾が波のように揺れている。金と銀の刺繍糸で紡がれた蝶と翼の広げた鳥が太陽に反射して、光を放つ。大きな白い帽子を飛ばないように片手で押さえ、つばの間から覗くのは、この国では珍しい赤褐色の髪だ。
その人物は二人の上空に浮いていた。何もない空間に、そこにまるで地面があるかのように立っている。
「ライオネル。おまえもさぼりか?」
「ボクは君達とは違って、会議をさぼったりしないよ」
顔の半分を覆う帽子の隙間から笑みが覗く。
「最初からは、でしょう?」
カラムが付け足せば、さらに笑みが深くなる。
ライオネル・リオンは、ゆっくりと地面へと降り立った。両の足で大地を踏みしめると、帽子のつばを持ち上げて、髪と同じ赤褐色の瞳を僅かに露わにする。
まだ幼さの残る愛らしい顔に、無邪気さの宿る眼差しから、二人よりも幾つか年下であることがわかった。
「酷いよ。さぼるなら、僕にも教えておいてよ。一人だけ出たら馬鹿みたいじゃない」
口を尖らせ、ディオンとカラムの間に割り入る。
ディオンの膝の上で丸まっていた猫が、毛を逆立てるがライオネルはお構いなしだ。
唸り声を上げる猫に対して、払うように片手を振れば、猫は慌てて逃げ出した。
「いじめるなよ」
「いじめてないよ」
茂みの方を窺うが、猫の姿は見えない。警戒しきってしまったのかもしれない。
猫を探すのを諦めて、ディオンはライオネルに視線を戻す。
「おまえも、さぼるんだろう?」
「そうしたいの山々なんだけどね。女王陛下に君たちを探してくるって言っちゃったんだ」
「それで?」
「見つけたから、僕の仕事はおしまい」
悪びれた様子のない、あっけらかんとした言い分に、ディオンは低く笑い声を上げた。
「盾が不在で会議が進むんでしょうかね?」
「そう思うなら、おまえが戻ったら」
「有意義ではない行為をするつもりはないと言ったでしょう」
結局のところ、三人とも会議には出たくないのだ。
まだ若いといえる三人。ライオネルにいたっては十代の域を出ていない。そんな彼らが女王陛下も参加する会議に出席することを許されているのは、彼らがこの国の「盾」だからである。
「ねぇ、ねぇ」
「あー?」
「ディオンとカラムってどっちが強いの?」
無邪気さに悪意を隠して、問いかける。脈絡もなしに尋ねられ、二人が躊躇ったのは一瞬だった。
「そんなの、俺に決まってるだろ」
「そんなこと、私に決まっているでしょう」
同時に吐きだされた言葉に、沈黙が降りる。ライオネルは笑顔で、間を窺う。
ゆっくりと二人の視線が交わる。張り詰めた緊張感に、空気さえも変わるかのようだった。
「冗談もほどほどにしたらどうですか。一般人以下の体力しかないのに、自惚れが強いにもほどがあります」
「冗談はおまえだろう? 魔銃の射程範囲なら、おまえに近付かれる前に殺れるんだぜ」
「だからこそ、貴方は愚かだというんです。貴方の魔銃術の威力は強大ですが、魔力を補充できない貴方など、虫けらでしかない。それに、この間合いなら、魔銃を撃つ前に貴方の首を刎ねることができます」
「そんなことはさせないよ」
応えたのはディオンではなく、ライオネルだった。
両の手を前に翳したかと思うと、その全身が淡い光に包まれる。
その光を感じ取ったディオンは、反射的に足元に転がっていた小石を手に取った。
拡散していた光が、吸い込まれるように小石へと集う。小石は光の塊となり、ディオンの手の内で形を変えていく。
カラムは、鞘から剣を引き抜いた。その切っ先を迷うことなく、ライオネルが発する、光の中心へと向ける。
「危ないなあ」
見えない壁に、剣先が弾かれた。
物理的法則を無効化にする魔術を前に、剣術は意味をなさない。
ゼロ距離で剣を振るったところで、その刃先が魔師に触れることはない。
だが、カラムはただの剣士ではなかった。彼は剣師。国を守る盾の一つ。
身を乗り出すようにして立ち上がり、ライオネルの脇を抜けると滑らせた刃先をディオンの腕に落とす。
「遅いっ!」
光が急速に収まり、ディオンの手の平に一丁の銃が収まる。白い銃身がきらめく。
撃鉄が跳ね上がり、一陣の閃光が筒の先から爆発するように飛び出した。
剣師は咄嗟に、大地を転がり避ける。狙いを外れた閃光は、背後の城壁を貫いた。轟音と共に城壁が崩れる。
「――っ!」
身を起こしたときには、次の光がすでに狙っていた。カラムは、背を低くして、距離を詰める。ディオンの姿は光の中に隠れて見えないが、先ほどの場所からは移動はしていないだろう。
銃師の体力を考えると、そう何発も撃てるはずがない。ならば、もう一度、避けることができさえすれば、魔銃術はおそるに足らない。
閃光が飛ぶ。剣師はぎりぎりでそれを躱した。
「……今のはっ」
服の裾を掠めていった光は、予想よりも威力が弱かった。魔師が放出した魔力を考えれば、次に放たれる銃弾はこんなものではないはずだ。
銃師の構える銃の銃口から新たな光が生まれる。銃師も、己の体力のなさは理解しているのだろう。ただの愚か者ではなかったと、剣師は歯噛みした。
魔師は宙に浮かびながら、崩れ落ちる城壁を眺めていた。
「あーあー、派手に壊しちゃって。知らなーいと」
帽子のつばを持ち上げて、立ち上る煙の中、白い輝きを確認する。
剣師と銃師を焚き付けた本人は、蚊帳の外から楽しげに様子を窺う。その顔に浮かぶ笑みは、きらきらと輝いていた。
戦況が長引けば、銃師の方が不利だが、そんなことは当人が一番理解している。
爆発するように駆け抜けている光は目を焼き、感覚を狂わす。銃師の体力が尽きるか、剣師の感覚が狂うか、どちらが先か。
「さぁ、ディオン・グレン・アーデン。君はどうする?」
銃術を使うに十分なだけの魔力は注いだ。それをどう生かすかは、彼次第だ。
彼はいつもライオネルの想像の先をいってくれる。それが魔師にとっては楽しくて仕方ない。
「それにしても」
楽しげな表情が一瞬曇った。
「ちょっと壊しすぎじゃない?」
ガラガラと崩壊していく城壁に、魔師は小首を傾げた。
ブクリエーム王国には、建国にまつわる伝説がある。
かつて、小さな部族が幾つも集まっていたこの地は、度々戦の火の手が上がっていた。多くの人が死に、一つの部族が滅んでは、新たな部族が生まれる。そんなことを長いこと繰り返していた。
それを憂いたのが、創造神の娘コーデリハイムだった。
彼女はこの地に生えるセイムの花から生まれた女神だった。愛する大地が血で穢れることを誰よりも悲しんでいた彼女は、ある部族の長であるアンセルムという青年に力を与え、この地の部族を一つに纏めるように促した。
アンセルムはコーデリハイムの期待に応え、部族を纏めて、ブクリエーム王国を興した。そして、彼はこの国の最初の王となった。
アンセルムはコーデリハイムに、セイムの花が咲き続ける限り、この国に血を流させたりしないことを子孫共々誓ったという。
一方、建国の裏では、若き王、アンセルムと美しき女神コーデリハイムは恋に落ち、二人は永久の愛を誓い合っていた。
だが、神と人の愛は許されるものではない。創造神は怒り狂い、ブクリエーム王国を滅しようとした。
愛しき人を守るため、愛する大地を守るため、コーデリハイムは自らの身を盾に変え、その身で父神の怒りを受け止めた結果、三つに砕け散った。
深く悲しんだアンセルムに創造神は言った。
「我が娘が愛したお前を許すことはできないが、我が娘が愛した国は私も愛そう」
創造神は三つの盾に砕け散った我が娘を示すと、
「お前が我が娘に誓ったように、私も誓おう。この国に盾がある限り、誰であれ、この国の大地を荒らすことはできない。三つの盾が、この国をありとあらゆるものから守るだろう」
その言葉と同時に、三つの盾の裏に、名前が刻まれた。
「それは盾の名だ。この国を守る盾だ」
盾に刻まれた三人の人物の名。アンセルムはその三人を王国の中から探し出し、彼らをこの国の「盾」として城に迎え入れた。
一人は、この国でもっとも腕の良い剣士。
一人は、この国でもっとも強大な魔術師。
一人は、この国でもっとも優秀な魔銃士。
彼らは、剣師、魔師、銃師と呼ばれ、この国を守る盾となった。
盾は「三師人」と称され、彼らの一人が欠けたとき、あるいは、彼らの力が弱まったとき、盾は新たな盾の名を刻む。
強国に囲まれながら、ブクリエーム王国は「盾」に守られているゆえに、その国土を侵されることは一度たりともなかった。そう、建国以来、ただ一度足りとも。
「自覚が足りませぬ! 貴方様がたには自覚というものが」
頭の上で響いた怒号に、思わずカラムは眉を潜めた。
カラムは真っ赤な絨毯に片膝をつき、頭を垂れていた。真っ白だった上着には土埃が付着し、床に広がる裾の一部は解れている。
その隣には同じように頭を垂らし、膝をつく、ディオンとライオネルの姿があった。ディオンは首下まできっちりボタンを締めていたが、こちらも同じように土埃にまみれている。
唯一、小奇麗な身なりを保つライオネルは深く帽子を被っているため、その表情を読み取ることができなかった。
三人の前を、苛立ちを隠さずに往復するのは、この国の宰相マルコムだ。たっぷり蓄えた口ひげに、膨らんだ腹を抱えて短い脚を忙しく動かしている。
「城壁を破壊するなんて。怪我人が出なかったから良いものを」
「私の銃が民を傷つけることはありませんよ」
ディオンが顔を上げ、宰相の発言に驚いたような表情を浮かべる。
「アーデン殿。壁なら良いというわけではありませんでしょう」
「ごもっともです。ですが、別の考えをしてみたらどうでしょうか」
ディオンはおもむろに立ち上がると宰相に歩み寄った。
「何もマイナスなことばかりではないはずです。城壁が壊れたことで、修繕の必要が確かに生じますが、それにより民の仕事が増えます。仕事が増えれば、民も豊かになり、すなわち国が潤うことになるでしょう」
丁寧な口調で、大袈裟な動作を交えながら、ディオンは言う。
精練された佇まい、落ち着いた口調は、城壁を壊したときと同一人物とは思えない。
床に伏せたままの二人は、一瞬、顔を見合わせる。
ディオン・グレン・アーデンの表向きの態度がこれであることは知っているが、こうも露骨に変わると気持ち悪くて仕方ない。
「しかし、アーデン殿。修繕には莫大な金がかかるのですぞ。それとも、その代金をアーデン公爵家が支払ってくださるとでも?」
「確かに壊した当人が支払うのは道理ですが、私の一存で決められることではありません。アーデン家の当主は我が父上殿。父上殿の判断がなければ、私は何一つ頷くことはできません」
修繕費って幾らかかるのかなぁ、ライオネルが呟くのをカラムは聞かないふりをした。少なくとも、一般の稼ぎでは一生払いきれない額には違いない。
「マルコム、もう良いわ」
「しかし、陛下!」
割り入った声に、宰相は振り返る。
「城壁の一つや二つで、言い争うのはやめましょう」
苛立ちに満ちていた空気が、柔らかなものへと変わる。宰相の視線の先、カラムとライオネルが頭を垂らす先に、大きな椅子があった。
金銀で装飾された椅子の周りには、五人の側女が仕え、色とりどりのお菓子やぬいぐるみが足の踏み場のないほど積まれている。
その中央の椅子に腰をかけるのは、十代半ばとも、二十代とも見える女だった。
飴色のウェーブのかかった長い髪に宝石をあしらえた髪飾りが良く映えている。
金糸の織り込まれた紅いドレスを身に纏い、両腕で抱きしめられないほどの大きさのドラゴンのぬいぐるみに寄りかかっていた。
豪華で、可愛らしい玉座に座るのは、ブクリエーム王国の主であるシルヴィア女王陛下。
この国において、もっとも尊く、もっとも厳かで、もっとも現実離れした王国の要である彼女は、夢をみるような眼差しで、集うものたちを見つめる。
「しかし、陛下」
「もう、そんなことは、いいでしょう?」
髪と同じ、とろけんばかりの色の目が瞬いた。
「それよりも、お菓子はいかが?」
側女が差し出した菓子を両手に乗せて、無邪気に笑う。
「陛下の手からいただけるとは、これ以上にない光栄です」
ディオンは片手を腹に沿え、陛下に向かって一礼すると、玉座へと近付く。
玉座の周りを埋めつくす、菓子やぬいぐるみを踏み潰さないように、慎重な足取りで陛下の前まで辿り着いたディオンは、その麗しい手から小さな菓子を受け取った。
「私のグレン。城壁を壊すなんて悪い子」
菓子を乗せたディオンの手を包むように掴む。冷たい、氷のように冷たい指先が、銃師の体温を奪う。
ディオンは黙ってその手を受け入れる。二つの笑顔が交差し、空気がゆっくりと凍りついていくのをその場にいた者達は感じ取っていた。
「本当に、悪い子」
ライオネルが小さく身じろいだ。その気配が僅かに変わったのを知って、咄嗟に、カラムはライオネルの腕を掴む。
「大丈夫ですよ」
魔師だけに聞こえるように囁く。
「……わかってるよ」
間を置いて、返ってきた声は強張っていた。
「陛下は盾に危害は加えないでしょう」
「わかってる」
ライオネルは、カラムの手を振り解くと帽子に手を掛ける。視線と視界を遮るようにつばを下ろして口を閉ざした魔師に、剣師もまた視線を正面に戻した。
二人のやり取りを知る由もなく、銃師は陛下の言葉を待つ。
「ウァリスの山で、ドラゴンが目撃されたのはご存知?」
「いいえ、陛下。初耳です」
ウァリスはアッシュから程近い場所だ。ドラゴンは人の気配を嫌うため、移動の際にさえ人間の住処を避ける傾向になる。そのドラゴンが、人の集落に近い山で目撃されたという。
「ドラゴンよ。素敵でしょう」
うっとりと陛下は頬を染める。ディオンの手を離すと傍らのドラゴンの人形を撫でる。
「ブクリエームの三師人に命じるわ」
飴色の瞳の奥に、不気味な炎が宿るのを、「盾」たちは見た。
ディオンは一歩下がり、膝を折る。
「ウァリスのドラゴンを捕まえて、わたくしの前に連れて来なさい」
もっとも尊く、もっとも厳かで、もっとも恐ろしい女王陛下は、満面の笑みで、命じた。
現在の「盾」こと三師人は、歴代の三師人の中では随分と年齢が若い。
剣師――カラム・ファン。
銃師――ディオン・グレン・アーデン。
魔師――ライオネル・リオン。
盾に彼らの名が刻まれたとき、ある者は納得し、ある者は驚愕し、ある者は不快を示した。
しかし、誰が何を思ったところで、盾に刻まれた名が代わることはない。盾に名が刻まれたときから、彼らは三師人として、王国の盾として、新たに生まれ代わった。
本人が望む、望まないに関わらず。
「いいですか、貴方がたはこの国の盾です。それを重々弁えてくださいよ」
何度も念を押す宰相に追い出されるように玉座の間を出た三師人は、厚い絨毯の敷かれた長い廊下をゆっくりとした足取りで歩いていた。
「……肝冷えた」
引き攣った声がディオンの口から漏れた。
女王陛下が触れた手の甲を擦りながら、眉を顰める。
日に焼けた肌の、指先から手首の間だけ他の箇所よりも僅かに色を失くしている。冷え切った指先を擦り合わせるが、触れたところから、更に体温が下がる気がして、小さく溜息を吐いた。
「女王陛下に悪気があったわけではないのですから、我慢しなさい」
「おまえなぁ。俺が犠牲になったようなもんだろう。少しは労わりの言葉を掛けられないのか」
恨みがましい目を向けられて、カラムは微笑んだ。
「私たちの身代わりになってくださりありがとうございました。お加減はどうでしょうか。なんなら、おぶって差し上げましょうか」
「……遠慮する」
一層、疲れた表情を浮かべ、銃師は肩を落とした。
「それで、どうするの?」
二人の背後に黙って付いていたライオネルが問う。
「とりあえずは、ウァリスに向かいましょう」
本当にドラゴンがいるのか、確認する必要がある。
三師人である彼らの耳に届いていない情報を、女王陛下が持っているのは別におかしいことではないが、与えられる情報を鵜呑みにして痛い目を見たのは一度や二度ではない。慎重に行動するべきだろう。
「ディオン様」
事の手筈を考えていたカラムの耳に飛び込んできたのは、甘い叫び声だった。
華やかに着飾った数人の女性が一斉にディオンに群がる。
「これはこれは、お揃いでどうしたのですか」
一瞬前の、疲れた顔など微塵にも感じさせず、集ってきた女性たちに微笑む。その変わり身の早さに、呆れを通り越して感心さえしてしまう。
「ボク、先に外に行ってる」
そそくさと出口に向かう魔師の背を追いかけるかどうかカラムは迷った。
ディオンの社交に付き合う義理はないし、正直言ってここは居心地が悪い。できれば、早く出ていきたいのが本音だ。
銃師を見やれば、和やかに立ち話に勤しんでいる。暫く、この場を動かないであろうことは予想がついた。
動き出すタイミングを逃がしてしまったカラムは、今更、ライオネルの後を追うこともできず、溜息と共に、窓の外に視線を投げた。
昼も過ぎた時間だ。今から、行動を起こしたところで、ウァリスの山に入るのは日が暮れてからになってしまう。
いるかいないかわからないドラゴンのために、危険は冒せない。今日はウァリス周辺の集落まで行き、明日、明るくなってから山に赴いた方が良い。
急ぐ用ではないのは確かだが、本当にドラゴンがいるのであれば早めに対処しなければ、どんな被害が生じるかもわからない。
馬車で丸一日かかる行程も、魔術ならば一瞬だ。ライオネルに繊細さが要求される物体移動を行わせるのは――ましてや、対象が自分自身であることを考えると――抵抗があったが、ディオンが同行すれば、さほど心配はいらない。
問題なのは、ウァリスに着いた後だ。
カラムは眉を潜める。
できることならば、銃師をアッシュからは出したくないが、魔師の力を使うのならば、銃師を連れて行かないわけにはいかない。
どこか安全な場所で、銃師を待機させ、何か起こったときのために魔師をつけておく。その間に自分ひとりで山を探索するべきか。
剣師一人でウァリスに行ければ一番良いのだが、女王陛下の命が下ったのは三師人に対してだ。一人でウァリスに赴くわけにはいかない。
兎に角、まずはウァリスへ。そう決めて、カラムは目を室内に戻した。
先ほどと変わらずの位置で、ディオンが女性たちと談笑している。放って置けば、いつまでも続くだろう。
「……ディオン」
ぴたり、と会話が止まった。一斉に、カラムに向けられる目。
「置いていきますよ」
それから逃れるようにカラムは、踵を返した。
「皆様、先急ぐ用がありますので、これにて失礼いたします」
廊下を踏む音に、重なる言葉。早足で出口を目指すカラムに、ディオンが無言で並ぶ。
「なによ、あれ」
「ディオン様を呼び捨てするなんて」
「身分をわきまえない」
背中に掛かる、聞こえるか聞こえないかの罵声。カラムは頭から、それを無視するが、
「グラストのくせに」
僅かに肩が震えた。
横を歩いていた、ディオンがカラムを一瞥し、
「あぁ、そうでした」
ディオンが足を止め、その場で優雅に半回転する。その瞳に穏やかな色を浮かべ、立ち尽くす女性たちを見つめる。
「今度、我が家で父の誕生日パーティーがあるのですが、是非とも皆様方も参加してください」
「アーデン家の……御当主の誕生日パーティーですか?」
女性たちの目の色が一斉に変わった。ブクリエーム王国アーデン公爵家。ディオンの父親であり、現在のアーデン家当主の誕生日会に呼ばれることは、貴族にとって名誉なことだ。
「今年のパーティーは一層、華やかになると思いますよ」
ディオンは笑顔を貼り付けたまま、先に行こうとしたカラムの服の袖を引いた。
「なにせ、アーデン家の歴史でも、三師人が揃って参加など例にないことですからね」
貴方がたが見下した剣師は当家の貴賓です、といわなかったのは、銃師なりの優しさだったのか。
凍りついた女性たちの顔に気がつかないふりをして、ディオンはその場で一礼すると、歩き出す。
暫く、二人は無言で歩いていた。
「私は聞いていませんよ」
低く、脅すような声音だった。
銃師は首を竦めた。
「言ってないからな」
「行きませんからね」
「大丈夫、俺も出ないから」
いつもの砕けた口調で返ってきた言葉に、カラムは眼鏡の奥から問いかける。
「俺、その日は腹痛になるし」
だから、出れねぇの。屈託なく笑うディオンに、カラムは呆れて物が言えなかった。
「第一、ライオネルを不特定多数の前に引きずりだしてみろ。死者が出る騒ぎになるに決まってるじゃないか」
「死者が出る程度で済めばいいですけどね」
長い廊下の先に大きな扉があった。両脇に立つ兵に挨拶を返し、二人は日の下に出た。
「その話はまた後にしましょう」
剣師が言った。
「まずは、ウァリスに向かいます」
そして、三師人はウァリスへとやってきたのだが、山道には、カラムとディオンの姿だけがあった。
カラムの計画では、ディオンはライオネルと一緒に山の麓の集落で待機しているはずだった。
「終わったら、呼んでね」
物体移動術によって、一瞬にしてウァリスに二人の人間を運んだ魔師は、それで自分の分の仕事は終わりだと、早々に姿を消した。
魔師に協調性の欠片もないのは承知していた。魔術士の多くは変わり者で、ライオネルもその例に漏れない。
人嫌いで、人見知りが強く、好き嫌いが激しい。それに根気良く付き合っていられるのも、比較的長い関係であるからと言えた。
しかしだ。今回ばかりはその性格が恨めしかった。
背後を振り返れば、少し離れたところで、ディオンが蹲っていた。ここまで良く頑張ったとは思うが、体力はもう限界だろう。
焼けた肌に、引き締まった四肢。一見すると、ディオンは体を鍛えているように見える。だが、それは弱く見られたくないという彼のプライドゆえの見せ掛けに過ぎなかった。
魔銃士は、周囲の魔力を集め、それを武器にすることができる。魔師が放つ魔力を全て奪ってしまう。その能力は、生まれ持った体質と言っても過言ではない。
その反動ともいうのだろうか。魔銃士の多くは普通の人に比べて遥かに体力と運動能力が劣っている。
銃師であるディオンも例外ではなく、寧ろ、三師人に選定されるほどの器を持つがゆえに、身体能力は平均を遥かに下回っていた。それこそ、自分の身を自分で守れないほどに。
「もう少し頑張ってください。この先に小川がありますので、そこで休憩しましょう」
「……っか、わ?」
「えぇ。水音がしましたので」
ぐったりしているディオンの腕を掴んで強引に立たせるが、反応が鈍い。
「おぶりましょうか」
「……遠慮、する」
銃師は眉を顰めた。それだけは、どうしても嫌なようだ。剣師は首を竦めた。
魔師や銃師と違い、特殊な才を剣師は持っていない。ただひたすらに己の肉体を鍛え、技術を磨くだけだ。
剣師にとっては、楽な道のりでも銃師にとっては地獄の苦行に等しかった。
山道を外れたすぐ脇に、小川が流れていた。冷たい水を飲んで落ち着いたのか、ディオンは地面に体を投げ出して、大きく息を吐いた。
「ここにいて下さい」
「……痛」
カラムは周囲の安全を確認すると、転がっているディオンの頭を靴先で小突いた。
「なにしや……」
「少し、周りを見てきます。ここから絶対に動かないで下さい」
半眼で睨む銃師に釘を刺し、剣師は茂みの中に分け入っていった。
背中に文句の声が追いかけてきたが、無視する。
「ドラゴンがいるようには、思えませんが」
それほど、山の奥には入って来てはいないが、今のところ痕跡は見られない。
「いないほうがいいですけど」
毎回毎回、女王陛下の言い出すことは無理難題だ。ドラゴンがいたところで、どう連れて帰ればいいのか。まさか、城で飼うとは言わないとは思うが、あの陛下ならどんなことでも平然と言いかねない。
「身分の高い人の考えは、理解できませんね」
女王陛下にしても、ディオンにしても、カラムとは根本的に考え方が違う。
カラムは、グラストと呼ばれる奴隷出身だ。両親の顔も名前も知らない。今では、三師人という特権階級の地位を手に入れたが、グラストであるという事実に変わることはない。
「今も、私が頼れるのはこれだけ」
カラムは背負っている剣の柄に、そっと触れた。確かな質感を持つそれだけが、カラムをここまで導いてきたものだ。
そのときだった。
「うわぁぁぁぁああ」
轟いた悲鳴に、剣師は顔を上げた。
「今のは……」
剣師は舌打ちし、剣を引き抜くと走り出した。
周囲に危険な気配がなかったから、一人にしてきたのだが、考えが甘かったか。最悪の事態を想定して、嫌な汗が背中を落ちて行った。
「ディオンっ!」
小川まで駆け戻って来たカラムの目に飛び込んできたのは、
「美味いか? まだまだあるからな」
先ほどと同じ位置で、胡坐を組んで座り込んでいるディオンと、その膝の上に、ちょこんと乗っている一抱えほどの大きさの――ドラゴンだった。
銀色の鱗が光に反射し虹色に輝き、長い尾が緩やかな円を描いて振れる。口には無数の牙が並んでいた。
ディオンは保存食を千切ってドラゴンに与えていた。小さな口を精一杯開けて、ディオンの手から与えられるものを頬張っている。
「んあ? どうしたんだ、何かあったのか」
剣を構え、唖然と立ち尽くす剣師に、銃師は首を傾げる。剣師は柄を掴む手を震わせた。
「何をしてるんですか」
「何って……飯やってるんだけど?」
見て分からないのか、と返す銃師に、剣師は大きく息を吐いた。
「先ほどの悲鳴は……」
「あぁ。それで慌てて戻ってきたのか。わりぃ、わりぃ、こいつがいきなり首舐めるから、びっくりしてな」
きゅぱーと声を出して、ドラゴンは保存食を強請る。その背を撫でながら、銃師は保存食を与える。
「どうしたんですか、それ」
頭痛を堪えるように、額を押す。
「寝てたら、いつの間にかいたんだ。まだ子供のドラゴンだな。おまえ、親とはぐれたのか」
ディオンが首を撫でれば、嬉しそうにドラゴンは声を上げた。
動物に嫌われやすい質であるカラムに対し、逆にディオンは好かれるほうだ。だからといって、ドラゴンにまで懐かれなくても良いと思う。
「何はともあれ、これで任務は終了ですね」
大きな個体だったら、連れて帰るのに一苦労だが、これなら大人しく運ばれてくれそうだ。
「山を下りましょう」
想定外なことだったが、予想よりも早くお守りから開放されたことに、剣師は安堵した。
窓から差し込む夕暮れの光が、玉座の間を黄金色に染めていた。
シルヴィア女王陛下は、色の薄い頬を淡く染めて、大義を果たしてきた三師人を迎え入れた。
「見事ですわ」
その眼前にはドラゴンの入った檻が置かれている。狭い枠の中に閉じ込められた小さなドラゴンは、悲しげな声を上げていた。
「褒めて遣わしますわ。さすがは、我が王国が誇る盾ですわ」
「お褒めの言葉、ありがたき幸せ」
玉座の前に膝をつく三師人は、陛下の歓喜の声に深く頭を垂らした。
「お疲れでしょう。暫し、休むといいわ。わたくしは、この子と遊びます」
陛下の興味は全てドラゴンに注がれている。
「下がりなさい」
飴色の瞳に、三師人は映っていなかった。剣師、銃師、魔師は、黙って一礼すると、玉座の前を離れた。
「良かったんですか」
耳の奥に残るドラゴンの鳴き声を思い出す。あんな狭いところに閉じ込められて、さぞかし窮屈だろう。
ドラゴンを連れて来た本人は、不思議そうな顔で目を瞬かせた。
「あのドラゴンですよ」
「別に殺されたりはしないだろう」
首下を締めるボタンをディオンは緩める。本当は、前を全部はだけさせてしまいたいのだろうが、まだ城内であることを考えてそれだけに留めておく。
「陛下のことだ。すぐに飽きるに決まってる。そしたら、遠くの山に放せば良い」
女王陛下の命令に逆らうわけにはいかない。かといって、あのままドラゴンを囚われの身にしておくのは、可哀相だ。だから、ほとぼりを冷めたら、こっそり逃がしてしまえば良い。
剣師は驚いたように目を見開いた。
「……あなたにも、考えるということができたんですね」
「カラム、俺のことをなんだと思っているんだ?」
げんなりと肩を落としたディオンに、カラムは声を出さずに笑った。
「ねぇ、ディオン」
二人の後を黙って歩いていたライオネルが口を開いた。
「おなかすいた」
深く被った帽子から、口元だけを覗かせて甘い声を出す。
「じゃあ、どっか食べに行くか?」
「この間、買った魚があるよ」
「はぁ? おまえ、まだ使ってなかったのか?」
ディオンはライオネルの帽子を掴む。ライオネルは帽子を取られまいと、両手でつばを押さえ込んだ。
「わかった、おまえの家に行こう。なんか作ってやる」
「わーい」
無邪気な子供を装って喜ぶライオネルに、視線を交し合ったディオンとカラムは首を竦めた。
「おまえも来るだろう」
「えぇ、ご相伴に預からせていただきますよ」
ディオンの作る料理は、下手な料理人なんかよりも余程美味い。
屋敷の中で過ごすことの多かったディオンにとって、料理は趣味の一つでもある。
「食材買って帰らないと足りないか」
「じゃあ、市を寄っていきましょう」
「ボク、先に帰ってる」
「待て待て。おまえなぁ、荷物くらい持ちやがれ」
「荷物はいいけど、市は人が多いじゃん」
「少しは、人に慣れたほうがいいですよ」
「絶対、無理!」
彼らはこの王国を守る三師人である。その一方で、互いを知る幼馴染でもある。気安い関係は、互いを見張る「盾」となった今も変わらないでいる。
楽しげに会話を弾ませながら、三師人は長い廊下を歩いていた。
最初に、それに気がついたのは、誰だったのか。
ぐらり、と足元が大きく揺れる。
バランスを崩した銃師を咄嗟に、魔師が支え、剣師は無意識に鞘から鋭い切っ先を抜き払った。
「なんだ今の」
警戒心も露わに三師人たちは周囲を窺う。
「大変です!」
入り口から飛び込んできた見張りの兵が声を上げた。
「ド、ラゴンが……」
絡み合った三つの視線は、一瞬にして解ける。三人は一斉に駆け出した。
地鳴りのような響きが天を貫いた。燃えるように煌く銀の鱗が眩いばかりに目を焼き、暗雲のように建物に影が落ちる。
巨大なドラゴンは、唸り声を上げながら城壁に取りつき、城に向けて大きな口を開けていた。
城壁が音を立て崩れ落ち、逃げ惑う民の悲鳴が響く。
黒々とした口から覗く牙が大きく震えたかと思った瞬間、闇の中から赤い光が生まれた。全てを灰に返す炎がドラゴンの呻き声と共に吐き出された。
「させないよ」
悲鳴と轟音が入り混じる中、渦を巻いた風が散る。
炎は城の壁を撫でる前に、霧散した。
ドラゴンが甲高く鳴いた。
ふわりと、白い布が舞う。ドラゴンと城の間、虚空に浮かぶのは片手を前に掲げた魔師だった。
ドラゴンの行く手を阻むのは見えない魔術の障壁。
牙が紅に染まり、灼熱の炎が魔師に襲い掛かるが、吹きつける風が魔師の服をはためかせるだけだ。
「貴方の相手は私です」
ドラゴンの意識が魔師に向いている間に、距離を詰めた剣師が城壁に取りつくドラゴンの足に切りかかる。
大地を揺らす叫びを上げて、ドラゴンが翼を広げた。それを待っていたかのように、無数の光がドラゴンを撃つ。
少し離れたところで、魔銃を構えた銃師が引き金を引く。その度に、繰り出される魔力の弾が光となって飛び出す。
バランスを崩したドラゴンは、転がるように城壁の外に落ちた。
それに追い討ちをかけるように、剣師が鋭い切っ先を振り上げる。
「お待ちなさい」
空を裂くような叫びだった。
ぴたり、と三師人たちは一斉に動きを止めた。
城のテラスに立っていたのは、女王陛下だった。宰相が慌てて部屋に戻そうとするが、それを冷たく振り払い、倒れたドラゴンと三師人を見つめる。
女王陛下の横で、籠に閉じ込められた子供のドラゴンが悲しげに鳴いた。それに応えるように、城を襲撃したドラゴンが立ち上がろうともがく。
「そのドラゴンを捕まえなさい」
「へ、陛下」
宰相が酢頓狂な声を上げるが、女王陛下は意を介さない。
「ドラゴンを捕まえ、私の前に差し出しなさい」
可愛らしい唇から、厳かな命令が落ちてくる。
剣師は溜息を吐き、魔師は帽子を被りなおし、銃師は肩を竦めた。
ドラゴンは、足元をよろめかせながら立ち上がると、咆哮を上げて、城壁に足を掛ける。それを魔師の障壁が阻むが、傷ついた翼を動かして、その壁を乗り越えようとする。
ここまで必死になっているのは、恐らくはこのドラゴンが、あの子供のドラゴンの親だからだろう。
子供のドラゴンを取り戻すため、普通なら近付かない人間の住みかまでやってきた。
剣師が銃師に視線を投げかけた。それを受け取った剣師は帽子で顔を隠した魔師を見上げる。
広がった翼が風を生む。魔師の障壁はドラゴンの生み出す風まで遮らない。
「きゃあ」
強風が女王陛下を襲い、その麗しい手がドラゴンを閉じ込めている籠に触れた。
ぱきり、と何かが砕ける音がした。
籠の鍵が何かの力に負けたかのように外れた。その一瞬を逃がさずに、子供のドラゴンは籠の扉に身体をぶつける。
「あっ」
女王陛下が手を伸ばすが、僅かに届かなかった。
小さな翼を広げ、空へと舞い上がった子供のドラゴンは、一直線に親ドラゴンを目指す。
「捕まえなさい」
女王陛下の叫びに、兵士たちが右往左往する。三師人たちはその場を動かなかった。
「何をしているのです。早く、私のドラゴンを」
陛下の命令に突き動かされるように、幾人かの兵士がドラゴンへと近付く。甘えるような声を出すドラゴンの子供に、ガラスをすり合わせるような音を出して応えていた親ドラゴンは、近付いてきた人間に対して、大きく翼を動かして威嚇を示した。
強い風が、兵士を、城壁を、女王陛下を、三師人を打ちつけた。
「うわっ」
小さな悲鳴に、銃師と剣師は顔を上げた。
地面にいた銃師と剣師よりも、宙に浮いていた魔師の方が風の影響を大きく受けたのだろう。風に流されかけ咄嗟に足場を形成したものの、その際に帽子から手を離してしまった。
風にさらわれた帽子。その下に隠された魔師の顔が日差しの下に露わになる。
平野では珍しい赤褐色の髪が波立ち、同色の瞳が大きく見開かれるのを銃師と剣師は見た。舌打ちを漏らしたのは、果たしてどちらだったのか。
魔師の顔が歪んだ。大きな瞳に負の色が宿り、さ迷った視線が空ろになる。震える肩を抱くように、魔師は己の腕を交差させた。
青白くなった唇が浮き、噛み合わない歯が音を立てる。
「……るな。ボクを見るなぁぁぁああああ」
恐怖に引き攣った叫びが、アッシュに木霊する。
魔師を中心に見えない輪が生まれた。その輪は爆音と共に広がり、触れたものを全て消し飛ばす。
暴走した魔力はドラゴンのみならず、彼らが守るべき国にさえ、牙を剥いた。
「ディオンっ!」
剣師の叫びは、銃師に届いたのか。
銃師は腰に下げていた小さな鞄に手を伸ばす。取り出したのは、赤い宝石が宿った指輪だった。それを握り締めた手を高々と掲げる。
今まさに、城壁を切り裂こうとした魔力の刃は、見えざる手に解かれるように淡い光に姿を変えて、吸い込まれるように銃師の手の中へと集まって行った。
魔師が生み出す暴走した魔力を、銃師が受け止める。
赤い光が銃師の手を染めた。
「見るなぁぁぁあ、見るなぁぁあああ」
魔師の悲鳴にあわせ、魔力が放出される。
受け止められる魔力量は、魔銃士の能力にもよるが、魔力の質も影響する。暴走する魔力を制御する行為は、相当な負担が掛かる。だが、銃師には薄らと笑みを浮かべる程度の余裕があった。
奪い取った魔力は、銃師の手の中で膨らんでいく。一瞬でも気を抜けば、暴発し、銃師の身体を切り刻むだろう。
「きゅぉぉおおおおお」
ドラゴンが咆哮する。魔師を敵であると判断したドラゴンが大きな口を開けて襲い掛かった。だが、発せられる魔力がその牙の行く先を塞ぐ。
銃師は片手に魔力の制御を託すと、もう一方の手を腰に回し、蒼い宝石のついた指輪を取り出した。
赤い光と蒼い光が銃師の手を燃やす。
暴走する魔力の僅かをも逃がさないとばかりに、魔力が集結していく。
支える魔力をも銃師に奪われつつあるのだろう。魔師の体が傾ぎ、ゆっくりと降下しだした。
その身体が地面についたのを確かめた後、銃師は青く輝く腕を掲げた。
蒼い弾丸が天を駆け上がり、弾けた。世界が蒼く染まる。魔力は霧散し、空へと溶けていった。
銃師は大きく息を吐き、走り出した。
地面に座り込んだ魔師は、大きな瞳からぽろぽろと雫をはじき出す。
「見るな、見るな、見るな」
「……いい、加減に、しろ、この、ばか」
銃師は、息を乱しながら魔師の下に辿り着いた。走る間も暴走する魔力を吸収し続けたのだろう。赤い光が銃師の身体を染め、まるで血に塗れているかのようだった。
「毎回、毎回……ふざけ、るな」
振り上げたのは、魔力を集めていない方の手だった。作った拳を躊躇いなく魔師の頭に叩き込んだ。
「いたっ」
魔力の放出が止まる。銃師が殴った頭を抑えて、魔師は頭を上げる。涙で汚れた顔は、酷い有様だったが、その目には意志の光が戻っていた。
「世話が焼けますね、ライオネル」
暴走が止まったのを見計らって近付いてきたのは剣師だった。その手には風で飛んだライオネルの帽子が握られている。
魔術に物理攻撃で対抗するのは、不可能だ。暴走した魔師を剣師が止めるのは無謀である。だから、魔師の暴走を銃師が抑えている間に、剣師は暴走の引き金になった帽子を探しに行っていた。
ぐずぐずと鼻を啜る魔師の頭に帽子を乗せ、ようやく銃師と剣師は安堵の息を吐いた。
「きゅぉぉぉぉおおお」
しかし、安心するのはまだ早かった。
魔師の暴走で、すっかり興奮したドラゴンが暴れ始めた。尾を振り上げ城壁を壊し、口から炎を吐き大地を焦がす。阻む魔力の障壁はもうない。
「ライオネル」
剣師が地面に座り込む魔師を引っ張り起こす。
「私たちの仕事は、まだ残っているようです」
「……俺、もう疲れたんだけど」
「ボクも帰るぅ」
「……私もできることならば帰りたいですよ」
やる気のない魔師と銃師に、剣師は小さく首を振った。
「仕方ないでしょう、これが『盾』の役目なんですから」
三師人たちは暴れるドラゴンを見上げた。
「何人であれ、この国を穢すことは許さない」
この国はこのアッシュを中心に成り立っている。盾の役目は国を守ること。ならば――。
「どのみち、こいつをどうにかしなきゃだしな」
腕に宿る赤い光に視線を向けて、銃師が困ったように笑った。
「決まりですね」
魔師を銃師に押し付けると、剣師はドラゴンに立ち向かう。
「ほら、おまえも」
「んー」
駄々っ子のように嫌がる魔師をせっつき、宙へと舞い上がらせる。
「さっさと終わらせよう」
銃師はドラゴンを見やる。巨大なドラゴンの頭に小さなドラゴンがしがみ付いている。元と言えば、銃師があの子供のドラゴンを連れて来てしまったからこそ、親ドラゴンが城を襲撃することになったのだ。
止むを得なかったとは言え、罪悪感が胸を走る。
「ライオネル」
「んー」
帽子の隙間から、魔師がこちらを窺う。銃師は無言で軽く顎を動かした。
「カラム」
剣師が一瞬振り返るのを確認して、銃師は口元に弧を描いて見せた。それを視線に入れた剣師は呆れたように目を瞬かせる。
「殺してしまいなさい」
強い意志が込められた叫びが三人の間を切り裂いた。テラスから身を乗り出した女王陛下が三師人を見ていた。
「私に刃向かう愚かなドラゴンなどいりませんわ。殺してしまいなさい」
無邪気な笑顔を浮かべ命じる女王陛下に、三師人は頭を垂らして、
「仰せのままに」
剣師はドラゴンに斬りかかり、魔師は炎から城を守る。銃師は集めた魔力を形にしていく。
その腕に形成されたのは大きな赤い銃身だった。銃口をドラゴンに向ける。
「ごめんな」
銃師は引き金を引いた。細い光がドラゴンに降り注ぎ、次の瞬間、赤い爆発がアッシュを包み込んだ。
光が止んだ後、残ったのは崩れた城壁と焼け焦げた大地。
巨大なドラゴンの姿はそこにはなかった。大きく肩を上下し、その場に尻餅をついた銃師は黙って空を仰いだ。
夕暮れが目に染みる。
「見事ですわ」
女王陛下が拍手をしているのが見えた。銃師は笑おうとしたが、疲労が頂点に達しているのだろう。唇を持ち上げるのさえ、億劫だった。
しかし、まだ仕事は残っている。
「こっち方面は俺の担当だしな」
力なく立ち上がり、崩れそうになる足を叱咤する。
陛下の様子を見る限り、機嫌を損ねている様子はないから、ご機嫌取りは必要ないだろう。だとするならば、あとは騒ぎ立てるであろう宰相を宥めるだけだ。
銃師は背後を振り返った。一瞬前までドラゴンがいた場所。
「全く、とんだ捕り物だ」
アッシュからドラゴンの姿が消えて、一瞬後のことだった。
「あぁ、もう。だから、ディオンがいない状態で空間移動は嫌だって言うんですよ」
緑深く人気のない山の中、思わず叫び声を上げたのは剣師だった。
剣師は葉の生い茂る木の上にいた。細い枝を踏み折らないように慎重に体重を移動させ、何とか無事に地面に降り立つ。
その横に虚空から降り立ったのは魔師だった。
「ボクとしては上手くいったほうだと思うけど」
おかしなところに飛ばされなかっただけ、運が良かったと思うしかない。
暴走しがちな魔師の魔力は、普段、銃師が制御している。制御の手を離れたそれが意図した結果を生み出すはずがない。
金属を引き裂くような甲高い音が響いた。振り仰げば、巨大なドラゴンが翼を広げていた。
そのドラゴンの頭に纏わりつくように小さなドラゴンが飛んでいる。
「あちらも無事のようですね」
人間二人と、ドラゴン二体。これだけの質量を移動させるためには相当な魔力を要することは、魔術に対して無知である剣師にも分かる。
それを容易く遣り遂げた魔師は眠たげに欠伸を噛んでいた。
「もう一仕上げですね」
剣師は魔師に合図する。魔師は面倒臭そうに口元を歪めたが、黙って手を振った。
ミシリ、と鈍い音が響いて、傍らの大木が倒れる。鳥が一斉に飛び立ち、森が騒いだ。
音に驚いたドラゴンは大きく翼を広げ、空に飛翔した。小さな翼がその後を追う。人が来ない山奥の、彼らの住処へと帰っていく。
夕暮れの空の彼方、大小の影が消えるまで、剣師と魔師はそこを動かずにいた。
「おなかすいた」
「私も空きました」
今から帰れば、ちょうど夕飯時だ。
「ディオンに夕御飯を作っていただきましょうか」
「わーい」
彼らも帰る。彼らが守るべきアッシュへと。
温かな湯気が立ち上るスープがテーブルの上に並ぶ。香ばしく焼けたパンに、盛り付けられた肉団子、果物が飾られた彩り鮮やかなサラダ。
狭いテーブルの上にところ狭しと置かれた料理に、目を輝かせるのはライオネルだった。
ナイフとフォークを構えている。
「まだだぞ」
今にもフォークを突きたてんばかりのライオネルを制して、ディオンが魚の煮込みを置く。
最後の料理をテーブルに用意したところで気力が尽きたのか、ディオンは椅子の上に倒れこむように座り込んだ。
「まだぁ」
「あぁ、もう食え食え」
「わーい」
ライオネルが大きな口を開けて、パンを頬張る。
「いただきます」
席についたカラムは両手を合わせて、小皿にサラダを盛った。
ディオンはさっさと食事を始めた二人を半眼で睨んだ。
「おまえらなぁ。宰相殿を宥めるのに、どれだけ苦労したと思ってんだよ。それなのに、おまえらは腹減っただ、なんだって」
姿の見えない剣師と魔師を訝んで詰問してくる宰相をかわし、興奮気味の兵たちを宥め、あの混乱した場を治めるのに一人で奔走した。
体力も気力も尽きたところで、戻って来た二人から「腹減った」のオンパレードである。
無視すれば良いものの、律儀に作るのがディオンらしいところだ。
料理を作るのに、最後の体力を使い切ったディオンは、文句を言うだけ言って黙り込んだ。
口を利くのも億劫なのだろう。
そんなディオンに気遣う様子もなく、二人はせっせと食事を口に運ぶ。
ディオンは無言で二人を眺めていた。
やがて粗方、食事を片付け終えた二人はようやくディオンに視線を向けた。
「それで、陛下は何かおっしゃっていましたか」
「……良き働きに明日褒美をくれてやるだとよ」
余計な口を利きたくないのだろう。問われるがまま、返す。
「ボク、行かなーい」
「頑張ってくださいね」
「…………」
ディオンはテーブルに突っ伏した。
突っ伏したまま、ディオンはひっそりと笑った。
行かないといいながら、明日、カラムとライオネルは城に上がるだろう。疲れ果てたディオンを女王陛下の前に単身であげるほど、彼らは非情ではない。
伏せた腕の間から覗き込めば、ライオネルとカラムが何事か話しているのが見えた。どうせ、自分の悪口だろうと、ディオンは目を閉じるが、
「ほら、ディオン。ディオンも食べたら」
「貴方も朝から何も食べてないでしょう」
残り物がまとめて乗せられた皿を差し出され、思わず苦笑いを浮かべる。
「おまえらなぁ」
「そうそう、これを忘れていました」
拳を震わすディオンを遮るように、カラムが取り出したのは赤いラベルに金の文字が描かれたボトルだった。
「ゴリスティの新作らしいですよ」
テーブルの上に置き、勝手知ったる他人の家と、グラスを持ってくる。ディオンは目を瞬かせた。
「どうしたんだ、これ?」
カラムが取り出したのは、アッシュでも評判の名酒だ。それも、今年取れたゴリスティの実を使って作られた新作のボトルである。
入手が難しく、アーデン家でも三本しか保有していない。そんな貴重な酒をどうしてカラムが持っているのか。
「城からいただいてきたんですよ」
三師人が城内で許可なく足を踏み入れられないのは、女王の寝室くらいだ。城の酒蔵ならば、どんなに貴重なボトルでも、必ず置いてある。
「おまえにしては、気がきくな」
「私も一度、飲んでみたいと思っていたので」
ボトルを開けて傾ければ、紅の液体がグラスに満ちる。
三つの紅いグラスと、三つの盾。
手にしたグラスを掲げ、三人は口元を歪めた。
「ブクリエーム王国の永続に」
「女王陛下の永劫に」
「セイムの花の永遠に」
『盾の不破に』
永久の約束を果たすための三人の盾は、守るべき王国の端で、愛すべき王国の中で、小さな願いを胸にしまう。
グラスの端が重なり、甲高い音を立てた。
やがてくる戦の炎を、このときはまだ、彼らが知ることはなかった。
【王国は『盾』が守るとのこと】
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2010.12.12執筆
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