短編小説
安眠は夢のまた夢


安眠は夢のまた夢
「死ねぇ!」
 物騒な叫び声が鼓膜に轟(とどろ)いた。それと同時に顔の上に何かがぶちまけられる。鼻がひん曲がるほどの強烈な匂いが棺(ひつぎ)の中に広がった。
「どうだ、まいったか。吸血鬼め!」
 次から次へと、情け容赦なく投げ込まれるそれに、私の身体は埋もれて行く。強烈な匂いが鼻を掠め、不快度が急上昇する。
「永久に滅びろ!」
「喧しい!」
 私は顔を覆い尽くしていたそれを片手でなぎ払い、すっかり埋もれてしまった上半身を勢い良く起こした。固く閉ざしていた視界を開くと、蝋燭(ろうそく)の明かりの中、目に飛び込んできたのはニンニク。私が眠る棺桶(かんおけ)が無数のニンニクで埋まっていた。
 強烈な匂いが鼻に付く。だから、ニンニクは嫌いなのだ。嗅覚(きゅうかく)の鋭い私にとってニンニクの匂いは不快のもとでしかない。
「馬鹿な……吸血鬼はニンニクが弱点のはず。なぜ、効かない」
「……ニンニクで死んだら末代までの恥だ」
 答えながら、棺桶から抜け出す。あぁ、お気に入りの棺桶だったのに。こうもニンニク漬けになってしまったら当分は匂いが落ちないだろう。全く、毎度毎度、この人間はとんでもないことをしてくれるものだ。
 私は棺桶を掴み、中のニンニクを出そうとしたが、その隙を逃がすまいと背後に迫る影。
 私は身体を横にずらした。私が寸前までいた場所に長い棒の切っ先が走る。
 勢いをつけて振り下ろしたのだろうが、私が避けたため、その勢いを制御できずに、彼はそのまま前のめりになって倒れこんだ。ニンニクの山の中に頭からダイブする。
 私は呆れ果てながらも、その襟(えり)首(くび)を掴んで引き起こしてやった。
「なんで、避けるんだよ!」
 彼はニンニクの匂いを纏(まと)わり付かせながら、私に詰め寄る。私は反射的に一歩後退った。
「アレク。それ以上、近付かないでくれたまえ。臭すぎて鼻が曲がりそうだ」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
 誰の――確かに私が避けたせいで彼は棺桶の中のニンニクの山に頭を突っ込むことになったが、そもそも、そのニンニクを持ち込んだのは彼であろう。
 彼は足元に転がる棒を引っ掴むと、
「くそぉ。吸血鬼めっ! 覚えてろ!」
 拳を震わし、身をひるがえす。あっと言う間に彼は扉の向こうに姿を消した。
 私はその背を見送った後、部屋に散らばるニンニクとすっかり臭くなってしまった棺桶に視線を落とす。
「これは、私が片付けるのか?」
 私はげんなりと呟いた。

   ◆◆◆◆◆

 吸血鬼。人の生き血を啜る夜の住人。銀や十字架、ニンニクを嫌い、鏡に映らず、太陽の光を浴びると塵(ちり)に返る。心臓に白木の杭を打てば死するとも言われる魔物。
 だが、実際に語られていることの半分ほど事実は違っている。十字架が嫌いなら棺桶を寝床にしないし、ニンニクに限らず匂いがきついものは苦手だ。心臓に打つのは白木でなくても良い。
 語られていないこともある。吸血鬼が血を大量に欲するのは成長期のみで、それ以降は数年に一度、それもほんの微量だけしか口にしない。吸血鬼が寿命以外で死することもない。太陽や心臓を破られることで塵に返るものの、数十年の後、再び蘇る。が、塵と化す時の苦痛は想像以上のものである。それゆえ、塵に返した人間を恨み、凶行に及ぶ吸血鬼はあとを絶たない。
 そう言った偽りの事実に語られていない事実が混ざり合い、虚構(きょこう)の吸血鬼像が作られている。私も、近隣の村町の人間の目には恐るべき魔物として映し出されているのだろう。
 自己紹介が遅れたが、私はレイ・ウドゥベ。山の中腹にひっそりと建つウドゥベ城の主。齢幾千を重ねる吸血鬼だ。

 ニンニク臭い部屋を脱し、私は広い居間のソファーに腰を掛けていた。片づけをしたいのは山々なのだが、現在は真っ昼間。窓を開けて換気などしようものならば、日の光に当てられて塵に返ってしまう。全く、とんでもないお土産を残してくれたものだ。
 ニンニクを持ち込んだ彼――アレクことアレクサンドレは山の麓(ふもと)の村に住む人間の少年だ。記憶に確かなら、二十歳よりも少し若いくらいのはずだ。
 村の人間は私を恐れて城に来たりはしない。かなり昔に成長期を終えた私は血を欲していないため、城から一歩も出ない生活を送っている。たまに血が欲しくなっても年に一度、村の人間が羊の子を生贄(いけにえ)に捧げてくるので、それで十分なのである。
 それなのにだ。数年前のことだ。城にやってきたアレクは問答無用で私を灰に返そうとしたのだ。
 私は困惑した。人間たちと諍(いさか)いを起こすつもりはなかったし、羊の生贄だって彼らが勝手にやっていることなので恨まれる筋合いはない。身の程知らずの彼を殺すことは容易い事だったが、先にも言ったように私は人間とは諍(いさか)いを起こしたくなかった。
 アレクは私の話に聞く耳を持たず、一方的に仕掛けては来たが、私の害になることはなかった。人間の子供ごときに塵(ちり)に返されるほど吸血鬼は軟弱ではないのだ。しかも、アレクが行う退治方法は全てがとんちんかんで、私に傷をつけることさえ出来ない。よって、私はアレクの行うことを無視することにしたのだ。
 相手にしなければ、いずれ飽きるだろう。だが、私の見込みは甘かったらしい。最初の訪問から早数年。今も尚、月に二回ほど城にやってきては、何らかの行動を起こしていく。なぜ、アレクがそこまで私を退治することに拘(こだわ)るのか。私にはさっぱり分からなかった。

   ◆◆◆◆◆

「アレク!」
 扉をあけて中に入った途端に怒鳴り声が頭を叩く。恐る恐る顔上げれば、仁王立ちで立つ中年の男。
「……叔父さん」
「今までどこに行ってた。今日は家の手伝いをしろと言っておいただろう」
「ごめんなさい。……ちょっと山の方へ」
 アレクは声を小さくして口(くち)籠(ごも)る。吸血鬼が苦手だというニンニクが集まったので今日こそはと意気込んで出かけたせいで、言われた事をすっかり忘れていた。
「山に? まさかと思うが、あの城に行ってないだろうな」
「…………」
 問われてアレクは黙り込んだ。城に行ったどころか、中に入ってニンニクをぶちまけてきたとは、さすがに言えなかった。
 山の中腹に古びた城がある。そこには吸血鬼が住んでいて、年に一度羊を捧げることになっている。そのおかげか、吸血鬼は城から出ることはない。それでも、村の人間は吸血鬼を恐れ、山の奥には足を踏み入れない。下手に刺激し、怒らせるようなことにでもなったら一大事だから。もっとも、その怒らせるようなことをやっている自覚はアレクにはある。
「いいか、アレク。あの城には近付くな。吸血鬼を怒らせるようなことになれば、お前だけでなく村の皆が危ない事になるんだ」
「分かっている。でも……」
 壁に取り付けられた燭台に照らされ浮かび上がる姿。闇に溶け込む黒いマント。猛禽類を思わせる鋭い眼差し。吸血鬼――レイ・ウドゥベ。なんとしてでも滅ぼさなければならない存在。
 不意に肩に掛かる重み。叔父はアレクの肩を掴み、真剣な眼差しを向ける。
「妹(マリー)のことは残念に思うが。吸血鬼と関わるのは駄目だ」
 アレクは唇を噛み、俯いた。

 アレクは重い足取りで自室へと戻った。部屋の本棚には吸血鬼に関する本。窓にはニンニクが吊るされ、机の上には木の枝で作った十字架が飾られている。アレクは薄い毛布が敷かれたベッドに腰を降ろす。
 吸血鬼にニンニクは効果がないようだ。これまでにも十字架やら鏡やら、吸血鬼が苦手とされるあらゆるものを試してみたが、不快そうな表情を浮かべるだけで、堪(こた)えた様子はない。
「お日様の下に連れ出すのは無理だし、心臓に杭(くい)なんて打てるわけはないし」
 体力的なことは吸血鬼のほうが上だ。ならば、頭を使うしかない。アレクは虚空を睨む。なにか良い方法がないのか。吸血鬼を塵に返す簡単な方法は。
 アレクはどんな手を使ってでも吸血鬼を塵に返さなければならなかった。全ては妹――マリーのために。

   ◆◆◆◆◆

 最初に感じたのは、冷たさ。それから息苦しさ。無意識のうちに手を胸の前へと動かすが、腕が重い。否、動きが鈍いのだと覚醒しかけの頭で思う。じわり、とした痛みが全身を駆けた。もがく様に腕を張り、私は上半身を起こした。
 急に肺に空気が巡り、咳き込む。目を開ければ髪を濡らす雫が上から下へと落下するのが見える。何度か、瞬きを繰り返し、それから、注意深く周りを見渡す。燭台の炎が揺らめく影を作り出している。寝ていた棺桶の中は、水で満たされていた。どうりで息苦しいわけだ。
 着ているものも水浸しで、むき出しになっている腕の色が僅かではあるが、変わっている。私はゆっくりと棺桶の中から這(は)い出し、びしょ濡れのマントの裾を引き上げると手で絞った。ニンニクの次は水。
「……水か、なかなか考えたものだ」
 腕を擦りながら呟く。流水は吸血鬼の身を脅かすものである。長く流水にさらされれば、塵にならないという保障はない。もっとも、溜めた水が流れを持つのは入れられた一時だけで、そんなに打撃を受けるものではないが。
「それにしても」
 私は注意深く室内を見渡す。私を水浸しにした本人の姿が見えない。私が起きたので逃げ出した――と言うのは過去の事例から言ってありえないだろう。
 そのときだ、開きっぱなしの扉からアレクが中に入って来た。手には大きな桶(おけ)を抱えている。なるほど、こうやって水を運んできたのか。
 アレクは扉の内側に入って来たところで、私が起きていることに気付いたらしい。桶を抱え込んだ状態で動きを止める。私は服の裾を絞りながら、笑顔で出迎えてやった。
「わざわざ、ここまで桶で水を運んできたようだが、無駄になってしまったようだな」
 一番近い井戸は城の裏手にある。そこから棺桶いっぱいの水を運ぶのは重労働だ。一体、何往復したのだろうか。アレクは平然としている私を唖然と見つめていたが、不意に拳を震わして、
「水が弱点だって本に書いてあったのに――。吸血鬼の馬鹿野郎!」
「なっ……」
 アレクの行動は私の予期せぬものだった。叫ぶと同時に、桶の中身を私に向けて降りかけた。そして、そのまま廊下へと走り去る。
 避けることができず、私は勢いと重力によって一時(いっとき)だけ流水となった水を頭から被る羽目となった。
 ――激痛が全身に走った。私は膝を床につき、身を縮める。少しでも早く、水の動きがとまるように。短く呼吸を繰り返す。
 激しい痛みが去った後には、じわじわと鈍痛が身体の表面を侵食していく。流水と化した水は私の皮膚の表面を流れ、火傷のように肌を赤く腫(は)れさせた。もっとも、それも一瞬。瞬く間に痛みが引き、皮膚は元通りになる。私は立ち上がった。
 たとえ、傷が癒(い)えようとも味わった痛みに代わりはない。私は重く湿った前髪を掻き分け、口元を吊り上げる。
「お仕置きが必要だな」
 凶暴な牙が口の端から漏れる気がした。私は霧となって姿を消した。

「くそぉ。頑張って運んだのに……」
 長い廊下を抜け、階段を駆け下りながらアレクはぼやく。棺桶に水を満たすため、この長い道のりを何往復した事か。両手を見てみれば皮は剥(む)け、血が滲み出している。痛い思いをしたというのに全く報われていない。
 蝋燭の炎に照らされているだけの階段は先が見えず、まるで奈落まで続いているかのようだった。最初の頃――数年前は、この階段の上り下りさえ恐ろしく感じていたが、今ではすっかり慣れてしまっている。暗い闇の中に何かが潜んでいる気がするけれど、実際にいるのは棺桶の中に眠りこけている吸血鬼一匹だけだ。
 強い風が吹いた。反射的に風からアレクは顔を腕で庇うが、城内で風が吹くなんてありえない。そう思って腕を外したのと風が止んだのはほぼ同時だった。
「あっ」
 短く声をあげ、アレクは無意識のうちに後退する。黒いマントがたなびく。そこに姿を現したのは吸血鬼――レイであった。

   ◆◆◆◆◆

「悪戯(いたずら)が少々し過ぎる。アレクサンドレ」
 私は彼を見下ろしながら、アレクの行く手に立ちふさがった。私が寝室として利用している棺桶が置いてある部屋は、城の最上に位置する。そのため、階下に降りるには螺旋階段を使うしかない。私はその途中でアレクに追いついたのだ。
 アレクは驚愕に目を見張りながら、何度も瞬きを繰り返す。それはそうだろう。何せ私の足は地に着いていないのだから。宙に浮いたまま、私は目の前の愚かな人の子を見下す。
 人間のすることに一々、腹を立てるほど狭量ではないが、一度痛い目に合わせたほうが懲りるというものだろう。
 キィー、キィー、と甲高い呻きが石造りの階段に反響する。アレクの顔色が青ざめるのが分かった。天井には無数の蝙蝠(こうもり)が張り付き、私たちを見つめている。
「やれ」
 ただ一言。その瞬間、無数に蠢く蝙蝠たちが一斉にアレクに突進して行った。悲鳴を上げる間も無く、黒い蝙蝠に覆われるアレク。私はそれを眺める。蝙蝠にさえ、勝てない人間が私を倒そうなど千五百二十四年と三ヶ月と十五日早い。
 蝙蝠漬けにされれば、いい加減懲りるだろう。それで城に来なくなれば私の安眠も保障されるわけだ。
 そんなことをつらつらと考えながら、蠢く黒い塊を見ていたが、死なれたら後始末が面倒だ。私は蝙蝠に下がらせようとしたが。
「……っ!」
 黒い塊が大きく揺れ動く。それは巨大な玉のように私に向かって転がって――飛び上がってきたのだ。胴体に打撃を受けた私は、そのまま蝙蝠の群れと共に重力に従って落下する。勢いを殺せず、階段を転がる。その際したたか、頭を打ち付けた。そこで、いったん私の記憶は途絶えた。

 情けないことに私は少しの間、気を失っていたようだった。少し身体を動かすと、全身に鈍い痛みが走った。蝙蝠がクッション代わりになってくれたのだろう。それほど大きな怪我はしていない。蝙蝠たちが音も立てず飛び交う。
 起き上がろうとした私は、何かが私の上に乗っていることに気がついた。本能的に払いのけようとしたが、私の首筋に硬くひんやりとしたものが触れる。動きを止めて私は睨むように目を細めた。
 アレクが私の上に跨(またが)っていた。私の首に銀色に煌(きらめ)くナイフを突きつけて。私の鋭い嗅覚が血の匂いを嗅ぎ取る。アレクの顔には無数の小さな傷が刻まれていた。それ以外に大きな傷は見当たらないから、私と同じく蝙蝠がクッションになったのだろう。
 それにしても、この状況はいかなるものか。私は現状を観察する。
 アレクの顔色はあまり良いとは言えない。突然、蝙蝠に襲われて半(なか)ばパニックとなっているのだろう。ナイフを持つ手は震えているし、瞬きを忘れたようにじっと私の顔を見つめている。
 まだ幼さが残る顔つき。考えてみれば、こうして正面からアレクを見るのは初めてのことだ。私にとって人間は人間でしかない。個々の識別はそれほど必要がないからだ。
 強張った頬を伝っていく一筋の線。それが血液であることを嗅覚が知らしめる。私は身動きせずにアレクの動向を窺う。アレクの手の中のナイフ。首を切断することは出来ないが、頚動脈を切ることぐらいは出来るだろう。頚動脈を切られたらどうなるのか。普通ならば死ぬところだが、吸血鬼である我が身はそれほどやわいものではない。出血多量となれば、灰に戻るかもしれないが、中途半端に切られれば痛みだけが残る。正直、痛いのは勘弁願いたい。
 さて、どうするか。下手に動けばナイフが喉に刺さるかもしれない。かと言ってこのままこうしていても埒(らち)が明かない。
「アレク、その物騒なものを引いてくれないか?」
「断る!」
 即答だ。指先を震わして、微かに滲んだ眼差しを揺らして、私の首にナイフを突きつける。結局、この人間はどうしたいのだろうか。私を塵に返したいのならば、さっさと突き刺せばいいのに。
 そもそも、この状況は吸血鬼としてあるまじきことではないか。下等な人間に組み伏せられて手出しが出来ないとは――否、出来ないわけではないが痛い目を見る可能性があるため動きたくない、と言ったほうが正しいのか。痛いのは嫌いだ。それは本能に刷り込まれていることで、痛みに対してはどんな生き物も敏感なものだ。
 私はそっと辺りを窺う。どうやら階段の下まで転がってしまったらしい。身体の下には埃臭い絨毯(じゅうたん)が敷かれている。
「それで……」
 私は言う。
「どうするつもりなのだ?」
 このまま、こうしているわけにも行くまい。アレクは言葉を返す代わりに行動で示した。
 す、とナイフの切っ先が引く。と思った次の瞬間、大きく振り上げられたアレクの腕。その先に握られたナイフが私の喉(のど)を目指して降りてきた。私は足を蹴り上げる。アレクの身体が浮く。私はアレクの身体を再度蹴り、素早くその下から抜け出す。
 危ないところだった。さすがの私も首にナイフを突きつけられた状態で反撃をしようなどとは思わないが。勢いをつけるためとは言え、首筋からナイフを外すとは吸血鬼を相手にしている自覚が足りないとしか言いようがないだろう。
 腹を蹴られて蹲(うずくま)り、激しく咳き込むアレク。私はそんなアレクを見下ろした。アレクは涙が滲んだ目で私を睨みつける。
「全く、ほとほと呆れた人間だな」
「……うるさい!」
 アレクはふらふらと立ち上がり、ナイフを構える。私は大袈裟に頭を振って見せた。
「そんなもので、私を灰に返すことなどできやしない」
「黙れ、吸血鬼!」
「……前から思っているのだが」
 私は首を傾げた。
「なぜ、そこまで私を灰に返すことに拘(こだわ)る」
 人間たちは私のことを恐れてはいるようだが、わざわざ滅ぼそうなどとは考えていない。私も人間にはそれほど興味はないし、用がなければ城から出ることも稀(まれ)だ。私と周辺の人間たちは問題なく共存している。アレクの行動はそれに波を立てることでしかない。可能性としては、私がアレクに恨まれるようなことをしたかだが、記憶にある限りそのようなことはないはずだ。ならば、なぜ――。
「…………」
 アレクは無言だ。なにかを思案するように唇を噛み締め、ナイフを強く握る。私は辛抱強く待った。
「……リーを」
 俯いた口から、小さな呟きが漏れた。
「マリーを助けるんだ」
「マリー?」
 とは誰のことだ。助けるとは、何からだ。私は眉を顰めた。
 マリーと私を灰に返すことがどう関連しているのか。私を灰に返すことでマリーが救われるとでも言うのか。私は首を傾げるが、不意に気がついた。マリー――なるほど、そうか。私は手を打った。
「マリエッタ……妹のことか?」
 私は城から出ないが、蝙蝠たちが様々な情報を伝えてきてくれる。アレクには歳の離れた妹がいたはずだ。その妹はマリエッタと言ったはずだ。確か、そのマリエッタは――。
 私はようやく全ての答えを得た。なぜ、アレクが私を灰に返そうとするのか。今までのアレクの言動から総合してみれば分かりやすいほどに分かることだった。
「一つ言っておくが……」
 アレクは顔を上げる。私は慎重に口を開いた。
「吸血鬼の灰を口にしたところで病など治らんぞ」
「えっ!?」
 アレクの目が驚愕に見張られた。アレクのその反応が私の確信を確実なものへと変える。私は呆れて物が言えなかった。
 要はそう言うことだ。アレクの妹マリエッタことマリーは随分前から病に侵され、ここから少し離れた町の病院にずっと入院している。どんな病気なのかは知らないが、おそらくは治る見込みが低いのだろう。
 そして、アレクのとんちんかんな吸血鬼退治法から分かるとおり、アレクが持っている吸血鬼に関する文献は間違いだらけだ。
 マリーの病気と、私を灰にすること、アレクの「助ける」という言葉を総合すれば、つまりは吸血鬼の灰を用(もち)いれば、どんな病気でもたちどころに治るとでも書いてあったに違いない。
「……そんな、馬鹿な。だって本には」
「いい加減、その本が間違いであることぐらい気付くべきでは? 今まで試したことは全て意味をなさなかっただろう?」
 アレクはガックリと膝をついた。呆然とした表情で虚空を見つめる。
 この数年、アレクは私を灰にするために――マリーの病気を治すために奮闘してきたわけだが、それが全て無駄だと分かったのだ。ショックを受けるなという方が無理だろう。

 さて、私といえば、ナイフを突きつけられた報復でもしてやろうかと思ったが、さすがにそれは大人気ないと思い直す。アレクの行動は傍迷惑この上なかったが、そのおかげでここ数年、退屈だけはしなかったのだ。長い命を持つ吸血鬼にとっての病は退屈だ。退屈が私たちの心を歪ませる。私も長い間、城に閉じこもっていてそれなりの退屈を感じていた。迷惑ではあったが、アレクのおかげでここ数年、退屈は感じていなかった。
 吸血鬼は人間が思うほど野蛮な生き物ではない。紳士的で友好的な高等な存在なのだ。紳士として目の前の絶望に暮れる人間に対してどう扱うべきか。私は天井に引っ付いている蝙蝠に素早く指示を出す。
 それから暫く、アレクの様子を窺っていたが、埒が明かないと歩み寄る。
 アレクは床を見つめたまま微動だにしない。ここまで大人しいと不気味だ。アレクが大騒ぎをして、私が面食らう。それが当たり前となっていたから。
「アレク……」
 私の呼びかけにもアレクは反応を返さない。まるで壊れた人形だ。どうしたものかと思っていると早くも目当てのものを蝙蝠が運んできた。無数に群れる蝙蝠の中に手を差し入れ、それを受け取る。私は無言でそれをアレクの視線の中に放り出した。
 床に落ちるその音に、アレクの肩がびくり、と揺れた。上げられた顔が私を見、そして目の前のそれ――一冊の古びた本に注がれる。
「昔、西の方で手に入れたものだが、私には必要のないものだ」
「……これは」
「これ以上、私の安眠を妨害されては困るからな」
 アレクは本を視界に入れたまま、夢でも見ているかのように呆けている。私は苦笑した。
「持って行くがいい」

   ◆◆◆◆◆

 あれから暫く経ったが、城内は平和そのものだった。誰も私の安眠を妨害するものはいない。
 私がアレクに渡したのは、西の国のほうで発行された医学書だ。昔、山越えをしていた商隊を襲ったときに手に入れたもので、固さと厚さが丁度良かったので長らく枕代わりにしていた。枕を失ったのは残念だが、本来の役目に使われることとなって本も喜んでいるだろう。
 私はお気に入りの棺桶の中で眠りを貪る。静かな眠り。邪魔は入らない。
 と、そのときだ。ガチャン、と言う甲高い音が響き渡った。私は思わず、飛び起きる。何事かと周囲を見渡し、私は棺桶から起き上がると廊下へと出る。
「……アレク。何をしているのだ?」
 燭台の灯火の中、そこにいたのはアレクだった。廊下の隅に飾ってあったはずの花瓶が無残にも砕け散っている。さっきの音はこれが割れた音だったのだろう。
「悪い。ぶつかった」
 アレクは短く謝罪の言葉を(あのアレクがだ)告げ、割れた花瓶を片付けて始めた。傍らには箒(ほうき)と雑巾が置かれている。何をしようとしていたかは一目瞭然だが、その意図が分からない。
 私はアレクの様子を黙って窺っていた。
 割れた花瓶を一箇所にまとめ、満足そうに頷いたアレクはおもむろに立ち上がった。そして、急に真面目な表情になると、私に向かって深々と頭を下げた。
「今までのこと、お詫び申し上げます」
 突然の謝罪と敬語に、私は何事かと目を瞬く。
「マリーの病気が治るかもしれないって。あの本に書いてあった治療法で治るかもしれないって。俺、たくさん酷い事をしたし、酷い事も言った。謝って許されることじゃないけど、でも――。……血が欲しいっていうなら好きなだけ吸っていいから」
 真摯な目でアレクは言う。掃除をしていたのもその礼のつもりか。
 私は絶句した。一瞬、幻でも見ているのではないかと疑った。いや、なんていうか、悪態ばかりついているアレクしか知らないわけだから、物凄く不気味に感じるのだ。アレクの口からこんな言葉が飛び出すとは想像もしてなかった。
 冗談や酔狂で言っているわけではないのは分かる。アレクは真剣だ。私が望めば、今までの侘(わ)びとお礼を兼ねて血を捧げるつもりなのだろう。
「……感謝なら妹(マリー)の主治医にすると良い。私は何もしていないし、それと生憎だが血は間に合っている」
「でも、あの本がなければ……あの本のおかげでマリーは」
 私に迫り寄り、全身で感謝を示すアレク。私は冷や汗を流しながら思わず逃げ出したい衝動に駆られていた。これだったら、いつもの傍迷惑のほうが精神的に良い。そんなことまで考えた。
「ウドゥベ卿、俺は貴方に礼をしたいんだ」
 アレクは私が何か言い出すのを待つように口をつぐんだ。私はほとほと困り果てながら頬を掻く。何か言わない限り、アレクはここから動かないだろう。
「えっとだな。……礼をしたいと言うならば、私の安眠を妨害しない程度でよろしく頼む」
 アレクの持つ箒を指し示し言う。掃除をしてくれるというならば拒む必要もあるまい。それでアレクが納得するならば。アレクは笑顔を浮かべた。
「任せろ!」
 なんだか、変なことになってしまったが。私は小さく息をつく。人間に感謝される吸血鬼などそうそういないだろう。
 私は溜息と共に、安眠が妨害されない事を祈りながら棺桶に戻った。

 その数分後、城中に連続で響き渡った花瓶を割る破壊音に、否応がなしに棺桶から飛び出す羽目となったのだが。掃除の許可を出したことを私は心の底から後悔する事となる。
 安眠は夢のまた夢。





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