Missing Drop Rain

[ 消失して落ちる雨 ]






 うねる風。
 ゴォ、と音を立てながら木を揺さぶり、枝同士を激しくぶつけ合わさせる。
 滝のごとく降り注ぐ雨は、バタバタと窓を打ちつけては流れていく。
 空は暗雲が立ち込め、吹く風は縦横無尽に暴れ、降り注ぐ雨はそれに乗って勢いを増し、地面に次々と大きな水溜りを描いていく。
 季節風が呼ぶ嵐は、長く留まることがない代わりに、激しい豪雨をもたらす。
 毎年の事とは言え、家から一歩も出ることが出来ない状況は、住人の不安を掻きたてるのに十分なものだ。
 その老婦人もまた、先ほどから落ち着きなく部屋の中を歩き回って窓の外を見やっては、不意に思い出したかのように暖炉の前の椅子に腰を掛ける。その動作を朝から幾度となく繰り返していた。
 ガタガタ、と小屋を揺する強風。窓ガラスが音を立てて震える。
 小高い丘の上にある小屋。老婦人が住むその小屋は、嵐にも諸共せず、そこに建っていた。
 暖炉では薪が燃えて、小屋の中は暖かい。時折、パチリと音を立てて火花が舞う。
 その音に、またもや椅子から腰を上げた老婦人は、薄く曇った窓ガラスを指先で拭って、外の様子を窺う。
 不安から外が気になっている――わけではない。老婦人が気にしているのは、この小屋にやってくる予定になっている人物の安否だった。
 老婦人の連れ合いは数年前に病で亡くなった。連れ合いとの間には息子が一人いて、その息子は少し離れた町に出稼ぎに行っている。本来ならば、老婦人も町で共に住めば良かったのだが、連れ合いと過ごした小屋を離れることを惜しみ、一人ここに残る決心をしたのだ。
 その息子が、嵐が来る数日前に手紙を寄越し、今日の日暮れまでに小屋に戻ってくると伝えてきた。
 外は暗闇に包まれている。暗雲が空を占めている上に、日は数時間前に沈んだ。日暮れは過ぎ、おそらくは今日、帰ってくるのは断念したのだろう。
 そうは思っても外が気になって仕方がない。
 落ち着きなく、小屋の中を歩き回る。

 ボーン ボーン

 時を知らせる時計の鐘が鳴る。低く響く鐘の音は、小屋の中に静かに響き渡る。それは、外の雨音さえも掻き消して。

 ボーン、トントン、ボーン、トントン、ボーン、トントン。

 鐘の音に、雑音が混じる。音の間に、一定のリズムで奏でられる小気味いい音。
 老婦人は最初、それは風が立てる音だと信じて疑っていなかった。

 トントン、トントン、トントン。

 それが、扉を叩く音だと思い当たったのは、鐘が鳴り終わってからだった。
 まさか、と思った。この嵐の中、息子が戻ってきたのかと。
 老婦人は慌てて、扉を閉ざしていた錠を外した。
 外開きの扉が開かれる。
 吹き込んだ風が、冷たい雫を連れて小屋の中に入り込む。
 老婦人の服を巻き上げる冷たい風。老婦人は咄嗟に、目を細めた。
「……夜分遅くにすいませんが」
 滴り落ちた雫が床を汚した。
 老婦人は呆気に取られて言葉を失った。
 扉の前に立っていたのは、待ちに待った息子ではなかった。
 漆黒の闇を背景に立ち尽くしていたのは若い女。雨に打たれ全身を重く濡らしている。
 長らく、荒れ狂う嵐の中にいたのだろうか。濡羽色のセミロングの髪の先から、ポタポタ、と雫が舞う。頬は白く、唇は青白い。雨に打たれてすっかり冷え切ってしまっているらしく、微かに身体を震わせていた。身に着けている白い服――白衣は水分を含んで心なしか重たげだ。
 濡れて額に張りついた前髪の間から、鳶色の瞳が垣間見えた。
「嵐のせいで車が立ち往生したので。よろしければ、嵐が過ぎるまで避難させていただきたいのだが」
 鈴の音に似た声音が響く。
 だが、老婦人は答えることなく、女に視線を注ぎ続けている。
 見知らぬ女に警戒しているわけではない。女の容貌に驚いて声が出なかったのだ。
 一言で言い表すならば、「美しい」の一言に尽きる。水を吸って色を増した、艶やかな黒髪。鼻筋の通った顔立ちに、服越しでも分かる豊かな胸とそれに続く曲線美。
 そして何より、身に纏う気配が女から視線を逸らすのを拒ませていた。
「……ご婦人(レディ)?」
 不思議そうに女は首を傾げた。途端に、振れ落ちた雫が散る。
「あっ、大変でしたね。暖炉の傍へどうぞ」
 我に返った老婦人は、女を小屋の中に招き入れた。
 老婦人はすぐにタオルを幾つか持ってきて女に手渡した。女は短く礼を言い、受け取る。
「それにしても、どうしてこんな日に外に?」
「大事な用があって」
「お一人で?」
「連れがいたんだが、待ち合わせの時間に来なかったのでな。私だけで用を済ませてしまおうと思ったら、嵐に出くわして」
 頭からタオルを被り、雫を拭う。
 そうした何気ない仕草さえ、目を惹くような艶やかさが見て取れた。
「お医者様(ドクター)ですか?」
「いや、博士(ドクター)だ」
 濡れて重くなった白衣が裾を揺らめかす。
「博士……。もしや、学院(アカデミー)の方で?」
 博士と名乗った女は軽く目を見張り、驚いたような表情を浮かべた。老婦人の口から「アカデミー」という言葉が出たのが意外だったらしい。
「博士からアカデミーを連想できるとは……ご婦人は帝都(セントラル)に縁がおありなのかな」
「主人が、帝都の出身だったので。一時、帝都に住んでいたことが」
「帝都を出て、この地に? ……それは、思い切ったことを」
 偽りのない賞賛が混じった言葉。
 文明の、権力の中心といわれる帝都。そこから別の地に移り住もうと考える者はほとんどいない。余程の決断力がなければ、できないことだ。
「帝都は良いところですけど、まるで閉じ込められているみたいで。息子には広々としたところで育って欲しくって、ここに移ったんですよ」
「息子さん?」
「はい、西のガーラブルクに出稼ぎに行っているんです。本当は今日、帰って来る予定だったんですけど」
 老婦人は雨に視界を遮られている窓に目を向けた。
「嵐になってしまったので」
 博士も窓の外に視線を投げかける。
 暫くの間、無言で窓のほうを見つめていたが、老婦人は博士が濡れたままであることを思い出した。
「ごめんなさい。話をしている場合ではなかったわ。暖炉の傍に……それと、何か着替えを――」
「お構いなく。雨を凌がせていただくだけで十分です」
「そうはいかないわ」
 老婦人は、博士の身体を覆うようにタオルを掛けた。
「風邪でも引いたら大変。困った時はお互い様でしょう」
 老婦人は皺だらけの手で、そっと博士の白い手を握った。ひんやりと冷たい指先にぬくもりが移っていく。
 博士は鳶色の瞳を老婦人に注ぐ。その目は一見、どこまでも澄んでいて穏やかだ。
「ちょっと、待ってて」
 手が離れ、老婦人は部屋の奥へと向かう。博士はその後ろ姿を見送る。僅かながら、その美しい横顔が曇って見えるのは気のせいだったのだろうか。



「こんなので、すまないけど」
「いえ、十分です」
 老婦人が差し出したのは、男物の服。息子が置いていったものだ。
 脱いだ服は暖炉の傍に掛ける。明日には乾くだろうと、老婦人は言った。
 博士は暖炉の前の椅子に座らされる。老婦人は台所から温かいスープの入った器を持ってくると博士に手渡した。
 博士は礼を言い、それに口をつける。温かいスープ冷え切った身体に染み渡っていく。
「……美味い」
 博士の顔がほころぶ。美味しいと言われて不快に思うものなどいない。老婦人も嬉しそうに微笑んだ。
 暖炉の火が爆ぜる。風が時折、強く小屋を揺さぶるが、中は暖かな空気が満ち、静かな時間が流れている。
 老婦人は思いがけない客人の世話を喜んでかってでた。
 博士は老婦人の好意に素直に甘えることにしたようだった。
 普段、老婦人はこの小屋で、一人で過ごしている。全く予定にもなかった珍客は、老婦人にとって嵐の夜の恰好の話し相手となった。
 博士は老婦人の話を黙って聞き、時折、相槌を打っては自分の意見を述べる。
「息子もそろそろ、嫁を貰っても良い歳なんだけど」
 老婦人は溜息を一つ漏らしながら呟いた。
「私も、そんなに長くはないだろうし。出来れば、孫の顔を見てから死にたいところなのに」
 それなのに、息子ときたら全くそんな気配がなくって。
 老婦人は重苦しく頭を振る。このままでは、孫の顔も見られないうちに天に召されてしまうと嘆く。
「貴女は、誰か良い人は?」
 これだけの美人なら、さぞ周りの男が放って置かないだろう。
 だが、話を振られた博士はやんわりと微笑んで、
「生憎、私は振られてばかりでね。必死で追いかけているんだが、なかなか捕まらない」
「貴女ほどの美人を振るような男がいるの? とんだ甲斐性なしね」
 博士は視線を燃え盛る暖炉に向けた。その瞳に濃い影が宿るのを老婦人に見て取る事ができたのかどうか。
「いつかは手に入れようと思っているが。暫くは鬼ごっこを楽しむのも悪くはない」
「あまり時間を掛けると婚期を逃がしかねないわよ」
 冗談めいていう老婦人に、博士は笑むだけで答えた。




 季節の変わり目を告げる嵐。
 それはたった一日、閉ざされた空間を作り出す。
 日が昇れば、それは一夜の夢のように。




「世話になった」
 博士は短く礼の言葉を告げる。
 昨日の嵐が嘘のように雲ひとつなく、晴れ渡った空。
 その空を背に、すっかり乾いた白衣を身につけた博士が軽く頭を下ろす。
「僅かですが」
 そう言って差し出したのは、金貨だ。
 老婦人は慌てて首を振り、
「受け取れません」
「ほんの気持ちですから」
 艶やかに微笑みながら、博士はそれを老婦人の手に握らせる。
 老婦人は戸惑いながらも、博士が再度、強く握らせたため、黙って受け取った。
「それでは、ごきげんよう」
「お気をつけて下さいね」
 水溜りが滲む道を白衣の背が去って行った。





 博士は森の中を進む。
 風の影響で、落ちた枝がちらほら視界の隅に入る。散った葉を固いブーツの底で踏みしめて博士は迷いなく進む。
 やがて、行く先の道の真ん中に自動車が二台、止まっているが見えた。
 一台は黒塗りの、高級車の部類に入るもので、もう一台は、所々塗装がはげた、古びた車。ハンドル操作をしくじったのか、道の傍らの木にぶつかり、傾きかけている。へこんだフロント部に木の幹がのめり込んでいるが見て取れた。
 博士はほんの少し歩調を緩めて、それに近付いていく。
 すると、道の真ん中に止まっていた黒塗りの自動車のドアが開いた。
 ぬっ、と中から姿を現したのは長身の男。銀髪混じりの灰色の髪に黒い外套。胸元には銀のロザリオが下げられている。
 夜ならばその姿は闇に溶け込み、探すのは困難だろう。
 男は眼窩の辺り、顔の半分を包帯で幾十にも覆い、一切の視界を封じていた。表情の見て取れないその姿は精巧な人形にも思えなくはないが。
 男は数歩、博士に歩み寄り、深々と頭を下げた。
「博士。ご無事で」
「誰にものを言っている」
 博士は鼻先で笑うが、言葉に反してどこか楽しげだ。
 そのまま、男が出てきた車に乗り込むのかと思いきや、博士は木にぶつかり傾きかけている車へと近付いていく。
 その背後に寄り添うように男がつく。
「後始末しますか?」
「……いや、その必要はなさそうだ」
 中を覗きこむ博士に、抑揚のない声音で男が問えば、鳶色の目が振り返る。
 割れて粉々となったフロントガラスが太陽の光を浴びて、キラキラと輝く。
 その内側、運転席に横たわる人影。作業着を身に纏った三十前後の男。
 灰色のその作業服には大量の赤黒い染みがこびりついていた。
 そして、男の眼窩、本来、眼球があるところには太い木の枝が突き刺さっていた。どろり、とした赤い流れが涙のように頬に軌跡を残している。
 男が事切れているのは確実だった。風に流されたのか、舞い散った枯れ葉と雨の名残が車内に残されている。
「事故死として処理されるだろう」
 紅を引いたわけでもないのに、紅く熟れた唇が弧を描く。
「それにしても、嵐にさえ出くわさなければ、もう少し味わって食べることができたというのに」
 肩を落として嘆く。
 博士が、この男の眼球を喰らったのは昨夜のことだった。男は出稼ぎ労働者で、昨日、数ヶ月ぶりに母親の待つ家に戻るところだった。
 当初、男が街を出る前に眼球を頂く予定だったのだが、ちょっとした問題が発生し、博士が街に着く頃には男はすでに去ったあとだった。
 仕方なく、街で合流するはずだった、顔に包帯を巻いた盲目の男――博士の助手のジェイソン――を待たずに博士は後を追った。そして――。
 風に煽られたのか運悪く、車が木にぶつかって身動きが出来なくなっていた男に追いついたのだ。
 後は手際よく事を済ませ、死体を片付けるだけ。だが、吹き荒れる季節の変わりを告げる嵐が、それを邪魔した。
 さすがに自然の猛威に逆らうことは出来ない。
 このまま、ここにいては危険だと判断した博士は、この道の先に男が帰ろうとした家があることを思い出して、嵐が過ぎるまで避難させてもらおうと考えたのだ。
 そう、あの優しい老婦人の小屋に――。
「まるで、滑稽だ。茶番にしてはそこそこ楽しめたが」
 博士は笑う。
 何も知らない老婦人は博士をもてなし、一晩限りの話し相手を歓迎した。それが息子を殺した人間だとも知らずに。
「行くぞ、ジェイソン。一日予定がずれたからな。急がなくては」
 ひらり、と身をひるがえす。
 やらなければ、ならないことはたくさんある。
 当然のように助手席に乗り込んだ博士に続いて、ジェイソンと呼ばれた男が運転席へと回る。
 博士は少し考える素振りをしたあと、運転席に座ったジェイソンに視線を投げかけた。
「くれぐれも安全運転で頼む。この間みたいに、崖を下る事になるのは遠慮願いたい」
「……御意」
 僅かながら間があったが、ジェイソンは答える。
 動き出す自動車。動き出す風景。
 嵐後の晴れ空の下、離れていく二台の車。
 残された方の哀れな男が発見されるのは、そう遠くはない。






相互祝いとして天宮慧様に贈ります。H20.4.23