Messenger Dread Residence

[ 死者が恐れる邸宅 ]






 細い月が、禍々しい赤を宿して嘲笑うかのように地上を見下ろしていた。
 吹きかう風は生温く。寝静まった町は静まり返り、生き物の気配から遠い。
 規則正しく並べられた石造りの建物の群れ。その間を通る整備された道。通りの脇には緑道が設けられ、広場には大きな噴水の姿も見える。
 日の下ならば白い石壁と深緑の緑が眩しいばかりの色彩を奏でるであろう。
 この町には、路上で生活するものたちの姿はない。狭い路地も、奥まで手入れされていて、不衛生さは感じられない。
 路上に生活するような堕落者は町に立ち入ることが出来ない。万が一にでも中に入り込めば、すぐさま警備兵が駆けつけて、町の外へと放り出す。
 裕福な、それなりに地位のある人間のみが暮らしている町。
 つねに、目を光らせている町の守り手が、不純物を排除する。そんな町。
 だが――今宵、不純物が一つ。闇に紛れて町に侵入した。
 石造りの固い屋根の上を駆け、塀を渡っては隣の屋根の上にあがる。音はない。駆ける足音は無音。滑らかで素早い動きはまるで猫のよう。軽々と屋根の間を渡り、大人の背を越える塀を飛び越える。
 月は細く、足元を照らす明かりはない。それでも躊躇うことなく、俊敏な動きで駆ける。
 やがて、町の中でも一際大きな屋敷へと辿り着いた。ひらり、と身を躍らせ塀の内側、敷地内へと入り込む。
 それから、建物の側の大きな木に足を駆けるとあっという間に木上へとあがった。木の枝を伝い建物に近付く。不安定な足場も物ともしない。
 ――が、そこで彼はぴたり、と動きを止めた。
 じっと窺うように周囲に気を配る。
 塀の向こう側で微かに聞こえる人の声。
 金持ちばかりが住む町だ。治安維持には相当の金と人手を割いている。どうやら、見回りの警備兵らしい。影は身動きせずに息を潜めて様子を窺う。
 塀から少し距離が離れているため、高い木の上からでも通りを見ることは叶わない。
 無論、向こうがこちらに気づいている事は万が一にもないだろうが。
 やがて、声は段々と遠のき、聞こえなくなった。
 小さく息を吐くと影は動きを再開する。枝を伝い、屋根の上にあがると窓枠に近付く。
「……帰りたいなぁ」
 思わず漏れた本心からの呟きは口内に消えた。
 侵入者――黒猫(キティ)と呼ばれる少年は屋根に手をつき、首を振った。
 纏う衣服は街の子供が着るような粗末なもの。背中には大きな黒い鞄を背負い、頭を覆うように黒い帽子を被っている。褐色の肌は月明かりの下では明らかにならず、闇夜に潜むのにもってこいだ。
 キィ、と軋む音がした。本来ならば眼球があるそこ、眼窩から黒い筒が生えていた。僅かに伸縮を繰り返してはあたりを窺う。
 正直、この遣いは気が進まなかった。出来るならば絶対に近付きたくない。寧ろ、今からでも遅くない。回れ右をして町を出ようか。
 目の前にある窓を前にしても、未だ決心が付かずにそんなことを考える。
 だけど、遣いを果たさずに戻ったりしたら、あの人はなんて言うだろうか。
 脳裏に浮かぶのは白衣を着て微笑む美しい人。
 博士。自他共にそう呼ばれる綺麗で優しい人。
 野垂れ死にかけていたこの身を救い、食べ物と衣服、そして役目を授けてくれた恩人にして絶対者。
 そう、絶対者だ。博士が手を差し伸べてくれなければ、自分は今頃、腐臭の満ちる狭く汚い路地裏で屍と成り果てていただろう。
 泥にまみれ、まともな食事も得られず、スリや盗みを働いてその日その日を生きるのに必死だった自分――罪に汚れたこの手を取り、温かい寝床と食事と衣服を与えてくれた世界で一番麗しい人。
 その博士から直々に頼まれた遣いだ。
 もし、ここで引き返したら、博士はなんて言うだろうか。
 少なくとも、路商の爺のように大声で怒鳴ったりはしないだろう。博士が怒鳴ったところなど、自分は目にしたことはない。
 あの、大して役に立っていると思えない助手の旦那が、どんなに遅刻してきても怒鳴ることはないのだから。きっと、役目を果たさずに戻ってきた自分を怒鳴りはしないだろう。
 博士は誰よりも優しい、天使みたいな人だから。
「帰ろうかなぁ」
 きっと笑顔で許してくれるだろう。慈愛に満ちた笑みを向けて。
 ――だけど、そうでなかったら。
 ひやりとしたものが背筋を走った。
 罰としてナイフで手足を刺されたり、耳をそがれたり、銃弾を打ち込まれたりするのは――良くないけど別に良い。痛みには慣れているから。
 だけど、もし、役立たずだと言われたら。
 遣いもまともに出来ない能無しと言われたら。
 お前なんかもういらないって言われたら。
「……やっぱり、帰っちゃ駄目だ」
 博士に捨てられたら生きてはいけない。博士に役立たずなんて思われたくない。
 窓枠に手をかける。
 与えられた仕事。博士は自分にこれを頼んだ。自分なら確かに遣いをやり遂げるだろうと言って。ならば、その期待に応えなければいけない。
 博士の役に立たなければならない。それがせめてもの恩返しだから。
 大きく息を吸い吐く。何度か深呼吸を繰り返した後、意をけして窓に手を掛けた。
 窓には鍵が掛かっていなかった。まるで、黒猫を招き入れるために開かれていたかのようで。
 音を立てぬように細心の注意を払って、僅かに開いた窓の内側へと身体を滑り込ませる。
 室内は星明りを遮断し、闇がうねっていた。常人ならばどこに何があるのかさえ、分かりかねないが、黒猫にとって闇は闇ではない。
 きゅるる、と小さな音が響いて眼窩の筒が回る。眼窩から生えたそれは、暗闇をも見通す目となる。暗闇だけではない。遠くまで見通すことも可能だ。
 博士が黒猫のために作ってくれた特別な目。目が見えないと不便だと我が儘を言った自分のために作ってくれた世界で一つだけのもの。
 その目が室内の様子を暴く。天井まで高く伸びた棚がいくつも並んでいる。隅まで清掃が行き届いているのか埃臭さは感じられない。
 黒猫は思わず、一歩後ろに下がった。本物の黒猫ならば毛を逆立てていたかもしれない。
 見えすぎる目と言うのはこう言う時に不幸だ。
 棚の中に所狭しと並べられた瓶。独特の刺激臭が鼻につく。その中に満たされているものがホルムアルデヒドであることは知っていた。
 博士もまた、コレクションの維持にその薬品を使っているからだ。
 だが、棚の中に並べられた瓶の中にあるのは、博士が好きな球体ではない。
 赤黒い管のような塊。淡いピンク色を宿すS字の肉片。半ば溶解しかけた橙色の――。
 人間の内臓が瓶の中で揺れ動いていた。黒猫は顔を青ざめさせた。どうやら、入り込む部屋を間違ったようだ。こんな気味の悪い部屋になど足を運ぶつもりはなかったのに。
 すぐさま、踵を返すように窓に手を掛けるが。
 カチャ、と音が響いた。
「こんな夜分にお客様かしら?」
 光が差し込み、穏やかな音色が棚の間を抜ける。
 黒猫はびくりと、肩を揺らした。
「おやおや、可愛らしい子猫ちゃんが紛れたものね」
 カラカラ、と何かが回る音。
 黒猫は身を硬くして、閉じた拳を震わせる。全身からドッと嫌な汗が沸き起こった。
 窓をぶち破って外に逃げたい衝動に駆られる。
 逃げることは容易い。なにせ、声の主は追ってはこられないのだから。
 だが――。
「こんばんは、淑女(マダム)。お加減はどうですか?」
 ギクシャクと、強張った身体を叱咤して振り返る。
「悪くはないわ」
 光を背にするのは、四十から五十くらいの女性だった。
 長く緩やかなウェーブを描くブロンドの髪。顔には薄らと化粧がされ、カーディガンを羽織っている。灰色の瞳は穏やかだ。
 そして、なにより目を引くのは、その身体を乗せている車椅子だ。下半身が不自由なのだろうか。
 足を隠すようにひざ掛けが掛けられている。女性は柔和な笑みで黒猫を見上げていた。
「えっと、オイラは博士の遣いで……」
「手紙の返信ね? わたくし的には、ジェイソンさんに来て欲しかったのだけど。あの子は彼をわたくしから遠ざけたいのね」
「…………」
 あの子とは博士のことだろう。
 黒猫は知らない。博士と淑女がどう言う繋がりなのかを。しかし、博士が助手をここにやりたがらない理由は察している。
 なぜならば――。
「全く、あの子はジェイソンさんの本当の価値を知らないわ。日に焼けたしなやかな肉体。それを覆う硬い肌。幾度も危機を乗り越えた肌は、時とともに傷を刻み、まるで刻印のよう。あの皮膚で鞄を作ったらさぞ美しく丈夫なものが出来るでしょうね」
 うっとりと夢見心地で淑女は呟いた。黒猫は無意識の内に半歩後退する。
 博士が助手をここにやりたがらない理由は、淑女の趣味によるものだ。
 淑女は若い男性の皮膚で鞄を作るのが大好きなのだ。ここに並んでいる内臓のホルマリン漬けも記念としてとってあるのは間違いない。
 黒猫は背中を震わせた。
 博士が天使なら、淑女は悪魔だと常々思う。
 人間の生肌を剥ぐなんて正気の沙汰ではない。博士は助手が淑女のターゲットになっているのを知っているから、まだ淑女の目に掛かる歳ではない自分を遣いにやるのだ。
 慈悲深く思慮に優れた博士とは、全く正反対。
 博士がなぜ、こんな気違いの淑女と付き合いをもっているのかはさっぱり分からないが、博士の考えが自分なんぞに理解できるとも思えない。
 もっとも博士のすることに間違いはないのだから、それについては理解する必要はない。
「これを、博士から」
 黒猫はポケットから四つ折りされた髪を淑女に差し出す。
 黒猫に任された遣いとはこれを淑女に手渡してくることだった。
 なるべく近付きたくはなかったが、近寄られるよりはましだと、黒猫は車いすの淑女に歩み寄る。
「あら、お手紙には便箋と封筒が常識だというのに」
 そう呟きながら、紙切れを淑女は受け取った。
 これで遣いは終了だ。ラボで博士が待っていてくれているに違いない。すぐに帰らなければ。
「子猫ちゃん、お待ちになって」
 踵を返そうとした足を止めたのは淑女の一言。
「なんでしょうか、淑女」
「読んで、お返事を書くわ。急ぐ用はないのでしょう?」
 穏やかな微笑み。
 たとえ、ここで用事があると言ったところで素直に返してくれないのは分かっている。下手に逆らえば、自分も棚に並んでいる内臓の持ち主と同じ運命を辿るだろう。
「こちらに」
 カラカラと音を立てて車いすが動き出す。黒猫は仕方なしにその後ろを追っていった。


 古めかしい家具で統一されたリビングには、一体どれほどの価値があるのか、いかにもな絵画や壷が並んでいる。
 車いすはリビングのソファの横で止まり、黒猫に座るように促した。
「今、お茶を用意させるわ」
 取り出した小さなベルを鳴らすと、ちりりん、と可愛らしい音が響く。
 すぐに年老いた老婆が姿を現した。
「子猫ちゃんに温かいミルクを」
「畏まりました」
 そのやり取りを耳にしながら、黒猫はソファに落ち着きなく腰を降ろした。
 正直、居心地の悪い空間としか言えないが。今すぐにでも逃げ出したい衝動が沸き起こるのを必死で押さえ込む。
 淑女は博士からの手紙にさっと目を通した。
「あら、また厄介なことになっているのね。あの人もしつこいから。一度くらい顔を見せにいってあげれば良いのに」
 くすくす、と笑みが零れる。
 黒猫は手紙の内容は知らない。知る必要はない。
 だが、あの人が誰を指しているかは分かる。
 教授(プラフ)。
 博士が不機嫌になる要素の一つ。黒猫自身はその教授には会ったことはないし、どういう人物であるかも知らない。
 教授と対面したことがあるであろう博士の助手ならば、詳しく知っているかもしれないが。口数が少ない助手から話を聞きだすのは困難だ。博士が不機嫌になるのが分かっていて、直接、尋ねるほど愚かでもない。
 淑女もまた教授を知っているようだ。
 淑女はどこから取り出したのか、可愛らしい花柄の便箋で博士への返事を書き始める。
「失礼致します」
 一礼して入って来たのはさっきの老婆だ。黒猫の前には温めたミルクを、淑女の前には良い香りの紅茶を置く。
 黒猫は目の前のテーブルに置かれたミルクを覗き込む。
 マグカップに注がれたミルクから、湯気が立上っては消えていく。
「どうぞ、お飲みになって待っていらっしゃって」
 淑女がミルクを進めるが、黒猫はとてもじゃないが口をつける気にはなれない。何が仕込まれているかわからないものをそうそう口にはできないだろう。
「どうなさったの? ミルクはお嫌い?」
 首を振ってそれに応えれば、ならどうぞと更に勧められる。
 黒猫は困り果てた。ここで飲まなければ酷い目に合わされるかもしれないし、飲んだら飲んだで命取りになるかもしれない。
「どうぞ」
 淑女は始終穏やかな笑みだ。
 冷や汗が流れ、握った拳が固くなる。

「『黒猫は博士のものだ』」

 吐いた声が震えていたかは分からない。淑女は不思議そうに眉を上げた。

『私の可愛い黒猫(キティ)。お前は私のものだ。私のものに手を出すものは、教授だろうが淑女だろうが絶対に許しはしない。皮を剥かれそうになったらこう言えばいい。「黒猫は博士のものだ」と』

 淑女のところに行くことを渋った黒猫に、博士はそう言った。
 誰であろうと、黒猫に害するものにはそれ相当の報いを受けさせてやるから安心しろと。その言葉があったから、黒猫はここに遣いにくることを了承したのだ。
 その言葉の意味を淑女は理解したのか、首を竦めると、
「新しい、ミルクを」
 ちりん、とベルを鳴らすと老婆が入って来て、マグカップを下げていく。
「心配しなくても、死ぬような毒ではなかったのよ」
 お返事を持っていってもらわないと困るし、と淑女は笑む。
 やはり、と言うか。なにか仕込まれていたらしい。
 暫くして、新しいミルクが入ったマグカップが差し出された。
 僅かな躊躇のあと、黒猫は恐る恐るそれに口をつけた。
 警戒していなかったわけではないが、もしこれに何かが含まれていたとしたら、博士は淑女に対し何らかの報復をしてくれるだろう。
 淑女は博士と対立する気がない。ならば、これには何も入っていないだろうと、黒猫は判断したのだ。
 温かなミルクが喉を流れ、身体をほんわかとさせてくれる。
 マグカップの中身を飲み干したのを見計らって、淑女は便箋を黒猫に差し出した。
「博士に。それと、今度遊びに来るように伝えておいてくれるかしら」
 黒猫は頷く。博士の機嫌が良さそうだったら伝えようと決めて。
「それでは、淑女。ごきげんよう」
 用事は済んだ。封筒を鞄の中に仕舞い込むと、黒猫はさっと身をひるがえす。その時、棚の上の鞄が目に入った。
 琥珀色の表面に色とりどりの花飾りがつけられている。
 そういえば、この間、ここに来た時に淑女の側にいた若い執事の姿が今日は見えなかった。その答えを黒猫はその鞄で知った。
 沸き起こった吐き気で、胃に収めたミルクが逆流しかけるのに耐える。
 足を止めずに、窓から外へと飛び出した。
 そのままの勢いで敷地の外に出た黒猫は脇目も振らず駆け、路地の隅で身を隠すように蹲った。
 胃の内容物を全て吐き出すと、ようやく落ち着きを取り戻す。
「どくたぁ」
 ふらり、と覚束ない足取りで黒猫は路地の奥へと歩き出す。
 博士に会いたい。早く帰って博士に――。


「もしもし?」
 金色の受話器を耳にあて、淑女は言う。
「子猫ちゃんは帰ったわよ」
 くすくす、と笑みを零しながら、老婆が新しく持ってきた紅茶に手をつける。
「それにしても、貴女も意地悪ね。可哀想に……垂れ下がる尾っぽが見えたわ」
 先ほどまで向かいのソファに身を縮めて座っていた小さな少年を思い出す。怯えさせるような事をした覚えはないのだが。子猫は自分のことを恐れているようだった。すると、
『尻尾が見えるとは重症だな。一度、眼球を診てあげよう』
 鈴の音を思わせる声が、電話口から漏れた。
 淑女は肩を竦めて、
「たとえ話よ。本当に尾っぽが見えるわけないでしょう」
『なんだ、つまらない。淑女の眼球は好みではないが雲母色はそれなりに珍しい。コレクションとして飾ってみたいと思ったのだが』
「そうね、今度、遣いをやるときはジェイソンさんでお願いできるなら考えてみようかしら」
 くつくつと、低い笑いが電話口から漏れた。
 淑女もひっそりと笑みを零す。
『痛い出費だな。くれてやりたいのは山々だが、あれがないと色々不便で仕方ない』
「不便ねぇ。……人様にやれない大事なものって言ったらどう?」
 ひなくれたもの良いに、思わず咎めるような色を込めたが、
『大事か。確かに大事だ。黒猫も助手も至高も、全て私のものだからな』
「……欲張りね」
 何でも欲しがる貪欲な人。一度、自分のものだと決め付けたらけして放さない人。
『お互い様だろう?』
 電話口から聞こえてくる笑み。
「……ねぇ、ウイユ」
 電話の向こうの博士に向かって淑女は言う。
 暫くの間。博士は次の言葉を待っているのだろうか。無言が続く。
「いえ、また今度にしておくわ」
『そうか』
 二言、三言交わしたあと、電話が切られた。
 淑女はじっと、繋がりが絶えた受話器を見つめていた。
 電話で話せば良いことを書面でやり取りするのは、盗聴の危険を考えてだ。お互いに敵が多いのは分かっているし、特に博士を追いかけている教授は侮れない。
 博士は教授を疎んでいるし、教授は博士を欲している。絶対に交差しない互いの思惑。
「まぁ、わたくしには関係のないことですけど」
 淑女はベルを鳴らす。すぐさま、寄って来た老婆に淑女は笑み、
「新しい執事を見繕っていらっしゃい」
 老婆は主の言葉に深々と頭を下げた。






H20.3.3