Mermaid Deep Rapping

[人魚は深く堕ちていく]



  水面が揺れ、描かれた月が歪にゆがむ。白い軌道が左右に蠢いては不可解なシミを描いていた。
 まるい月が輝く静かな夜だった。
 歪んだ水の上に浮かぶ船は、波に合わせてその巨体を震わす。まるで何かを恐れているかのように。
 靄のように掛かった雲が一瞬、月の光を霞めさせた。
 いつそこにやってきたのか、船のテラスに一人の女性の姿があった。
 女性は柵に身体を預け、夜の海を見つめていた。
 黒絹のような漆黒の髪に、作りものの美しい人形のような顔立ち。陶磁器のような滑らかな肌は、月の淡い光に照らされ、微かに光っているようだった。濡れたような唇の赤が鮮やかに目に焼きつく。
 博士(ドクター)と呼ばれる女性は、風に煽られる服の裾を白く細やかな指先で押さえながら、視線を船外へと投げ出していた。
 その目は何も映していないかのようで、その反面、全てを映しているかのようである。
「おう、ドクターここにいたのかいっ!」
 静寂を裂くような声に、博士はゆっくりと振り返った。
 博士の背後に寄ってきたのは、赤ら顔の、がっしりとした体躯の中年の男性だった。厚手の黒いコートを身に纏い、手には酒瓶を握り締めながら、ふらふらと千鳥足で博士に近付いてくる。
 船の揺れで足元が覚束ないのではない。酔いが回り、まともに歩くことができないのだ。
「船長(キャプテン)」
 鈴の音を転がすような、甘い響きが赤い唇から漏れた。
 酔った男――船長に向けた鳶色の瞳が細められる。
「アルコールの摂取のしすぎは薦められないな。アルコールが人体に与える影響を知らないわけではあるまい」
「ドクター、固いこというなよ。ここじゃあ、これくらいしか楽しみはねぇ。それに……酔わなきゃこの船の船長なんてやってけん」
 本気かどうかわからない口調で嘆きながら、船長は酒瓶を掲げる。ちゃっぷん、と響いた瓶の中身はもうそれほど多くはないようだ。
 博士は淡く微笑んだ。
「ならば、『歌』に酔えば良い」
「冗談にもほどがあるぜ、ドクター。それに、生憎、『歌』に酔えるほど、繊細な神経は持ち合わせてねぇ」
 そもそも、『歌』に酔ってしまうような人間は、船長など務まらない。
「もっともな話だな」
 船長の呟きに、博士は頷く。誰でもこの船の船長になれるわけではない。誰でもこの船に乗れるわけではない。そういう意味では、彼は確かにこの船の船長だった。
「そろそろ、終わりだな」
 船長は太い腕に括りつけられた腕時計に目を落とす。傷だらけの腕にこそ相応しい、傷だらけの時計。この船長がただならぬ生き方をしてきたことが窺い知れる。
「では、行こう」
 博士は、柵から身体を離すと、船内へと続く扉へと歩み寄る。
「あぁ、おらぁは船長室にいるからな」
 追いかけてきた声に博士は一瞬足を止めた。眉を潜めても尚、美しいといえる表情で、船長を見つめる。船長は首を竦めながら、空に近い酒瓶を振って見せた。
「新しいのを取りにいかにゃなんねぇ。船長室にいんから、用あったらそっちにこいや」
「何度も言うようだが……」
「わぁーてる。飲みすぎはわりーつーんだろう? ほどほどにするよ。ほどほどに」
 信用性にかける返事に、博士は何も言わなかった。言ったところで無駄だと思ったのかもしれない。
 船長から目を離すと、止めていた足を再度動かす。
 明るい月の下、船のテラスから博士の姿は消えた。



 『歌』が聞こえる。
 人を惑わす『歌』が、人を狂わす『歌』が、人を誑かす『歌』が、人を迷わす『歌』が、人を壊す『歌』が、人を殺める『歌』が、人を脅かす『歌』が、人を踊らす『歌』が、人を求める『歌』が、人を人でなくす『歌』が――。



 博士は重い扉を開き、薄暗いホールの中に足を踏み入れた。船内パーティに使われるホールなのだろうか。幾つもの机と幾つもの椅子が等間隔に並べられている。
 机の上にはグラスと先ほどまで料理が乗せられていたと思われる皿が置かれていた。
 だが、その料理を食べたはずの人の姿はない。ホールはそれほど広くはないが、並べられた皿の数を見る限り、十は越える数の人間がそこにいたのは間違いない。
 人がいた形跡はあるのに、人の姿はない。
 博士は顔を上げた。その視界の先には、一段高くなった舞台があった。薄暗いホールで唯一光が差している場所。そこに、女性が一人佇んでいた。
 コツコツと規則正しい足音を響かせながら、博士は舞台へと近付いてく。その足音に気がついたのか、女性がゆっくりと視線を向けた。
 舞台に立っていたのは若い女性だった。まだ幼さを感じさせる甘い輪郭の容貌。その瞳は血を凝らしたかのように赤い。
 床に着くほどに長い、透けるような青藤色の髪を流れるまま流し、その身を同色のドレスで包んでいる。僅かに、その腹部が盛り上がっていることに、博士は果たして気付けたのだろうか。
 その剥き出した腕には、幾十にも円が重ねられた模様の刺青がされていた。
「博士」
 彼女は博士の姿を認めると、蕩けんばかりの笑みを浮かべた。燃えるような赤い瞳が柔らかに歪む。
「少し早かったかな?」
「いいえ、ちっとも」
 舞台へと上がってきた博士の腕に、彼女は己の腕を絡める。無邪気な眼差しと無垢な態度で博士を迎える。
「それよりも、随分とお待たせしてしまって」
「構わない。突然押し掛けたのはこっちだからな」
 博士も微笑で彼女に応えた。彼女は嬉しそうに顔をほころばせる。
 その様子から、博士に会えたことを本当に喜んでいることが窺えた。
「もう……片付いたのか?」
 博士はホールを見渡す。がらんとしたホール。最初から誰もいなかったかのように静まり返ったホール。
 しかし、博士は知っている。ほんの一時間前までここに人の姿があったことを。
 博士の言いたいことを理解して、彼女は笑みを浮かべた。
「もちろん、終わったわ」
 答えながら彼女は己の腹部をそっと撫でる。
「……そのようだな」
 再度、ホールの中を見渡し、僅かな痕跡さえも残っていないことを確かめて、博士は吐息のような声を漏らした。
 響きの中に感嘆を見つけて、彼女は益々嬉しそうに身体を寄せる。
「ここは冷えるわ。奥に行きましょうよ」
 誘う言葉に博士は逆らわず、歩き出す。
 彼女はホールの脇の扉を抜け、階段を降り船の最奥にある部屋へと、博士を案内した。
 部屋の中は椅子と机があるだけの殺風景なものだった。隅に置かれた花瓶には枯れ果てた花が差し込まれている。そのさらに部屋の奥に扉が見えた。
「ちょっと、待っててくださいね」
 博士に椅子に座るように促すと、彼女は部屋の奥の扉と姿を消す。
 博士は花瓶へと目を落とす。
 枯れた花に手を伸ばして触れてみれば、カサカサと音を立てて花は崩れた。
 博士は指先についた花だったものの残骸を払い落とすと、鳶色の瞳を閉じた。
 ――どれほど経っただろうか。
「お待たせいたしましたわ」
 不意に扉が開き、彼女が姿を現した。戻って来たときの彼女は青藤色のドレスから真っ赤なドレスへと着替えていた。
くるり、と回って見せてその姿を博士に晒す。先ほどまであった腹部の膨らみが消えていることに博士は気がついていた。だが、それには触れず、
「似合ってる」
「本当っ! 良かった」
 博士に褒められて、彼女は益々気を良くしたようだった。
「さあ、今日はとっても良い月よ。きっと博士に喜んでいただけるわ」
 博士の手を掴むと、彼女は部屋の奥へと導く。
 床には絨毯が敷き詰められ、安物には見えない調度品が置かれている。机の上には色とりどりの宝石が無造作に放置されていた。
 博士はそれには目もくれなかった。博士が見ていたのは、部屋の中央に置かれた水の満ちた水槽だった。人間の一人や二人が余裕で入れるほどの大きさのその水槽の水が、船の揺れに合わせて穏やかに震えていた。
「ほお」
 博士は吐息を漏らす。
 水槽の中に、ゆるゆると浮かんでいたのは、半透明の球体だった。薄い膜で形作られているらしいそれは波の動きに合わせて水槽の中を動き回る。
 それも一つではない。拳大の幾つもの球体が水の中を浮き沈みしている。球体の中央には赤い点が瞬いていた。
「ごめんなさい。今日はあまり数が多くなくって」
「いいや、十分だ」
 答える博士の目は水槽に向けられたままだ。
 そんな博士に気を悪くした様子もなく、彼女は笑みを浮かべている。ちろり、と見えた舌。血に染まったような赤い舌が、彼女の唇から漏れる。
 赤いドレスに包まれた、白い腕が伸ばされる。白い指先が博士の白衣に触れて――。
「博士、どの子にする?」
 彼女は、博士の脇を素通りし水槽の縁に手をかけた。水に浮かぶ球体の表面を撫でれば、逃げるように離れていく。
「どの子の質が一番良い?」
「そうね」
 彼女は水槽内に視線を走らせる。そして、おもむろに水の中に手を突っ込んだ。掴んだ一つの球体を手に、博士に近付く。
「この子なんかどうかしら」
「そうだな」
 博士は彼女の手の平に乗せられたそれに触れる。いつの間に取り出したのか、鋭い切っ先を見せるメスが踊った。



 ――ふんぎゃあ



 鳴き声が響いた。幕が破れた瞬間、赤子の喚き声が室内に轟いた。透明な膜の内側、そこに宿っていたのは、透明な小さな赤子。
 ただし、上半身は人でありながら、下半身は魚の尾になっていた。
「良い子、良い子。可愛い私の子」
 彼女は軽く揺すりながら、宥めるように声を掛ける。それに安心したのか、徐々に赤子の鳴き声は静まっていった。
「博士」
 彼女は己の小さな赤子を博士に差し出す。博士は黙ってそれを受け取った。
 両の手の平に収まる半透明な赤子。大きな目玉が博士を見上げる。
「まぁ、悪くはない」
 博士が呟いたのと、その手の内のメスが煌いたのはどちらが早かったのか。
 その赤子は再度鳴き声を上げることはなかった。
 博士の細い指先がゆっくりと持ち上げられる。握られていたのは、半透明な小さな球体。生まれたばかりの赤子の眼球。
 博士はそれを口の中に放り込んだ。舌に触れたそれは、瞬く間に溶けて消える。
「どうかしら?」
「…………」
 彼女の問いに博士はすぐには応えなかった。代わりに、彼女の手を取る。
「ここ最近では一番だ」
「良かった」
 博士の言葉に彼女は安堵の息を吐いた。
「人魚(マーメイド)、君の子供は相変わらず良い目をしている」
 人魚――、人の姿を模した水に生きる存在。
 地上に上がると人の脚を模す彼女は船上の歌姫として人を惑わす。そして、惑わした人を食らい血肉とする。
 そして、博士はその人魚の子の眼球を喰らうために、船へと訪れる。
「……嫉妬するわ。どうせなら、私の目を食べてくれればいいのに」
 甘く囁くように身を寄せてくる人魚を、博士はやんわりと離す。
「お前の眼球に興味がないといえば嘘になるが、不老不死になるのは遠慮したい」
「あら、どうして? 地上の人は永遠に生きたいのでしょう?」
「それは大衆論だな。永遠などに価値はない。真の価値があるものは、瞬く間に消えるものだけだ」
 人魚の血肉を食らえば、その身は不老不死になると伝えられる。だが、一方で生まれる前の人魚は非常に弱い生き物だ。水温などの環境によって容易く死に絶える。多くなく少なすぎずの数が保つための生物としての仕組み。
 博士が喰らうのは、不老不死の効力を持つ前の人魚の赤子の眼球だ。
「それは、残念だわ」
「残念がる必要などどこにもないさ。お前がいてくれるおかげで私はこうして、美味なる人魚の眼を喰らえるのだから」
 博士は手の平の赤子の残骸をゴミ箱へと捨てた。
「まだあるわよ」
「良いのか?」
 水槽を指し示す人魚に博士は小首を傾げる。水槽に浮かんでいるのは人魚の卵。彼女が喰らった人間を元に生んだ、彼女の子供たちだ。いかに数が多いとはいえ、目の前で喰らわれるのは良い気持ちがしないだろう。
 そう博士は思ったのだが、彼女は無邪気に笑って、
「いいわよ。また生めばいいのだから」




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