Murder Double Reunion
[ 殺人兄弟の再開 T ]
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
窓の外で弾ける雫。
昨晩から振り出した雨は、止む素振りを見せぬまま今もなお、厚い雲の隙間から零れ落ちている。
雫が落ちる。天上から落ちる。
赤い、赤い染みが視界に広がる。
雨の匂い。むせるほどの湿気。
うるさい、と思った。
思ってから、鼓膜を震わせるそれが自分の口から漏れていることを知る。
「ひゅー、ひゅー、ひゅー」
吐き出される音は途切れ途切れで、心臓が不快な音を奏でている。
震える己の肩を抱きしめようとして、その手が真っ赤に染まっていることに気付く。
真っ赤なのは手だけではない。お揃いで買い与えられたパジャマは、赤い何かの液体で濡れて重い。
頬や髪にも、何かの雫が飛んでいる。
思わず、天井を見上げた。雨漏りしている様子はない。そもそも、雨の雫は赤くない。
立ち尽くす足に滑る感触。視線は床に落ちる。
「……あぁ」
呻き声に似た吐息が漏れる。
なんでも職人が丸一年掛けて手で編んだという世界に一つしかない逸品だという絨毯。
高い買い物だったが、これからずっと使っていくことを考えれば安いものだと、そう笑っていた――その本人達が、絨毯の上に倒れていた。
赤い液体に濡れて、幾何学的模様の絨毯は、その絵柄が分からなくなっていた。
倒れている二人の男女の周りに広がる赤い染み。
二人はぴくり、とも動く事はない。
ぽたりと、落ちる雫はこの髪から。
ぽたりと、落ちる雫はこの手から。
ぽたりと、落ちる雫は――誰のもの?
足元を見やれば、赤い液体に濡れたナイフが転がっている。
空気が揺れた。鈍い音が鼓膜を打つ。
――ギィィィィイ
軋みながら開かれる戸。廊下があって、その奥にはボク等の部屋がある。
そうだ、この汚れた服を着替えなければ。
一歩、踏み出しかけた足が止まる。
開かれた戸。
振りかざされたそれが、鈍い光を放つ。
部屋に飛び込んできたそれは躊躇いを見せなかった。
硬いモノが首に当たる。
ゴキリ、となにかが砕ける音が鼓膜に響く。
悲鳴は漏れなかった。
ただ、目がそれを捉えた。
「――っ!」
名前を呼ぼうとしたけれど、断ち切られた喉がそれを放つことを許さず。
ただ、それが目に焼きつく。
十五、六くらいだろうか。部屋に飛び込んだままの勢いで斧を振り下ろした少年。
輝くばかりの金髪と、縹色をした瞳。
自分の写し姿――もう一人の自分。
「アァァァァァァァアアアアッ!」
その叫び声は――誰のもの?
飛び散る赤い血しぶきは――誰のもの?
「ザリオスっ!」
それは、一体――誰の名前か。
失せた意識の先、抱いたのは――。
*
「……ガス、フォーガスっ!」
「あっ?」
開いた視界。フォーガスと呼ばれた少年の目に映し出されたのは、友人の姿だった。
耳に届く喧騒に、講義が終わったことを知る。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。前を見やれば、黒板の文字を消す教師の姿が見えた。
「大丈夫か? なんかうなされていたぞ」
「あー、ちょっと変な夢見てさ。昨日、ホラー映画を観たせいかな」
「また、観たのか。俺、ホラー苦手」
「面白いのに」
両手を挙げて拒否する友人にちょっと笑った。
「それより、教授がお前を呼んでたぜ」
「教授が?」
机の上の教科書を鞄の中に詰め込む。教室内にはほとんど人の姿はない。
「あとで部屋に来るようにって……なんか、したのか?」
「……あー、先週のレポートのことかも」
「なに、出してなかったの?」
珍しいと呟く友人に首を竦めることで応える。
並んで教室を出れば、人の喧騒がより濃くなる。
腕時計に目を通せば、ちょうど昼時だ。
人の間をぬけながら、長い廊下を歩いていく。
外に出れば、雲の間から太陽が覗いていた。思わず、眩しげに目を細める。
「じゃあ、教授のところに行くから」
教授の部屋のある建物は、食堂とは反対方向だ。
「あぁ。そうそう、今度の休みの――」
「覚えてるよ。ベネットたちとだろう?」
「いつものところだぜ」
「分かってるよ」
いつも通りに手を軽くあげて別れる。
ショルダーバックを肩に掛けなおし、人ごみの中に紛れる。
「さて……一体なんの用事でしょうねぇ」
呟きは口の中で静かに木霊した。
帝都(セントラル)――経済の、流通の、知識の、富の、名誉の、中心。ありとあらゆる賢者と愚者が集う街。
そこの学院(アカデミー)といえば、近隣諸国までその存在が知れ渡っている叡智の集う場所だ。
高い塀で囲まれたその街は、その他の人間を拒絶し、選ばれたものだけを受け入れる。
学院で、学ぶものも教えるものも、なんらかの特筆した才を得ているものばかりだ。
フォーガスもまた、学院で学ぶ生徒の一人だった。
ミルクティーブラウンの柔らかな髪に、エメラルドグリーンのぱっちりとした瞳。
まだ十六を数える身ゆえか、成長途中の四肢は華奢で、格好良いよりも可愛いが似合う少年だ。
学院内の敷地の一角にある建物。
フォーガスはそこに入っていく。古びた階段を上り、目指すは三階の奥の部屋。
薄暗い廊下は、昼時だからだろうか。人の気配がない。
いつものことなので、気にも留めずフォーガスは軽い足取りで廊下の奥へと進んでいく。
待ち構えていたように、その奥にあったのは黒い扉だった。プレートが貼り付けられているが、インクが剥げて何が書かれていたのか分からない。
フォーガスは大きく深呼吸をすると、規則正しいノックを扉に打ち込んだ。
待つこと数秒。
「誰かね?」
扉の向こう側から帰ってきた低い声。
「……ザリオス・フォーガスです」
「開いてる」
素っ気無く戻って来る返答もいつものこと。だから、いつも通りに扉のノブに手を掛ける。
「失礼します」
扉を開けると漏れ出すのは淡い光だ。薄いカーテンが引かれた窓から、昼の太陽が灯りを与えている。
柔らかな絨毯を足裏に感じながら、扉を閉める。
本が敷き詰められた本棚の間を抜け、部屋の奥へと入っていく。
窓際に置かれたデスク。その前の椅子に腰を掛けている中年男性。
黒い背広には皺一つ見られず、こちらに背を向いているため、顔を窺うことはできない。
本を手にしていることは分かった。その目が本から離れていないことも。
入室してきたフォーガスには当然、気付いているだろう。それなのに、こちらを振り向きもしない。
「教授(プラフ)、前から言ってますけど、呼び出すときに人を介するのは止めていただきませんか? 変に勘繰られたりすると面倒なんですよ」
「今度から、気をつけよう」
「この間もそういっていませんでしたか」
「…………Mrザリオス」
本のページがゆっくりと捲られる。教授は顔をあげない。
「私は今、読書中なのだが」
だから、少し黙っていてくれと教授は言う。
ザリオス・フォーガスは呆れたように、目を瞬かせた。
「ボクは呼ばれたから来たんですよ。用がないなら帰らせていただきます」
「用がなければ、わざわざ呼ぶはずがないだろう」
そう言いながらも、やはり本を閉じる様子はない。
用よりも、本を優先するということだろう。今に始まったことではないが、呼び出しておいてこれはあんまりだ。
本当に帰ってしまっても良かったが、また足を運ぶ事になるのは二度手間だ。
仕方なく、教授の読書が終わるまで待っていることにした。
生物哲学の教授だけあって、それ関連の本が並んでいる。一部は棚に入りきらず、机の上や床にまで置かれている。
部屋の隅にある一人座り用のソファにまで、本が置かれていた。それを床に除けると、ザリオス・ファーガスはそこに腰を下ろした。
正面の壁に目を向ければ、時計が昼過ぎを指し示していた。この後に授業が入っていないのは幸いだった。
せめて、日が暮れるまでにページが終わりまで来ること願うしかなかった。
「それで用件だが」
唐突に鼓膜に入って来た声に驚いて顔を上げれば、教授が本を閉じて机に置くところだった。
時計に目をやれば、さほど時間は経っていない。こちらに気を遣うはずはないから、本が思ったより面白くなかったのか。
さっきまで、読書に専念していた様子さえ窺わせない。
ゆっくりと、椅子が回転し、こちらを向く。
歳は、確か四十後半だったと記憶している。
白髪の混じり始めた髪に、口元を僅かに飾る髭。
なにより、目を引くのは眼帯で覆われた左目だ。
眼帯で隠しきれていない部分から、引き攣ったような傷が見えた。
「私のウイユが入都したそうだ」
「……博士が?」
あの博士が、帝都に戻ってくるとは珍しいこともあるものだ。
Drウイユ――生物哲学博士であり、稀な美貌を持つ女性。発表される論文は奇抜的でかつ、独創的。
それでいて、理に適った内容のため、学会でも注目の厚い方だ。
もっとも、そのほとんどの時間を帝都外で過ごしているため、学院内で出会うことはまずない。ラボを尋ねていっても、多くの場合が留守だ。
「そう、私のウイユがだ」
私の、を強調して教授が言う。
持ち上がった指先が、己の眼帯の上を愛しげに撫でる。
「何度も迎えをやったのだが、なかなか戻ってこなくてな。自分から帰ってくるとは」
「教授。まさかと思いますけど、連れて来いっていうわけじゃないでしょう? 言っておきますけど、ボクの専門は殺しです。あの博士を殺すのだってある意味じゃ無茶なのに、生きたままつれてくるのはもっと無茶です」
頬を膨らませて訴える。
殺しは専門分野。
拉致は非専門分野。
ましてや、相手はただの人間ではない。
「分かっている。依頼は、いつも通り殺しだ」
教授は机の引き出しを開ける。中から取り出したのは革張りの箱だ。
「報酬は現金よりもこちらの方が良いだろう?」
箱の中身を示す。
「質の良い物を手に入れるのは苦労する」
開かれた箱。中に入っていたのは液体が満ちた瓶。その横には注射器。
ザリオス・ファーガスの視線はそれに注がれる。
「……誰を殺せば良い?」
了承を告げる代わりに問う。代価となるものを。
教授は口元に笑みを浮かべた。
「私のウイユ――」
H21.2.8