Much Disappear Romance

[ たくさんの見えない恋情 T ]






 黒雲が空を塗りつぶしていた。今にも泣き出しそうな暗雲の下、広がるのは荒れ果てた大地。焼けた原っぱには、焦げ臭い匂いが漂っていた。
 人が一人ならば起こることのない問題。
 信仰、思想、民族、領地、富、名誉。理由などあげればきりがないが、それらが複雑に絡み合って生まれる争いごとは尽きることはない。
 この時期ならば、一面の緑が覆っているはずの草原も、その争いの地として選ばれてしまったがために、ただ腐臭を撒き散らす荒野へと様変わりしてしまっていた。
 そんな大地の上を、一台の黒塗りの車が走っていた。長い距離を走ってきたのか、表面には傷が付き、タイヤは泥にまみれている。
 車は真っ直ぐ、荒野を突き抜ける。道と呼べるものなど見当たらない。舗装されていない土の上、車は激しく上下にぶれる。
 そんな悪環境の車内の助手席で、つまらなそうに視線を外に投げかける女。若く美しい女だった。黒々とした艶やかな髪。ふっくらと紅く熟れた唇。白く色の抜けた肌はまるで、精巧な人形のようで。細められた眼差しの奥に潜むのは鳶色の瞳。
 博士(ドクター)は、同じ景色が永遠と続く窓の向こうに視線を投げ出していた。
 運転席でハンドルを握るのは、博士の助手。銀色混じりの灰色の髪。眼窩を――顔の半分を覆う包帯。車の揺れに合わせて、胸元のロザリオが揺れ動く。
 視界が完全に塞がっているのにも関わらず助手――ジェイソンは、見えない目でも持っているかのように、的確なハンドル捌きを見せる。
 車内には沈黙が広がっていた。
 どちらも、自分から話しかけようなどという気はないのだろう。
 一方は、ただ無為に外に視線を投げかけ、一方は見えない目で行く先を辿る。
 居心地の悪い――という沈黙さえ、二人の間には存在しない。
 かなりの距離を走ってはいるが、外の景色は変わらない。
 ただ、時折、黒い煙と人間だったものの残骸が見えるだけで、それもまたすぐに後方に流れ去ってしまう。
 勝者も敗者も等しく屍となった。儲けを出したのは両方に武器を売った商人か。それとも、そうなるように仕向けた帝国か。どちらにせよ、駒にすら数えられることのない博士には関係のないことであるが。
 車は走る。ただひたすら、まだ見えぬ目的地を目指して。
「……ジェイソン」
 ガタガタ、と無機質の音が響く車内に、不意に鈴の音色が混ざりこんだ。博士は窓の外を向いたまま、運転席の助手に声をかける。
「止めろ」
 それはあまりにも唐突な言葉。
 なぜとも、どうしてとも、言わぬまま、ただ言われるがまま、助手は車を止めた。
 博士は、ドアを開くと車外へと出る。助手は無い視線でそれを追う。
「ここで待ってろ」
 短く告げ、博士は車から離れて歩き出す。
 あちらこちら、焼け焦げた跡。腐臭を撒き散らす肉塊の周囲を蝿が飛ぶ。
 博士はゆったりとした足取りで荒野を歩く。
 不安定な足元を、底の厚いブーツがしっかりと捉える。
 鳶色の視線が向かう先。色のない大地の上に無造作に積まれた屍の山。
 鼻がもげるほどの腐敗臭。黒い蝿が群れをなして飛び交う。
 すでに乾いたらしい血が、大地に黒い染みを描いていた。埋葬してくれる人もなく、弔われることなく放置された亡骸は、ただ腐敗し朽ちるときを待つことしか出来ず。
 それに向かって、一歩、また一歩。
 白衣のポケットの中に隠された手が、一歩踏み出すごとに上下する。
 博士はどこか楽しげに、それに向かって歩いていく。腐りかけた人間に向かって。
 ブーツの底が荒れ果てた大地の表面を叩く。そのときだった。
「……っ!?」
 博士はバランスを崩し、前のめりに倒れた。
 白衣の裾が地面に触れる。膝が大地に接触する前に、咄嗟にポケットの中から取り出した右手の平をついて身体を支えた博士は、足元に視線を向ける。
 手が伸びていた。
 地面の中から手が伸びていた。
 細やかだが骨が太い。男性のものだと思われる手が大地から伸び、ブーツに覆われた足首を捕えていた。
 博士の判断は素早かった。右手で体重を支えたまま、ポケットから左手を抜け出させる。それに握られていたのは黒い銃身。博士は躊躇うことなく、己の足の下に向けて発砲した。
 甲高い音が空に抜ける。
 博士の足首を掴んでいた手が、大地の中に引っ込む。
 自由を取り戻した博士はすぐさま立ち上がり、注意深く辺りを見渡した。
 地面には二つ穴が開いているだけで、さっきの手の姿はどこにもない。
 博士は乱れた髪を直すように、頭を左右に振ると、ゆっくりと歩みだす。


 ――ぽつり、ぽつり。


 空から落ちてきた黒い染み。乾いた大地に吸い込まれ、姿を消したのは最初だけ。やがてそれは、地面を覆いつくす。
 堰切ったように泣き出した空。生暖かい雫が博士の肌に触れては、流れていく。濡れた白衣は重みを増し、雫を帯びた髪が額に張り付く。
 博士は、雨のカーテンの向こうを探るように見つめる。
 白衣の背後。ふ、と地面の中から腕が伸びてくる。雨に掻き消され、腕が地面を掻く音は博士の耳には届かず。
 その腕の先――手に握られているのは銀色の銃身。その先が、無防備な博士の背に狙いをつける。
 引き金に指が掛かる。
 それが引かれたのと博士が振り返ったのはどっちが早かったのか。
 寸前でその存在に気がついた博士は、銃口が狙う先から身をずらす。
 雨粒を裂いて空を跳んだ弾丸は、狙いを外れて彼方へと飛んでいく。
 博士は手にしていた銃の引き金を引く。跳びだした弾は狙い違わず、腕に直撃した。
 ――が、何事もなかったかのように、腕は地面の中に引っ込む。博士は指先で、前髪を払った。
 その顔に浮かぶのは、笑み。紅い唇が弧を描く。
「モグラごっこも構わないが、それでは一向に勝負がつかないと思わないか?」
 博士は問う。姿の見えない相手に向かって。
「私もこの後、色々と予定が詰まっている。無駄に時間を潰すのは互いのためにならないと思うが」
 違うか、と問えば、
「相変わらず、つれないね」
 ぼこり、と地面に穴があいた。地盤が沈下したのではと思うような大きな穴だった。
 そこから這いずるように姿を現したのは。
「ふぅ。やっぱり、地上の方がいいな。地面の中は移動しにくい」
 ひょろりと長い手足をぐっと伸ばす。頬についた泥を拭いながら、その男はニカリ、と笑った。
「当たり前のことだな。ふむ、折角の金髪が台無しになっている」
「んっ? あらま、ホント、泥だらけだ」
 博士の指摘に、自分の前髪を摘まんで男は目を瞬かせた。本来なら、明るい枯れ草色の髪は、泥で赤茶色に変色してしまっていた。降り注ぐ雨が土を滲ませ、一層、その髪を汚く汚す。汚れた髪の間から覗く、縹(はなだ)色(いろ)の双眸が雨の雫に濡れてきらきら光った。
「なに? ウイユちゃんは、この髪好き?」
 その双眸が博士を捕え、口元に無邪気な笑みが浮かぶ。
「嫌いではない。が、興味はない」
「酷いっ! アウト・オブ・眼中ってこと? ちょっとショックだなぁ」
 わざとらしく顔を伏せて男は言う。言いながら、右手に握った銀の銃身を持ち上げる。
 それに応えるように、博士もまた銃口を男に向ける。
「だが、お前の目は好きだ」
 博士は笑う。男も笑う。
「でも、欲しいとは思わない?」
「あぁ、生憎な」
 先に引き金を引いたのはどちらだったのか。
 博士は走り出す。平行に並ぶように男も走り出す。
 筒の先から放たれる銃弾が雨を切り裂く。
 互いに向け合った銃口の先。お互いの姿だけを映して引き金が引かれる。
 そこには躊躇いはない。ただ、目の前の相手を屠るために、そのために引き金を引く。
「冷たいなぁ。俺のどこが気に入らない?」
 銃声の間、紡がれる言葉。
 飛び交う弾丸が、互いの服に擦れて、後を残す。間近に迫る鉛の塊を、寸前で交わして見せながら、笑みを零す。
「気に入らないわけじゃないさ」
 ぐっと、地面を踏みしめるブーツ。いつの間にか出された左手。それに握られていたナイフを男に向かって放つ。
 男は避ける――ことなく、ナイフの群れに向かって突っ込んでくる。幾本かのナイフが男の、腕、肩、胸に刺さるが、足を止めることなく博士に対して拳を振り上げる。
「じゃあ、どうして?」
 後方に下がりながら、博士は引き金を立て続けに引く。至近距離から放たれる銃弾は男に着弾するが、
「どうも、なにも、好みじゃないからさ」
「でも、嫌いじゃない」
「そういうことだ」
 男は身体に刺さっていたナイフを引き抜くと、それを手に博士に切りかかる。博士は、銃身でその一撃を受ける。
「俺の目は好きなんだろ?」
 勢いがつけられた男の膝が、博士の腹部を狙う。博士は後ろに飛び離れた。
 逃げの姿勢になった博士を男は距離を詰めて追う。
 銃弾もナイフも効かない男を前に、博士は防戦一方にならざるをえない。
 それでも、博士の顔から笑みが消えることは一瞬たりともなく。
「好きだが、それはいらない」
「複雑な乙女心ってやつ?」
 博士は銃の引き金を引く。幾つかの弾丸が男の胴を捉えるが、男はよろめくだけだ。血が舞うこともない。当った弾丸は、その存在が忘れ去れたもののように、認識すらされていないようだった。
 そもそも、痛みというものすら感じていないのか。幾つもの弾丸と、ナイフが身体を傷つけようと、男は一向に気にはしていないようだった。
 男はナイフを振りかざす。博士は迫る刃先を避けながら答える。
「さぁ、どうだろうな」
 男は手にしていたナイフを博士に向かって放る。博士は、腕でそれを払う。ナイフが当るとは最初から思っていなかったのだろう。男は銀の銃口を博士の額に向ける。
 甲高い音と共に、銀の弾が博士を目指して弾けた。








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