Mad Doctor Revenge

[ 狂った博士の再挑戦 V ]






 眩い光が二人の姿を包んだ。博士は身を引いて光から顔を腕で庇い、サフィはサッと身をひるがえす。
 光の外から闇の中に消えて行ったサフィを目で追うが、光に照らされた視界では何も見えない。
 舌打ちを漏らし、博士は光へと目を注ぐ。
 僅かに弱まる光。
 光に慣れた目に映ったのは一台の黒い車だった。
 長距離を走ってきたのか、タイヤには土がこべりつき、泥が跳ねている。汚れてはいるが、高級車の部類に入る車種である事は確かだ。
 開かれた扉から姿を現したのは一様に黒いスーツを着た屈強な男たちだった。
「Drウイユですね」
 博士は目を細めた。一人の男が博士の前まで歩み寄り、恭しく頭を下げる。
「教授(プラフ)がお呼びです。ご同行願います」
 淡々とした口調。
 燃え盛る建物を見ても、煤と血で汚れた博士を前にしても動揺する素振りさえ見せない。
 博士は、周りを見渡す。
 サフィの姿は見えない。隠れてこちらの様子を伺っているのか。或いは、逃げ出したか。恐らく、後者だろうと判断する。
 憎悪に心奪われながらも、サフィは己まで失っていない。怒りに駆られ無鉄砲な行動に出ることはない。次のチャンスを待つことが出来る。だからこそ、博士の毒牙にかかりながら未だに生きていられる。
 博士は目の前に立つ男に視線を向ける。
 標準よりも背の高い博士と同じくらいの背丈のため丁度、目が合う位置に眼窩ある。だが、男たちは一様にサングラスを掛けている。
 良く躾けられている犬だ、と博士は遠くから眺めるように男たちを観察する。だが、とも思う。ただ命令に従うだけの犬は状況判断ができない。
 明らかにお取り込み中だったというのに、邪魔をしといて謝罪の一つもないのは、呆れを通り越して怒りに変わるのには十分だ。
 博士は溜息を漏らした。
「私は今、猛烈に機嫌が悪いのだが?」
 ポケットに両手を伸ばす。
 それを遮るように、傍に近付いてきた男が額に銃口が突きつける。
「Drウイユ。車に乗ってください」
 最初から手筈を決めてあったのか。男たちは一斉に博士に銃口を向けている。
 博士は首を竦めた。
 多勢に無勢。いくら博士でも一人で複数の相手をするのは無理がある。
 否、例え出来たとしても少なからず傷を負うことは避けられないだろう。ましてや、サフィがまだ傍をうろついていないとも限らない。手負いの状態でサフィに勝てるとは博士も思っていない。
 博士は両手を挙げ、促されるまま車へと歩き出す。
「脱いでください」
「知らないのか? 女性が不特定多数の男に肌を見せることは道徳的に歓迎されないことだ。それとも最初からそれが目的だったのか。ならば、道理的だなんだという前に私は泣き叫ぶなり、悲鳴をあげるなりした方が良いのか? しかしだ。泣き叫ぶというのも考え物だ。そもそも、そういう場面では恐怖が先立って身体が動かなくなるものだという。ならば、ここは泣き叫ぶよりも――」
「…………白衣をお脱ぎください」
 博士の言葉を遮って、男が言い直す。弱冠、疲労の色が見えるのは気のせいか。
 博士は鼻を鳴らす。
「断る。白衣と私は切っても切れぬ関係だ。腕は取れたら付け直せばいいが、白衣は替えが必要だ。そして、私は、今は替えを持っていない」
「お脱ぎください」
 突きつけられた銃口。しかし、博士は従おうとはしない。
 両手を挙げて、降伏の姿勢を取りながら、瞳にはなにものにも屈しない気高いプライドが見え隠れし、銃口を突きつけられていながら、自分の優位を信じて疑ってはいない。
 仕方なしに男は手を伸ばし、強引に白衣を奪い取ろうとする。
 その指先が煤汚れた白衣に触れたのと、ヒュン、と何かが空気を裂く音が響いたのはどちらが早かったのか。
 耳に音が届いたのと、博士に触れようとした男の頭部が横に吹っ飛んだのは同時だった。
 紅い液体が舞う。博士は咄嗟に袖で顔を庇った。
 まるで、爆発したかのように弾けた男の頭部。首から下がその衝撃で横殴りに倒される。
 地面に崩れ落ちた頭部のない四肢が、吊り上げられたばかりの魚のように激しく痙攣する。
「五十二分と十五秒か。最高記録の更新にはならなかったな」
 博士は息絶えた男には目もくれず、金の腕時計に目をやる。
 動揺したのは男たちだ。目の前で仲間が銃撃されたのだ。
 兎に角、目的だけは果たそうと、博士の腕を掴んで無理やり車に押し込もうとするが、
「汚い手で博士(ドクター)に触るな」
 まるで闇の中から姿を現したかのようだった。
 いつ、そこに来たのか誰も分からなかったに違いない。
「あっ……ぐっ」
 博士の腕が自由になる。腕を掴んだ黒服の男は苦しげに手足をばたつかせる。
 外套の裾がはためいた。
 全く気配を感じさせず、そこに姿を現した男は、博士の腕を掴んだ男の首を鷲掴みにし、高く吊り上げていた。
 短く刈った銀色混じりの灰色の髪。裾の長い外套。胸元を飾る銀のロザリオが揺れる。
 大した力を込めているようには思えないのに、易々と屈強な男を吊り上げている。そして、その顔の大半は包帯で巻かれ、視界を完全に塞いでいる。
 首を掴まれた男は苦しげに身を捩る。
「ジェイソン、汚いとは語弊があるように思えるが? 少なくとも彼らは垢にまみれているわけでも、泥を被っているわけでもない。服装もきちんと正していることから、それなりに清潔さを保っていると推測できる」
 博士の暢気な呟きが銃声の中に交わる。
 ジェイソンの存在に気付いた他の男たちが銃口を向けるが、闇の中から飛んできた鉛玉がその命を的確に奪っていく。
 博士は片眉を上げて、
「黒猫(キティ)か?」
「ここに来る途中に合流しました」
 博士の問いに淡々とジェイソンは答える。
 死に物狂いでジェイソンの手から逃れようと暴れる男に、博士は一瞥をくれた。頭を揺さぶったせいで掛けていたサングラスは地面に落ち、その瞳が露わになっている。
 博士は何かを見透かそうとするようにその眼球を見つめていたが。
「好みではないな」
 呟くや否や、興味を失ったように欠伸を一つ漏らす。
「どうせ、教授(プラフ)の捨て駒だ。適当に始末しておけ」
「…………」
 返事をする代わりに、ジェイソンはその首を手放した。地面に転がった男は激しく咳き込む。
 その頭に、ジェイソンの手が伸びた。
 男の頭部を傷だらけの手が鷲掴みにする。
「ぐっ……」
 男はジェイソンの手を引き剥がそうとするが、万力で固定されたかのように、振り解くことが出来ない。
 ジェイソンは暴れる男を無言で押さえ付ける。そして――。
 軋む音に続いて、なにかが潰れる音が響いた。
 赤黒い液体が広がり、車のライトに照らされ、てらてらと輝く。
 ジェイソンは男の頭部を鷲掴みにしたまま、傍の一抱えほどもある石に叩きつけた。血が僅かに飛び散り、ジェイソンの手と外套を汚す。
 小さな呻き声のあと、男の四肢から力が抜けた。大きな傷口からは骨が僅かに覗いていた。
 数人いた男たちは今や、皆、地に伏し恐らくは二度と起き上がることはあるまい。黒服の男たちは闇の中から放たれる弾に撃たれ、赤黒い液体を流し息絶えていた。
 先ほどまで暗闇の中から響いていた銃声は潜み、不気味な静寂だけが残されている。

 燃え盛る教会と。
 ライトで周囲を照らす黒塗りの車と。
 複数の死体と。
 白衣を着た博士と。
 その傍らに寄り添うようにして立つ盲目の男と。


「どくたぁ」
 間延びした声が闇の中から木霊した。
 それと当時に、ライトの中に飛び込んできたのは、まだ十を幾つか越えたばかりの少年だった。
 街の子供が着るような黒いシャツに黒いズボンを履き、腰にはポーチをくくりつけている。浅黒い肌に、黒々とした短髪を覆うのは黒い帽子。
 少年は博士の前まで来ると恭しく頭を下げた。
 その際、ずり落ちかけた帽子を慌てて少年は押さえ込んだ。
 暫く、そうして頭を垂らしたあと、少年は顔を上げ、ニカッと笑った。
 車のライトがその横顔を映し出す。
 地面に映し出される影の顔の部分に不可解なものが映し出されていた。顔の部分から出ている長方形の影。
 それは二つの円筒。
 黒い円筒が、眼窩から伸びていた。それが所謂、暗視ゴーグルなどの類ではないことだけは確かだった。
 なぜならば、その筒は眼窩の中から伸びているのだから。瞼の中へと差し込まれている筒は、望遠鏡などに使われているものと良く似ていた。
 時折、小さな音を立てて筒が回り、その長さが変わる。焦点を合わせているのだ。
 そして、その手の先。少年らしい、まだ成長途中の小さな手に握られているのは、長いライフル銃。まだ熱を帯びているらしいその先から、僅かに火薬の匂いがした。
「あれ? 博士の愛しの君は?」
 忙しなく頭を左右に動かし、問いかける。
 博士は薄い笑みを浮かべた。
「生憎、逃げられてしまったよ」
「……マジ? あの、いや、遅れたのは、オイラのせいじゃないからね! 俺は時間通りに行こうと思ったんだよ。だけど、ジェイソンの旦那(だんな)が」
 少年は博士の傍らに控えるジェイソンに目を向けた。
 話を振られたことは分かっているだろうが、ジェイソンは眉一つ動かさず、直立不動で立ち尽くしている。
「車(あし)を駄目にしちゃったんだよ。河にドボンッって! マジ、死ぬかと思った!」
「……河に?」
 博士は少年とジェイソンを交互に見つめる。車のライトだけでは分かりづらいが、言われてみると二人の服は濡れていた。
「だから、悪いのは旦那であって、オイラじゃないからね!」
 自分の無実を証明しようと少年が声を荒げて告げる。
 眼窩から伸びる筒が上下に触れて、擦れたような音が漏れた。
 博士は、その湿った頭に手を置いた。少年は押し黙り、じっと博士を窺う。
「サフィが逃げたのはお前たちが遅れたからではなく、そこの下郎どもが邪魔に入ったからだ。全く、タイミングが悪いとしか言いようがない。黒猫(キティ)なら兎も角、ジェイソンが時間通りに来るなど最初から思ってもいないから、今回の事はアクシデントだ」
 白く細い指先が、少年の髪を優しく撫でていく。
 博士の顔色を窺うように小首を傾げていた少年は、その言葉に安堵したのか、笑みを浮かべて頷いた。
「さて、事の後始末をしなければな」
 博士は少年――黒猫(キティ)の頭から手を下ろすと、周囲を見渡した。
「ふむ。火は不味かったな。これだけ、派手に燃えていれば街の人間とて気付かぬはずはない。明日には誰か見に来るだろう。が、死体を見られると厄介だ」
 僅かに考え込む素振りをした博士は、紅い唇が弧を描いた。
「死体は炎の中にぶち込んでおけ。後はゴシップ紙が適当な筋書きをでっち上げてくれるだろう」
 焼けた教会から発見されれば焼死体として処理される。誰もここで銃撃戦があったとは思わない。
 ジェイソンが動いた。地面に転がる死体を無造作に掴むと、燃え盛る教会の方へと運んでいく。
 優秀な助手は、博士の命令を素早く実行することにしたようだった。
「博士」
 ジェイソンの背が遠ざかった後、おずおずと黒猫が白い封筒を差し出した。
 染み一つない封筒の表面には達筆な文字で「Dr ウイユ」とだけ書かれている。僅かに湿っているのは水に落ちたせいか。
「淑女(マダム)から。オイラは嫌だって言ったんだけど、皮剥ぐぞって脅されて仕方なくさ。あのご婦人、オイラは苦手だよ。今度から遣いには旦那をやってくれよぉ」
 眼窩に埋め込まれた黒い筒がキリキリ、と音を立てて回る。はめ込まれたレンズが心なしか、哀願の色を浮かべているようだった。
 博士は黙って封筒を受け取る。黒猫は唇を真文字に結んで、その顔色を窺う。
 白い指先がいつの間にかナイフの柄を握っていた。
 音も立てずに封筒の端が切り落とされる。はらり、と待った紙片。
 博士は封筒の隅を指先で摘まむと、そのまま、逆さにした。
 封筒の中から舞い出てきたのは花柄の便箋と、銀色の破片――鋭く磨がれた金属片。
黒猫の顔が青ざめた。
「博士! オイラは何も……」
「淑女にしては可愛い悪戯だな」
 小さな笑い声を立てて博士は笑う。
 怒られると思っていた黒猫は、呆気に取られたように口を大きく開けたまま博士を見上げた。
 博士は屈みこんで便箋だけを拾うと、紙面に目を通す。
 鳶色の瞳が煌くのに黒猫は気付けたのか。
 便箋をポケットの中に仕舞いこむと、代わりに取り出したのは小さなメモ帳と万年筆だった。
博士は白い紙面に万年筆の先を躍らせる。
 それから、メモ帳を切り取ると四分の一にたたみ、黒猫に差し出した。
「淑女(マダム)に。至急に頼む」
「えっー。またオイラが行くの? 旦那に行かせてよ」
「お前の方が足は早い。心配しなくても皮なんて剥がさせやしないさ」
 不満げな声を上げる黒猫の頬を、ひやりと冷たい指先が触れる。顔の輪郭を辿るように、白い指先が降りていく。
 膝を曲げ、博士は黒猫に視線を合わせる。
「私の可愛い黒猫(キティ)。お前は私のものだ。私のものに手を出すものは、教授だろうが淑女だろうが絶対に許しはしない。皮を剥かれそうになったらこう言えばいい。『黒猫は博士のものだ』と」
 浅黒い頬が朱に染まるのが分かった。幼い子供がそうするように、小さな手を伸ばし、博士の白衣を掴む。
 喉を鳴らす代わりに甘えるように触れる指先に頬を寄せる。
 その様子を博士は満足そうに見つめる。
「いけ。戻ってきたら目を調整してやろう」
 メモを握らせ、博士は黒猫を促す。
 不思議そうに顔を上げた黒猫に博士は微笑んだ。
「河に落ちたのだろう? 念のため検査をしておきたい」
 だから、早く用件を済まして戻って来い、と。
 黒猫は大きく頷いた。子供らしい満面の笑みが博士の視界に映る。
「博士。直ぐに行って帰ってくるから」
「あぁ」
 さっと、小さな影がひるがえる。
 風が吹き、白衣を揺らす。
 博士の視界から失せた黒猫は、瞬く間に闇の中へと消えて行った。博士は、暫くの間、黒猫が消えて行った暗闇を見つめていたが、
「博士。終了しました」
 背に掛かる声。
 それには振り返らず、博士はドアが開け放たれたままの車へと近付く。
 黒猫と会話している間に、ジェイソンは死体を全て炎の中に投げ捨ててきたらしい。優秀な助手の働きに博士はひっそりと笑みを零す。
「戻るぞ。乗れ」
 ドアに付いていた血を白衣の裾で拭ったあと、博士はするり、と運転席に乗り込んだ。
 エンジンが掛かりっぱなしの車内は暖房が効いているのか、暖かい。
「河に落とされたら堪らないからな」
 何かを言いかけたジェイソンを制して博士は言った。
 明らかに嫌味が含まれているが、博士は心底楽しげだ。サフィに逃げられたことはもう気にしていないのだろう。
 ジェイソンは沈黙の後、黙って助手席へと回った。
 鈍い振動が全身を伝っていく。
「お前も検査が必要だな」
 ハンドルを握る白い手。ジェイソンは真っ直ぐ顔を前に向けたまま身動きしない。そんなジェイソンの様子に、なにが面白いのか、博士は喉の奥で低く笑う。
 ブーツの固い底が、アクセルを踏む。手入れされなくなって久しい通りは平坦ではなく、車体が上下に揺れる。
 下火となった教会を燃す炎を背に、一台の黒い車は闇の中に消えていった。






H20.1.23