Mad Doctor Revenge

[ 狂った博士の再挑戦 U ]






「これでは灰かぶり(シンデレラ)だな」
 有名な童話を思わず思い浮かべて呟く。
 それからゆっくりと顔を上げてみれば、荒れ果てた大地に立つサフィの姿が映る。廃墟を背にし、憎悪に燃えるその眼差しに、知らずのうちに口元が緩むのを止められない。
 色を変えるスペクトル。
 様々な感情が蠢く瞳。
 博士は知る。サフィの歩んできた生き様を。それゆえ、その眼球が何物にも変え難い、至高(サフィ)に相応しい一品であることを。
 強い感情が込められた視線が博士だけを映す。その事実に博士は酷く満足げだった。
「これが欲しいのかい?」
 指先で筒を摘まみ、中の眼球を見せ付ける。
「お前がこんなものを手にしてどうする? 彼女の形見にでもするつもりか?」
 嘲笑うように言葉を投げつける博士に、サフィは唇を噛み締め、今にも飛び掛らんばかりに姿勢を低くする。
 より一層、憎悪の炎が燃え上がるのを博士はうっとりと見つめる。
「殺してやる」
 低く呻くように搾り出された呟き。
「眼球狂いめっ! 生まれながらの化け物!」
 鼓膜を打つ、憎悪が含まれた呪いの言葉。
「人ならざるお前に化け物と称されるなんて光栄だよ」
 最高の賛辞だと博士は口元を綻ばせる。
 どんな憎悪の、嫌悪の、呪いの言葉でさえも、博士にとっては意味をなさない。
 全ての言葉は賛辞と喝采に変わるだけだ。
「もっとも、私を恨むのは筋違いだと思わなくもないか? 彼女がこうなったのは、お前のせいだろう?」
 コツンと、筒に銃口を当てる。背後の炎に照らされ、筒の表面に紅い光が踊る。
 熱を宿した風が博士の脇をすり抜けて、黒く汚れた白衣の裾を持ち上げた。
「お前は自分の力に過信していた。人間でしかない私など容易く退けられると。所詮は戯言(たわごと)でしかないとそう思っていたのだろう。私が何度警告を与えてもお前はそれを無視し続けた。その報いがこれだろう。彼女が最後になんと言っていたか知りたくはないか? お前の同じスペクトルの虹彩を滲ませ、断末魔の叫びと共に漏らした最後の……」
「黙れ! 狂人めっ!」
 博士の饒舌を遮ったのは、悲鳴に似たサフィの叫びだった。
 炎の蠢く音が耳鳴りのように響く。
 博士は口を閉ざし、サフィは表情を歪ませていた。
 生き物の気配が遠い。
「なぜ……」
 苦痛が滲み出る。やっとのことで吐き出した言葉は掠れて、口の中で消える。
 理由など問いたところで何の意味もないのは分かっている。
 サフィは彼女を見ていた。人ならざるもの。スペクトルを持つ同属。
 サフィの目は彼女を映し、彼女の目はサフィを映していた。
それが、博士にとっては面白くなかった。博士はサフィの眼球に恋焦がれ、手にすることを望んでいたから。
 自分を見ずに他を見る至高(サフィ)の眼球に、博士は焦れた。そして、その目を自分に向かせる方法を考え実行した。
 眼球喰らいの狂人。
 彼女を言葉にするのもおぞましき残酷な手段で殺し、その目を奪い、サフィに見せ付けるためだけにホルマリン漬けにした。
 サフィの目を自分に向けるためだけに。
 赤から青へ、黄色から緑へ。鮮やかに色を変えていくスペクトル。
 博士は夢見心地でそれを見つめている。潤んだ瞳、上気した頬。漏れる吐息は艶を含み、燃えつくさんばかりの熱い眼差しを送っている。
 世にいるどんな男をも陥落させる人形めいた容姿が、現実味を持ってそこに存在している。
 サフィが、身体を前に倒すように低くする。ばねのように縮まった身体が、弾ける。
 次の瞬間には、その姿は博士の目の前に現れる。
 甲高い金属音。白衣の裾が千切れ風に舞う。
 鋭く伸ばされた爪が、博士の喉笛を引き千切ろうと振るわれ、いつの間にか姿を消した筒の代わりに手の内に宿っていたナイフがそれを止める。
 接近戦を避けたい博士は銃口を向けて、サフィを遠ざける。
 だが、銃弾の被弾を承知で博士の懐に飛び込んできたサフィは、尖った牙を剥き出しにし、博士の腕を掴んだ。
「ぐっ……」
 詰まったような呻き声はサフィの口から漏れた。
 博士の底の厚いブーツがサフィの脇腹を抉る。それと同時に火を噴く銃口。
 放たれた鉛玉を避けるサフィを追うのはナイフの群れ。
 息付く間も無く繰り出される攻撃にサフィは下がるしかない。
 再び、距離を取って対峙する二人。
 博士は銃を握った手で、サフィに掴まれた腕を撫でる。鋭い爪に引っかかれ肌を傷つけたらしい。紅い染みが広がっていく。
 うずくような痛み。傷はそれほど深くないが、あと少し足蹴りするのが遅かったら、以前――数ヶ月前にとある町でサフィを追い詰めたとき――のように腕を持っていかれたかもしれない。
 博士は微かに乱れた息を整えるように大きく息を吐いた。
「また腕を取るつもりだったのか? 確かに、人間である私はお前のように鋭い牙を持たない。銃にしろナイフにしろ、手がなければ扱うことが出来ない。ゆえに、両の腕を奪われれば私に為すすべはない。なかなか、正しい選択と言えるか」
 甲高い金属音と共に昇る白煙。言葉の間に飛び交う雑音。
 穏やかな口調に反して、物騒な物音が響き渡る。
 燃え盛り、黒煙を闇に包まれた空へと上げる教会。
 白いはずの白衣は煤に汚れ、ところどころ血が散っている。
 痛みを感じていないはずはないのに、博士は微笑む。楽しげに、愉快に、この世に憂いべきことはないとも言うように、微笑む。
 きっと死の間際でさえ、博士は笑っているだろう。
 狂え違えた、眼球狂いは――。
 銃を使う博士と違って、己の爪と牙以外に武器を持たないサフィにとって距離があることは致命的だ。
 力づくで押さえ込めば、人間の身である博士を引き裂くことは容易く出来るだろう。
 だが、傍に寄ることは簡単なことではない。白衣の内側に何を潜ませているか、分からないのだ。迂闊に近付けば引き裂かれるのはサフィの方だ。
 博士はゆっくりとサフィに歩み寄る。万人が美しいと見惚れる微笑を湛え。その笑顔に気圧されるように、じりじりとサフィが後退していく。
「彼女は最後までお前の名前を呼んでたさ」
 博士は言う。

「血反吐を吐きながら、苦悶の表情を浮かべながら。お前の名前をずっとずっと、息絶える瞬間まで――」

「黙れ!」

「喉を潰そうかと思ったが、彼女の声はそれほど嫌いではなかったからな。声が徐々に小さくなっていくんだ。眼球の光が少しずつ弱くなっていくのをずっと見ていた」

「黙れ!」

「あの穏やかな目に絶望が宿ったのが分かった。呼んでもお前は来ない。そう悟って彼女は――」

「黙れ! 眼球狂い!」

「――絶望しながら死んでいった」



『博士(ドクター)は貴方が言うほど酷い人間じゃないと思うわ』



 彼女がそう言ったのはいつのことだったのか。
 彼女は博士を信頼していた。猜疑心を持っていたサフィに対して博士を庇うようなことを口にしていたことも一度や二度じゃない。
 なのに――。
 一層、サフィの目に宿る憎悪が増されたのを博士は見ていた。
 かつて、彼女だけを映していたサフィの目は、今は博士だけを見ている。神秘的な光を宿す瞳が博士だけを見ている。
 博士以外を見ることは最早、出来ない。憎しみに彩られた心は、博士を引き裂くことしか考えられない。
 その目を綺麗だと思う。
 憎悪という強い感情に占められた眼球。最愛の者を奪われた絶望に満ちた眼球。
 彼女の命を博士が奪った瞬間、その眼球は本当の意味での至高の眼球となった。
 世界で最も素晴らしい眼球に――。
 博士は銃身を構え引き金を引く。
 サフィが飛び離れる。
 博士は笑いながら、引き金を引く。
 サフィは憎悪の炎を揺らしながら博士に迫る。
 空を切る爪先と、宙を飛ぶ鉛玉が交差する。
 互いの瞳が互いだけを捉え、思考は全て相手の一挙一動だけに注がれ、頭のてっ辺からつま先までの全てが対するものに向けられて。
 地響きが轟いたのはその瞬間だった。







H20.1.19