Mad Doctor Revenge

[ 狂った博士の再挑戦 T ]






「さて、一つ、問いかけてもいいかな?」
 鈴の音を思わせる声が、凛と響いた。
 乾いた風が頬を打ち、切り揃えられた髪の一房を揺らす。今宵の欠けた月は、厚く覆われた空の向こうに姿を消し、暗闇が世を支配する。
 女が一人、茂みを掻き分けるようにして歩いていた。
 その行く先を照らすのは、細く白い指が持つ一本の蝋燭(ろうそく)だけ。
 女にしては長身の部類に入るだろうか。セミロングの艶やかな黒髪。白い肌は蝋燭に照らされ淡く色を染めている。長い睫に彩られた双眸は鳶色(とびいろ)。ふっくらと色づいた唇は濡れるような色を宿していた。
 華奢な身体を包むのは白衣だ。性別を象徴する豊かな胸の膨らみが布越しに露(あら)わになっている。
 博士(ドクター)。
 自他共にそう呼ばれる彼女は、優雅な歩みで進んでいく。
「今、私は一人だ。これはお前の鋭い嗅覚と聴覚で明らかなはずだ。生活臭が漂う町中ならば兎も角、野において、お前の感覚を遮るものなどないはずだろう。それなのに――」
 博士は足を止めて探るように周囲を見渡した。細められた眼差しが何かを探すように左右に振られる。
「三十六分と十二秒経過した現在でも、何も仕掛けてこないとはなぜだ?」
 冷ややかな風が吹いた。風は草の上を走り、博士の白衣を撫でる。黒髪が舞い、博士の視界を一瞬覆った。
 紅い笑み。蝋燭の光に照らされ、より一層、色づけられた唇が弧を描く。
 博士は再び、歩を進めだした。底の厚いブーツが草を踏む。
 そこは廃墟のようだった。群れだった建物の殆どは半壊し、蔓(つる)が巻き付き、苔(こけ)がむしている。かつて、家具として使われていたであろう物達が無造作に打ち捨てられ、長らく雨風に当てられていたのか、朽ち果てる寸前と化していた。
 蝋燭がじりじりと熱気を放ちながらその長さを減らしていく。
「時間が経つごとに不利になるのはお前の方だろう? 私の助手が来れば――遅刻の最高記録を更新するつもりでなければ、遅くとも、あと二十八分と五十六秒以内に到着すると私は予測するのだが」
 右手首につけた金の腕時計に視線を走らせ、呟く。
 立ち並ぶ廃墟の一つ。
 かつては教会として信者の拠り所となったであろう。傾いた十字架が屋根から落ち、地面に転がっている。崩れた塀の間を抜けて、迷うことなく博士は先を目指す。
 端から目的地が定められているかのように。
「私なりの推測をすると、お前が仕掛けてこない理由は三つ。一つは、私など相手にせずに遠くへ逃げようとしている。だが、未だにお前がこの地に留まっていることから、それはないと判断する」
 頑丈な造りだったのか。まだ朽ちてはいない教会の扉を白い手が押す。
 鈍い音を響かせ、扉は僅かに開かれた。
 その隙間を博士はすり抜ける。
 教会の中は雨風がそれほど吹き込むことがなかったのか、一列に並べられた椅子は今も形を残している。厚く積もった埃(ほこり)が、一歩踏み出した途端、宙に舞い上がった。
 正面の壁の窓ガラス――ステンドグラスは割れ散り、風が悲しい音色を奏でている。
 石造りの床に足を踏み入れれば、高く響く足音が生まれた。
「もう一つは、お前が私を警戒していると言うことだ。これは大いにありえることだな。私が何かを隠し持っているのではないか。そう警戒している。それゆえ、仕掛けるのを躊躇(ちゅうちょ)している。一番ありえそうな理由だ」
 高い天井。壁には十字架が掲げられ。祭壇の両脇には何かの神を象ったらしい石像が置かれている。
 もとは赤かったのだろう絨毯は汚れ、褐色に染まっていた。
 右手の蝋燭の光が教会の内部を淡く照らす。左手はいつの間にか白衣のポケットの中に姿を隠していた。
 博士は前を見据えたまま、教会の奥へと進んでいく。
 色とりどりのガラスが巻き散らかされた祭壇の周り。小さな炎に照らされキラキラと光を反射している。
 博士はその欠片に目を移す。
 火の色に浮かび上がるガラス片はどれも皆、同じ様な色を宿しているように見えた。
 博士は顔を上げた。いびつな笑みがその顔を縁取る。
「最後の一つは、お前が何かを企んでいるかだ」
 告げたのと、今の今まで祭壇の脇に鎮座(ちんざ)していた石像が博士に向かって倒れてきたのはどっちが早かったのか。
 轟音(ごうおん)と共に舞い上がる埃(ほこり)。
 最前列に置かれていた木の長椅子が巻き込まれて砕け散る。
 弾かれた様に転がった蝋燭。
 火の手が上がった。それは扉から長く続く絨毯に引火した。炎が床を走り、黒煙が天井へと集っていく。
 瞬く間に、火は教会内部に広がっていく。近辺は数日、雨が降っていなかったせいで酷く乾燥していた。
 火は長椅子へと移り、更に勢いを増していく。
 すでに視界は煙で満ちて、僅か、数メートル先さえ見渡す事ができない。
 床を、壁を、天井を、火が舐めていく。灼熱の赤い波が人間の創造物を蹂躙していく。
 轟々と耳鳴りのように響く炎の歌。
 その歌を掻き消す甲高い金属音が響き渡った。
 黒い影が炎の中を駆ける。それを追う様に着弾する鉛玉。
「甘いな」
 響く鈴の音。炎の中に現れる姿。
 埃で黒く汚れた白衣が炎になぶられる。強く踏みしめたブーツは燃え盛る絨毯を踏みにじり、白い肌には煤(すす)が斑(まだら)模様(もよう)を描いている。
 裂けた白衣の裾。どこかに傷を負ったのか、紅い染みが滲(にじ)み出ていた。
 博士は熟れた紅い唇を歪めた。浮かぶのは笑み。
 左手に握られているのは小銃。それは真っ直ぐ、前方へと向けられている。
「意表をつく、なかなかの良い手だが決め手には掛ける。もし、私があの場所まで来なければ、なんの意味もなさなかった」
 炎が博士を取り巻くが、その身を包む事はない。渦を描きながら、博士を取り囲む熱は、博士に触れることなく上へとあがっていく。
 まるで炎が博士を避けているかのようだ。
 銃口の先。微かに開かれた扉の前に立つ者。
 明るく照らす火がその姿をはっきりと浮かび上がらせる。
 男だった。まだ若い。博士よりも幾つか年上に見える。
 教会内を支配する灼熱を宿す炎と同じ色の唐紅(からくれない)の短髪。
 無駄なく鍛え上げられた鋼の肉体を黒い衣で覆い、大きく開かれた胸元には引き攣ったような傷跡が見える。
 精悍な容姿はどこか作りものじみていて、冷徹さを感じさせた。
 男は飛び掛る寸前の黒豹のごとく、姿勢を低く構えて注意深く博士を射る視線を送っていた。
「サフィ」
 甘い囁き。愛しさが込められた呟き。
 博士の視線は男の目に向けられていた。
 スペクトル。時と共に色を変える男の虹色の虹彩。虹の帯が瞳孔から外側へと広がっていく。どんな生き物でもありえない、スペクトルの瞳。切れ長の双眸は猫のように縦に瞳孔が割れていた。
 博士はうっとりとそれを見つめる。
 炎に照らされた白い頬が興奮に染まっていく。
「あぁ、サフィ。またお前と会えて私は嬉しいよ」
「…………」
 男――サフィの歯の隙間から漏れる唸り声が、炎の歌を遮る。
 二人の間に燃え盛る炎。炎の向こうに浮かぶ、互いの姿だけを見つめる。迫り来る熱さえも最早、目に映っていないようだった。
「再会の挨拶もないとは連れないな」
 首を竦めて残念そうに呟くが、笑みは消えない。
「会いたかった。私のサフィ」
 紅い弧を描く唇が愛しいものの名を紡ぐ。
 紅潮した頬に潤んだ瞳。恋する乙女のように夢見心地の眼差しがサフィを見つめる。
「彼女の目はどこだ」
 唸り声に混じった低い声音。
 博士は眉を顰めた。
 サフィは、一瞬の隙も見逃さんとばかりに突き刺すような視線を刺し続けるが、僅かながらその視線が揺れ動く。博士の白く細い首から、豊かな胸へと降りていく。
 その視線の意味を悟って博士は声を立てて笑った。
「なんのことかと思えば……これのことかい?」
 白衣のポケットから取り出されたのは、円柱の筒。じゃらりと、鎖が垂れ下がっている。
 黒い覆いに包まれたそれは博士の手の中で転がる。
 サフィの目付きが変わったのを博士は見逃さなかった。
 どこか、不満げな笑みを称え、博士は目の前の最愛の至高(サフィ)を見やる。
 見せ付けるように手の平で弄びながら、油断無くサフィに意識を注ぐ。
 もったいぶった手付きで黒い覆いをはずしていく。手の平でトクン、と液体が揺れた。
 同じ色。
 時と共に鮮やかに色を変えるスペクトル。
 その筒に収まっていたのはサフィと同じ虹彩の眼球だった。
 隙間無く満たされた液体の中に浮かぶ眼球。それは既に何物の形を映す事も無く。ただ、そこに存在するだけの欠片と化していた。
 持ち主から奪われ、ただの観賞物と成り果てた丸い物体は筒の中で浮き沈みを繰り返している。
 博士はその筒を口元に寄せると、口付けを与える。
 それはまるで神聖なる儀式。周りを取り囲む炎さえ、場を演出するためのものでしかないようだった。
 焼きつく、炎の煙が二人の視界を幾度となく遮る。
 石造りの頑丈な建物だ。焼け落ちることはないが蒸し焼きになるのは避けられない。
 肌を焼く熱気に先に音を上げたのは博士だった。一方の手に筒を握り締めたまま、もう一方の手で銃身を構える。引き金に掛けられた指が引かれる。
 目に見えぬ速さで飛んできた鉛玉を難なく避けると、サフィは外へと飛び出した。
 博士も白衣の裾をひるがえす。散らばる椅子の残骸を蹴散らし、ブーツの底が炎を踏む。博士は後を追って教会から抜け出した。
 遠のいた熱気。髪を撫でていく風が涼やかだ。
 博士は手の甲で白衣の表面を撫でる。黒ずんだ白衣を見て博士は首を竦めた。







H20.1.15