Mike Death Remove

[ マイクの死の引越し V ]






 夕食後、マイクは自室で何するでもなく、じっとしていた。
 古びた椅子に座り、傷だらけの机に頬杖をつく。
 狭いながら、様々なもので溢れた室内。部屋の荷物も少しずつ片付けていかなければならない。
 博士は、ああ言っていたが、やはり簡単に納得できることではない。
 マイクは生まれてからこの町を出たことがないし、生まれ育った町を出る人間はそう多くもない。
 出たとしても、最終的には帰ってくる場所として位置づけられるが、マイクはこれから行く町を新たな故郷とするのだ。
 友達は出来るだろうか。仲間はずれにされたりしないだろうか。
 考えれば考えるほど、気が重くなっていく。
 ふっと、何かがぶつかるような音が耳に届いた。
 最初、マイクは階下で何かやっているのかと思った。それにしては、はっきりと聞こえる。
 コツン、コツンと硬いモノが当る音。
 マイクは椅子から立ち上がった。
 窓に何かがぶつかっている。
 きっちりと閉じられたカーテンを僅かに開けて、カーテン越しに外を覗いた。
 静まり返った町並みを星が見下ろしている。家々を照らす電灯も消えつつある。
 マイクは視線を下(さ)げた。
 ぽつん、ぽつんと間を置いて設置された背の高い電灯。
 マイクの部屋の窓側には電灯は設置されていない。そのため、通りから漏れてくる明かりが 薄暗く路地を照らしている。
 そんな遠い電灯の明かりの中に浮かび上がっていたのは――。
 マイクは窓を開けた。夜風が吹き込み、カーテンを舞い躍らせる。
「博士っ!?」
 思わず声を上げたマイクに、窓を見上げるように立っていた博士が人差し指を口元に寄せる。マイクは慌てて両手で口元を塞いだ。
 そこにいたのは博士だった。
 こんな時間にどうして。
 博士は右手を上げて無言で手招きをする。
 迷ったのは一瞬。マイクは部屋を飛び出した。
 足音を殺して、階段を降りる。両親にばれたら厄介だ。
 幸いにも両親は引越しの手筈の打ち合わせをしているらしく、マイクが降りてきたことに気付いていないようだった。
 細心の注意を払って玄関の扉を開けて外に出る。
 通りの直ぐ脇に博士は立っていた。白衣が風に煽られ、なびく。
「……博士」
「夜、遅くに悪かったね」
「いえ……」
「ちょっといいかな?」
 通りの奥のほうを差して言う。そっちに移動しようと言うことらしい。
 咄嗟に出てきてしまったが、一体何の用だろうか。
 不安な気持ちが表情として出たのか、博士は首を竦めると、
「渡したいものがあるんだが」
 ここだと、いつご両親に見つかるか分からないだろう、と付け加える。
 別に見つかっても構わないような気もするが、面倒なのは間違いない。
 しかし、夜更けに出歩くというのも躊躇いがある。
 マイクが躊躇(ちゅうちょ)している間に、博士は路地の奥に向かって歩を進めだした。
 結局、マイクは博士の後を追い歩き出す。
 路地の奥。夜なら人が通ることのない裏道。そこまで来ると博士は足を止めて振り返った。
 暗闇のせいか。博士の顔が一瞬見知らぬ人に見えて、思わず距離を取る。
 警戒する必要なんて無い。博士なのに――。マイクは自分自身の行動に疑問を持つ。
 そんなマイクの心中など知らないのだろう。博士は穏やかな微笑を浮かべている。
 ポケットに入れられた左手が出てくる。その手に握られていたのは、最初に会った日に博士がしていた伊達眼鏡だった。
 それを慎重な仕草で掲げると、マイクに歩み寄り、その小さな手に乗せる。
「これを……」
「えっ!」
 手に握らされた細いフレーム。マイクは目を瞬かせて博士を見上げる。
 その目に浮かぶのは困惑。
「あの……」
「引越し祝い、ということにしておいてくれ」
 眼鏡は高価なものだ。例え、それが伊達だとしても。子供であるマイクにだってそれくらい分かる。
「珍しかったのだろう?」
「でも……」
「子供は遠慮するものじゃない」
 博士は笑う。はっきりと顔が見えない薄暗闇の中、紅い唇がつり上がったのが分かった。
 ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
 身体が強張る。なぜだか分からない。
 目の前にいるのは博士だ。


 電灯の下に立って、「こんばんは」と言う博士。
 マイクが今まであった誰よりも綺麗な人。
 白い白衣を纏った不思議な人。
 高価な眼鏡を引越し祝いだからと手渡した人。
 博士は笑う。
 風がその黒い髪を打ち、目元を隠す。
 マイクの目には鮮やかな唇の紅が焼きつく。
 誰だ。これは誰だ。


 マイクの本能が警鐘を鳴らす。
 しかし、マイクはその意味が分からない。
 自分の体が強張っている意味も、鼓動が早まっている意味も、冷たい汗が沸き起こる意味も――。
「その代わり……頼みがあるのだが」
「た、のみ?」
 どうして声が震えているのか、それさえも――。
 博士は笑った。
 万人が美しいと称える笑みを浮かべ、万人が見惚れる艶やかな笑みを形作って。
「君の眼球をくれないか?」
 血の気が引くのが分かった。
 無意識に、本能的に足が後ろに引いた。


 ――分からない。
 博士の言葉の意味も、身体が震える理由も、歯の根が噛み合わない理由も、全部、全部、全部、全部、全部――分からない。


 わけが分からないまま、マイクは反射的にその場を離れようとした。
 ここから離れなければ、それだけが脳裏を占める。
 全ての生き物が生まれ持った危険回避の本能だった。だが、それは少し遅すぎた。
 手から眼鏡が落ちて、石畳を打つ。その小さな物音さえ、耳に強く響く。
 いつの間にか、博士の手の内にあった銀のメス。研ぎ澄まされたその切っ先が煌(きらめ)く。
 それが、身体を反転させかけたマイクの胸の中に吸い込まれるように刺さった。まるで、パンにナイフを突き刺すように。
 マイクの心臓を貫いた。
「ひぃっ……」
 引き攣ったような呼吸音。
 メスを回すように、抉るように引き抜く。紅い液体が散る。
 開かれたマイクの口。その奥から絶叫が漏れる前に。
 再度、引かれたメスの先。
 それはマイクの喉を横に引き裂いた。
 痛みもなにも感じる暇さえなかった。
 無言の絶叫。
 吹き零れる紅い液体。
 博士の白衣を、手を、顔を、紅く染める。
 崩れ落ちる小さな影。
 何かが割れる音。それが、博士の底の厚いブーツが、石畳に落ちた眼鏡を踏み砕いた音だと、マイクは認識できただろうか。
 紅を引いた唇が弧を描く。
 鳶色の瞳が見つめていた。
 それが、マイクの最後の記憶だった。


                                ◆◆◆◆

 口の中に満ちる粘着質の液体。
 博士は恍惚の表情でそれを嚥下する。
 足元には血溜まりと、その中に横たわる少年。
 息絶えた少年の眼窩は空洞。千切れた視神経がその頬に線を引くように垂れ下がっている。
「博士(ドクター)」
 抑揚のない声が唐突に掛けられた。
 いつからそこにいたのか。夜の闇から姿を現した一人の男。
 裾の長い黒の外套。短く刈った銀色混じりの灰色の髪。胸元には銀のロザリオが揺れている。
 そして、その両目を隠すように巻かれた、白い包帯。
 完全に塞がれた視界。きつく巻かれたそれは一切の光も通さないだろう。
 博士はゆっくりと、男の方を振り返った。
 男は少年の亡骸に視線を向ける素振りをする。物言わぬ骸と果てた少年は空となった眼窩を夜空へと向けている。
「もう少し成長してから……」
「あぁ、そんなこと言ってたかな」
 手に付着した透明な雫を舐めながら答える。
 紅い舌が白い指先の間を伝う。
「なぁ、ジェイソン。オスタムを知ってるか?」
「ここから北東に山二つ越えたところに新しく開かれた鉱山都市」
 ジェイソンと呼ばれた男は辞書を開くように淡々と答えた。
「そこに引っ越すことになったようだが……鉱山近くの環境は最悪だ。水は汚れ、煙が宙を舞う。折角の眼球も瞬く間に穢れてしまうだろう。本当は、もう少し大きくなるまで待ちたかったが、致し方あるまい」
 煙で汚れては惜しいから、その前に喰らったのだと、博士は無邪気に笑った。
 薄闇の中に浮かび上がる笑み。頬に散った赤が鮮やかに浮かび上がる。
 ジェイソンは黙って、無い目を博士とその足元に転がる少年の亡骸に注ぐ。
 その視線に気付いたのか。
 博士は一歩、ジェイソンに歩み寄った。
「何か言いたげだな?」
「…………」
「あぁ、嫉妬か? 心配しなくとも、確かに美味かったが、お前の眼球ほどではなかった。お前の眼球は至高(サフィ)を別として私の中では一番だった。誇ると良い」
 厳かに告げて、血にまみれた指先を包帯で隠された眼窩へと伸ばした。
 僅かに自分より高いその背に合わせるように、つま先を立たせる。
 紅い線が白い包帯に描かれる。
「お前のように素直に眼球を提供してくれるのなら、わざわざ殺す手間を掛ける必要はないのだがな」
 漏れたのは溜息に似た吐息。
 ジェイソンは身動きしない。顔の半分が包帯で隠されているため、その表情を読み取ることは出来ない。
 首から吊るされたロザリオが揺れる。
「博士」
 吐かれた低音。
 博士は手を引っ込める。
 伸ばされたジェイソンの手。
 細く白い博士の手と違い、無骨で傷だらけの手。
 その指が掴んでいたのは白いハンカチだった。
「汚れてる」
 一切の感情を含まない声が告げる。
 博士は拍子抜けしたように、ジェイソンの顔とその手の内のハンカチを交互に凝視した。
 そして、破顔する。
「言いたいことはそれか」
 笑いながら、ジェイソンの手からハンカチを受け取り、指先を拭う。
「見えないのに良く分かるものだ。私の目に狂いは無い。やはり、お前は最高の助手だ」
 その言葉に、ジェイソンは黙って頭を垂れた。
 博士は満足そうにその様子を見つめる。
「さて、疲れた。後片付けは任せたぞ」
 博士は踵を返した。白衣の背中が闇の中へと消えていく。
 残された男は、無造作に倒れている少年――マイクの亡骸に、息絶えたばかりのまだ体温を残すそれに、ゆっくりと見えない視線を向けた。


                              ◆◆◆◆


 小さな商業都市で起こった小さな事件。
 十二歳になったばかりの幼い少年が姿を消した。
 近く引っ越す予定だったため、それを嫌がった少年が家出したものと当初は思われていたが、少年の足取りは一切つかめず。
 小さな町の小さな新聞の一面を賑わした事件は、時と共に忘れ去られていった。



「博士(ドクター)」
 電灯の下、浮かび上がる白衣の女。
 急ぐでもない足取りで寄ってきた、黒い外套を身に纏い目を包帯で覆った男。
「一分二十三秒の遅刻だ」
 右手にはめた腕時計を見やって、女――博士は言う。
 男――ジェイソンは遅れてきたことを謝ることなく、懐から取り出した封書を差し出した。
「教授(プロフェッサー)からです」
 その言葉に博士の顔が一瞬、不快気に歪んだのは気のせいではないだろう。
 右手でそれを受け取ろうとして、何を思ったか左手を上げて受け取る。
「痛みますか?」
 事務的に問うジェイソン。
 博士は淡く微笑み、右腕に視線を落とした。
「いや、良好だ」
 白衣の裾が風で舞い上がる。
「それで、見つかったのか?」
 ジェイソンは頷く。
 博士はその答えに満足げに頷いた。
 いつの間にか右手の内に宿ったナイフ。それが左手に持っていた封書を引き裂く。
 読まれることなく切り裂かれた封書は手を離れ、風に舞う。
「では、行くか」
 ブーツの底が石畳を打つ。
 ひるがえる白衣。その後ろをついていく男。
 二つの影は町の闇に飲まれた。







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