Mike Death Remove

[ マイクの死の引越し U ]




 夕食後、マイクはリビングの机の上で宿題を広げていた。
 それほど、物が多くもなければ少なくもない。適度に片付けられた室内。
 足元には絨毯が敷かれ、壁には絵画が飾られている。
 この町において標準的な家庭環境。貧しくもないが豊かでもない。それがマイクの家だ。
 母親は台所で洗い物をしている。父親はソファーに座って新聞を読んでいる。いつもと変わらぬ夕食後の光景だった。
「謎の失踪事件か」
 紙面を眺めていた父親がポツリと呟いた。
「一昨日に隣町で一人。先週は川の向こうの町で二人。位置的には次はこの町か」
「物騒なことを言わないで下さいよ」
 父親の独り言を咎めて、洗い物を布巾で拭いていた母親が言う。
 失踪者など、そうそう珍しい話ではない。貧しい生活に嫌気が差して姿を晦ますもの、都会に夢を見て旅立つもの。そう言った人間は昔からいるものだ。
 死体が出たなら兎も角、単なる行方不明者なら騒ぎになることもない。
 小さな町の小さな新聞社の記事でもなければ取り上げられもしない話だ。
 だから、マイクは気にも留めることなく、黙々と宿題を仕上げていた。


                        ◆◆◆◆


 翌日も授業が終わったあと、マイクは友達と鐘の音が鳴るまで遊んでいた。
 暮れなずんだ道をマイクは駆ける。いつもよりも、少し遅くなってしまった。軽く息を切らしながら、マイクは薄暗闇に包まれた大通りを抜けていく。
 そして、小道に入る電灯の傍を通りかかった時だった。
「あっ!」
「こんばんは」
 思わず声を漏らしたマイクに、昨日と同じ場所に立っていた博士は微笑みを浮かべた。
 穏やかな美しい笑み。思わず、足を止めてマイクは見惚れてしまう。
 昨日の伊達眼鏡が白衣の襟元に引っ掛けられている。
 背を電灯の支柱に預け、両手を白衣のポケットに仕舞いこんでいる立ち姿。闇の中に浮かび上がる白衣。
 頭上から照らす光が、そこが博士の立ち位置だと告げているようだった。
 マイクは博士に近付くと、会釈をした。
 博士は小首を傾げる。艶を宿す黒髪がさらり、と頬を撫でていく。
「マイク、今日は昨日より遅いようだが?」
「えっ……ちょっと遊ぶのに夢中になっちゃって」
「時間を忘れて物事に集中することは良い事だが。時間を守れぬようでは良い大人にはなれない」
 博士は右手をポケットから出し、目を細めた。
 ほっそりとした手首につけられているのは金の腕時計。
 電灯の光を反射し煌く。その表面に視線を走らせる。
「人を待っているの?」
「あぁ。時間にルーズなやつでな。いつも遅れてくる」
 言葉では怒っているが、口調は至って暢気なものだ。
 いつの間にか、ポケットから抜け出していた左手が腕時計の表面を軽く叩く。吊り上げられた口元は楽しげだ。
 待ち人はどうやら博士と親しい人物らしい。
 マイクはふっと記憶を辿る。昨日、振り返ったときに見えた男がその待ち人なのだろうか。
 博士は妙齢の美しい女性だ。恋人がいてもおかしくはない。
 マイクは周囲を見回した。
 薄暗くなりつつある通りの人影はまばらだ。
 その中から、博士の待ち人らしき人物を探そうとする。行き交う人々は家路へと急いでいるのか、こちらには目もくれない。
 微かに空気が和らいだ。その気配を肌で感じて博士の方を振り返れば、博士は声を殺しながら笑っていた。
「マイク君。私の連れを探してくれるのはありがたいが、帰らなくって良いのかね?」
「えっ? ……あっ!」
 空を見上げれば、すでに日の名残は遠い。すっかり、遅くなってしまっている。
「最近は物騒な話が多い。気をつけて帰るといい」
「はい」
 マイクは博士に手を振ると、家に向かって駆け出した。
 家の扉を開ける前に通りを振り返ると、変わらずそこに博士はいた。
 あんな綺麗な人を待たせるなんて、酷い人だと思う。
 ふっと、マイクは不思議に思った。
 博士はどうして、マイクの名前を知っていたのだろう。
 そう疑問には思ったが、知らないうちに名乗ったのかもしれないと思い返し、マイクはもう一度、通りに目をやった。
「あれ?」
 明々と照らされる電灯の下には白衣の姿はなかった。
 待ち人が迎えに来たのだろうか。その姿を見ることが出来ず、なんとなく残念に思いながら、マイクは家の中に入った。


                         ◆◆◆◆


「えっ……引越しって」
 夕飯のあと、話があると両親に言われ、ソファーに座らされたマイクは父親のその言葉に目を瞬かせた。
 向かい側に腰を降ろした父親は、コーヒーの入ったカップを手にしながら頷く。
「仕事の都合でな」
 父親が新しい職に就くことになった。知人の紹介で持ちかけられた話で今よりも稼ぎが良くなるし、またとない良い話だと、父親は嬉しそうに言う。死ぬまで同じ職に就き続けるのが当たり前という中で、職が変われるチャンスはそうない。
 だが、あまりにも突然の話にマイクは言葉もなかった。
 慣れ親しんだ町と友達と別れ、見知らぬ地へと行く。引っ越すなんて冗談ではない。マイクにとって、この町が全てだ。
 だけど、マイクがこの町で生活していられるのは父親が働いているからで。父親だけでなく、母親もこの話に賛成を示している。
 我が儘は言えないし、反対したところで無駄だ。マイクは黙って頷いた。


                          ◆◆◆◆


 翌日から、マイクの母は荷物をまとめ始めた。マイクも準備をするようにと、木箱を渡された。 だが、そんな気にはならず、マイクはいつも通り学校へと向かった。
 友達にも話さなければならない。分かってはいるけど言うに言えず、そんな状態で遊ぶ気にもなれず、マイクは一人でぶらぶらと時間を潰していた。
 鳴り響く鐘の音。帰宅を告げる甲高い音。
 黄昏に染まる町並み。
 この十二年間、当たり前のように見てきた町を去る。
 何となく物悲しい気分になって、足取り重く、マイクは自宅へと歩いていた。
「こんばんは」
 掛けられた声に驚いて顔を上げれば、いつもの電灯の下で博士が微笑んでいた。何度見ても、見飽きることのない美しい顔。
 知らない間に、ここまで歩いてきていたらしい。
「……こんばんは」
 力なく言葉を返す。いつもと様子が違う事に気が付いたのか、博士が怪訝そうな表情を浮かべた。
「何かあったのかい?」
「…………」
 尋ねられて口籠ったのは僅かな時間だった。
 マイクは引越しのことを博士に話した。
「ここを離れるのが嫌なのか?」
 その問いに、マイクは首を振った。
 新しい町に対する希望というのも持っている。だが、上手く表現できない嫌なものが胸の内に宿っているのだ。
 博士はマイクの縮れた赤毛を撫でると、
「新しい場所で生きることは分からないことだらけだが、誰もが一度は通る道だ」
 諭(さと)すように告げる。
 耳に心地良い声と優しく撫でる指先。黒い髪が肩越しでサラサラと流れ、鳶色の瞳が細められる。
「博士も通った道?」
「……あぁ、私も通ったさ」
 穏やかな微笑み。マイクは釣られて笑みを零した。
「親御さんが心配する。帰りなさい」
「うん」
 大きく手を振ってマイクは走り去る。その後ろ姿を博士は笑みを浮かべて見つめている。
 マイクが家の中に入るまで博士は電灯の下に立ち尽くしていた。




H19.11.28