Mike Death Remove
[ マイクの死の引越し T]
空が赤く染まっている。
甲高い鐘の音が五回、空へと響き渡った。低い振動が空気を伝わる。
山の向こうに太陽が隠れ、夜の訪れを誘う。
石畳の道と石造りの建物が並んでいる。小さな商業都市。
大きな都市間を結ぶ位置から少し外れているため、大きな取引が行われる事は滅多にない。主に農村から農作物などの取引が中心に行われている。
木の荷車に積まれた野菜の山。無造作に置かれた小麦の袋などから、この町の治安が良いことが伺えた。
昼間は賑わいを見せる通りの人の往来は減り、夕食時を知らせるように両脇に立つ家屋からは良い匂いが立ちのぼり始めている。
マイクは人通りの少ない通りを足早に進んでいた。
マイクは町中にある学校に通っている十二歳の少年だ。
縮れた赤毛にそばかす混じりの顔。コバルト色の大きな瞳が空の色を映して赤く燃えていた。平均よりも低めの身長に、小柄な体格。
着古し色あせた緑色のシャツに紺のズボン。肩から提げているのは擦れた茶色の鞄だ。
授業が終わったあと、いつものようにマイクは幾人かの友達と学校の近くで遊んでいたのだが。
――町の中央にある小さな教会の鐘。それが五回鳴り響けば、家に帰る時間である。
その日も鐘の音を聞いたマイクは友達と別れ、自宅へと向かっていた。
マイクの家は大通りから一本、奥に入ったところにある。
大通りを曲がり、家へと続く小道に入ったところにある背の高い電灯。
それに寄りかかるように立ち尽くす人影があった。
商業で栄える町なだけあって、見知らぬ人間が出入りすることは珍しくはない。
知らない人間がいたところで、この町の人間が関心を示す事はない。
だが、マイクはまるで引き寄せられるように自然とその人物を注視していた。
明かりが点った電灯の下は空の赤味が薄まり、白く染まっている。
頭上から降り注ぐ人工の明かりを受けるのは、同じく白く染み一つない白衣だった。
セミロングの黒髪が大通りから吹き込む風に煽られ揺れている。
透けるような白い肌。細いフレームの眼鏡の奥には、二皮目の双眸。そして、それを縁取る長い睫。紅く濡れた唇は薄く開いている。
美しい女が電灯の下に立っていた。そこだけ、別の光景のようだった。
思わず、鼓動が跳ねた。
それは驚くほど美しい女を目にしたためか、それとも女が纏う空気に感化されたのか。
綺麗な人といえば、大通りの端にあるパン屋のお姉さんを思い浮かべるが、比べるほうが寧ろ失礼だ。
身に纏うのは白衣だというのに、どこか人の目を引き付けて止まない。
じっと見つめる視線に気付いたのだろうか。女が顔を上げ、マイクを見た。
どこを映しているか分からない、曖昧な眼差しが注がれる。
「こんばんは」
鈴の音が響いた。
凛とした響きを持ちながら、心地良く鼓膜を打つ声音。
声を掛けられると思っていなかったマイクは慌てる。
「あっ……こ、んばんは」
しどろもどろになりながらもマイクは応えた。
「この町の子供かな?」
ふんわりと微笑んで女は尋ねた。
どぎまぎしながらマイクは頷き返した。
「見たところ十歳ごろか?」
「いえ、その……この間、誕生日を迎えて十二になりました」
低めの背から実年齢よりも幼く見られるのはいつものことだった。
マイクは足を進めて、女に近付いて行った。
「あの……お姉さんは医者(ドクター)ですか?」
白衣を着ている人間と言えば、医者ぐらいしか思いつかない。
女性の医者というのは珍しい。そもそも、医者の数が足りなくって困っている町も多いのだ。 幸いにも、この町には数名の医者がいるが。
女は首を振った。
「いや、博士(ドクター)だ」
マイクは首を傾げた。博士という職業が何をするものなのか、幼いマイクには見当も付かなかったが、きっとすごい職業なのだろうと思う。
それこそ、マイクには一生就けない様な職業に違いない。
「お仕事でこの町に?」
「まぁ、そんなところかな」
曖昧に言葉を濁して博士は答える。マイクにはその表情がどこか楽しげに見えた。
博士は空を見上げ、それから目元を飾る眼鏡のフレームに手を添えた。
眼鏡はけして安いものではない。それを持っているということは、博士はそれなりに裕福な生活を送っているのだろう。
顔から外した眼鏡を折り畳み、手の内で弄(もてあそ)ぶ。
「外したら見えないんじゃないんですか?」
ただでさえ、空は黒ずみ始めている。目が悪いのならば、石畳の割れ目などに躓(つまづ)かないとも限らない。
「心配はいらない。これは単なる飾りだ。度は入っていない」
そう言って、眼鏡をマイクに手渡した。
おっかなびっくりで受け取り、マイクは促されるまま、レンズを覗き込むが、ガラス越しに見た景色と何ら変わらない風景が見えるだけだった。
「これって何か意味があるのですか?」
視力矯正が出来ない眼鏡など意味があるのか。率直に問いかければ、博士はその手から眼鏡を取り上げて、
「この世界に意味のないものは山と存在する」
眼鏡を白衣のポケットに無造作に放り込む。
マイクは目を瞬くばかりだ。
博士の言っている事は難しすぎて、マイクには良く分からない。
目を伏せた博士の横顔は寂しそうで、マイクは少し悲しくなった。
不意に博士は、マイクに視線を注いだ。
あまりにも唐突な切り替えだった。
じっと睨むように見つめてくる瞳。茶褐色のその色が鳶色と呼ばれることをマイクは知らなかった。
「あの……」
重なり合う瞳になんとなく居心地の悪さを感じ、マイクは無意識に後退る。博士は取り付かれたように、マイクの目を見つめ続ける。
いつの間にか伸びてきた白い手。
あまり日の光に当っていないのだろうか。電灯に照らされた薄暗闇の中で浮かび上がる白い手。
それがマイクの腕を掴んだ。ひやりとした指先。まるで氷の腕に掴まれたかのようで。
反射的にマイクはその手を振り払った。得体の知れない恐怖が胸の内に沸き起こったのだ。
予想に反して、手は呆気なく放される。
マイクは慌てた。手を振り払われたら誰だって嫌な気分になるだろう。
恐る恐る博士の顔を窺う。
博士は気分を害した様子もなく、どこか満足げに微笑んだ。
「良い目をしている」
マイクの目を覗き込んで言う。
それから、博士は空を仰いだ。夕闇に染まりつつある天上は徐々に紫へと染まっていく。
「もう日が暮れる。帰らないと親御さんが心配する」
「えっ!?……はい」
話し込んでいるうちに太陽の残光も山の向こうに遠ざかってしまっている。
短く別れの言葉を告げると、マイクは博士に背を向けた。
早足で石畳の道を駆け出す。小道を暫く行ったところにある小さな石造りの一軒家がマイクの家だ。
玄関前まで来たところでマイクは背後を振り返った。
博士は先ほどと変わらず、電灯の下にいた。
淡い光が青紫の暗闇を照らしている。一人佇む姿は、どこか寂しげで儚げだ。もう少し、話していても良かった気がする。
濃い暗闇の中から、博士に近付いてくる影があった。
遠くて顔は分からないが、黒い外套を身に着けた、その体格から恐らく男であろう。その男が博士の待ち人だったのか。
二言三言、言葉を交わすと博士はその男と共に白い光から離れ、町の闇に溶け込んで行った。
マイクは完全にその姿が見えなくなったあと、玄関の扉を開いた。
H19.11.23