はじめはただの、気まぐれであったのだとしても。 それでもそれは、凍えた胸をあたためるだろう。 それがたとえ、つかの間のものであったとしても。 「オイ起きろ、犬ころ」 青く澄んだ空に向かって瑞々しい葉を広げる枝ぶりの良い大樹は、緑の隙間から豊かな大地に光の金貨を撒き散らす。 渡る風に誘われ奏でられる木々の歌を聴きながら、見晴らしの良い大樹の枝で気持ちよく眠っているところを、不意に、ぺち、と頭を叩かれて、大神は飛び起きるついでにブチ切れた。 『誰が犬ころだ! 俺様を叩くなんざ、いい度胸じゃねえかっ!』 「わぁ、褒められたぁ」 『褒めてねえっ! って……貴様は』 暢気な幼い声音とともに降る、明るい笑い声。遅れて、ひょい、と上方のもうひとつ細い枝から、目のまえに赤い影が身軽なさまで降ってきた。 その持ち主を冴えた金色の双眸で見とめた大神は、うんざりとした表情を赤い隈取りの施された精悍な顔に浮かべる。 遥か昔大地を治めた、いまは忘れ去られし古の神。 天津神の支配を受け、人の子の頼りない記憶の片隅で埃を纏う、国津神。 その一柱である大神に、やはり人の子にあらざるものが纏わりついた。 「久しいなぁ、わんこ。元気そうでなによりだぞ」 『わんこじゃねえ! 貴様、何しに来やがった!』 「そんなに叫ぶと疲れるぞ? 近くを通ったから、ちょこっと顔を見に寄ってやったのだ。うれしかろー?」 『嬉しくねえっ!』 「まあまあ、そう言わずぅ。お手」 ほい、と出されたちいさなてのひらに、反射的に逞しい手を乗せてしまう。 『……っ!』 しまった、と思ったときは既に遅い。相手のちいさな、それでもおそろしく整って華やかな美しい顔に、ゆるんだ笑みが浮かんだ。 「にゃはは、かわいいなぁ」 きゅ、と相手のてのひらに思わず乗せてしまった手を握られ、その上嬉しそうに上下に振られて、記憶と大地の隅に追いやられてすら尚高い矜持がくじけそうになる。 『………………殺されたいのか!』 ちいさな手を振り解き、牙を剥くように怒鳴るも、 「切っても生えるし、死んでもそっこー生まれ変わるぞ? つるつるぺかぺかぁ」 『この化け物が!』 「褒められたぁ」 『だから褒めてねえっ!』 おもしろくない、と大神は大樹の枝から、無駄なく引き締まって逞しいその身を躍らせた。 穢れのない雪のように純白の、それでいてふわりとやわらかい長髪が、清麗な光を纏って流れる。 幾つも紐でつないで首飾りにしている牙が、擦れ合って高く鳴った。 地面に降り立つなり振り返ることなく立ち去ろうとした大神だったが、やはり、背後にそれが降り立つ気配を感じて鋭く舌打ちをする。 方や、裾が断ち切れた古びた着物を着た逞しく背高い姿。そしてもう方やは、金と柘榴石の細工に縁取られた真紅の、腹や肩やら、肌を多く露出させる衣装を着たちいさく幼い姿。 なんともおかしな組み合わせではあったが、いまはそれを傍からどうこうという者はない。 「大神ぃ」 『ついてくるな』 「せっかく来たのにぃ。はるばる海の向こう、山の向こうからぁ」 『俺様の知ったことじゃねえ』 「知っておくと、お得なのにぃ。あ、お土産ないから、拗ねてるのか?」 『貴様と話すと疲れる』 「じゃあ、遊ぼう?」 『だから、何しに来やがったんだ貴様は!』 振り返りざま、募る苛立ちをそのまま吐き出すように怒鳴りつけると、人の子の童に似た姿をとるそれは、姿にふさわしい幼いさまでしょげかえる。 八重咲きの花を連ねたように無作為に巻いて胸に垂らした、金の輝きを纏わせる鳩の血色をした紅玉から紡いだかのような髪。そこから覗く、先の尖った耳までもが、しゅん、と萎れていた。 せっかく来たのに、とつぶやくように言うそれの、金の光が輻射に走る紅玉の瞳が潤み、いまにも零れそうになっている。 それを見て、うっ、と大神は言葉を詰まらせた。 真紅と金とに煌めく派手な見かけとは裏腹に、その属性は夜闇。しかし、くるくると能天気に纏わりついてくるこの相手は苦手だが、夜闇を抱えながらも暗いところのない穢れなき存在が嫌いなわけでもないのだ。 凍えながら燃える炎。 有翼の赤き月。 その存在を指す呼び名は多くあるものの、それは、善も悪もない凝った闇から生まれた、純粋なる世界の鏡。 この世界の半分を包む闇の王、魔王。 見かけが人の子の童のようであっても、そのように泣くことなどありえないとわかってはいる。わかってはいるのだが、それでも常は図太い神経でこちらをひっかきまわす相手のしおらしいさまを見せつけられると、居心地は悪い。 それに。 なぜであるのか、真紅と金が眩しい相手の姿が、とある漆黒を纏う人の子の童の姿と重なって見えるようで、なお悪い。 どこかに漂ってはいないものかと、大神が掛ける言葉を空気中に探すようにしてちいさく呻くと、ことり、と魔王が小動物のような仕草で小首を傾げた。 そして、じっ、と大きく円いふたつの瞳で大神の金に光る瞳を見つめ上げ、 「大神ぃ」 『なんだ』 「……おまえ、人の子は嫌いだとかなんとか言っていなかったか」 『ああ、嫌いだ。俺様は、眷属を大地の隅へと追いやった人間と、そして天津神が大嫌いだ。だが、それがどうした』 「おまえから、人の子の匂いがするぞ。それに、俺を誰ぞの姿と重ねていたようだったな」 ふふ、と幼くも美しい顔に意地の悪い笑みを浮かべた魔王は、本来の、さまざまな高低を持つ幾重にも響く不思議な声音でもって、そう告げた。とたん、 『……なにを視やがった』 す、と金の双眸が鋭さを増す。 同時に、多く出された魔王の冷たく白い肌を、大神が纏う清冽な気が刺すように覆った。 ざわり、と騒ぐのは、そこかしこに隠れ遠巻きにこちらを眺める、この森に住まうちいさき物の怪か。 攻撃的な強い神気を正面から浴びせられたなら、か弱きただの人の子であれば、卒倒していたかも知れない。いや、卒倒で済めば軽いほうか。 だが魔王は、 「なぁんにも、視ていないぞ?」 ふたたび声音を幼くして、にこ、と微笑んでみせた。 「オレが神であるおまえの心を映し出すことはない。おまえが白くてぴかぴかできらきらなのはわかるが、考えていることまではわからないぞ。だからぁ……えっと、なんだっけ……んーと」 『……カマ、かけやがったな』 「そそ、おかまぁ」 『お、をつけるな』 「えー。丁寧に言っただけなのにぃ」 『わざとらしいぞ、魔王』 まったく、と呆れたように呟いて、大神は鋭く放っていた気をやわらかなものにする。すると、それが嬉しいらしい魔王は、仔兎のように飛び跳ねた。 「でも、人の子の匂いがするのはほんとうだぞ? 大神、いつのまに人の子の友だちができた?」 『友だちだと? そんなもの、人間なんかにあるわけがない』 「友だちとはなにをして遊ぶのだ? オレはかくれんぼが得意だぞ!」 『ひとの話を聞け』 「追いかけっこも得意だぞ?」 『そんなことは訊いてねえ』 上目遣いでこちらの着物の端を掴みながら小首を傾げる魔王に、大神は深々と溜息をつく。 人の子の友だち。 そんなものをつくるとは、と責めるのかと思った。友だちだとは大神自身も認めたいわけではないが、それでも関わったことには違いはなかったから。 大神は、魔王とその眷属たちが人の子を、憎み嫌悪してまではいないだろうが、しかしだからと言って良くも思っていないことを知っている。 眼前にある者の心をあますところなく映し出す『鏡』である彼らには、欲にまみれた人の子はただただ醜く卑小な族(やから)でしかない。 善悪を持たない純粋な存在であるからこそ、穢れるのは早い。 善悪を持つか弱き人の子から敵意を向けられるのも、珍しいことではない。 畏れであるのか、それとも恐れであるのか。目を背けられ忘れ去られ、そして捨てられることも。 それはいやというほど、知っている。 それが腹立たしく、たまらなく、哀しく。 だから、人の子とは距離をとっているというのに。 ふ、と。 溜息をついたまましばらく黙していた大神だったが、そのとき、こちらを見上げる大きな紅玉の双眸に金の光が潤むように滲んでいるのに気付き、もしや責めるよりも案じているのだろうか、とちいさな手を長い爪で傷つけないようやさしく掴み取った。 『なんだ。俺様の心配か? ずいぶんと偉くなったものだな?』 そっとその手を握りながら、口の端を吊り上げる。 すると、魔王はゆるりとひとつ、瞬きをした。 「大神を人の子にとられるのは、寂しいぞ」 『なんだ、それは』 呆れて金の瞳を瞬かせつつ言うと、魔王が長い睫毛を震わせ俯く。 やわらかそうな頬が、ぷくりとちいさく膨らんだ。 「だって……大神、遊んでくれない」 『べつに、遊んでやらん、とは言っていないだろうが』 「ほんとか? じゃあ、かくれんぼ!」 『いますぐ遊んでやる、とも言っていない』 「うわぁん、大神のけちー! いけずー!」 盛大な泣き真似とともにちいさな拳で厚い胸板を叩かれるが、痛くもかゆくもない。からからと幼子のようなふりをする魔王を笑って見下ろしていた大神は、そのとき、ふと近頃馴染みつつある匂いに気付いた。 ややあって、魔王もそれに気付いたらしい。 ぴくり、と尖った耳をそちらに向けて、細い眉を軽く寄せ、 「……人の子」 ちいさなくちびるから、抑揚のない声音を落とした。 そして、その声音が大神の耳に届いたその瞬間、魔王の姿が消える。 背後に息衝く影に溶けるように。 音もなく。 気配はある。あるにはあるが、しかし、それはやわらかい陽の光に枝葉を伸ばす木々が落とす穏やかな影のいたるところに点在し、また潜められているため、そのあたりで囀る小鳥の気配のほうが大きい。 『……人見知り、というかなんというか』 分からないわけではないが。 つぶやきつつ、大神はこちらへと近づいてくる緑の陰に覗くちいさな黒い頭を見やった。 「おおかみさーん」 人の子の童。 黒い頭と黒い瞳を持つほんのちいさな子どもが、こちらの姿を見つけるなりその大きな瞳を輝かせて手を振る。 『おい。手を出すなよ』 くちびるをあまり動かさないようにして、あちらこちらに存在する影に向かって言った。すると、あー、であるのか、うー、であるのか判別できないような唸り声がわずかに返ってくる。だが、足ならばいいのか、と返されなかっただけいいというものだろう。 大神は苦笑交じりの溜息をつき、その冴えた夜闇に浮かぶ黄金の月のような双眸を、大きく手を振りどんどん近付いてくる人の子の童のほうへと向けた。 そして、人の子の耳には不思議に聞こえるだろう、その魂にじわりと染み込むような低く深く響く声音で、 『また来たのか』 放り投げるように言うと、うん、と童は着物の両の袖を振りつつ元気よく頷く。 「だって、わたしたちはともだちでしょう?」 大神の、人の子の姿に似てはいてもそれとは明らかに違う姿をまえにしてすら、この幼い人の子は畏れることも怖れることもしなかった。巨大な黒い獣の姿に変じてみせても、そう。逃げもしないし、怯えもしない。 命の短い人の子。そのなかでも、まだ生まれて数年、両の手の指で数えても余るほどの年月しか生きてはいない童が、古い神のまえに平然と立ち、そしてその澄んだ漆黒の光を湛えた双眸でまっすぐに見上げて。 友だちだ、と。 こんな人間は、知らなかった。 胸に湧き起こる温かさに目をやらないようにしながら、 『友だちになんざ、なった覚えはねえな』 素っ気なく言葉を否定してやるも、童は気に留めない。それどころか、こてん、と小首を傾げた。 あれぇ、と言いながらあたりを見回し、くるくると円い瞳が動く。 「ねえ、おおかみさん。いま、だれかいたでしょう? だれかとおはなししていたよね?」 『なに』 「えっと……だれだろう。どこかなぁ。『いる』かんじはするのだけどなぁ」 普通の人の子ならば、気配すら感じないだろうに。わざわざ影という影に隠れた魔王もさぞ驚いていることだろう、とくちびるに苦笑を刻んだ。 「おおかみさんの、ともだち?」 おおかみさんのともだちなら会ってみたい、と瞳を輝かせる童に、ふと、この童をまえにした際の魔王はどのような顔をするのだろう、と思う。 邪悪なものをまえにすれば魔王は邪悪に染まり、おのれを穢した存在を、その容赦ない爪で全身を引き裂き握り潰し、その残忍な腕で臓腑を引きずり出しては踏み躙る。 大軍をもって魔王のもとへと攻め込んだ欲深な人の子の王の国が、一夜にして血の海に沈み滅んだと、耳にしたこともあった。 その魔王が、孤高を好んでいたはずの自分の興味すら引いてしまう、この童をまえにしたなら、いったいどのような姿をとるのだろうか。 『魔王だ。その辺の影に……己を鏤めていやがる』 「まおう?」 『目にしたら、おまえなんかあっという間に喰われるかも知れねぇな』 に、とわざと鋭い爪をゆるりと見せつけるように動かして言う。しかし、 「まおうもおなかすいてるの?」 『……いや……それは知らねえが。どうでもいいが、魔王も、とはなんだ』 ほかに誰がいる、と少々半眼になりつつ問うた。 だがやはりというか、期待を裏切らないというのか、その問いを受けた童は着物のよくよく見ればふくらんだ袂を探る。そして、満面に笑みの花を咲かせつつ、大事そうに取り出した木の実やらを乗せたちいさな手を、はい、と大神へと差し出した。 予想通りというのならばその通りであるその捧げ物を見下ろし、大神は爪長い手指で軽く痛んだ頭を支えるように額に触れる。 『俺様はべつに腹なんざ空いてねえよ』 「そうなの? でも、おおかみさんは、いっつもおこっているでしょう? おこっているのは、おなかがすいているからでしょう?」 『俺様は腹が空いているわけじゃねえ』 繰り返して、大神はくちびるをひん曲げた。 すると、 「その人の子、消してもイイ?」 ふと耳に、氷水のような声音が注ぎ込まれた。 ぞわ、と背を逆撫でされるような感覚。 さやさやと静かに木々が揺れ、木漏れ日のなか小鳥が鳴き交わすというのに。 落ちた影が、冷たく濃い。 痛みを感じるほどに凍えた殺気が、肌を刺した。 これは、大神が人の子にとられるから、などという幼稚な妬心からくるものではない。それは、神の身であるから知れる、憎悪に塗れていないからこその純粋な殺気だ。 「人の子は弱い。だからすぐ穢れちゃうよ?」 いまは、綺麗でも。 目を向けると、童が不思議そうな顔でこちらを見上げていた。影に散らばり潜む姿は探し出せずとも、魔王の声は聞こえているのだろう。 口調を幼く装ってはいても、魔王の言葉は本気だ。 『……知れたこと』 答える大神にも、その危機感は覚えのあるものだった。 目のまえの人の子を殺そうとしたことは、ある。 けれど、そうしなかった。 できなかった。 「大神ができないなら、オレがする。その人の子の存在は……厭」 そう言う魔王の声音が、わずか、震えていた。 『貴様に怖いものがあるなんてなぁ、魔王?』 「…………大神が穢れるのは、厭」 神と対峙できる力を持つ、人の子。 それにどれほどに口では違うと言ってみせても、その輝きに囚われてあたたかさを知ってしまった孤独な神。 人の子が穢れれば、神も穢れるだろう。引き摺られるように。 「穢れるのは……辛いから、厭」 それは人の子の穢れを如実に映し出す鏡だからこそ。 「よごれちゃうの? よごれたら、ともだちがぬぐってくれるよ? そうすると、またきれいになるよ?」 一点の曇りもない幼い瞳が、きらきらしい漆黒の瞳が、微笑む。 「おおかみさんがよごれたら、わたしがきれいにしてあげるよ」 その言葉に、ざわり、とそこかしこにある影が一斉に蠢き、騒いだ。 「厭、厭、厭!」 『おい、魔王』 「人の子は変わる、裏切る! 裏切られたら、痛い! 痛いのは厭っ!」 ずるり、と童の背後にあった影から童へと伸びた、なにか。 『魔王!』 幼くちいさな身体に絡み、地面から掬い上げたのは、魔王の常は隠しているのだろう長大な真紅の尾であるのか。 「わぁ」 おのれの身に迫る危機に気付いていないのか、童ははしゃいだような声を上げた。幼い両手を上げて、笑う。 その命を捻り潰すのは、容易い。 ほんのわずか力を込めれば、あっというまに消えてしまうだろう。 『よせ、魔王。葛葉は裏切らない』 「そんなのわからない」 「わぁ、たかぁい」 『わかるだろうが! そいつは俺様を裏切ったりしない! いますぐ葛葉を下せ。手を出すな、と言ったはずだ!』 「……手は出してない」 『言うと思ったが、そういう意味じゃねえ!』 「あれぇ? けんかはだめだよ、おおかみさん」 『おまえは黙っていろ! いまの状況、わかってんのか!』 怒鳴りつけると、太い真紅の尾に巻かれたまま、葛葉という名を持つ童はきょとんとして首を傾げた。 「じょーきょー?」 『遊んでるんじゃねえんだ!』 「そうなの?」 瞬きを繰り返す童に、そのとき、魔王の力が緩んだ。そっと、労わるようなやさしい動きで、いまにも消し去ろうとしていたちいさな存在を地面に下ろす。 「あれぇ? もうおわり?」 「うん、終わり。あまり葛葉と遊びすぎると、大神が嫉妬するから」 『…………あぁ?』 大神は、とっさに影に突き入れようとしていた鋭い爪を振り上げた体勢で、閃かせた神気をそのままに、呆気なく解放された童を見下ろした。そして、 『おい、魔王』 「うん、大神」 眉間に深い皺をつくりながら呼びかけると、ひょっこりと童の陰からおなじ大きさの赤と金を纏った童が顔を覗かせる。 「どうどう。落ち着くといいぞ、大神。さすがにそれでぐっさりされちゃうと、オレも再生がめんどくさー」 「んう?」 童が背後に現れた魔王を見ようと身体を捻るが、魔王はその動きに合わせて、まるで童の影のように、童の視線からうまく逃れた。 「あれぇ?」 『……魔王。貴様、なにを考えていやがる』 「ぶぇつにぃ。ただ、気が変わっただけ」 言いながら、魔王のちいさな手が、魔王の姿を探してくるくるとその場でまわる童の、幼子特有のやわらかさを持つ漆黒の髪を、そっと撫でた。 それはまるでそよ風のようで、くすぐったいのか、童はくすくすと笑い声を上げる。 「大神が血相変えてこの人の子を守ろうとするから、だから、やめた」 『な……っ!』 「大神、気付いてないと思うけどね。あのね、この人の子と話す大神、すっごいやさしい顔しているんだよ? 今度鏡でも見てみたら? それともオレが、鏡として、いますぐにでも再現してやろうか?」 『いらんっ!』 「あは、照れ屋さん」 そう茶化すように笑ってみせた魔王が、ふと表情を改めた。 「人の子は嫌いだけど……大神が信じるなら、オレもその子を信じる。でも」 でもね、大神。 そう言われて、大神は笑いながら逞しい腕にぶら下がりにきた童の好きにさせてやりつつ、悲哀のようなものを滲ませて幾重にも響く声音を紡ぐ魔王を見つめる。 「人の子の命は短いよ? とてもとても、短いよ?」 『……それも、知れたこと』 そもそも、この縁は大神の気まぐれからはじまったもの。 人の子の気が変わりやすいことも、そのあたたかい命が短いことも、とうに知っている。 それでも。 「うん、わかった」 大神が言葉にはしなくとも、魔王はそっと頷いた。そして、にっこりと影のない笑みを浮かべたかと思うと、ちいさな手をひらひらと振ってみせる。 「じゃ、帰るぅ」 『はぁっ?』 「また遊ぼうね、大神ぃ」 言うなり、大きな翼が広がるような音がした。同時に、風が巻く。 『オイコラ、待て! 貴様、ほんとうに何しにきやがった!』 怒鳴る大神に、しまりのない笑みを向ける魔王の金の、羽毛に包まれた翼と赤い飛膜が力強く羽ばたく。 「わぁ、あれがまおう? すごいね、きれいだね!」 人の子の童に似せた形ではない、善悪に囚われない本来の闇の王の形。 それが、翼から生み出された強い風に飛ばされそうになるところを、大神の逞しくやさしい腕に抱きとめられたちいさな人の子のまえに現れ、そして、遠ざかる。 「いっちゃった……」 風のなかに舞う緑の葉が、ゆっくりとちいさなてのひらの上に。 『……なんなんだ、あいつは』 くるり、くるり、とそのやわらかな葉を指先でつまんで青空に掲げる腕のなかの童を眺めながら、大神は深々と溜息をついた。 その、遥か上空。 「……オレも人の子の友だち……できるといいなぁ」 葛葉という名の人の子の童が持つ輝きによって本来の姿を暴かれた魔王は、真紅と金の色を風に靡かせながら、誰に聞かせるでもなくひっそりと呟いた。 出会う確率は、少ないのかも知れないけれど。 ほんの偶然だったとしても、はじめは気まぐれだったとしても。 それでも出会えたのなら。 友だちと呼べる存在に、出会えたのなら。 たとえほんのひとときでも、それはきっと、しあわせ。 |